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雨の日に遺された約束

作者: 汐野 夢咲
掲載日:2026/09/20

もう二度と同じ過ちは繰り返さない。

そう誓ったはずなのに……

今度こそお前を闇堕ちさせてやる

思い出したくない記憶が鮮明にフラッシュバックする。


あの日の雨の感触、冷たくなった舞子の手、そして彼女の命を奪った事故の理不尽さが、脳裏の奥底から這い上がってくる。

「お疲れ〜。柿崎。まだ残ってたのか」

声をかけてきたのは、捜査一課の班長である堂島だった。手には缶コーヒーを持っている。

「班長、お疲れ様です。まだ仕事残ってて……」

俺は刑事をしている。ある事件の真実を知るために。

表向きは不慮の事故と片付けられたあの出来事だが、俺にはどうしても信じられない疑念があった。舞子の死は、本当にただの不運だったのか。それとも、あの男が隠蔽した組織的な闇の産物だったのか。

デスクの上の調書から目を離し、冷め切った緑茶を一口飲む。胃のあたりが重く痛むが、ここで立ち止まるわけにはいかない。復讐なのか正義なのか、自分でも境界線が曖昧になりつつある思考を振り払い、俺は再びパソコンの画面に向き合った。


「早く上がれよ。奥さん待ってるだろ?」

堂島はそう言いながら、デスクの端に置かれた俺のマグカップに視線をやった。そこには、妻のむつみが結婚祝いにくれたペアのカップが寂しく鎮座している。

「ありがとうございます。今日の進捗報告書と、昨日の現場検証の調書を電子システムにアップしたら上がりますんで。お疲れ様です」

「おう、無理すんなよ。最近、お前の班の事件、妙に上からのストップがかかるからって根詰めすぎだ。体壊したら元も子もないからな」

堂島が気遣わしげに肩を叩いて去っていく。その背中が見えなくなると、俺は静かに息を吐き出し、未決事件の捜査資料フォルダを開き直した。

画面に並ぶのは、舞子の事故に関する調書と、現在追っている不可解な殺人事件のデータだ。どちらも、警察組織の分厚い壁に阻まれている。

スマホの画面が光った。むつみからのメッセージだ。

『お疲れ様。夕飯、温め直すから気をつけて帰ってきてね』

その優しさが、今の俺には酷く重かった。

「……ごめんな、むつみ」

声に出さずにつぶやきながら、俺はキーボードを叩く手を早めた。すべてを暴き出すまでは、温かい家庭の食卓に座る資格すらない気がしていた。


事件が起きたのは、ちょうど三年前の今日。付き合い始めてから丸三年の記念日だった。

念願だった捜査一課の刑事拝命から数ヶ月。激務にかまけてろくに向き合えなかったが、今日こそはすべてを終わらせて、彼女にプロポーズするつもりだった。これでやっと、平穏で幸せな日常が始まると本気で信じていた。

