15.本物の恋
思いやりがないとまで言われては、惟成も心苦しくなってきました。
「少将様はお話だけされたくておいでになっただけなんだ。ただ、ものの流れで姫と契りを結ばれることになったんだ。きっとお二人はこういう運命だったんだよ」そう言って白状してしまいます。
「お二人が結ばれたのは運命かもしれない。でも、こんなに唐突じゃ私も惟成と一緒になって姫様を裏切ったんだと思わてしまうわ。ずっと私をただ一人の味方と思って下さっていたのに。これがどんなに辛い事か、あんたには分からないわ」
どうして惟成の呼び出しに応じて姫のもとから離れてしまったんだろうと思うと、「あこぎ」は悔やんでも悔やみきれません。
「姫君だってお前が知らなかったことくらい、すぐに気がつくさ。お前のことをよく知っているんだから。何でも俺のせいにして怨まないでくれよ」
惟成もなんとか「あこぎ」の怒りを解こうと、懸命に慰めながら「あこぎ」を抱きしめました。
一方、少将の方でも「落窪姫」を懸命に口説いています。
「なぜ、そんなに泣かれるのでしょう。私は十人並みともいえない男かもしれませんが、そんなに嫌われるほどでもないと思うのですが。何度も差し上げた文にもお返事どころか『見ました』とのお知らせすら頂けないので、文を送るのはもうやめよう、諦めようと思いながら、あなたが気になってやめる事が出来ません。やっとお会いできたあなたにこんなにも嫌われるのが私の運命なのですか」
少将はそう言葉をかけますが、姫は口を開いてはくれません。少将は痺れを切らしてしまいました。
「……それでもあなたを忘れようと思う辛さに比べれば、この辛さも大したことはなく思えるのです」
そういいながら少将は姫を抱きかかえます。姫はもう、死にそうなくらいの気持ちです。
少将が触れる姫の衣はみすぼらしい一枚の衣だけです。それも薄くすり減り、肌が透け、あちこちに痛んで穴があいているので、そこから姫の肌が見えてしまっています。それを少将に気付かれたと知ると、姫は恥ずかしさと悲しさのあまり、これまでの涙ではなく、汗でびっしょりになってしまいました。そんな姫の哀れな姿に少将も気の毒でたまらなくなります。
姫に優しい睦言を言い続けますが、姫にはそういう言葉を返せるはずもなく、こんな事態に陥らせた「あこぎ」をひどく怨めしく思っていました。
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惟成は「あこぎ」に弱いのですね。泣きながら問い詰められれば白状せずにはいられないようですし、姫を裏切ったと思われると悲しめば、なぐさめずにはいられないようです。
少将が強引な手段に出なければ、本当に「あこぎ」に懐柔されていたかもしれません。
それにしても姫の身にまとっているもののひどいこと。肌が見えてしまうほど擦り切れたり、破れたりしてあちこちに穴があいているようなものを、たった一枚しか身につけていないなんて。少将の言葉で、姫もこの男性が今まで自分に手紙を送り続けてくれた、自分が淡い憧れを抱いた人だと気づいたでしょうが、その事は姫には救いにならなかったようです。その人に自分がつまらない存在として虐げられている事を象徴しているような姿を見られてしまい、心からみじめな思いを味わってしまったのでしょう。
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姫にとっては長かった夜がようやく明けました。まだ、正式な結婚ではない一日目の夜なので、少将は明るくなる前に帰らなければなりません。
君がかく泣き明かすだにかなしきに
いとうらめしき鶏の声かな
(あなたが一晩中泣き明かした事だけでも悲しいと言うのに、とうとう別れの鶏の声まで聞いてしまうとは。怨めしいことです)
「時々はお返事をくださいませんか。こういう仲になってまで御声も聞けないと言うのは、あんまりだと思いますので」少将がそういうので、姫はとても辛かったけれど、
人ごころ憂きには鶏にたぐへつつ
なくよりほかの声は聞かせじ
