蛇の子の純愛
ルルは毎朝起きたらすぐに顔を洗い、口を清め、神官服へ袖を通す。
たっぷりと白い絹布が使われ白い絹糸で聖なる紋様が刺繍された、神聖ながらも豪奢なこの衣服は、背中が大きく開いていた。ルルの白い鱗を見せびらかすようなこの服は、いつも憂鬱のもとだ。
短いながらも癖のある白い髪を申し訳程度に水で整える。何度かぱちぱちと瞬きをして、赤い瞳で前を向いた。
男子寮にある自室を出ると、他の神官たちも朝食のために集会場へ向かうところだった。ルルが軽く会釈で挨拶すると、引き攣った笑みが返ってくる。
悲しいかな、ルルにはもう慣れっこだった。
大抵の神官の鱗は土と同じ黒や茶色、あるいは植物の葉と同じ豊かな緑色をしている。大地に恵みをもたらすそれらを想起させる存在であるがゆえに、背中に鱗を持つ人々は豊穣の象徴として祭り上げられているのだ。
そうして背中に鱗を持つ赤子は出生後すぐに神殿へ捧げられ、俗世から隔離され、神官として養育される。ルルもその一人だ。
その一方で白は、この国において喪服の色だ。ルルだけ死を思わせる不吉な色をまとっているから、神官にはきっと相応しくないと自分自身でも思っている。
それでも神官という地位にしがみついているのは、ちっぽけな望みがあるからだった。
朝食をとり、別棟に移動し、祈りの間に全員でこもる。午前の祈りを捧げるためだ。鐘の音が鳴り響く中、神官たちの唱える祝福の聖句が広い空間の中に滔々と流れた。
この国の実りには神官の祈りが欠かせない。祈りの力によって土は肥えて作物は実り、それによって人々の暮らしは豊かさを保つのだ。
祈り終えた後には集会があり、神官長の説教を聞く。ルルはこれがいつも、一際憂鬱だった。
「おい、死の蛇。不吉の子」
ルルを見下すように呼ぶ黒髪の彼はカオ。同い年の神官で、何かとルルを目の敵にしていた。体格もルルよりいいから、なんとなく逆らいがたい人物だ。緑の瞳を歪ませ、ルルをからかうような声色でこけにする。背中の鱗も髪と同じ黒色だ。
「まだ懲りずに祈りにでてくるなんてな。お前なんかの祈りは邪魔だ。不純物を俺たちの祈りへ混ぜるな」
周りの神官たちは何も言わない。白い目でルルを見るだけだ。
ルルもだんまりと口をつぐみ、罵倒を聞くだけだ。無抵抗なルルに、カオは残虐な笑みを浮かべてさらに続ける。
「背中の鱗も泣いてるな。切り取って天へ返上して差し上げたらどうだ?」
「……それは禁忌だ」
蛇神からいただいた身体を自ら傷つけることは、神官の禁忌だ。カオは一瞬黙った後、「お前ならむしろ」と何かを言いかけた。そして舌打ちをする。
「なんだよ。もっと面白いことでも言えよ」
最近のカオの調子はおかしい。体調はどことなく悪く見えるし、いつにもまして言葉は攻撃的だ。
「きみこそ。疲れているんじゃないの」
ぼそりと呟けば、また舌打ちが返ってくるばかりだった。
午前の祈りが終われば、しばしの自由な時間だ。
ルルはまっすぐに自室へ戻り、本を読み耽った。神学や魔術、呪術、占術。自分の祈りの力を少しでも増すため、ルルは研鑽を欠かさない。
不意に扉がノックされる。ルルは飛び上がって扉へ駆け寄り、ドアノブを回した。
こんな自分を訪れてくるのは、たった一人だけだ。
「やあ。ルル」
柔らかい金髪を揺らして、緑の瞳の青年が微笑む。金の糸できらびやかな刺繍のほどこされた宮廷服を着こなす、洒落た雰囲気の人物だ。
ルルは跪き、神官としての礼を披露する。
「アルプレヒト殿下、ごきげんよう」
彼は「立って」とルルを促し、部屋へ入った。昼食には少し早い時間帯だ。
ルルはいたずらっぽく笑い、アルプレヒトへ問いかけた。
「午前の鍛錬はおしまいなのですか?」
「課せられた分はこなした。それ以上をやるいわれはないよ」