――あの日の午後、捜査資料の山と格闘していた俺の携帯がけたたましく鳴り響いた。管轄の交番からの内線だった。

「柿崎巡査長ですか。……至急、現場に向かってください。ひき逃げ事案です。被害者の所持品から身元を確認したところ、スマートフォンのロック画面にあなたのお姿が……」

頭の中が真っ白になった。心臓の音がうるさいほどに早鐘を打つ。足元が揺らぐ感覚を無理やり抑え込み、無我夢中でパトカーを飛ばした。

現場の交差点には、すでに赤色灯が回転していた。冷たい雨がアスファルトを濡らし、遠くで救急車のサイレンがくぐもって聞こえる。

規制線の内側に滑り込んだ俺の目に飛び込んできたのは、無残にひしゃげた一台の自転車と、ロードの路面に崩れ落ちるように倒れている小さな影だった。

「舞子……っ!」

名前を叫びながら駆け寄り、ずぶ濡れのコンクリートに膝をつく。彼女の身体は信じられないほど冷たかった。微かに開いた瞳が、ぼんやりとこちらを捉える。

「舞子、舞子!しっかりしろ!救急車はまだかっ……!」

「ゆ、うま……?」

かろうじて聞き取れるほどの、か細い声だった。

「あぁ!俺や、ここにいる!」

震える手で彼女の冷え切った両手を包み込む。舞子は痛みに耐えるように眉を寄せ、しかしどこか安堵したような、微かな笑みを浮かべた。

「優真が……狙われなくて、よかった……。だいすき……」

「は……?何言ってるんや、舞子?どういうことや、それ……っ!」

思考が追いつかない。頭を殴られたような衝撃の中、舞子の意識が急速に遠ざかっていくのがわかった。

「ねぇ……好きって言って……?」

「大好きやよ!ずっと、これからもずっと大好きや!だから目を開けろ、舞子!」

だが、彼女の口元から力が抜け、ついにその手がポトリとアスファルトに落ちた。

ポケットの奥には、冷たくなった指輪のケースが硬い感触として残ったままだった。結局、それを彼女に渡すことは、一生できなくなってしまった。


それから三年が経っても、あの事件を追う足を止めることはできなかった。あれはただの不慮の事故なんかやない。ブレーキ痕のないタイヤの軌跡、直前にかかった不審な電話、そして「狙われなくてよかった」という舞子の最期の言葉。すべてが、仕組まれた殺人事件であることを物語っている。

真犯人は必ずいる。そう歯噛みしながら、重い足取りで帰路についた。

「ただいま」

リビングに足を踏み入れると、出迎えてくれたのはむつみだった。

生まれつきの障がいにより、むつみは電動車いすで生活している。家の中の動線や、ベッドへの移乗など、俺の手助けが欠かせない身体だった。

絶望の底に沈んでいた事件のあと、荒れ果てた俺を献身的に支えてくれたのが、高校の同級生であるむつみだった。彼女とこうして家庭を築いているというのに、俺の心は今もなお、三年前の夜に置き去りにされたままだ。

夕食を静かに済ませたあと、片付けをする俺の背中に、むつみの穏やかな声がかけられた。

「これ……今日、書斎の引き出しの奥から見つけたの。……舞子さんに渡す予定だったやつ、だよね」

振り返ると、むつみの小さな手が、一冊の古い手帳の上に置かれた小さなベルベットのケースを指し示していた。あの夜、俺がポケットにしまい込み、そのまま忘れていたはずの婚約指輪だった。

「……見つかったか」

喉の奥が引きつり、掠れた声しか出ない。むつみは目を伏せ、車いすのひじ掛けをそっと握りしめた。

「私、知ってるよ。まだあの事件、一人で追ってるんでしょ?」

「……ごめん」

「謝らないで。私、優真がそんなに苦しんでるの見たくなかった。障がいのある私がこんな気持ちになったら、重荷になるだけだってわかってた。でも、優真が傷つきながらも必死に前を向こうとする姿を見て……いつの間にか、好きになってたんだよ」

むつみは震える瞳をまっすぐに向け、一言一言を噛み締めるように言った。

「舞子さんのこと、忘れなくていい。私を好きじゃないってことも、わかってる。だから、好きにならなくていいの。ただ、あなたの傍で支えさせて? それだけじゃダメかな……」

その健気すぎる告白に、胸が締め付けられるように痛んだ。彼女は何も悪くないのに、俺のせいで罪悪感を抱えさせてしまっている。

「そんなことない!」

思わず声を荒らげ、俺はむつみの車いすの前に膝をついた。冷たくなった指輪ケースから目を逸らし、彼女の細い両手を自分の両手でしっかりと包み込む。

「そんなことないよ、むつみ。……俺は、むつみが好きやよ。お前の優しさに何度も救われてきた。だから、一人で抱え込ませないでくれ」

嘘偽りのないその言葉に、むつみは驚いたように目を見張り、やがて大粒の涙をこぼしながら、子供のように嬉しそうに微笑んだ。

だが、その温もりを噛みしめながらも、俺の脳裏の片隅では、冷たい雨の夜の記憶と、まだ見ぬ真犯人の影が黒々しく渦巻いていた。

それから数週間後、捜査一課の執務室の空気が一段と重くなった頃だった。

非公式で舞子の事件の調書を洗っていた俺は、班長の堂島に給湯室へ呼び出された。狭い空間に、缶コーヒーの甘い香りと緊迫した沈黙が漂う。堂島は壁に背中をもたせかけ、冷ややかな視線を俺に向けた。

「もう私的にあの事件を追うのはやめろ。上からの圧力だ。これ以上深掘りすれば、お前の刑事人生だけじゃ済まない。……もう終わった話や」

その冷たい宣告に、胸の奥で燻っていた怒りが一気に沸騰する。隠蔽されているという確信が、怒りを通り越して冷徹な決意に変わっていた。俺は目を逸らさず、堂島を真っ直ぐに見据えた。