(このような辛い思いをさせた人のお心を思うと、わたくしは鶏のように泣く声よりほかにお聞かせ出来ません)
と、ようやくの思いで御歌を返しました。
その姫の様子と声は、痛々しいほど健気で可憐なものでした。少将はすっかり惹きつけられてしまいます。こんなにいじらしい女性を少将はこれまでに知りませんでした。
正直なところ少将は、涙にくれてばかりで何の返事もくれない姫は、一時の恋人として付き合うつもりでいました。
ところがこんな姫のいじらしさに触れて、少将は姫に心奪われてしまいました。
少将は、今、初めて本当の恋に落ちたのです。
「あこぎ」の嘆きをよそに、とうとう少将を迎えに車が着きました。惟成りは「あこぎ」に少将の車が来たことを知らせに行くように言いますが、
「いやよ。昨夜姫様の所に戻らなかったのに、今行ったら完全に誤解されるじゃない。惟成ったら私が姫様に嫌われるようにする気なの」と、ふくれてまだ恨み事を言います。
惟成は「子供っぽいな」と思いながらもそんな「あこぎ」が可愛くて、笑いながら、
「姫君がお前を嫌っても、俺が可愛がってやるよ」と言ってあこぎの部屋を出ます。そして姫君の部屋の格子の近くに行くと、声をかけるのもはばかられるので咳払いを一つしました。
少将も気づいて起き上がりますが、自分の立派な衣をスッと脱いでみすぼらしい姿を隠したがっている姫君に、そっと着せかけてあげました。
姫も少将に返しの衣を差し上げたかったのですが、自分ですらこんなみじめな一枚の衣姿です。少将の様な立派なものでなくても、ただ普通の衣でさえも返す物がありません。姫は一層の悲しみに打ちひしがれてしまいました。
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姫の苦しみの中での必死の返歌は、少将に真実の恋をもたらしたようです。おそらく今まで少将にとって、恋の歌も睦言も、恋の形を整えるための通り一遍のものでしかなかったことでしょう。他の女性が相手なら、時にはお付きの女房の代筆で、時には親の言葉を書き写して届けられたかもしれない歌を受取り、そういうものだと割り切ったやり取りをして、少将に言い寄られたことを光栄に思う女性たちと逢瀬を楽しんでいたのでしょう。
すっかり取り繕われた女性とのやり取りも、自分が多くの女性を楽しませることが出来た証しと思い、浮名を流す心地よさに酔っていたかもしれません。
ところがこの「落窪姫」は、美しい装いもなく、愛を語る言葉も知らず、自らのみじめな心をただ、涙することでしか表せない、素のままの姿をした女性でした。
少将はそれに戸惑うばかりだったのに対し、姫は最後に誠心誠意の心の歌を、本心のまま返してくれました。恋の場数を踏んだ少将にも、こんな体験は初めてだったことでしょう。
ありがちな恋の言葉もなく、気を引くための恨み事もない、飾り気のない本物の心の歌。それは姫のけなげな姿と共に少将の胸に焼き付いてしまったのかもしれません。
けれど、姫と「あこぎ」にとっては辛い朝を迎えてしまいました。「あこぎ」はどんなに子供じみていると言われても、惟成に当たらずにはいられません。
姫もさらにみじめな思いを味わいます。この頃は今のように専用の掛け布団で眠るのではなく、自分たちの着ている衣を上にかけて休んでいました。男女が契りをかわす時にもそれは同じです。そして共に重ねた衣を朝の別れ際に互いに交換し、着せかけあって愛の証しにしたのです。後朝という恋人同士に許された幸せな慣わしです。それなのに姫には少将から衣を着せかけられても、返す衣すらないのです。
実は「春を売る」女性たちを男性が選ぶ時、やはり気に入った女性に男性が衣を着せかけます。これは女性が返す必要のない衣です。姫がその事を知っていたとは思えませんが、返す物もなく施しを受けるだけの自分の身の上に、そんな風な屈辱を感じ取っていたかもしれません。
「帯刀」は面目を保ち、少将は本物の恋を知ることが出来ましたが、「あこぎ」と姫は深く傷つけられてしまったのです。




