17.後朝の文
渋る姫君にあこぎは少将の手紙を開いて、読むように薦めます。手紙には、
いかなれや昔思ひしほどよりは
今の間思ふことのまさるは
(何故でしょう。逢う前にあなたを想っていた気持よりも、逢ってしまった今の方があなたへの想いが強くなってしまいました)
とだけ書かれています。姫君は、
「ひどく気分が悪くて」と、返事もできずにいます。
「あこぎ」は「帯刀」に返事を書きました。
「何よ、薄情者。自分の心配ばっかりして。昨夜のことで私を平気で騙せるんだって分かったから、とてもこの先信用できないわ。姫君なんてとっても苦しそうにしていらして、まだ起き上がることも出来ずにいるの。おいたわしくて私も見ていられないくらいよ。お手紙はお見せしたけど、お返事なんて無理だわ」
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これはプレイボーイの少将らしからぬ歌ですね。「何故か前より、今の方が好きみたいだ」なんて。彼だったら「前から好きだったけど、今はもっと愛してる」くらいの歯の浮く言葉がいくらでも出て来るでしょうに。
でもこれは、きっと少将の本心。姫が別れ際に返した歌が、少将にも影響を与えているのが分かります。心の歌を伝えてくれた姫に、少将も美しい女心をくすぐる歌よりも、自分の心から生まれ出た歌を姫に伝えようとしています。姫の向けてくれた誠意に、誠意で答えようとしているのです。つい、昨日までのことを「昔」といい、今の想いの方がずっと深いことに「何故」と驚いています。恋を美しく飾って伝える事より、降って湧いた様な突然の深い想いに、少将自信が戸惑っている事をとても素直に伝える歌です。
私個人から見ても、大変気持ちのこもった素直ないい歌だと思います。私は好きですね。
でも、事情を知らなければこれはちょっと失礼な言い回しになってしまいます。「今の方が好きって、じゃ、前はどう思ってたのよ」って話ですから。愛の言葉を巧みに操るべき、プレイボーイにはあるまじき言葉です。少将はそんな計算が出来なくなるほど、姫に惹かれてしまったのでしょう。
「あこぎ」にとってはこの歌は引っ掛かったかもしれませんが、早々と送ってこられた誠意は通じたと思います。それでも騙し打ちを受けた怒りは、簡単に治まりそうもありませんが。
何より姫君の苦しげな様子が心配で「どうしてくれるのよ!」って思いが強いんでしょうね。
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受取った「帯刀」は姫がご気分を悪くしてお返事できないと伝えると少将は、
「まったく嫌われた訳ではないと思うが。姫は一晩中身なりを気にしておられたから、今もそれを気に病んでいるのではないか」と、思いました。
すると昨夜の姫の辛そうな様子が思い出されて、気の毒に思えてきます。とても落ち着いてはいられずに、昼にはまた手紙を出しました。
「私はどうしてしまったのでしょうか。こんな仲になってもつれないあなたなのに、恋しい気持ちは募るばかりです。
恋しくもおもほゆるかな蜘蛛の
いととけずのみ見ゆるけしきに
(あなたが恋しくて仕方がありません。あなたは蜘蛛の糸のように、気持ちを解いて下さらない様に見えるのに)
本当に訳も分からずにいるばかりです」
「帯刀」も一緒に手紙を送ります。
「今度もお返事がないってのは、まずいだろう。今や少将様は本気で姫君のことを恋しく思ってるんだ。俺も少将様のご様子からこの愛情はずっと続くと思うし、少将様もそうおっしゃってるんだぞ」
時も置かずに手紙を出す様子を見て、さすがに「あこぎ」も、
「今度ばかりはお返事をなさいませ」と姫に促すけれど、姫は、
「少将様は、みすぼらしい私の姿をご覧になって、今頃どんなふうに思い出しているのかしら」
と考えてしまって、恥ずかしいやら、気が引けるやら、侘しいやらでとても返事を書く気になんてなれません。頭から衣をかぶって、伏せってしまいます。
その姿を見ると「あこぎ」は何も言えなくなってしまいました。仕方なく「帯刀」に返事を書きます。
「お手紙は見てもらえたけど、あんまり苦しげなご様子でお返事はいただけないわ。あんたは少将様の御愛情はずっと続くと言うけれど、どうしてそんな事が分かるの。しばらく経ったら『あれは一時の恋だった』なんて言い出すかもしれないじゃない。こっちを安心させようと思って、適当にいい事ばかり言っているんじゃないの」
「帯刀」は「あこぎ」の返事をそのまま少将に見せました。