甘い美貌と優しそうな眼差しに反して、この末の王子はからりとした性格をしている。
だからこそ、ルルに優しくしてくれているのが不思議だった。その理由は出会った頃から、ずっと聞けないままでいる。
アルプレヒトはルルの用意した椅子に座った。懐から畳んだ布を取り出す。広げると、ころりとした色とりどりの飴玉が掌の上に現れた。
「今日のおやつだ」
そう言って、ルルへと差し出す。ルルは「ありがとうございます」と噛みしめるように言いながら、一粒つまんだ。
二人はいわば幼馴染だ。アルプレヒトが二十一歳で、ルルは二十三歳。出会ったのはアルプレヒトが十二歳を迎えた頃だから、おおよそ十年ほどの付き合いになる。
「昼食もまだなのにおやつだなんて、変ですね」
「今更だろ」
かろかろと音を立てながら口の中で飴玉を転がす。身体はルルよりずっと大きくなったのに、こういうところで妙に幼さを感じる。それがどうにも愛しくて、ルルの胸は締め付けられた。
ルルは男だ。神殿にあがる際、世俗のすべて――男女の性をも捨てるという教義上の理由で(形骸化してはいるが)中性的な名前ではある。だとしても、生まれ持った肉体の性は変わらない。
だから末子とはいえ王子のアルプレヒトと結ばれるだなんて、ありえない。家同士の結びつきのために特例で同性婚を認める場合もあるが、ルルにそんな後ろ盾はない。そもそも神官は生涯未婚だと定められている。決して叶わない恋をしていた。
それでも、と思う。
アルプレヒトとその家族が治めるこの国を、自分の祈りで少しでも豊かにできるなら、ルルはいくらでも祈る。この身を燃やし尽くしてもアルプレヒトへ尽くしたい。
たとえアルプレヒトが他の誰かと結ばれても祝福の祈りを捧げる。彼に子どもができたら、その子やその先の子孫たちがずっと幸せでいるよう、祈り続ける。
たった一人だけ自分に優しくしてくれる思い人への気持ちは、ルルの中で激しく燃え盛っていた。
それをおくびにも出さずに、ルルも飴玉を口へ放り込む。アルプレヒトの瞳を見つめていると、ふっと陰が差した。彼は眠たげに瞬きをした後、はっと顔をあげる。
ルルは「どうかされたのですか」と自分の胸へ手を当てて尋ねた。
「体調がお悪いのですか?」
「いや。最近、寝不足なだけだ。……恥ずかしい話、変な夢をよく見てね。いい年をして悪夢が怖いだなんて」
自虐的に言うアルプレヒトに、ルルは首を横に振った。
「恥ずかしくなどありません。怖いものは、いくつになっても怖いものです」
「それは、君も?」
「はい」
恐れを笑みの下に隠して、ルルは頷く。
白い鱗を持つ自分へ向けられる視線が未だに怖い。喪服の蛇と揶揄されるのが恐ろしい。だけどそれをアルプレヒトが聞いたら、今すぐ慰めてくれるのが目に見えていた。
それはすごく惨めなことだ。
アルプレヒトはルルをじっと見つめた後、「大したことじゃないんだけど」とため息交じりに続ける。
「暗闇の中で、首を絞められる夢を毎日のように見るんだ。苦しくて声も上げられない、もうダメだ……そう思うと目が覚める」
淡々と語られる夢は、確かに悪夢だった。顔をわずかにしかめるルルに、アルプレヒトはほんのりと苦く笑った。
「日に日に目覚めるまでの時間が増している気がする。昨日なんかは『死ぬ』と思った瞬間に目が覚めて……寝汗でぐっしょり濡れた寝間着は、あんなに着心地が悪いのかと思った」
「殿下」
労しい。ルルは胸の前で手を組み、アルプレヒトのために祈りを捧げた。彼は「大げさだな」と笑って立ち上がる。もう休憩は終わりのようだ。
「そろそろ君も昼食だろう。私も王宮へ戻る」
はい、と従順に頷く。ルルはその背中を見送って、部屋に戻った。閉じた扉に背中を押し付けて、茫然と立ち尽す。こんこんと胸の奥底から湧きだす寂しさには蓋をして、嫌な予感に胸を押さえた。
