19.少将の決意
「御車がお迎えに上がっております」
従者が少将にそう告げたのですが、少将は夢見心地のような幸せな気持ちで、すぐに帰る気にはなれません。
「雨が降っているじゃないか。あと少しだけ待とう。時期、止むだろうから」
と言って起き上がろうとしませんでした。
一方「あこぎ」はなんとかして少将様に人並みのおもてなしをして差し上げたいと思っています。けれど邸の人は殆んど石山詣でに行って、出払っています。少将様にお分けできるような朝食の膳の用意などあるとは思えません。それでも何とかならないかと、「あこぎ」は御厨子所(厨房)の女性に相談に行ってみました。
「お願いがあるんだけど、「帯刀」の友達が昨夜から泊っていて、雨が降って来たものだからそのまま雨宿りしているの。何もできないからせめて朝食を食べさせてあげたいんだけど、何か分けてもらえないかしら。出来ればお酒や肴もあると助かるんだけど」
すると女性は同情してくれて、
「まあ、御苦労だったこと。お客さんのお世話を一人でするのは大変だったでしょう。いいわよ。皆さんがお参りから戻られた時の為の食事やお酒があるから、それを持っていくといいわ」
と言ってくれました。
精進落としの宴会なら、北の方のご機嫌も悪くないはず。ちょっとくらいお酒が少なくても、旅行の自慢話に夢中で気づかないはずだわ。
「あこぎ」はそう思って徳利から遠慮なくお酒を注ぎ変えます。
「ちょ、ちょっと。少しは遠慮してよ」
あんまりどんどん注ぐので、女性に止められてしまいました。
「あらあら、ごめんなさい。つい、うっかり」
そういいながらも「あこぎ」は肴の方も紙にとりわけ、それもごっそり取ってしまったので、見つからない様に炭取りにこっそり隠して持ち出しました。
そして「御手水(洗面の為の水)の御道具は三の姫の所から、ちょっとお借りすればいいわ」と思いながら、正式な大人の女房の礼装に着替え、丁寧にお化粧を施します。
帯を後ろに長く垂らし、長い黒髪をよく解くと、その艶やかな髪は身の丈より三尺も長くて、後姿が大変美しく映えます。
「はあー、綺麗だなあ」
かしこまった大人の姿をした「あこぎ」に、「帯刀」も思わず見惚れてしまいます。
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この日は姫と少将にとって二日目の朝。まだ正式な結婚には至りません。ですから少将は明るくなる前に、人目につかない様に帰らなくてはなりません。でも姫と離れ難い少将は、雨をいい訳に少し長居をしたいようです。
本当なら少将は姫の大事な婿君候補です。親や肉親は顔を合わせられませんが、邸の人たちがそっと二人のお世話をして男君に気持ちよく帰ってもらうのが習慣でした。「あこぎ」は姫に恥ずかしい思いをさせたくなくて、なんとかそれを一人でこっそりやろうとしたんです。
こういう時、姫君の邸に仕える人たちは男君と姫君に朝の洗面をしていただき、さっぱりした所で朝食を食べて頂いたのでしょう。
今だったら水は蛇口からひねれば出ますし、ご飯も炊飯器が炊いてくれます。でもこの時代は全部人の手がなければ出来ませんよね。そういう物は厨房で働く人に分けてもらうよりほかありません。
そこで頭のいい「あこぎ」は小さなウソをついて、そういう物を分けてもらう事にしたんです。
きっと「あこぎ」は普段から邸で働く人たちに可愛がられているんでしょう。普通の新婚さんなら親が客のもてなしを手伝ってくれるのに、邸勤めの彼女がなれないお客の相手をして、しかも雨でその客が帰らずにいると聞いて同情されたんですね。もちろん「あこぎ」もそう思ってもらえるように、ちゃっかり演技したのでしょう。
徳利からお酒を注ぐ時も、ニコニコしながら注いで、止められても愛想よく「許してね」って、にっこり笑っていたんでしょうね。
邸に人がいないのをいい事に、洗面の道具もいいものを遠慮なく使ったことでしょう。
「あこぎ」は女童扱いされているのですから、普段は動きやすい、子供のような衣装でいるのでしょう。特にこの時は姫の為に色々支度をするため、髪などもまとめていたようです。
それを姫と少将の祝いの席なので、きちんとした大人の装いをしたんですね。活動的な子供でも着るトラッドな装いから、大人のドレスに着替えたようなものでしょうか。もともとが髪の美しい美少女なのですから、改まった姿をすれば、それまでとは別の美しさがあったのでしょう。 見慣れているはずの自分の妻に、惟成が見惚れてしまうほどなんですね。
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姫君の方は少将様が名残惜しげにしてくれているのは嬉しいけれど、自分には少将様の世話を焼いてくれる親などいないので、朝食さえ差し上げられないことが心苦しくて、起き上がれずにいます。そこに「あこぎ」がやって来て、
「このお部屋の御格子は、上げずにおいた方がいいのかしら」