「なかなか言うじゃないか。姫君が恥ずかしさのあまりひどく沈んでしまっているから、すっかり怒ってしまったのだろう」
少将はそう言って笑います。返事のない姫にがっかりするよりも、恥ずかしがっている姫の気持ちや、姫の為にこんなに怒っている「あこぎ」の気持ちを、ほほえましく思っているのです。
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さすがはプレイボーイ。返事が来なくても、自分がすっかり嫌われたなんて考えないんですね。半ば強引な真似を突然したんですから、嫌われたって不思議じゃない様に思うんですが。
でもこれはどうも文化の違いのようです。当時は女性が恋の訪れを待つ文化。よほど状況が悪いものでなければ、こういう事態も決して否定すべき事柄ではありませんでした。貞操観念というのはこれよりもっと後の時代の考え方です。
あんなにしっかり者の「あこぎ」が、こんな事になっても「少将様のお心を頼りに」というのは、彼女がいい加減だからではありません。こういう恋愛や結婚の仕方を、当時の世の中が否定しないからなのです。
『物忌みの姫君』の所で触れましたが、失われた沢山の物語の中には、親に反対されたり、意に沿わぬ結婚をさせられたりして悲しみの中にいる姫君を、恋人である立派な貴公子がさらっていくと言う、姫盗みの物語が数多くあったようです。「あこぎ」もそういう物語に憧れていて、いつか私の大事な姫様を、優しくて立派な貴公子がここから盗み出してくれるといいのにと、ロマンチックに夢見ていたようなのです。
物語の貴公子は、すでに姫君と相思相愛で、反対する周りの魔の手から見事姫君を盗み出し、生涯を幸せに暮らすとされていたのでしょうから、「あこぎ」もまずは姫と少将様が幸せな相思相愛であって欲しかったのでしょう。彼女もまだ若いですから、顔も性格も相性も分からないままでも、一方的に姫に想いを寄せてくれる貴公子が、本当にこの世にいると信じていたかもしれません。こういう所は「あこぎ」もまだまだ可愛らしい少女なのでしょう。
けれど姫と少将様の出会いは、こんな騙し討ちによっておこなわれてしまいました。いくら貞操観念がまだ認められていないと言っても、思想と心は別のもの。女性が慕わしく思う人と結ばれたいと思う心にかわりはないでしょう。だからその心が育ちきる前の姫に、こんなことをした「帯刀」たちを、「あこぎ」は怒っているのです。
それでも「あこぎ」も、姫が少将に憧れを抱いていた事に気づいてはいたでしょう。自分が思い描いたようではないけれど、少将様さえ本気でいてくれれば、姫はきっと幸せになれると思ってはいるんです。「あこぎ」もそのために、姫君を少将様が恋しく思って下さるように、何か手を打ちたかったはずなのです。けれど姫には心の準備もなく、みすぼらしい姿のままで少将様と出会わせてしまって、自分も悔しい上に姫君も自信を失って苦しんでいるのです。
こうなると「あこぎ」は夫にあたるくらいしか、気持ちの治めようがないのでしょう。
その「あこぎ」の怒りを伝えようがなくて、手紙をそのまま少将に見せてしまう「帯刀」。
「あっちはこんなに怒ってるんですよ。俺はもうこんな事は二度とごめんです。少将様も本気なら、少しは反省して姫君を大切にして下さいよ」
心の中で、そんな愚痴を言っているのが聞こえてきそうです。
その少将も、やっぱり「あこぎ」と姫の友情を理解しています。返事のない姫君に礼を求めたり、嫌われる心配をするよりも、「恥ずかしがって可哀想に」と思っているようですし、姫の為に本気で怒る「あこぎ」の事も、優しい娘だと思ったようです。自分の想いが届かないもどかしさより、二人の心情に心を傾けるところは、なかなか出来た男性のようですね。
「あこぎ」はロマンチックな感情から、少将が姫を助ける救世主になってくれることを夢見た感がありますが、この時姫は本当に不安定で危機的な状況で暮らしていました。
こき使われて病気になる可能性や、食事がもらえず栄養失調になる危険性もありましたが、平気で警護の人間のいないところに置き去りにされるとなると、姫の存在が悪い人間に知れればさらわれたり、殺されたりする危険だって、多いにあったでしょう。現に少将がこうして邸に潜り込んだわけですから。
以前「帯刀」も、「少将様がお相手なら、今の姫の状況よりも、ずっとまし」と言っていましたしね。
当時の都の治安の悪さは、かなりの物だったと思ってよいでしょう。