本棚へ向かい、呪術に関する書物を手に取る。もう何十年も前に書かれた本だが、その中にあるひとつの記述がルルの記憶の中で引っかかっていた。
ページを手早くめくり、それを探す。本の中ほどまでめくったそこにある文字列を、ルルの瞳が走るように追う。
(夢の中に現れる術。違う。夢に干渉して……そうだ。あの様子だと殿下は夢の中で、毎日のように絞め殺されかけている。呪いだろうか。呪いだとしたら、解くために何かの代償がいる……)
何とも言い表しがたい不快感と焦りに任せて、ルルはページをめくった。昼食の鐘が鳴っても気づかず、必死でページをめくり続けた。
気づいたときには夕刻だった。日の沈む頃にもう一度、祈りの時間がある。
神官の習性でそれを思い出したルルは、慌てて本を閉じた。手早く身だしなみを整える。
自室から出ると、寮内の空気が張り詰めていることに気づいた。廊下を歩く神官たちの足取りは忙しなく、王宮の文官の姿すらあった。
ルルは行きかう人々の会話に耳を澄ませた。あちこちでさざめくような困惑と焦りの声が飛び交っている。腰の曲がった白髪の神官と、中年の文官が話していた。高位の神官であるリカリと王宮からの使いだろう。リカリはルルへ(比較的)友好的に接してくれる数少ない神官だ。彼はたっぷりとたくわえた白いひげをひっきりなしに撫で、文官は焦っているのかつま先がひっきりなしに上下している。
「……いずれにせよ、午後の祈祷は定刻通りに行ってください。我が国へ豊穣をもたらす祈りです。非常事態でも止めるわけにはいかない」
「はい。ですがこちらから、アルプレヒト殿下のために何人か神官を寄越しましょう」
アルプレヒト殿下。
その名前を聞き、ルルは思わず「何があったのですか」と二人のもとへ飛び込むように話しかけた。二人は驚き顔をしかめるものの、リカリが先に口を開く。
「あなたには関係のないことです。祈りの間へ急ぎなさい」
それきり彼は口をつぐむ。ルルがなおも食い下がろうと口を開いた瞬間、文官が突沸するように罵声を浴びせた。
「それともあなたが呪ったのではないですか!」
頭が真っ白になった。人に怒鳴られたのは生まれてはじめてだった。
それでも頭が断片的な言葉を拾う。
「呪われた? アルプレヒト殿下が?」
混乱する思考でなんとか推論を組み立てると、文官は「そうだ」と唾を飛ばしてまくしたてた。
「常日頃から申し上げていたのです、喪服の蛇のもとへ通うなど不吉だからおやめくださいと。アルプレヒト殿下の優しさを逆手にとって、お前は殿下を呪ったのではないか!」
言っていることがめちゃくちゃだ。それでも文官がルルをよく思っていないことはよく分かった。
「殿下のご状況はどうなっているのですか?」
ルルの言葉に文官がさらに怒鳴ろうと息を吸い込む。それをリカリが制し、「ルル」とため息のように名前を呼んだ。
「殿下は永眠の呪いにかかられた。先ほどお倒れになり、我々でお身体を確認したところ、呪いの紋がみられたのだ」
淡々と告げられた言葉に、ルルは絶句した。
わなわなと指先が震える。茫然と立ち尽くす他ない。
リカリは労るように目を細め、さらに言葉を続けようとした。しかし文官が「もういいでしょう」と遮った。
「とにかく、殿下のために優秀な者を何人か寄越してください。それから喪服の蛇」
ぎろりとにらまれ、ルルの背筋はわなないた。文官は低くうなるようにルルを脅した。
「お前は余計なことをするな。ああ、そうだ。こんな奴の祈りなどを受けたから、王子は呪われたのだ」
言いがかりだ。頭では分かっていても、「ひょっとしたらそうかもしれない」という考えは染みのように心へ広がっていく。
ルルは不吉な喪服の蛇だ。そんな自分へ優しくしたから、アルプレヒトは呪われたのではないか。
「言いがかりはおやめください」
