25.後見役「あこぎ」
北の方が行ってしまうと「あこぎ」は、
「あの鏡箱は物凄く良い物なんですよ。北の方はああおっしゃったけど、姫様に代わりのお品を下さるとは思えないわ」と、おおいに膨れています。
「姫様はご自分の持っている御調度の品々を次から次へと取られてしまわれるばかりだわ。北の方は御自分の姫君が婿君を迎える度に『取り替えて』とか『ちょっとだけ借りる』とか言って、屏風から始まって何でも取っていってしまって、まるで自分の物のようにあちこち使ってらっしゃるんですよ。食器でさえ、姫様に聞いただけで全部取っていってしまわれたじゃないですか」
「あこぎ」はすっかり腹が立ってしまい、姫があきれた顔をしていても言葉を止めることが出来ません。姫の御母上伝来の素晴らしい品々が、どれだけ向こうにいいように取られてしまっているかを思うと、愚痴を言わずにはいられないのです。
「きっと今に中納言様までやって来て、姫様の物が全部ここに住む他の姫君達の物にされてしまいます。姫様はお心が広くていらっしゃいますけど、ここの方々には姫様への感謝のお気持ちなんて見えませんわ」
勢い余ってとうとう姫様に当たり気味になってしまいました。でも、姫はそんな「あこぎ」を見ておかしそうに、
「それも良いではありませんか。どのお品もいずれ、御用が無くなればお返しくださるでしょうから」と明るくおっしゃいます。
少将はそんな姫君を見て本当にお心がとても広い、お優しい人なのだと感じ入りました。大切な母上の形見だというのに、姫君は本当に少しも惜しそうな顔をしていないからです。『この邸にあるのなら、どこにあっても同じことだから構わない』と思っていらっしゃるのが分かるような明るい表情です。思わず少将は几帳を押しのけて出て来ると、姫君を引き寄せました。
「北の方はお若いんだね。ここの姫君達は北の方に似ているんだろうか」と少将が聞くと、
「そんな事はありませんわ。皆、お美しい方ばかりです。たまたま北の方のおかしな、見苦しい所をご覧になってしまわれましたね」と、この方らしくおっしゃいますが、
「ただ……わたくしたちのことを聞きつけなさったら、どのようにおっしゃることでしょう」
と、少し打ち解けて来たらしく、少将を見つめながらそんな事をおっしゃいます。そんな姫を見ていると少将はその美しさといじらしさに、
「とても、このままにはしておけない」という気持ちになり、
「昨夜、正式な結婚をあきらめてここに来ずにいたら、どんなに悔んだことだろう」
と考えてしまい、やはり足を運んで良かったと今更ながら思うのでした。
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姫の性格も少しずつ分かってきましたね。今までは弱々しくて、涙がちな姿の多い「落窪姫」でしたが、「あこぎ」と気さくに話しをしている時は、おっとりとはしていても、決して暗いばかりではない、人の良い、ニコニコと微笑んでいる人のようです。明るく、てきぱきしていて、しっかり者の「あこぎ」に対して、優しく、おおらかで、おっとりとした姫君。とても好対照な二人だからこそ、気が合っているのでしょう。
少将もこれまでは姫の美しさ、可憐さ、いじらしさに惹かれているようでしたが、姫のおおらかで優しい性格を知り、ますます惹かれていくようです。
そう言えば二日目の朝に「あこぎ」が「格子をどうしよう」と独り言を言った時、「姫も開けてと言ってる」なんて冗談を言ってましたっけ。あの日の夜からこの姫の持つ明るさに、少しずつ少将は気がついていたんでしょうね。
でもやっぱり少将が一番姫に惹かれているのは、少将の心に訴えかけようとする、可憐ないじらしさのようです。北の方に、二人の仲を引き裂かれるのではないかと不安を訴える姫が、少将は愛しくてたまらないようです。しかも少将自身、これほどまで姫に惹かれているとは思っていなかったようです。
どんなに型破りな少将とは言え、ただの恋の冒険心では昨日のようなことはしなかったのかもしれません。姫と添い遂げる決意だけではなく、本当にどんな嵐をかいくぐってでも姫を悲しませたくない、と心の底で思っていたからこそ、昨日の雨を押して姫に逢いに来たのでしょう。
おそらく少将は、ここまで深く一人の女性を愛したことが無かったんでしょうね。彼は今、自分の中にある姫への愛の深さを知ったのです。
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北の方は姫君の鏡箱の代わりの品を「あこ君」という童に持たせてきました。それは黒い漆の箱で、径は九寸ほど、深さは三寸あって、蒔絵どころか、ひどく古く、所々漆が剥げてしまっています。「あこ君」は、
「これは黒いけれど漆を使っていて、とても良い品です」と、北の方からの伝言を伝えました。
「まあ、大変御立派な箱ですこと」
「あこぎ」はあきれ、皮肉を言って笑ってしまいます。姫様の鏡を入れて見ると、あまりにも古ぼけた大きすぎる箱なので、鏡がとても素晴らしい分、余計に箱のみすぼらしさが目立ってしまいます。
「なに、このみっともなさ。これじゃ、箱に入れずにお使いになる方がマシじゃありませんか。本当にみっともないわ」と姫様に言いますが、
「そんな事言わないの」と姫様も笑ってたしなめられ、
「北の方様に伝えてね。『鏡の箱は確かに頂きました。本当に大変良い品ですね』って」
と言って使いの「あこ君」を帰らせます。
少将様がどれどれと鏡箱を取り寄せて、
