表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

沈むものは、いつも静かだ。

音もなく、声もなく、ただ重さに従って落ちていく。


太陽は燃え尽きるように沈み、

月は影を連れて沈み、

虫は羽を閉じて沈み、

そして地球さえも、深い闇へと沈んでいく。


水面は嘘をつく。

そこに何もなかったかのように、なめらかに閉じてしまう。

沈んだ者の名も、形も、二度と浮かびはしない。


あなたの足首にも、もう冷たい重みが絡みついている。

それでも――まだ呼吸ができるうちは、沈んでいることに気づけない。

「蟷螂」


月明かりに照らされた湖面から、ゆっくりと何かが姿を現した。

それは人間の背丈を優に超える巨大な蟷螂だった。

薄い翅が水を滴らせ、鎌のような前肢は、まるで祈るような形で胸の前に折りたたまれている。


だが、その鎌は祈りのためではなく、切断のために作られていた。

水から上がった瞬間、刃先が微かに光り、湖面に映る自分の顔を両断した。

水面に浮かんだ美咲の影は、真っ二つに裂け、血のような暗い色が広がっていく。


リクが逃げようと動いたが、またしても金縛りが全身を支配した。

蟷螂は音もなく近づき、リクの喉元に鎌を添える。

その動きは、まるで花びらを切り落とすように優雅で――同時に残酷だった。


次の瞬間、リクの首は水面に落ち、泡と共に沈んでいった。

胴体からは温かい赤が溢れ、湖はゆっくりとその色を飲み込んでいく。


蟷螂の複眼が美咲を捕らえる。

その瞳は、無機質で、何の感情もない。

ただ「動くものを捕らえる」という、生物としての本能だけがそこにあった。


美咲の足首に冷たい指のようなものが絡みつき、湖底へと引きずり始めた。

水面が頭上に遠ざかる中、蟷螂の巨大な顔が迫り、顎がかすかに開いた。

そこから滴り落ちるのは水ではなく――半消化の人間の眼球だった。


『逃げ場は、もうない』


その声が脳に直接響いた瞬間、美咲の意識は闇に沈んだ。


「蜘蛛」


美咲の視界は揺れていた。

水面の上だと思っていた場所は、よく見ると細い銀色の糸で覆われている。

それは月光を受けて淡く光り、湖全体が巨大な蜘蛛の巣に変わっていた。


糸は水面だけでなく、空中にも、湖底にも張り巡らされている。

水滴のようなものが糸に並んでいた――だが近づいてみれば、それは人間の眼球だった。

すべてが濡れたまま見開かれ、美咲の動きを追っている。


金縛りが再び全身を締めつける。

足先から何かが這い上がってくる感触――それは、細い脚が八本。

やがて水面から現れたのは、人間の胴体に蜘蛛の下半身を持つ異形の存在だった。

腰から下は黒光りする毛に覆われ、腹部は無数の小さな鼓動で膨らんでいる。


その顔は、美咲のかつての親友だった。

笑っているが、口元から糸が垂れ、顎の内側で何かが蠢いている。


「動かないで…すぐ楽にしてあげる」


そう囁いた瞬間、八本の脚が美咲を囲み、全身に糸が巻きついた。

糸は濡れて重く、締めつけられるたびに肺の中の空気が押し出される。

リクが助けようと手を伸ばしたが、その腕ごと糸に絡まり、瞬く間に湖底へ引きずり込まれていった。


やがて、美咲も頭から水中へと沈む。

湖底には、繭のように糸に包まれた無数の人影が漂っていた。

どれも口を開けたまま、泡を漏らし続けている。


最後に、美咲の顔の前まで親友の蜘蛛が近づき、腹部を裂いた。

中から溢れ出したのは、無数の白い小蜘蛛たち。

それらが美咲の鼻と口から入り込み、肺の中で動き出した瞬間――

視界は完全に暗転した。


「雀蜂」


湖面が、無数の波紋で覆われていく。

初めは雨かと思った。だが、それは羽音だった。

低く唸るような振動が空気を裂き、次第に耳の奥に響く。


月明かりの下、水面すれすれに現れたのは巨大な雀蜂の群れ。

それぞれの体長は人間の前腕ほどもあり、複眼は真紅に光っている。

黒と黄の縞が水滴を弾き、鎌のような顎がカチカチと鳴っている。


美咲は本能的に逃げようとしたが、またしても金縛りが襲った。

足は水中に沈み、腕は石のように硬直して動かない。

そこへ、一匹の雀蜂が頬に止まり、ゆっくりと針を突き立てた。


焼けるような痛みが顔全体に広がる。

刺された箇所から紫色の脈が浮かび上がり、それが血管を伝って首、胸、腹へと侵食していく。

息が詰まり、視界の端でリクが喉を押さえてもがいているのが見えた。

彼の顔はすでに腫れ上がり、目の中の白目部分まで黄色く濁っている。


蜂たちは次々と水面に突き刺さるように降下し、美咲たちの体に群がった。

耳、鼻、口――あらゆる穴という穴に潜り込み、体内に毒を送り込む。

美咲の腹の中で何かが蠢き、皮膚の下を走り回っている感触が広がった。


空から舞い降りた女王蜂は、人間の上半身を持ち、笑みを浮かべていた。

その口元からは甘い花の香りと、腐った肉の匂いが同時に漂う。


「もうすぐ、巣になるわ」


そう囁くと、女王蜂は美咲の口に針を深く差し込み、体内へ卵を注ぎ込んだ。

視界が霞み、最後に見えたのは、月を覆い尽くすほどの蜂の群れだった。

その羽音が、遠くで雷鳴のように響き続けていた。


「硬直な女性」


湖畔に、一人の女性が立っていた。

背筋を真っ直ぐに伸ばし、腕を体の横にぴたりと付け、全く動かない。

白いワンピースは湿って肌に張り付き、月明かりを反射して青白く光っている。


美咲は呼びかけようとした。

だが声を出す前に、全身が鉛のように重くなった。

まただ――金縛り。

それも今までとは違い、骨の一つひとつまで凍りついたような感覚だった。


女性はゆっくりと首だけをこちらへ向けた。

その動きは骨が軋む音を伴い、ぎこちない。

顔には何の感情もなく、ただ唇だけがわずかに開いた。


「……かわいそうに」


その声は水の中から聞こえるようにくぐもっていた。

次の瞬間、美咲の足元の水が盛り上がり、冷たい指が両足首を掴んだ。

硬直した女性は歩いてもいないのに、距離が詰まってくる。

彼女の影が湖面を滑るように伸び、美咲の胸元まで這い上がった。


影が触れた部分から、皮膚が硬化していく。

腕、肩、首――まるで生きたまま石像になっていくようだ。

呼吸が浅くなり、肺も凍りつく。


目の前で女性は完全に美咲の間合いに入り、その瞳を覗き込んだ。

瞳孔の奥では、小さな自分が硬直して動けず、無限に繰り返し叫び続けているのが見えた。


最後に女性は、口角をわずかに上げた。

そして、美咲の意識は、完全に固まった闇の中へと沈んでいった。




すべてが沈んだあと、

水底には別の世界があった。


光は届かず、時間は止まり、

声は泡となって消える。

けれど、そこには目を閉じたままの者たちが無数に漂っていた。

彼らは夢を見ている。

沈む前の、最後の瞬間の夢を。


あなたがこの本を閉じても、

沈み続ける世界は終わらない。

次に沈むのがあなたであっても、

水面は、何事もなかったように静かに揺れるだろう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