リカリが二人の間へ割って入る。文官はなおも「お前のせいだ」とわめきたてた。
「リカリ殿。この不吉な蛇に祈らせてはなりません」
「いい加減になさってください」
リカリは深くため息をつき、「ルル」と呼んだ。はいと従順に返事をすれば、リカリは静かにルルへと告げた。
「あなたは部屋へ戻り、ひとりで祈りを捧げなさい。今日は祈りの間へ来る必要はない」
がん、と頭を殴られたようだった。
心のどこかで、リカリは自分を庇ってくれるのではないかと思っていた。いや、違う。今だって庇ってくれている。
だけどアルプレヒトの役に立てそうもないことが、ルルにはショックだった。
リカリは「はやく行きなさい」とルルをせかした。
ルルはよろよろと後ろへ何歩か歩き、かろうじて礼をした。そのままくるりと踵を返す。
(僕のせい? そんなわけない。僕が不吉な喪服の蛇だからって、そんなことはありえない……)
呪い。根源的には神官たちの祈りとそう変わらないが、何かの代償――供物と引き換えに誰かを吹こうにするためのまじないだ。
(あまり考えたくはないけど、この神殿の誰かが殿下を呪った?)
神官たちは蛇神の子だ。蛇神の子の祈りには霊力があり、それが多くより合わさることによって国を豊かにしている。
だけど人ひとりを呪うだけであれば、ひとりの神官でも可能なはずだ。
ルルは駆け足で自室へ戻り、呪いについての本へ飛びついた。
本の知識でルルは知っていた。呪いを解くためには、二つ方法がある。
一つは術者を特定し、供物を捧げられた呪具を破壊すること。
もう一つは解呪のため、呪いへ対抗する者が代償を支払い、呪い返す――あるいは無効化すること。
王族は神殿から加護を受けており、呪いへの抵抗力も強い。だとすれば考えられるのはやはり、神官の手による呪いの可能性だ。
だけど一体誰が? 分からない。ルルは短い髪を両手でぐしゃぐしゃとかき混ぜてうずくまった。
ふ、ふ、と呼吸が知らないうちにあがってくる。静かに混乱するルルの中で、ぱちりと何かがはまった。
「呪い返し」
こちらが代償を支払えば、呪い返すことができる。あるいは、呪いをなかったことにできるかもしれない。
ルルには、呪い返す勇気などなかった。呪い返せばルルも加害者になる。加害者になればきっと、罪悪感に耐えられない。
だからもしルルがアルプレヒトを助けようとするならば、呪いをなかったことにするしかない。
「代償を払う」
しかしいずれにせよ、払えるものがない。途方に暮れて、また頭を抱えた。
本を開き、代償にできるもので用意できそうなものを探す。
動物の命。高価な宝石や貴金属。人の身体の一部。
ふと、頭の中にひらめくものがあった。
「身体の一部?」
咄嗟に背中へ手を当てると、ざらりとした感触があった。ルルの背中を覆う、忌々しいほどに白い鱗だ。
「うろこ」
喘ぐように呟いた。
そうだ、どうして気づかなかったんだろう。
鱗を捧げればいい。蛇神の子の鱗だ。普通の人体の一部とは違った価値があるはずだ。
ルルの行動は速かった。部屋をひっくり返してナイフを探す。やっと見つかったちゃちなペーパーナイフを利き手に持って、背中を探る。
ごつごつとした冷たい部分が指に触れる。鱗だ。やっと見つけたそこへ、ナイフを当てた。
わずかに呼吸が乱れる。きっとひどく痛むだろう。それでもやらなければいけない。
ルルは呼吸を止めて、一息にナイフを突き刺した。鈍く激しい痛みが襲うが、それに怯まず何度も突き刺した。
生まれて初めて自分の身体を自分の意志で傷つけた。その恐ろしさに怯みそうになるけれど、それでも震える手で、なかなか剥がれない鱗の根本を切りつける。
やっと親指大の鱗が、一度に三枚も剥がれた。傷は燃えるように熱いが、止まっている場合ではない。
