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水は静かに、しかし確実にすべてを呑み込んでいく。

光も、命も、時間さえも例外ではない。

太陽が沈むとき、世界は夜に飲まれ、月が沈むとき、闇はさらに深くなる。

小さな虫も、大きな星も、沈む瞬間は同じだ――抵抗は意味を持たない。


これは、「沈む」というただ一つの運命に絡め取られた者たちの物語である。

そしてあなたもまた、その物語の中に立っている。

足元の水が、いつの間にか膝まで届いていることに、まだ気づいていないだけなのだ。

「沈む太陽」


水底から意識を引き上げた瞬間、美咲は夕暮れの岸辺に立っていた。

空は赤く染まり、太陽は沈みかけている――だが、その赤は血の色に近かった。


風はなく、水面は鏡のように静まり返っている。

その水面に映る太陽が、ゆっくりと、しかし確実に沈んでいく。

まるで空の太陽よりも早く、水の中の太陽が先に落ちていくように。


不意に、美咲の足首に冷たい感触が絡みついた。

見下ろすと、水面から黒い腕が伸び、足を掴んでいる。

力を込めても引き剥がせない――そして、その手が少しずつ彼女を水面下に引きずり込んでいく。


太陽はもう半分沈んでいた。

沈むたびに周囲の光が失われ、影が濃くなっていく。

光を失った水面は、ただの闇へと変わり、そこからは無数の目が美咲を見上げていた。


背後ではリクとユナが同じように水面の縁で拘束されている。

金縛りは解けたはずなのに、足だけは動かせない。

それどころか、心臓の鼓動まで太陽の沈む速度に合わせて遅くなっていく。


沈む太陽の縁が水に触れた瞬間――世界から音が消えた。

そして美咲は、耳の奥で声を聞く。


『沈めば、全部見える』


水面の下では、完全に沈みきった太陽が、血のような光を放っていた。

その光は、美咲たちの顔を赤く染めながら、底へと誘っていた。


「沈む月」


暗闇の水底から浮かび上がった美咲は、夜の湖面に顔を出した。

空には満月が浮かび、蒼白い光が湖面を照らしている。

さっきまでの血のような赤は消え、あまりにも静かな光景――それが逆に、不自然だった。


月が湖面に映っている。

だが、その映り込みは空よりも大きく、輪郭が歪んでいた。

まるで湖の中の月は、生きて呼吸しているかのように揺れている。


ユナとリクも浮かんできた。

しかし、三人は互いに声を出せない。

喉は動くのに音が出ない――金縛りのような沈黙だけが残っている。


そのとき、湖の中の月が、ゆっくりと沈みはじめた。

空の月は変わらず輝いているのに、水中の月は黒い闇に飲まれるように沈んでいく。

同時に、水面から漂う光が薄れ、湖の底から何かが浮かび上がってきた。


それは、月の光を反射する無数の顔。

すべてが目を開け、真っ直ぐこちらを見ている。

死んだ親友、沈んだ仲間、そして見知らぬ人々――その全員が、口を動かしていた。

声は聞こえないが、その口の動きははっきりと読めた。


『お前も沈め』


水中の月は、もう三分の二が沈んでいる。

光が完全に消える前に逃げなければならないとわかっているのに、脚は動かない。

いや――動けないのではない。

何かが、足首を撫で、太ももを掴み、腰を引きずり下ろしている。


最後の一片の月明かりが湖に飲まれた瞬間、世界は完全な闇に包まれた。

そして闇の中から、濡れた冷たい唇が美咲の耳元で囁く。


『次は、お前だ』


「沈む蜚蠊」


湖面は静かだった。

だが、その下で何かが蠢いているのが、美咲にははっきりわかった。

水がざわめき、泡と共に黒い塊が浮かび上がる――

それは、何百匹もの蜚蠊だった。


翅が水を弾き、足の節がカサカサと擦れ合う音が耳の奥に響く。

普通なら水に弱いはずの彼らは、溺れるどころか、美咲たちを目指してまっすぐ泳いでくる。

その群れの中心に、一際大きな影があった。

胴体は人間ほどの太さで、背中の翅は半透明。

頭部には、死んだ人間の顔が張り付いていた――それは、美咲の親友だった。


リクが声を上げようとするが、再び金縛りが襲う。

喉が塞がれ、声は気泡となって漏れるだけ。

蜚蠊の群れは三人の足にまとわりつき、節くれだった足で肌を這い、指の間に潜り込む。

爪の裏から、冷たい水と共に小さな顎が肉を噛みちぎった。


巨大な蜚蠊は、美咲の顔のすぐ前まで浮かび上がった。

親友の顔が口を開き、水と黒い幼虫を吐き出す。

それらは美咲の頬を這い、口の端から侵入して喉奥へと滑り込んだ。

必死に吐き出そうとしても、身体は動かない。

胃の中で蠢く感触が広がり、意識が遠のく。


視界の端で、湖底に沈んでいく蜚蠊たちが見える。

だが、その群れは決して死なない。

沈むたびに膨れ上がり、さらに巨大になって再び浮かび上がるのだ。


最後に、美咲は耳元で親友の声を聞いた。


『沈めば、みんな一緒だ』


「沈む地球」


美咲は湖面から顔を出した。

しかし、そこに広がっていたのは、見慣れた夜空ではなかった。


空は漆黒の水面のように揺れ、星々が泡のように浮き沈みしている。

そして、その中央に――地球があった。

自分たちのいるはずの惑星が、空の中でゆっくりと沈んでいる。


まるで、巨大な水槽に浮かべられた球体が、底に引きずり込まれるかのように。

大陸は雲に覆われ、海は異様に暗く、場所によっては赤黒く濁っている。

その濁りは、まるで血のようだった。


ユナが指差した。

沈みゆく地球の表面に、巨大な裂け目が走っている。

そこから、無数の黒い触手が生え、地球そのものを引きずり下ろしていた。

触手は海を割り、大地を引き裂き、都市ごと飲み込んでいく。


その時、美咲の耳の奥で低い囁きが響く。


『お前の足元も、もう沈んでいる』


下を見ると、湖の水はすでに膝まで黒く染まり、足首を掴む形の影が蠢いていた。

影の指は骨のように硬く、皮膚に食い込み、肉を削ぎ取っていく。

金縛りが再び全身を支配し、視線すら動かせなくなった。


視界の端で、地球の半分が闇に沈む。

その瞬間、湖の水も同じ速度で上昇し、美咲たちの口と鼻を覆った。

息ができない。

肺に冷たい水が入り込み、胸の奥で泡が弾ける。


完全に沈みきった地球が闇に消えたとき――

空も湖も区別がつかなくなり、上下すら失われた。

そして、美咲は無数の声に包まれた。


『次は、宇宙ごと沈めよう』


すべては沈む。

それが、物の理であり、抗えぬ摂理である。

だが沈むということは、消えるということではない。

水底には、水底だけの世界があり、そこでは沈んだ者たちが静かに目を開けている。


あなたがこの物語を閉じても、その世界は続いている。

太陽も、月も、虫も、そして地球も――すべてが沈んだその先で、再びあなたを待っているのだ。

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