「俺は追いますよ?」

「……馬鹿が。お前のその正義感が、いつか自分だけでなく、大切なものまで全部台無しにするぞ」

堂島はそれ以上何も言わず、飲みかけの缶コーヒーをゴミ箱に放り込んで去っていった。警告なのはわかっている。だが、引き下がる気など最初からなかった。上層部が隠そうとする何かがあるからこそ、ここに真実が眠っている。

夜遅く、静まり返った自宅のリビングに戻ると、電動車いすの充電器をつないでいたむつみが振り返った。俺の疲れ果てた顔を見て、彼女は言葉を発せずともすべてを察したようだった。

「なぁ、むつみ……上からもう追うなって言われたわ……」

コートを脱ぎながら、ため息まじりにそうこぼす。むつみは車いすのコントローラーに置いた手を離し、ゆっくりとこちらを向いた。その瞳には、不安の色と、それを押し隠すような強い光が宿っていた。

「私は応援してるよ……。隠されたままじゃ、優真の心がずっとあの雨の夜のままになっちゃう。だから、真実を暴いてほしい。……こんなこと言うのは怖いし、危ない目にあってほしくないって気持ちもある。けど、信じてるから。優真のこと」

その言葉が、凍りつきそうになっていた俺の心を温かい光で満たしていく。愛する妻の優しい背中を押されるように、俺は再び、あの闇の核心へと踏み出す決意を固めた。


とある平日の午後、むつみが駅前のスーパーで買い物をしていた時のことだった。

新鮮な野菜を選ぼうと棚に手を伸ばした瞬間、背後から音もなく何者かが忍び寄る。次の瞬間、鼻と口を分厚い手で乱暴に塞がれた。悲鳴を上げる間もなく、嗅ぎ慣れない薬品の匂いが鼻腔を突く。視界が急速に歪み、むつみの身体から力が抜け落ちていった。

同時刻、捜査一課の執務室で次の捜査資料に目を通していた俺のスマホが、激しく振動した。

画面に表示されたのは「非通知設定」。嫌な予感が全身を駆け抜け、俺は慌てて通話ボタンを押した。

「……もしもし」

『――柿崎 優真。お前の嫁は預かった』

低く歪められた電子音声だった。心臓を直接握りつぶされたような強烈な悪寒が走る。

「むつみかっ……! お前、むつみに何をした……っ!」

『フッ、元気な声だ。だが、長くはもたんぞ』

「待て! むつみは生まれつき障がいがあって、一人じゃ動けないんだ……! 人質になんて耐えられる身体じゃない、頼むから傷つけるな……! 声を聞かせろ、むつみに代われ!」

受話器越しに、むつみの苦しげな息遣いや、わずかに衣擦れする音が微かに聞こえた気がした。だが、すぐに男の冷笑によってかき消される。

『声を聞きたければ、条件をのめ。身代金は一億だ。それとな、お前の元カノのデータを持ってこい。……なぁ、知ってるか? あの事故の裏側を。俺はお前の元カノをやったんだよ』

脳裏で、三年前の雨の夜がフラッシュバックする。

あのひき逃げは、偶然なんかじゃなかった。すべての元凶が、今、目の前で俺を嘲笑っている。

「てめぇ……っ!」

『もう一度、底無しの絶望に堕ちろ。首を洗って待ってろ、刑事さんよ』

プツリ、と冷酷な電子音が響き、通話が切れた。

スマホを握りしめる手が、怒りと恐怖で激しく震えていた。

電話を切った瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。だが、すぐに刑事としての血が冷徹な思考を取り戻させる。迷っている暇はない。俺は受話器を放り出し、執務室の真ん中で声を張り上げた。