と、独り言を言っています。本当は格子を上げて明るい中で、綺麗に整えた部屋にいる姫君の美しい姿を、少将様にお見せしたくて仕方がないのです。
「いや、この部屋は暗すぎる。姫君も格子を上げるように言っているよ」
少将も姫君や「あこぎ」の姿をもっとよく見たくて仕方がないようです。
お許しがあったので「あこぎ」はその辺の物を踏み台にして格子を上げました。少将も自分の身支度を整えると、
「車はどうしている」と、お聞きになります。
「門の所に待たせてあります」
姫の様子から少将も、ここでは朝の準備など出来ない事は見当がついています。名残惜しいけれど姫に恥ずかしい想いをさせるのも気の毒で、少将は早く帰らなくてはと思いました。
ところがそこに、「あこぎ」が使っている露という女童が美しく盛り付けされた朝食の膳を持ってきました。続いて「あこぎ」が御手水の道具に水を張って持ってきます。少将は驚きました。
「この姫にはそういう世話を焼いてくれる人はいないと聞いていたのに。どうやってこんな準備を整えたのだろう」と不思議に思いました。
姫君も驚いて、「いつの間にこんな準備をしてくれたのかしら」と不思議がっていました。
そうするうちに雨もおさまってきたようなので、邸に人もいないようですし、今のうちに帰ろうとして少将は別れ際、姫君にもう一度振り返りました。
その姿の美しいこと。他にたとえようもありません。思わず離れ難くなりそうです。
少将はこれまでにないほど、姫君が愛しく感じられて、必ずこの姫と生涯を添い遂げようと決心しました。
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昨日あんなに苦労して整えた部屋に、美しく着替えた姫がいるんです。「あこぎ」は自慢の姫の姿を、少将にもっとよく見てもらいたくて仕方がないんですね。以前のみすぼらしい姿なんて、すっかり忘れてもらいたいのでしょう。
だからわざと格子のことを独り言で持ち出したんです。きっと、とても大きな声の独り言だったことでしょう。
少将もそこは気がついて、わざと「姫もそう言っている」なんて冗談を言ったんです。
恥ずかしがり屋の姫が、自分から我が姿を見てほしいなんて言う訳はないんですが、そんな冗談がかわせるくらい、一晩で二人は打解ける事が出来たのでしょう。外も雨の早朝とはいえ、その程度には明るくなっていたんですね。
そして、そんな二人の幸せな時間を、「あこぎ」は簡単には終わらせません。きっちり少将様のお世話をして、姫様の面目を保ちます。
ここに出て来る女童の露ちゃん。彼女は「あこぎ」が使っている女童のようです。「帯刀」との手紙のお使いなどで時々出てきています。「帯刀」が母親から届いた焼米を、あげてしまった女の子です。「あこぎ」は女童の扱いですが、自分もお使いを頼める少女を使うくらいの立場にはいるんですね。
成人していて、結婚もしていて、目下の少女も使っている「あこぎ」がいつまでも女童扱いなのは、「落窪びいきの「あこぎ」に、下手な知恵など付けさせられぬ。三の姫が見劣りしても困るから幼稚な格好にしておきたい」」と北の方が考えているせいじゃないかと、私は勘ぐってしまいます。
そんな事をしたぐらいじゃ、「あこぎ」の賢さ、美しさは、隠しきれないみたいですけどね。
姫の為に孤軍奮闘しながらも、姫を幸せな結婚に導く「あこぎ」。これが彼女の真の実力なのでしょう。今まで戸惑ったり、少将の策略に乗せられたのは、彼女がまだ若すぎて実際の男性心理までは読み切れなかった事にあるのでしょう。本来の彼女は、どんなもの慣れた大人にも負けないほど、女房の仕事をこなせる力があるようです。
その「あこぎ」の苦労の甲斐あって、少将は姫にすっかり魅了されたようです。姫はもともと中納言家のどの姫よりも、美しい人なのです。それも北の方に疎まれる原因になったのでしょうが。惟成も「あこぎ」に惚れ直したことでしょう。
男二人に悔しい思いをさせられた「あこぎ」も、これでかなりスッキリしたことでしょう。
何より大事な姫君が、お幸せそうですものね。
「あこぎ」が女童なのは、彼女が子供だからではありません。
当時女童というのは、女房になる前の少女、侍女候補とも言える少女たちをそう呼んだようですが、それとは別に、役職名としての意味もあったようです。
つまり女房の下の立場。半人前の侍女のような扱いだったんです。
女童は小間使い的な、簡単なお世話やお使いが主な役目。
女房と呼ばれる人たちは、主人の意向を聞きつつ邸を運営し、姫の教育をし、北の方を助け、客をもてなし、婿君のお世話もする。かなり知的な仕事を要求されました。
細かな仕事は女童が年齢にあった仕事をしましたし、実質的な家事は下女と呼ばれた庶民の仕事でした。下女は身分が違うので女房にはなれませんし、女童は半人前扱いだったんですね。
女房って、女性のエリートなんですね。