これが禁忌だと分かっていた。だけどルルの予想が当たっていれば、アルプレヒトへ呪いをかけた犯人も、同じ禁忌を犯している。
王族への呪いだ。蛇神の眷属たる神官の鱗以上の供物はない。
だってこの国へ祝福をもたらすための力を、この国の支配者を呪うために使うのだから。
窓辺に鱗を置いて、ルルは血に濡れた指を組んだ。
背中がじんじんと痛む。皮膚の上を血が滑っていく感覚がいやに鮮明だ。
その痛みも無視して、額へ拳をつけて、ルルは祈りの――呪いの言葉を唱えた。
「我が名はルル。偉大なる蛇神の子、蛇神の使い、蛇神のしもべ」
鱗の剥がれた皮膚が熱くなる。そこから生命力を吸われていると直感した。
ルルの体内をめぐっていた命の一部が、外へと漏れ出していく。
「天より賜ったこの鱗を贄に捧げ、天へと希う。我が主――アルプレヒト・ド・シャニエの魂を、眠りの底から覚まさせたまえ」
恐れ多いようで声が震えた。それでもルルは続ける。
「我が主の魂の贖いは、しもべたる我が払う。天のはかりよ、主の魂に叶う贖いを我へ求めたまえ――!」
言い切って、きつく目をつむる。
一瞬の後、背中がつきんと痛んだ。その痛みはすぐに激痛に代わる。皮膚を剝がされる痛みだ。
「ぐっ……!」
鱗が剥がれていく。あまりの痛みにルルは悶絶した。血のにおいが鼻につき、のたうちまわると背中や脇腹にぬるりとした感触がある。
それでも、望外の喜びだった。ルルの祈りは、呪いは、天へと届いたのだから。
「持って、いけ……!」
吠えるようにルルは叫んだ。鱗はほとんど剥がれただろう。窓辺に置いた鱗へと視線をあげればそれはきらきらと光の粒子になり、夕焼けに向かって立ち上っていく。
きっと背中の鱗もそうなのだろう。ルルはうずくまり、悲鳴をこらえた。
呪いをなかったことにするより、呪い返す方が、きっと代償は少なく済んだ。力を反転させるだけだから。
だけど呪いを返してしまえば、術者は二度と目覚めない昏睡へ陥る。なぜなら呪い返しを受ければ、もともとの呪具を破壊しても呪いが解けることはないからだ。そうなれば、術者のために誰かが代償を支払わなければならない。
こんな呪いをかけるように依頼された人間を、誰かが助けるわけもないのに。
(いたい。いたい……!)
意識がどんどん激痛に浸食されていく。どうしてこんなバカな真似をしてしまったのか。自分がやらなくても、他の誰かがアルプレヒトのために贄を用意したはずだ。
(ああ、でも……僕の鱗で殿下が助かったなら、うれしいな……)
痛みから逃げるように幸福な想像をする。血が足りずに身体から力が抜けていく。
地平線の向こうへ太陽が沈む頃、部屋は闇に包まれる。その闇の中で、ルルは静かに意識を失った。
次に気づいたとき、ルルはベッドへと寝かされていた。うつぶせの姿勢だ。
身体に力が入らない。それでも腕を突いて起き上がろうとすると、扉が開く音がする。
「ルル!」
アルプレヒトの声だ。身体を動かせずに視線だけ向けると、いつも通りのアルプレヒトが立っていた。しかし表情は憔悴しきって、元気がないように見える。
どうかしたのかと尋ねようとすれば、つかつかとこちらへ歩み寄ってきた。ここになってやっと、自分のいる部屋が恐ろしく広いことに気づく。調度品も豪華で、まるで王宮の中のようだ。少なくとも神殿の中ではない。
茫然とするルルのもとへアルプレヒトが駆け付ける。ベッドのそばへ膝をついて視線が合い、ぎょっとする。
アルプレヒトはルルの背中の傷へ障らないように、その細い腕をきつく握った。
「どうしてあんなことをした!」
理由を尋ねられている。だけどルル自身にもよく分からなくて、おろおろと口を開いた。
「どうして、ですか。僕も正直、あのときはいっぱいいっぱいで……必死でした」
「だからといって、身体に傷をつけるだなんて」