「全員、手を止めろ! 緊急事態だ!」

突如怒鳴り声を上げた俺に、課内の空気が凍りつく。班長の堂島がすぐに席から立ち上がり、険しい顔で歩み寄ってきた。

「どうした、柿崎。大声出して」

「誘拐です……俺の妻のむつみが、あの男に連れ去られました。先ほど非通知で脅迫電話が入ったんです」

堂島の顔色が変わる。周囲の同僚たちも息を呑んだ。俺は息を継ぐ間もなく、冷め切った声で命令を下した。

「署長への報告、および本部の特殊犯捜査係(SIT)の出動要請を急いでください。それと……」

言葉を区切り、俺は拳を強く握りしめた。

「俺の指示に従え! 一億用意しろ!」

「おい、正気かよ! 一億の現金なんて、個人ですぐに用意できる額じゃないぞ!」

堂島が制止しようと声を荒らげるが、俺は一歩も引かなかった。

「あの男は舞子の事件の真犯人だ。むつみを人質にして、俺を再び絶望の底に突き堕とそうとしている。警察の正規の手続きじゃ間に合わないかもしれない……俺がすべて一人で背負うわけにはいかないんだ。協力してくれ、班長!」

俺の鬼気迫る表情に、堂島は数秒間押し黙ったが、やがて鋭く息を吐き出してうなずいた。

「わかった……上には俺から掛け合う。だが、単独行動は許さん。総力を挙げてお前の妻を取り返すぞ」

仲間たちの目が変わる。組織の壁を越え、真犯人を討ち、むつみを救い出すための反撃の歯車が、音を立てて回り始めた。

指示通り、堂島を筆頭にした捜査一課の仲間たちが素早く動き出した。非通知電話の逆探知は、やはり巧妙にプロキシを噛まされていたため難航したが、通話のわずかなノイズから背後に微かに聞こえる環境音の解析が進められていた。

「柿崎、音響解析班から連絡があった。風の音と、特徴的な汽笛の音……港湾地区にある廃コンテナヤードのどこかだ。範囲を絞り込んでる」

堂島が無線機を片手に俺のデスクへと駆け寄る。俺はポケットに隠し持った手帳を確認し、血走った目でうなずいた。

「わかりました……指定された身代金と、あの事件の捜査データを入れたタブレットをバッグに詰めます」

「待て、柿崎。一人で行く気か? 相手の狙はお前を再び闇に堕とすことだ。罠に決まっている」

止めようとする堂島を、俺は強い決意を込めた眼差しで制した。

「一人で行くとは言ってません。ですが、まずは俺が奴の前に現れなければ、むつみが危ない。……皆さんには、俺の動きに合わせて周辺を完全包囲してもらう。突入のタイミングは俺の合図だ」

無線イヤホンを耳に装着し、音声通話の回線を班の全員と共有する。準備は整った。

愛するむつみを奪還し、そして三年越しの悪夢に決着をつけるため、俺は指定された漆黒の闇が広がる港湾地区へ向けてアクセルを踏み込んだ。


冷たい海風が吹き抜ける廃コンテナヤードの闇の中で、錆びた鉄の壁が不気味に影を落としていた。

無造作に縛り上げられ、冷たいコンクリートの上に座らされているむつみの姿が目に入った瞬間、血管が沸騰するような激しい怒りが全身を駆け巡った。

「警察だ! 動くな!嫁を返せ!」

俺は声を張り上げながら、銃をしっかりと両手で構え、一歩一歩男との距離を詰めていく。背後の死角には、無線で指示を受けた一課の仲間たちが完全に包囲網を敷いているはずだった。

「来るな! そこから一歩でも動いてみろ、この車いすの女の首にナイフを入れるぞ!」

男は不敵な笑みを浮かべながら、むつみの細い首元に冷たい刃物をピタリと押し当てた。恐怖で顔を青ざめさせながらも、むつみは必死に涙をこらえている。

「分かった、落ち着け……! 無理やり動いたりしない。だから、その刃物をどけろ!」

俺は息を呑み、足元に持ってきたボストンバッグを乱暴に放り投げた。

「ご所望のものはちゃんと持ってきてやったよ! 身代金の一億と、三年前の捜査データだ。約束通り、むつみを解放しろ!」

男は足元に転がったバッグをチラリと見下ろし、歪んだ笑みをさらに深くした。

「よくやったな、刑事さんよ。……なぁ、柿崎、お前、なんで元カノをやったかわかるか? そんな正気ぶったきれいな顔をしてるからだよ。警察組織なんてクソ食らえだ、お前のその正義感が許せないんだよ!」

「なんだと……すべてお前の仕業だったのか!」

「その車いすの女? 動けないし、ろくに抵抗もしないし、人質にするにはちょうどよかったよ。お前が絶望する顔をもう一度見るのが、最高に楽しみでな」

「優真、来ないで……! 私のことはいいから、早く……っ!」

むつみが震える声で叫んだその瞬間、男の目が狂気に満ちた光を放った。

「もう一度、闇に堕ちろ!」


――バンッ!


