③
水は静かに、しかし確実にすべてを呑み込んでいく。
光も、命も、時間さえも例外ではない。
太陽が沈むとき、世界は夜に飲まれ、月が沈むとき、闇はさらに深くなる。
小さな虫も、大きな星も、沈む瞬間は同じだ――抵抗は意味を持たない。
これは、「沈む」というただ一つの運命に絡め取られた者たちの物語である。
そしてあなたもまた、その物語の中に立っている。
足元の水が、いつの間にか膝まで届いていることに、まだ気づいていないだけなのだ。
「沈む太陽」
水底から意識を引き上げた瞬間、美咲は夕暮れの岸辺に立っていた。
空は赤く染まり、太陽は沈みかけている――だが、その赤は血の色に近かった。
風はなく、水面は鏡のように静まり返っている。
その水面に映る太陽が、ゆっくりと、しかし確実に沈んでいく。
まるで空の太陽よりも早く、水の中の太陽が先に落ちていくように。
不意に、美咲の足首に冷たい感触が絡みついた。
見下ろすと、水面から黒い腕が伸び、足を掴んでいる。
力を込めても引き剥がせない――そして、その手が少しずつ彼女を水面下に引きずり込んでいく。
太陽はもう半分沈んでいた。
沈むたびに周囲の光が失われ、影が濃くなっていく。
光を失った水面は、ただの闇へと変わり、そこからは無数の目が美咲を見上げていた。
背後ではリクとユナが同じように水面の縁で拘束されている。
金縛りは解けたはずなのに、足だけは動かせない。
それどころか、心臓の鼓動まで太陽の沈む速度に合わせて遅くなっていく。
沈む太陽の縁が水に触れた瞬間――世界から音が消えた。
そして美咲は、耳の奥で声を聞く。
『沈めば、全部見える』
水面の下では、完全に沈みきった太陽が、血のような光を放っていた。
その光は、美咲たちの顔を赤く染めながら、底へと誘っていた。
「沈む月」
暗闇の水底から浮かび上がった美咲は、夜の湖面に顔を出した。
空には満月が浮かび、蒼白い光が湖面を照らしている。
さっきまでの血のような赤は消え、あまりにも静かな光景――それが逆に、不自然だった。
月が湖面に映っている。
だが、その映り込みは空よりも大きく、輪郭が歪んでいた。
まるで湖の中の月は、生きて呼吸しているかのように揺れている。
ユナとリクも浮かんできた。
しかし、三人は互いに声を出せない。
喉は動くのに音が出ない――金縛りのような沈黙だけが残っている。
そのとき、湖の中の月が、ゆっくりと沈みはじめた。
空の月は変わらず輝いているのに、水中の月は黒い闇に飲まれるように沈んでいく。
同時に、水面から漂う光が薄れ、湖の底から何かが浮かび上がってきた。
それは、月の光を反射する無数の顔。
すべてが目を開け、真っ直ぐこちらを見ている。
死んだ親友、沈んだ仲間、そして見知らぬ人々――その全員が、口を動かしていた。
声は聞こえないが、その口の動きははっきりと読めた。
『お前も沈め』
水中の月は、もう三分の二が沈んでいる。
光が完全に消える前に逃げなければならないとわかっているのに、脚は動かない。
いや――動けないのではない。
何かが、足首を撫で、太ももを掴み、腰を引きずり下ろしている。
最後の一片の月明かりが湖に飲まれた瞬間、世界は完全な闇に包まれた。
そして闇の中から、濡れた冷たい唇が美咲の耳元で囁く。
『次は、お前だ』
「沈む蜚蠊」
湖面は静かだった。
だが、その下で何かが蠢いているのが、美咲にははっきりわかった。
水がざわめき、泡と共に黒い塊が浮かび上がる――
それは、何百匹もの蜚蠊だった。
翅が水を弾き、足の節がカサカサと擦れ合う音が耳の奥に響く。
普通なら水に弱いはずの彼らは、溺れるどころか、美咲たちを目指してまっすぐ泳いでくる。
その群れの中心に、一際大きな影があった。
胴体は人間ほどの太さで、背中の翅は半透明。
頭部には、死んだ人間の顔が張り付いていた――それは、美咲の親友だった。
リクが声を上げようとするが、再び金縛りが襲う。
喉が塞がれ、声は気泡となって漏れるだけ。
蜚蠊の群れは三人の足にまとわりつき、節くれだった足で肌を這い、指の間に潜り込む。
爪の裏から、冷たい水と共に小さな顎が肉を噛みちぎった。
巨大な蜚蠊は、美咲の顔のすぐ前まで浮かび上がった。
親友の顔が口を開き、水と黒い幼虫を吐き出す。
それらは美咲の頬を這い、口の端から侵入して喉奥へと滑り込んだ。
必死に吐き出そうとしても、身体は動かない。
胃の中で蠢く感触が広がり、意識が遠のく。
視界の端で、湖底に沈んでいく蜚蠊たちが見える。
だが、その群れは決して死なない。
沈むたびに膨れ上がり、さらに巨大になって再び浮かび上がるのだ。
最後に、美咲は耳元で親友の声を聞いた。
『沈めば、みんな一緒だ』
「沈む地球」
美咲は湖面から顔を出した。
しかし、そこに広がっていたのは、見慣れた夜空ではなかった。
空は漆黒の水面のように揺れ、星々が泡のように浮き沈みしている。
そして、その中央に――地球があった。
自分たちのいるはずの惑星が、空の中でゆっくりと沈んでいる。
まるで、巨大な水槽に浮かべられた球体が、底に引きずり込まれるかのように。
大陸は雲に覆われ、海は異様に暗く、場所によっては赤黒く濁っている。
その濁りは、まるで血のようだった。
ユナが指差した。
沈みゆく地球の表面に、巨大な裂け目が走っている。
そこから、無数の黒い触手が生え、地球そのものを引きずり下ろしていた。
触手は海を割り、大地を引き裂き、都市ごと飲み込んでいく。
その時、美咲の耳の奥で低い囁きが響く。
『お前の足元も、もう沈んでいる』
下を見ると、湖の水はすでに膝まで黒く染まり、足首を掴む形の影が蠢いていた。
影の指は骨のように硬く、皮膚に食い込み、肉を削ぎ取っていく。
金縛りが再び全身を支配し、視線すら動かせなくなった。
視界の端で、地球の半分が闇に沈む。
その瞬間、湖の水も同じ速度で上昇し、美咲たちの口と鼻を覆った。
息ができない。
肺に冷たい水が入り込み、胸の奥で泡が弾ける。
完全に沈みきった地球が闇に消えたとき――
空も湖も区別がつかなくなり、上下すら失われた。
そして、美咲は無数の声に包まれた。
『次は、宇宙ごと沈めよう』
続
すべては沈む。
それが、物の理であり、抗えぬ摂理である。
だが沈むということは、消えるということではない。
水底には、水底だけの世界があり、そこでは沈んだ者たちが静かに目を開けている。
あなたがこの物語を閉じても、その世界は続いている。
太陽も、月も、虫も、そして地球も――すべてが沈んだその先で、再びあなたを待っているのだ。