「どうやってここまで古臭い品を見つけて来たんだろう。さぞかし長く手元に置いていたんだろうな。こんな状態にまでなるんだから」と、しげしげとご覧になります。そして、
「これは今の世ではもう手に入りそうもないなあ。姫君の鏡には恐れ多すぎるくらいだ」
と言って楽しげに笑っておられました。
夜が明けると少将様はお帰りになりました。姫は起き上がって「あこぎ」に、
「どうやって私の恥ずかしい暮らしが分からない様に、色々と用意をしてくれたのかしら。特に几帳は本当に嬉しかったわ」
と、しみじみとおっしゃいます。それはそうでしょう。あの几帳があったおかげで少将様を御隠し出来たのですから。
「実はわたくしの叔母から借りたんです。叔母には他にも色々助けていただきました」
そう言って「あこぎ」はこれまでにした色々な準備のことを姫様に聞いていただきました。
姫は結婚の準備なんて年配の大人でもいろいろ大変なことを、幼さの抜けきらない年頃の「あこぎ」が思いもよらずに細やかに全て整え、仕事を果たしきってくれた事が嬉しくも、いじらしくも思えます。
「本当に彼女を『後見』と名付けて、何があっても一緒に暮らして来てよかったわ。その名の通りにわたくしの『後見役』を、こんなに立派に果してくれたんだもの。「あこぎ」がいてくれて良かった。私の今日の幸せは「あこぎ」のおかげだわ」
姫はそう思いながら「あこぎ」の話を聞き、心から感謝していました。
「あこぎ」は昨夜、「帯刀」から聞いた少将様と「帯刀」の冒険をお話して、少将様の深いお心をとても嬉しく思いながら、
「少将様の今の想いが長く続いて下されば、憎たらしいくらいに姫様を見下している連中を、見返してやることが出来ます。そうなったら、とっても嬉しいですね」と言いました。
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恋の力もあるのでしょうか? 姫も少将も明るいですね。姫はボロボロの鏡箱とは言えないような適当な箱をよこされても笑っていますし、少将は「今の世では手に入らない」とおどけています。さすがは牛糞の上に突き飛ばされても、ものともしない人です。
こういう生来の朗らかさというのは、境遇や育ち方には左右されずに済むのでしょうか? 少なくともこのお話の中では、辛い虐待を受けている姫も、その姫に付き添う「あこぎ」も、窮屈そうな立場を背負っているであろう少将も、爽やかな明るさを見せてくれています。
この明るさがこのお話の良さなのでしょう。「あこぎ」も「帯刀」も少将も、よく冗談を言って笑っていますし、「あこぎ」が怒っている場面も、決して暗い怒りにはなりません。同様に「帯刀」が少将や「あこぎ」にやり込められて困っている所さえユーモラスに思えます。
主人公の「落窪姫」の境遇が暗いだけに、お話全体を支えるこの明るさは、とても貴重です。おそらくこの明るさがあるからこそ、私達は姫の境遇に同情し、共に悲しみながらも安心して共感できるのでしょう。このユーモアに救われているのは、姫と共に読者なのかもしれません。
北の方が使いにした「あこ君」ですが、「あこぎ」に似た名前ですね。
実は「あこ」というのは「吾子」つまり、私の子という意味です。そしてこれは我が子のことだけではなく、私の傍にいる子、つまり自分が使っている子の事も指します。ですから「あこ」というのはとても一般的な、悪く言えば平凡な名前です。
女の子の名前の下に、「き」をつけるのも一般的でした。「犬鬼」「小雪」なんかがそうです。漢字はほとんどが当て字でした。他には「子」も普通でした。「撫子」や「桜子」等です。「子」の習慣は今でも根強く残っていますね。
「あこぎ」はよくある「あこ」に、よくつけられる「き」をつけた名前です。
「あこぎ」は「阿漕」と当てられるようです。「き」が「ぎ」と濁っているのは実際に呼ぶ時にはそう濁っていただろうと思われるからです。「安良木」と書く「やすらき」も、濁って「やすらぎ」になっています。私は当時の呼び方でなるべく分かりやすく読んでもらおうと思い、「あこぎ」と書いています。ですから訳によって「あこき」や「阿漕」と書かれています。どれが正しいなんて事は無いんですね。表現方法の違いです。
でも彼女のもともとの名前は「後見」でした。その名の通り美しい髪を持つ、後姿の美しい少女です。そして彼女の名をつけたのはどうやら姫のようですね。
「あこぎ」は容姿も心も美しい少女に成長しました。その名の持つもう一つの意味、後ろを見守り続ける人、後見人としての役割まで今では果たせるようになったのです。
さすがに姫も本当に彼女が自分の後見人になる日が来ることまでは想像してはいなかったでしょう。それも、彼女がそういう仕事を果たすには、少しばかり早かったにもかかわらず、彼女は立派に姫の結婚の準備を整えきりました。
後見人はともかく、姫が彼女の名を付けた時、出来る事なら末長く、自分を後ろから見守ってほしい。長く今の友情を保ち続けてほしいという、願いはもっていたのでしょう。けれども彼女は姫が思っていた以上に素晴らしい後見役を果たしてくれたのです。姫の心は今、本当に「後見」への感謝でいっぱいになっていることでしょう。
「後見」。本当は「あこぎ」よりも心のこもった、素敵な名前なんですね。でも残念ながらこのお話では(役職名以外は)「あこぎ」はずうっと「あこぎ」で通されていきます。
姫の心の中では今でも「あこぎ」の事を「後見」と呼んでいるのかもしれません。
ちなみに私がこの本分を書くに使用している「角川ソフィア文庫 新版 落窪物語」では、「あこき」で統一されています。漢字で「阿漕」と書かれている作品も多いようですね。