――乾いた銃声が、夜のコンテナヤードに鋭く響き渡った。

「むつみ――っ!」

男が引き金を引いた瞬間、俺は迷わず身を挺して飛び出した。鈍い衝撃と熱さが肩をかすめたが、そんなものはどうでもよかった。崩れ落ちるむつみを、俺は間一髪でその腕の中に抱きかかえた。

「ゆうま……ごめんね……また……悲しい思い、させるね……」

むつみの白い衣服が、急速に広がっていく赤い血に染まっていく。腹部からあふれる温かい液体が、俺の手を濡らした。

「しっかりしろ! おい、誰か救急車を呼べ! お願いや、目を閉じるな、むつみ……!」

「ううん……優真のそばにいられて……本当に幸せだったよ……だいすきだよ……」

震える小さな手が、俺の頬にそっと触れようとして、そのまま力なく力尽きた。

「俺もや……! 大好きやで、むつみ! だから頼むから……死なないでくれ……!」

その言葉に返事はなかった。むつみの手が、冷たくダラリとコンクリートに垂れ下がる。

頭の中で、何かがプツリと音を立ててちぎれた。怒号も、周囲の声も、すべてが消え去る。視界が真っ赤な怒りに染まった。

「お前……絶対に、許さん……!」

這い上がろうとする犯人に向け、俺は獣のような咆哮を上げながら、怒りのままに突進し、その巨体をねじ伏せるべく飛びかかった。


「柿崎さん、むつみさんの心臓マッサージは私がします! 柿崎さんは犯人を!」

突入してきた若い同僚の必死の声が、凍てつく夜の空気を壊した。彼女は迷うことなくむつみの傍らに飛び込み、震える両手をその胸元に重ねる。

「むつみさん、聞こえますか……! 優真さんは今、あなたのために戦っていますよ! だから、だから生きてください……!」

懸命に声を張り上げながら胸骨を圧迫する同僚に、俺は張り裂けそうな心を押し殺し、むつみを預けて立ち上がった。視線の先で、銃を落として這いつくばる男の背中へと迷わず飛びかかる。

「逃がすか……!」

俺は男の胸ぐらを荒々しく掴み上げ、錆びついたコンクリートの壁へと力任せに叩きつけた。

「がっ……!」

「よくも……よくもむつみを……!」

全体重を乗せて奴をねじ伏せる俺の耳に、無線イヤホンから緊迫した救護班の声が飛び込んできた。

『こちら現場救護班! むつみさん、心肺停止……! 脈拍確認できず……!』

「嘘や……そんなはず……!」

『だめでした……! 心音戻りません!』

頭をハンマーで殴られたような衝撃が走り、視界が真っ暗に歪む。

三年前の雨の夜、舞子を失った絶望が、再び津波のように押し寄せてきた。俺を愛し、すべてを支えてくれたむつみまでが、俺のせいで奪われた。

「あぁ……ああああっ!」

男の胸倉を掴む腕に、狂気じみた力がこもる。涙と怒りで声が掠れ、喉の奥から血の味がした。

「嫁は死んだよ……! 俺から、これ以上すべてを奪うな……! 舞子も、むつみも……俺の人生からどんだけ奪ったら気ぃ済むねん!」

「ひっ……! 殺される、助けてくれ……!」

涙を流しながら咆哮する俺の下で、犯人は恐怖に引きつった顔を青ざめさせ、ガタガタと震えながら命乞いの声を漏らすことしかできなかった。


「もういい……これ以上、お前と話すことはない」

涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、俺は絞り出すような声で言った。

「あとは署で、たっぷりと聞かせてもらう……」

そう言い放つと、俺は力の限りに男の腕を捻り上げ、冷たい手錠をその両手首にガチャンと叩きつけた。

周囲では他の捜査員たちが犯人の身柄を取り押さえ、サイレンを鳴り響かせたパトカーが何台も到着して周囲を赤く染め上げていく。だが、そんな喧騒は今の俺の耳には一切届かなかった。

