23.帰れない少将
しばらくすると「あこぎ」が、用意していた餅を見た目も美しく、箱の蓋の上に綺麗に飾って盛り付けた物を持ってきました。
「お二人ともこれをぜひ召しあがって下さい」
少将は寝ぼけた声で、
「かなり眠いんだが」とおっしゃりますが、
「どうしてもこれは今夜のうちにご覧になって頂かないと。縁起ものですから」
この眠いのに何なのだろうと、少将頭を持ち上げ枕元を見ると、そこには綺麗に盛り付けられた餅が用意されています。
「誰がこんなに美しい餅を用意したのだろう。ここまでして待っていてくれたのか」と思うと、その気配りの良さに感心してしまいました。
「これは餅だね。食べ方があるそうだが、どうやって食べるんだ」
と少将様が聞くので「あこぎ」は、
「まあ、まだご存じじゃなかったんですか」
と驚きます。これほど浮名の通った少将様が、一度もどなたの姫とも結婚をしたことがないなんて、正直思っていなかったのです。
「知る訳が無いだろう。独り者の私が食べた事があるはずがない」とおっしゃるので、
「噛み切ったりせずに三つ、召しあがるのが作法と聞いております」とお教えしました。
「随分、行儀の悪そうな作法だな。女はいくつだ」
「それは婿君のお好きな数で」「あこぎ」は笑って答えます。
少将は姫君に「この餅を召しあがって下さい」と差し出しますが、姫は恥ずかしがって食べません。でも少将は作法を守ってきちんと三つ召しあがりました。
「ここの三の姫の婿になった蔵人の少将も、こうして食べたのだろうか」
少将がそうおっしゃるので「あこぎ」も、
「きっと、召しあがったと思います」
とお返事をします。三の姫と蔵人の少将のような華やかな披露宴など行う事もなく、どなたに御披露する事もないお二人の御結婚ですが、誰よりも心からの祝福を込めて「あこぎ」は二人を見守っていました。
そして夜も更けたので、お二人はお休みになりました。「あこぎ」は幸せな気持ちでさがります。
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本家のシンデレラの魔法使いのように、「あこぎ」は次々と姫の為に結婚に必要な事を準備しました。でもこれは魔法なんかじゃありません。「あこぎ」の知恵と工夫と、人々から培った信頼、何より姫様を想う気持ちで用意した品々です。それがとうとう、姫様と少将様の正式な御結婚と言う喜ばしい形となって現れたのです。それだけでも「あこぎ」にとっては幸せな事だったのでしょうけど、その少将様がこの結婚が初めてだというのです。少将様はこれまでにどなたの姫にも誓う事の無かった結婚と言う重要な約束を、「落窪姫」に初めて誓って下さったのです。
普通の貴族なら自分可愛さに無理を押してまで外に出る事はしない雨の夜に、少将様は身分を顧ず、どのような権門の家の姫とも御結婚には至らずにいたのに、土砂降りの中全身ずぶぬれの姿でやって来て、それも三日夜への義務だからではなく、姫君にお会いしたい一心で足を運んで下さったのです。それが証拠に少将様は三日夜の餅をお持ちしても、ただ驚かれただけでそれを当然としているような態度はなさいませんでした。
少将様に餅の食べ方を聞かれた時、「あこぎ」はどれほど嬉しかったことでしょう。この瞬間「あこぎ」は確信したはずです。少将様の姫様への愛情が本物だと。
それにしてもこの「三日夜餅」。契りの証しだけあってどうやらちょっと、照れ臭いような儀式だったようです。「あこぎ」は姫に内緒で準備をしていますし、姫にその事を問われても、とぼけてニヤニヤ(原文は『うち笑みて』)していました。少将も照れているのか冗談を言ったりしていますし。
源氏物語でも、源氏と紫の上の結婚で源氏の腹心の家来、惟光が、まだ若い紫の上が恥ずかしく思うだろうと、気を使いながら上の枕もとに餅を用意する場面があります。結婚し、契りを結んだ二人には、おめでたいけれど「うれし恥ずかし」な儀式だったんでしょうね。
ところでせっかくのお祝いのお餅を、なんで「箱の蓋」なんかに乗せるのかと思われるでしょうが、「箱の蓋」と言っても、今の感覚のものとは違います。
箱ももちろん、漆蒔絵の立派で美しい物なのですが、その蓋と言うのも同じように、とても美しく、形もきちんとお盆やお皿として使えるように、最初から作ってあるのです。
全ての生活が儀式化している時代ですから、実際は食器として使うことを前提にしていても、「食べる」と言う行為が少しいやしく思われていた時代なので、「箱の蓋」と言う食事に使うものではない物に盛り付けているという体裁を整えて、奥ゆかしさを表現したのです。
こういうちょっとした事の一つ一つに、上品さが求められた時代だったんですね。
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「あこぎ」が自分の部屋に行くと、「帯刀」はまだびしょ濡れのままかがみこんでいます。「あこぎ」が、
「傘も無しに来たの。こんなに濡れちゃって」
と聞きましたが、「帯刀」はこっそりここに辿り着くまでの道中を笑って聞かせました。
