①
夏。水は、命を育み、同時に奪う。
その無色透明の底には、数え切れない記憶と怨念が沈んでいる。
海、川、井戸、そして人の心――すべては繋がり、ひとつの迷宮を形作る。
「水の迷宮」
目を開けると、美咲は水の底にいた。
息は苦しくない。周囲は青白く光り、魚の影がゆっくりと漂っている。しかし、次の瞬間、魚たちの体は裂け、内側から無数の黒い糸のようなものが伸び、美咲の体に絡みついた。
「……やっと見つけた」
背後から聞こえた声に振り返ると、長い黒髪の少年が立っていた。瞳は深い海のように暗く、肌は透き通るほど白い。
彼の名はリク。井戸の少女の“兄”だと名乗った。
だが彼もまた、この世界で命を落とし、魂だけの存在になっているらしい。
美咲は彼と行動を共にしながら、水の迷宮を抜ける方法を探すことになった。
そこへ現れたのは、漆黒の鎧を纏った女性・ユナ。彼女の鋭い視線は、リクには冷たく、美咲には優しかった。
三人は互いに警戒しながらも進んだ。迷宮の奥では、壁一面が人間の顔で覆われ、苦悶の表情を浮かべている。
顔のひとつが口を開き、悲鳴とともに血混じりの水を吐き出した。
その水滴が頬に触れた瞬間、美咲の頭に、過去の光景が流れ込む――
リクとユナがかつて愛し合っていたこと、しかし村の掟で禁じられ、引き裂かれたこと。
さらに、井戸の少女は美咲自身の前世だったこと。
「だから…あなたを助けたかった」
リクの声は震えていた。
ユナは彼を見つめ、わずかに唇を震わせる。
三人の間に絡み合う愛と憎しみは、迷宮そのものを揺るがすほど強い力を持っていた。
そのとき、迷宮の天井が裂け、無数の水の刃が降り注いだ。
血と水が混じり合い、視界が赤く染まる。
美咲はリクとユナの手を同時に掴み――
次の瞬間、三人は別々の場所へと引き裂かれ、再び闇に飲み込まれた。
「裂けた世界」
水の刃が天井から降り注いだ瞬間、視界は真紅に染まった。
気づけば、リクは暗く濁った川の中に立っていた。
足首に何かが絡みついている。引き上げると、それは青白い子どもの腕だった。
腕の主は、笑っていた。歯の間から水が流れ、口元には藻が絡んでいる。
「お兄ちゃん、どうして助けなかったの?」
それは、かつて自分が見殺しにした弟の声だった。
リクの胸を締めつけるような痛みが走る。過去を思い出すたび、全身の骨が水圧で軋むような感覚が襲う。
水面に浮かぶ影が増えていく。
それは村で溺れた者たちの顔。老人も子どもも、皆が水の中からリクを見上げている。
彼らの眼球は膨れ、瞳が破裂し、血の筋が川全体に溶けて広がった。
「俺は…もう…」
呟くリクの耳元で、別の声が囁いた。
それは美咲だった。けれど声には、あの優しさがなかった。
『助けてあげる。ただし――代わりにユナを殺して』
川面に映った美咲の顔は、笑っていた。
その目は、井戸の少女と同じ深い闇を宿していた。
リクはその顔に手を伸ばし、水面を割る。
指先が触れた瞬間、彼の意識は再び引き裂かれ、闇と光の境目に投げ出された。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
水という題材は、静けさと暴力性を同時に秘めています。
穏やかな水面の下に広がるのは、誰もが知らない過去、そして決して口にできない感情。