俺は男から離れると、魂が抜けたような足取りでむつみのもとへと戻り、崩れ落ちるように膝をついた。

「むつみ……」

冷たくなりかけた小さな体を再び抱きしめる。もう二度と、あの温もりが戻ることはない。

夜空を見上げても、冷たい雨の代わりにただ冷たい海風が吹き抜けるだけで、俺の心は二度の喪失によって完全に破壊し尽くされていた。


パトカーの赤色灯が、冷たいコンクリートの地面と錆びたコンテナを妖しく照らし出していた。

俺は手錠をかけられた男を一瞥したあと、魂の抜けたような足取りでむつみのもとへと戻り、その冷たくなりかけた小さな体を再びしっかりと抱きしめた。

「むつみ……」

何度名前を呼んでも、もう二度と「おかえり」と優しい声が返ってくることはない。彼女の頬に触れた指先から伝わってくるのは、徐々に失われていく体温の冷たさだけだった。

周囲では他の捜査員たちが慌ただしく動き回り、救急隊員がストレッチャーを押して駆け寄ってくる足音が聞こえる。だが、そんな喧騒は今の俺の耳には一切届かなかった。

三年前は舞子を失い、そして今度は、俺を支え続けてくれたむつみまでをも失った。

胸の奥にぽっかりと開いた穴はあまりにも深く、夜空に吹き抜ける冷たい海風が、壊れ切った心をただ虚しく通り抜けていった。


救急隊員たちが駆け寄り、ストレッチャーの上にむつみを乗せていく。白い布がその小さな体を覆っていくのを、俺はただ立ち尽くしたまま見送ることしかできなかった。

「柿崎さん……」

同僚が心配そうに肩に手を置こうとするが、その声も遠くの汽笛の音のようにぼんやりとしか聞こえない。俺の手のひらには、むつみの温もりではなく、冷たくなっていく血の感触だけが生々しく残っていた。

すべてが終わった。

復讐を果たしたところで、奪われた命が戻ってくるわけではない。舞子を失い、そして俺を救ってくれたむつみまでをも失ったこの手には、もう何も残っていなかった。

パトカーのドアが閉まる音が、夜の静寂を重く切り裂く。

俺は崩れ落ちそうな足をどうにか踏みしめ、ただ虚ろな目で、赤色灯が照らす暗いアスファルトを見つめ続けた。


連行された犯人は、すぐに取調室へと押し込まれた。

無機質なコンクリートの壁と、眩しすぎるほどの蛍光灯が照らす密室。机を挟んで向かい合った俺の目は、血走り、冷徹な光を帯びていた。取り調べの記録係が緊張した面持ちで控える中、俺は黙ったままパイプ椅子に腰掛け、目の前でうなだれる男をじっと睨みつける。

「……名前は?」

低い、底冷えするような声だった。男はびくりと肩を震わせ、浅い呼吸を繰り返しながら、おずおずと顔を上げた。

「……三好、誠一……」

「三好。……よくも、やってくれたな」

俺は机の上に叩きつけるように、分厚い捜査資料のファイルを置いた。

「お前が三年前、舞子をひき逃げした。そして今度は、俺の妻であるむつみを標的にした。……すべて話してもらうぞ。最初から最後までな」

「ひっ……!」

男は俺の殺気に圧倒され、椅子から転げ落ちそうになりながらガタガタと震えた。

「しゃ、喋る! なんでも喋るから……殺さないでくれ……!」

「殺さんよ。だが、お前が生きて裁きを受ける以上の地獄を、これから味あわせてやる」

俺は低い声で告げ、ペンのノック音を鳴らした。三年の歳月を経て、ついに暴かれた闇の真相。そのすべてを吐き出させるための取り調べが、静かに、しかし容赦なく始まった。


取調室の冷たい蛍光灯の下で、三好は怯えたように両手を震わせていた。

「すべて話す……だから、これ以上俺に近づかないでくれ……!」

「始めろ。なぜ舞子を狙った。なぜあの事故を起こしたのかをな」

俺が低い声で促すと、三好は唾を飲み込み、おずおずと口を開いた。

「……あれは、偶然じゃない。お前が捜査一課に上がってすぐ、俺が関わっていた裏賭博のヤマを嗅ぎつけただろ。あの時、お前を脅すために、一番身近にいた女を狙ったんだ……」

「なんだと……俺への見せしめのために、舞子を……っ!」

怒りで拳が握りしめられ、机がきしむ音がした。三好は怯えながら言葉を続ける。

「そうだ……車で撥ねたあと、お前のスマホにわざわざ連絡を入れた。お前が絶望する顔を見たかったからな。……なのに、お前は諦めずにずっと俺の影を追いかけてきやがった。だから今度は、あの車いすの女を使って、お前を完全に潰してやろうと思ったんだよ……」

