④
沈むものは、いつも静かだ。
音もなく、声もなく、ただ重さに従って落ちていく。
太陽は燃え尽きるように沈み、
月は影を連れて沈み、
虫は羽を閉じて沈み、
そして地球さえも、深い闇へと沈んでいく。
水面は嘘をつく。
そこに何もなかったかのように、なめらかに閉じてしまう。
沈んだ者の名も、形も、二度と浮かびはしない。
あなたの足首にも、もう冷たい重みが絡みついている。
それでも――まだ呼吸ができるうちは、沈んでいることに気づけない。
「蟷螂」
月明かりに照らされた湖面から、ゆっくりと何かが姿を現した。
それは人間の背丈を優に超える巨大な蟷螂だった。
薄い翅が水を滴らせ、鎌のような前肢は、まるで祈るような形で胸の前に折りたたまれている。
だが、その鎌は祈りのためではなく、切断のために作られていた。
水から上がった瞬間、刃先が微かに光り、湖面に映る自分の顔を両断した。
水面に浮かんだ美咲の影は、真っ二つに裂け、血のような暗い色が広がっていく。
リクが逃げようと動いたが、またしても金縛りが全身を支配した。
蟷螂は音もなく近づき、リクの喉元に鎌を添える。
その動きは、まるで花びらを切り落とすように優雅で――同時に残酷だった。
次の瞬間、リクの首は水面に落ち、泡と共に沈んでいった。
胴体からは温かい赤が溢れ、湖はゆっくりとその色を飲み込んでいく。
蟷螂の複眼が美咲を捕らえる。
その瞳は、無機質で、何の感情もない。
ただ「動くものを捕らえる」という、生物としての本能だけがそこにあった。
美咲の足首に冷たい指のようなものが絡みつき、湖底へと引きずり始めた。
水面が頭上に遠ざかる中、蟷螂の巨大な顔が迫り、顎がかすかに開いた。
そこから滴り落ちるのは水ではなく――半消化の人間の眼球だった。
『逃げ場は、もうない』
その声が脳に直接響いた瞬間、美咲の意識は闇に沈んだ。
「蜘蛛」
美咲の視界は揺れていた。
水面の上だと思っていた場所は、よく見ると細い銀色の糸で覆われている。
それは月光を受けて淡く光り、湖全体が巨大な蜘蛛の巣に変わっていた。
糸は水面だけでなく、空中にも、湖底にも張り巡らされている。
水滴のようなものが糸に並んでいた――だが近づいてみれば、それは人間の眼球だった。
すべてが濡れたまま見開かれ、美咲の動きを追っている。
金縛りが再び全身を締めつける。
足先から何かが這い上がってくる感触――それは、細い脚が八本。
やがて水面から現れたのは、人間の胴体に蜘蛛の下半身を持つ異形の存在だった。
腰から下は黒光りする毛に覆われ、腹部は無数の小さな鼓動で膨らんでいる。
その顔は、美咲のかつての親友だった。
笑っているが、口元から糸が垂れ、顎の内側で何かが蠢いている。
「動かないで…すぐ楽にしてあげる」
そう囁いた瞬間、八本の脚が美咲を囲み、全身に糸が巻きついた。
糸は濡れて重く、締めつけられるたびに肺の中の空気が押し出される。
リクが助けようと手を伸ばしたが、その腕ごと糸に絡まり、瞬く間に湖底へ引きずり込まれていった。
やがて、美咲も頭から水中へと沈む。
湖底には、繭のように糸に包まれた無数の人影が漂っていた。
どれも口を開けたまま、泡を漏らし続けている。
最後に、美咲の顔の前まで親友の蜘蛛が近づき、腹部を裂いた。
中から溢れ出したのは、無数の白い小蜘蛛たち。
それらが美咲の鼻と口から入り込み、肺の中で動き出した瞬間――
視界は完全に暗転した。
「雀蜂」
湖面が、無数の波紋で覆われていく。
初めは雨かと思った。だが、それは羽音だった。
低く唸るような振動が空気を裂き、次第に耳の奥に響く。
月明かりの下、水面すれすれに現れたのは巨大な雀蜂の群れ。
それぞれの体長は人間の前腕ほどもあり、複眼は真紅に光っている。
黒と黄の縞が水滴を弾き、鎌のような顎がカチカチと鳴っている。
美咲は本能的に逃げようとしたが、またしても金縛りが襲った。
足は水中に沈み、腕は石のように硬直して動かない。
そこへ、一匹の雀蜂が頬に止まり、ゆっくりと針を突き立てた。
焼けるような痛みが顔全体に広がる。
刺された箇所から紫色の脈が浮かび上がり、それが血管を伝って首、胸、腹へと侵食していく。
息が詰まり、視界の端でリクが喉を押さえてもがいているのが見えた。
彼の顔はすでに腫れ上がり、目の中の白目部分まで黄色く濁っている。
蜂たちは次々と水面に突き刺さるように降下し、美咲たちの体に群がった。
耳、鼻、口――あらゆる穴という穴に潜り込み、体内に毒を送り込む。
美咲の腹の中で何かが蠢き、皮膚の下を走り回っている感触が広がった。
空から舞い降りた女王蜂は、人間の上半身を持ち、笑みを浮かべていた。
その口元からは甘い花の香りと、腐った肉の匂いが同時に漂う。
「もうすぐ、巣になるわ」
そう囁くと、女王蜂は美咲の口に針を深く差し込み、体内へ卵を注ぎ込んだ。
視界が霞み、最後に見えたのは、月を覆い尽くすほどの蜂の群れだった。
その羽音が、遠くで雷鳴のように響き続けていた。
「硬直な女性」
湖畔に、一人の女性が立っていた。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、腕を体の横にぴたりと付け、全く動かない。
白いワンピースは湿って肌に張り付き、月明かりを反射して青白く光っている。
美咲は呼びかけようとした。
だが声を出す前に、全身が鉛のように重くなった。
まただ――金縛り。
それも今までとは違い、骨の一つひとつまで凍りついたような感覚だった。
女性はゆっくりと首だけをこちらへ向けた。
その動きは骨が軋む音を伴い、ぎこちない。
顔には何の感情もなく、ただ唇だけがわずかに開いた。
「……かわいそうに」
その声は水の中から聞こえるようにくぐもっていた。
次の瞬間、美咲の足元の水が盛り上がり、冷たい指が両足首を掴んだ。
硬直した女性は歩いてもいないのに、距離が詰まってくる。
彼女の影が湖面を滑るように伸び、美咲の胸元まで這い上がった。
影が触れた部分から、皮膚が硬化していく。
腕、肩、首――まるで生きたまま石像になっていくようだ。
呼吸が浅くなり、肺も凍りつく。
目の前で女性は完全に美咲の間合いに入り、その瞳を覗き込んだ。
瞳孔の奥では、小さな自分が硬直して動けず、無限に繰り返し叫び続けているのが見えた。
最後に女性は、口角をわずかに上げた。
そして、美咲の意識は、完全に固まった闇の中へと沈んでいった。
続
すべてが沈んだあと、
水底には別の世界があった。
光は届かず、時間は止まり、
声は泡となって消える。
けれど、そこには目を閉じたままの者たちが無数に漂っていた。
彼らは夢を見ている。
沈む前の、最後の瞬間の夢を。
あなたがこの本を閉じても、
沈み続ける世界は終わらない。
次に沈むのがあなたであっても、
水面は、何事もなかったように静かに揺れるだろう。