アルプレヒトの表情が苦し気に歪む。ルルの肩口を撫でさすった。傷口は広く、肩の際の部分まで包帯に覆われている。
「背中の鱗は、すべてなくなってしまったようだ。こんな大けがを負ってまで、なぜ私のことを」
どうやら、大方の事情は伝わっているらしい。ルルはアルプレヒトの問いを何度か頭の中で反芻した。だけど答えは決まり切っている。
「あなたを助けたかったから。でも僕は馬鹿ですね。他の誰かの方が、ずっと上手く解決できただろうに」
ルルがそう恥じらえば、「違う」とアルプレヒトは首を横に振った。
「……神官たちが話していた。神官の鱗を全て持っていくほどの代償を必要とするなら、この国のどんな財宝を、……たとえ生贄を用意しても、足りなかっただろうと」
「それでは僕、あなたのお役に立てたんですね」
わずかに声が弾む。アルプレヒトは「馬鹿」とルルを罵った。だけどその声には力がなく、優しい。
「私が助かったのは嬉しい。助けようとしてくれたことも嬉しい。だけどそれでルルが傷ついたことが、私はものすごく悲しいんだ。分かるか?」
諭されている。思いやりに満ちた言葉が背中に沁みる。じくじくと痛んで、ルルは「申し訳ございません」と目を伏せた。
「……あなたが僕を心配してくれることも、ちょっと考えれば分かったことでした」
でも、とルルは続ける。
「だとしても、何があっても、僕はきっと鱗を捧げました」
ルルの言葉にアルプレヒトが頭を抱える。ルルはこれ以上謝るのをやめた。
その代わりに「あなたが無事でよかった」と安堵の息をつく。
アルプレヒトは頭を抱えたまま、視線だけあげてルルを見つめた。
「背中の鱗は、一枚残らず剥がれたそうだ」
「はい」
「回復するかどうかも分からない。神官の背中に生えたすべての鱗が剥がれた前例はないそうだ」
「はい」
淡々とうなずくルルに、アルプレヒトは顔を上げてくしゃりと顔を歪めた。笑っているようにも見えた。
「ルル。君は禁忌を犯した。その罪で、神官ではなくなるそうだ」
「はい」
頷くルルの手を取って、アルプレヒトは額へ押し付けた。予想外に熱くてアルプレヒトに熱があるのかと思ったが、どうやらルルの手が冷たかっただけのようだ。かじかんでいたことがやっと分かる。
「だから、ルル。今から私の言うことを大人しく聞いてほしい」
「場合によります」
アルプレヒトの熱で恍惚としながらルルは言った。アルプレヒトは「つれないな」と肩を震わせ、顔をあげた。緑の瞳がルルへ焦点を合わせた。焼けつくような視線を浴びると、意図しなくても呼吸が止まる。
「私と結婚しろ」
ルルの思考まで止まった。全身が硬直し、どっと心臓が跳ねる。全身の血流がよくなったせいか、背中がまたじんじんと強く痛んだ。それにうめき声をあげると、アルプレヒトは「大丈夫か」と血相を変えてルルの顔をのぞきこむ。
「痛むのか」
「あ、いえ、その……驚いて」
「そうだな。私も正直動揺していて、何がなんだか」
アルプレヒトはいつにもなく落ち着きのない様子でルルの手を握りしめた。おたおたと二人して慌てる中、アルプレヒトが再び口を開く。
「結婚してほしい」
あまりにも唐突な要求だ。率直な疑問が口をついた。
「なぜ……?」
「え、いや……その……」
お互いに混乱しているのだろう、いまいち空気が締まらない。
アルプレヒトはうつむき、しばらくの間黙り込む。
「……笑わないでほしいんだが」
「はい」
何を言われるのだろうか。身構えるルルに、アルプレヒトは顔を真っ赤にして呟いた。
「ルルが好きだったんだ。ずっと……」
突然の暴露に、ルルはますます動揺した。笑うどころではない。
「ずっととは……」
「出会ったときに一目惚れした」
「本当にずっとですね……」