その話しぶりがとてもうまいので、「あこぎ」もドキドキしたり、ハラハラしたりしていたのですが、最後に「足の白いこそ泥」や「麝香の香」の冗談に、一緒になって吹きだしてしまいました。
「これほどの御愛情は今時は勿論、お前が言ってた『降るとも雨に』の昔にだって、あるものじゃなかっただろうよ。他に比べるもののないお心だとは思わないか」と「帯刀」は言いますが、
「そうね。ちょっとはいいかもね」と「あこぎ」はそっけなく、まだまだと言いたそうです。
「あきれたな。ここまでのことをして貰ったのに、ちょっとかよ」と「帯刀」は言い、
「女ってのは言いたいだけ言って憎ったらしいもんだな。これだけのことがあったら、少将様が三十回くらいつれないそぶりをしても、許して差し上げられるってもんだぜ」
と、不満そうにしています。
「あんたはいつも、自分達に都合のいい事ばっかりいうわね」
「あこぎ」はそう言って横になり、
「でも、今夜少将様が来て下さらなかったら、とっても困ったことになってたわ……」
そう言いながらも夜も遅いこともあって、疲れて眠ってしまいました。
少将はすっかり夜も更けてから眠ったので、あっという間に朝が来てしまいました。
「どうやって邸を抜け出そうか。人に見つからないようにしないと」
そんな事をつぶやきながら横になっています。
「あこぎ」の方も、
「どうしよう。石山詣でに行った人たちも今日は帰って来る日だから、急に誰かがやってくるかもしれないわ」
と思って、とても落ち着いてなどいられません。少将様に早くお帰りになってもらおうと、食事の用意や御手水の準備に慌ただしくしています。
「何をそんなにウロウロしてるんだ」「帯刀」はのんきに聞いてきますが、
「落ち着いてなんかいられないのよ。今朝は邸の人たちが帰って来るの。少将様が近いところにいらっしゃるし、誰かが急にやってきたら大変だから急いでいるんじゃないの」
と「あこぎ」は気がせいて返事どころじゃありません。
少将も、
「車を取りに行かせろ、こっそり急いで帰ってしまおう」
と言っていたのですが、そうこうするうちに石山詣でに行っていた人たちが、大騒ぎしながら帰ってきてしまいました。
「もう、車はいらなくなったな」
少将はそう言って、今帰ることを諦めるしか無くなってしまいました。
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少将と「帯刀」の大冒険。普通ならギョッとして、大事な婿君の少将様の身とお立場を心配するのがせいぜいなのでしょうが、「あこぎ」と「帯刀」は一緒に笑い飛ばしています。なんて大らかで、仲のいい夫婦なんでしょう。
「あこぎ」にとっては少将様は姫様の頼りになるものの、それは少将様のお力で姫のお暮しを支えて下さればいいというものではありません。自分自身が愛され、守られる喜びを知っていますから大事な姫君にも同じように……いえ、もっと幸せな愛情生活を手にしていただきたいと願っていた事でしょう。
その少将様が我が身を押してまで姫に逢いたいと思って下さり、そのためにお立場が危ぶまれそうな事態になりかけた事をご不満に思われるどころか、楽しい冒険話のように笑ってやり過ごして下さっているのです。そんな少将様を引き留めることなく、つき従って少将様をここに連れて来てくれた「帯刀」にも本当は感謝しているのでしょう。
でも「あこぎ」はしっかり者です。少将様から初めてのお手紙が来た時も、歳若い彼女にもかかわらず喜んで飛びついたりなどせず、わざとそっけない態度を見せたほどです。
心から感謝も感激もしていても油断はしません。男君の御愛情は本物だと信じていても、それと「男心」は別の物らしいと彼女は学びました。
もう、同じ間違いを繰り返して姫様を傷つけるような真似は出来ません。この男二人は誠意はありますが、なかなか油断できない所もあることが分かりました。うかつに甘い顔や、甘やかす言葉はかけられない。「あこぎ」はそう思ったのでしょう。姫様を少しでも泣かせるような様子が見えれば、私が惟成をただじゃおかない。少将様にだって言うべきことは言うわ。きっとそんな気持ちなのでしょうね。それだけ「あこぎ」もこの夜は心配と緊張をしていたのでしょう。
そんな夜を過ごした後です。早くに少将を帰らせないと、と誰もが思っていたはずですが、やはり疲れがあったのでしょう。どうやら皆、少し朝寝をしたようです。
本当なら三日夜を済ませ、正式に結婚した二人なのだから誰はばかることなく、堂々と通う事が出来るので、少将と姫は朝もゆっくり二人で過ごす事が出来る筈でした。でも姫の特殊な事情で極秘に結婚したので、そういう訳にもいきません。
「あこぎ」と姫は大変な事になったと思っています。今朝はあの、北の方を含めた邸の人々が帰ってくるのです。邸中が留守の間に姫が極秘に結婚していたなどと知れたら、北の方が何をするか分かりません。彼女は姫君を一生、この邸でこき使うつもりでいるのです。しかも彼女は姫君が幸せになることを、とても、とても憎んでいるのです。
それなのに少将がまだ邸にいるというのに、しかも、落窪の間にいるというのに、邸の人々はお参りから帰ってきてしまいました。少将は無事に誰にも見つからずに、邸を出る事が出来るのでしょうか?




