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夏の夜、激しい雨がもたらすのは、ただの涼しさだけではない。水は生命の源でありながら、時に恐怖の入り口となる。
本作『雨音に潜むもの』は、自然の中にひっそりと息づく水の恐怖をテーマに、目に見えない存在と織りなす心理的な恐怖を描いています。
読み進めるうちに、雨音に混じるかすかな囁きがあなたの耳にも聞こえてくるかもしれません。どうぞ、夏のひととき、不気味な水の世界へお付き合いください。
「雨音に潜むもの」
梅雨が明けたばかりのある夏の日、連日の猛暑に耐えかねた主人公・美咲は、ひとり静かな山間の別荘へとやってきた。都会の喧騒から離れ、涼しい風と緑の匂いに包まれて心を休めるはずだった。
しかし、夕方になると突然、空が暗くなり、不気味な雷鳴とともに激しい夕立が襲いかかる。別荘の屋根を叩く雨音がやけに大きく、まるで誰かが近くで囁いているような錯覚に囚われる。
夜中になり、雨はやむどころか、ますます激しさを増す。眠れぬ美咲は、ふと窓の外を覗く。そこには、雨に濡れた一本の古い井戸が、闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
その井戸の水面からは、ゆらゆらと揺れる人影が映り込んでいるように見える。美咲は思わず目を逸らすが、次第にその影がこちらを見ていることに気づいてしまう。
不安に駆られた美咲は、別荘の中を歩き回るが、雨音の中に混じって、かすかに水滴が落ちる音が聞こえてくる。まるで部屋の中に、もう一人誰かがいるかのような気配だ。
翌朝、雨がやんで青空が戻ると、井戸のそばに古い写真が一枚落ちていた。そこには、かつてこの地で行方不明になった少女の姿が写っている。
美咲はそれを手に取り、背筋が凍る思いをした。水はただの水ではない。ここには、雨の音に紛れて囁く何かが潜んでいるのだと。
美咲は写真を握りしめ、朝の澄んだ空気の中で立ち尽くしていた。少女の瞳はどこか虚ろで、まるで自分を見つめているように感じられる。
心を落ち着けるために、別荘の周囲を歩くことにした。だが、井戸の近くに足を踏み入れた途端、冷たい風が頬を撫で、どこからともなくかすかな水滴の音が聞こえた。
「こんなに晴れているのに、どこから水が…?」美咲は辺りを見回したが、周囲に水の流れる音がする場所はなかった。
ふと、井戸の底を覗き込むと、水面が微かに波打ち、黒い影が揺らめいている。まるで水中から誰かが顔を出そうとしているかのようだ。
突然、美咲の耳に小さな囁き声が届いた。
「こっち、こっち…」
それは風の音とも、雨の残響ともつかない、不気味な呼び声だった。美咲は思わず後ずさり、足を滑らせて転びそうになった。
震える手でスマートフォンを取り出し、懐中電灯モードを点灯。暗い井戸の中を照らすと、そこには古びた人形が沈んでいるのが見えた。人形は水を吸い込んで重くなり、目が一つ外れて水底に沈んでいた。
「これは…」
その瞬間、背後から水滴の音とは違う、不規則な足音が聞こえた。振り返ると、誰もいないはずの林の奥から、薄暗い影がゆっくりと近づいてくる。
美咲は慌てて走り出したが、足元の湿った土がぬかるんで滑りやすくなっている。何度も転びそうになりながら、やっと別荘の扉を開けると、冷たい風が吹き込んだ。
その夜、美咲は不安なまま眠りについたが、夢の中であの少女の顔が浮かび、繰り返しささやいた。
「助けて…水に閉じ込められてる…」
翌朝、村の古老を訪ねた美咲は、この土地の昔話を聞かされる。
「その井戸は、百年前に水難事故で命を落とした少女の魂が彷徨う場所じゃ。雨が降るたびに水面に姿を現し、助けを求めると伝えられておる。」
美咲は覚悟を決め、少女の魂を鎮めるため、井戸の清めの儀式を行うことにした。だが、その儀式が終わるまでは、雨の音に耳を澄ませるたび、少女の囁きが美咲の心を締めつけるのだった。
その夜、美咲は祭壇を設け、村の古老から教わった通りに清めの儀式を始めた。井戸のそばに灯したろうそくの火は、雨の湿気で揺れながらも消えずに揺らめいている。
「どうか、安らかに眠りたまえ…」
祈りを捧げる美咲の周囲で、雨音がまるで彼女の言葉に応えるかのように強弱をつけて響いた。
だが、突然、井戸の水面が大きく波立ち、闇の中から冷たい手がゆっくりと伸びてきた。
美咲は悲鳴を上げて後ずさった。闇の中の手はゆっくりと、しかし確実に彼女に近づく。
「助けて…」
その声は先ほどの少女の声とは違い、切実で、どこか悲しい響きを帯びていた。
美咲は必死に祈り続け、手の届く範囲に手を伸ばした。すると、闇の中の手は彼女の手首を掴んだが、力は弱く、まるで彼女に救いを求めているかのようだった。
「あなたの願いを、叶えたい」
美咲は涙を流しながらそう呟くと、心の中で少女に語りかけた。
「怖くないよ、もう大丈夫。私が助けるから。」
その瞬間、水面の闇はゆっくりと溶けて消え、井戸の水は静かな澄んだ水面に戻った。
雨音は遠のき、夜空には満天の星が輝いていた。
翌日、美咲が目を覚ますと、別荘の周りは一面の青空。井戸のそばには、あの人形はもうなくなっていた。
「もう、誰も囁かない。」
そう確信した美咲は、ゆっくりと深呼吸をし、都会への帰路についた。
しかし、彼女の心には、あの雨音の中に潜んでいた少女の切なさと、それを見守った夏の記憶が深く刻まれていたのだった。
この物語の中の井戸と雨は、古くから人々の記憶に残る「忘れられたものたち」の象徴です。
目に見えない恐怖は、水の流れのように静かに、しかし確実に心に忍び寄ります。
読者の皆さまが、夏の夜、ふと聞こえる雨音に耳を澄ませる時、物語の少女の囁きを思い出していただければ幸いです。
水は生命と恐怖、その両方を秘めた存在。どうか、安全な場所で、ゆっくりとお休みください。