不意にアルプレヒトが噴き出した。そのまま笑い出したアルプレヒトに、ルルはすっかり困ってしまった。そんな場合ではないはずだ。
「殿下。なぜお笑いになるのですか」
「すまない。いや、我ながら一途なものだと思って」
はー、と息を吐き出して、アルプレヒトは真っすぐにルルを見つめた。緑の瞳はわずかに潤んで、甘い光をたたえていた。
「一目惚れだから、失礼な話、どうせどこかで幻滅するだろうと思っていた。でもしなかった。責任を取ってほしい」
「ぼ、僕が?」
戸惑うルルの手の甲に、アルプレヒトは頬ずりをした。その柔らかさにまた心臓が跳ねる。
「実は君に勝手に操を立てていたから、私には婚姻の予定がない。だから正直、君の意思次第ではある」
その声の甘えたな響きが、ルルの心の柔らかい部分に触れた。
「それは……責任、取らなくてはなりませんね……」
まさか思いが叶うだなんて思っていなかった。
それもアルプレヒトから望まれる形だなんて。
ルルは「アルプレヒト殿下」とその人を呼んだ。声が自然と柔らかく、甘くなる。
「耳を、私の口元へ寄せてください」
アルプレヒトは言われた通りにした。その素直さがどうにも愛しくてたまらない。
ルルの気持ちを告げれば、アルプレヒトは泣き出しそうに笑った。
呪いの調査は粛々と進められた。
アルプレヒトを呪っていたのは、カオだった。
ルルはアルプレヒトに頼み込んで、ねだり倒して、特別に彼との面談の機会を設けることを許可された。リカリの配慮もあったと聞いている。
あとで二人へお礼を言わなければ。
鉄の扉をくぐり、地下への階段を歩き、牢獄の中でルルは思った。ひんやりとした空気がわずかに傷口を冷やす。
柵越しにカオを見つめて「久しぶり」と呟いた。背中の傷はまだ痛むが、カオのそれはルルの比ではない。こうして立って歩くことはできる。
カオは鱗を使ってアルプレヒトを呪った。その背中の傷は放置されている間に、徐々に広がっていったと聞いている。ぐったりと横たわりながら視線だけ寄越すカオに、ルルは静かに問いかけた。
「どうして殿下を呪った?」
ずたぼろのカオを見ていると、どうしても憤りより哀れみが勝ってしまう。カオはそれを敏感に感じたのか、顔を歪めた。
「お前なんかに優しい王族は相応しくないだろ」
「つまり私怨?」
「半分はな」
なんとなく予想はつく。
アルプレヒトは未婚の王族だ。彼が誰かと結婚するかで国内の勢力図は多少なりとも変わる。
それを恐れた誰かが、カオへアルプレヒトの暗殺か――もしくはそれに近いことを依頼したのだろう。
「依頼主は誰?」
カオは呆気なくその名前を告げた。ルルでも名前を知っているような有力貴族だ。そんな人に命を狙われていたアルプレヒトを思うと、どれだけの苦しさを抱えていたのだろうと思う。生きているだけで殺されかけるだなんて。
「気に食わなかったんだ……」
カオはうめきながら、ルルを見上げる。口元は歪み、額を床へこすりつけて頭を揺さぶる。
「お前、お前が優しくされているのが。どうして俺じゃなかったんだって」
「それは、アルプレヒト殿下の寵愛を受けているのがどうして君じゃなかったのかってこと? 僕がうらやましかったの?」
問いかけても返事はなかった。見張りの兵士が「時間だ」とルルの質問を切る。
去りがたいが、ここから出なければならない。
牢獄から出るその瞬間に、カオが「ちがう」と呟いた気がした。だけど振り返っても、鉄の扉は閉ざされてしまった。
カオ本人から話を聞いても、気分は晴れなかった。あの一瞬について、ルルは一生悩み続けるのかもしれない。
日の当たる中庭へと出ると、吹き抜けの廊下の際にアルプレヒトが立っていた。手持無沙汰な様子で木々を眺めている。
「アルプレヒト殿下」
名前を呼ぶと、ぱっと振り返る。喜びもあらわに駆け寄ってくるのは(王族に対しては非常に不敬な表現だが)大きな犬のようだった。