「ふざけるな……!」

俺は立ち上がり、机を激しく叩いた。三好は頭を抱えて縮み上がる。

三年前のあの雨の夜の絶望も、そして今日、目の前でむつみの命が奪われた悲しみも、すべてはこの男の私欲と身勝手な逆恨みによるものだった。

「お前のやってきたことの重さを、一生かけて刑務所の壁の向こうで思い知れ」

冷徹にそう告げると、俺は取調室の扉を荒々しく開けて外に出た。

すべての真相は暴かれた。だが、二度と戻らない二人の笑顔が脳裏から消えることはない。俺は復讐を終えた刑事として、しかし心にぽっかりと開いた深い穴を抱えたまま、重い足取りで薄暗い廊下を進んでいった。

調室を出た俺の足取りは、鉛のように重かった。廊下の窓から差し込む朝の光はどこまでも冷たく、三年前のあの雨の夜の暗さを思い起こさせる。

事件は解決した。真犯人である三好は法廷の裁きを受け、二度と社会に戻ることはないだろう。だが、失われた命が戻るわけでも、俺の胸に開いた穴が塞がるわけでもなかった。

デスクに戻ると、そこにはむつみが手入れしていた電動車いすが、静かにたたずんでいた。そしてその傍らには、あの日から時が止まったままの小さな指輪のケースが置かれている。

舞子を失い、そしてむつみまでをも失った。

正義を貫く刑事として生きると誓ったはずなのに、俺の手元に残ったのは、あまりにも大きすぎる喪失感だけだった。

俺は椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆う。

静まり返った執務室の中で、ただ時計の秒針の音だけが、冷たく残酷に時を刻み続けていた。

数日後、すべての調書がまとまり、事件は検察へと送られた。三好の犯行は裏付けられ、法的な決着はついた。

誰もいない自宅のリビングに帰ると、そこにはむつみが使っていた電動車いすがぽつんと置かれていた。ひじ掛けのあたりに、いつも彼女がかけていた小さなブランケットがそのまま残っている。

俺はそこに歩み寄り、膝をついた。

「ただいま、むつみ」

もちろん、返事はない。

あの日の夜、血に染まりながら「幸せだったよ」と笑ったむつみの声が、頭から離れない。三年前の舞子との別れも、そして今回のむつみとの別れも、すべて俺が刑事として真実を追い求めた代償だったのだろうか。そんな自問自答が、果てしなく胸を締め付ける。

ポケットから、あの日の指輪のケースを取り出す。

開けると、三年前から変わらない輝きを放つリングが静かに収まっていた。舞子に渡せなかったこの指輪を、いつの間にかむつみが引き出しの奥で見つけていたあの日の夜の表情を思い出す。

俺は指輪をそっとケースから取り出し、むつみの車いすの座面に優しく置いた。

失ったものはもう戻らない。二人の女性の命の上に自分の日常が成り立っているという現実を背負いながら、俺は顔を上げ、窓の外の青空を見つめた。

もう二度と大切な人を奪わせない。そして、この胸に空いた深い穴を抱えたまま、それでも俺は刑事として、明日を生きていくしかなかった。

季節が巡り、署の窓から見える木々の緑が濃くなる頃には、事件の喧騒も遠のき、日常の静けさが戻っていた。

俺は相変わらず捜査一課の机に座り、山積みの事件資料と向き合っている。あの地獄のような日から、俺は一層仕事に没頭するようになった。それが贖罪なのか、あるいは現実逃避なのか自分でもわからない。ただ、手を止めればあの二人の笑顔と最期の声が頭を支配してしまうから、そうするしかなかった。

ふとデスクの隅を見ると、未決事件のファイルの上に、ふたつの写真立てが置いてある。どちらの傍らにも俺がいる。

笑い合う舞子と、優しく微笑むむつみの写真。二人とも、もうこの世にはいない。

俺はペンを置き、写真立てにそっと手を伸ばした。

「……行ってくるわ」

誰にともなくそう呟き、俺は立ち上がる。

失ったものの重さを胸の奥底に刻み込みながら、俺は今日も、背負った十字架と共に刑事としての道を歩み続ける。正義のためではない、彼女たちが愛してくれたこの世界で、これ以上大切なものを奪わせないために。


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