「おかえり。ルル」
真っ先にルルの手を取る。もはや好意を隠さなくなったアルプレヒトの態度は、日に日に甘くなっていた。
「はい。ただいま戻りました」
ルルの沈んだ声に、アルプレヒトは頷いた。そっと手を引いて歩き出す。
「どうだった」
尋ねられて、ルルは首を横に振った。
「何も分かりませんでした」
自分がうらやましかったのかと問いかけたことは、本人の前で言うのは気が引けた。それきり口をつぐんだルルに「そうか」とアルプレヒトは呟いた。
「ならば忘れろ、ルル。君がカオを覚えていても、君が苦しいだけだ」
残酷なことを言う。驚いて顔をあげると、アルプレヒトは苦々しい表情でルルを見つめていた。
「どうしてそのようなことをおっしゃるのですか」
少しだけなじるように問いかけると、彼は気まずそうに顔をそらした。
「……お前の頭の中にあの男がいると思うと、私がどうにかなりそうなだけだ」
「なぜ? 僕にはあなただけなのに」
「だってあの男は」
アルプレヒトは言いかけて、大きく息を吐いた。頭を軽く振って、弱弱しく微笑む。
「いや。私も、少しだけあいつの気持ちが分かる。だから嫉妬する」
「なぜ?」
「あいつも、私がうらやましかったんだろう」
何が何やら分からない。首を傾げるルルを、アルプレヒトの大きな掌が抱き寄せた。大人しく腕におさまると、まだ癒えきらない傷口へ障らないようにゆるく腰を抱かれる。
「……そうだな。私のこころで君のこころを縛ってはいけない。さっき言ったことは取り消す」
「忘れろとはおっしゃらない、ということですか?」
「ああ。同類への、私の情けだ」
何が同類なのだろう。ルルがまっすぐにアルプレヒトを見つめると、アルプレヒトは切なげに目を細めた。
「……行こう、ルル。カオの命は私が保証する」
ルルの視線に答えるつもりはないらしい。だからルルはそのまま、懸念をぶつけた。
「その前に、傷が悪化して死ぬかもしれません」
「ならば治療も施させよう。殺されかけた本人の言葉だから、誰にも止めさせなんかはしない」
「殿下は、カオへ急に親切になりました」
素直に感想を述べると、アルプレヒトは「私にも情けはある」と呟いた。
「……私も蛇の鱗を持っていれば、カオと同じことをしたかもしれない」
緑の瞳がルルへと向けられる。もう背中に鱗のないルルは、その大きな掌を引っ張って一歩踏み出した。医者の見立てでは、鱗はもう二度と生えてこないらしい。
「でもあなたは、僕へ親切にしてくれたじゃないですか」
その言葉に、アルプレヒトは「私は素直だからな」と微笑んだ。
ルルもそれには頷きと笑みを返した。手を取り合って、二人で廊下を歩く。向かうのは、二人のものとして与えられた一室だ。
アルプレヒトは王族としてではなく、一臣下として父や兄の治める世を助けるつもりらしい。だから近々、彼には爵位が与えられる予定だ。ルルを娶ると決めたから、彼一代きりの爵位だ。
それらすべてにルルが納得したわけではない。アルプレヒトの爵位が誰にも引き継がれないことはさみしいと思う。だからきっと、もしかしたら近いうちに、アルプレヒトとルルは争うかもしれない。
だけど離れることはないと、もう腹に決めていた。
「アルプレヒト殿下。あなたは優しい」
「どうだろう。狡猾なだけかもしれないぞ」
「狡猾だとしても、です」
ルルはアルプレヒトをまっすぐに見上げて、赤い瞳をうっとりと細めた。
「飴玉をくれるような親切は、他の誰だってしてくれませんでした」
「私はそこに付け込んだだけかも」
「だとしても、僕は嬉しかったんです」
急に自己評価が低くなったアルプレヒトの手をしっかり握って、ルルは日の差す廊下を歩く。
アルプレヒトは「そうかもな」と頷いて、ルルの後に続いた。




