減ったせいで増えたもの
窓を開けると熱気が流れ込んでくる。
少し前まで、夏の空気はもっと騒がしかった気がする。セミの声も、遠くの道路を走るバイクの音も、近所の子どもたちのはしゃぎ声も。
でも今日は違った。音はあるのに、どれも空洞の中で鳴っているようだった。外が暑いほど、部屋の中はどこか冷たく、すっかり居心地が変わってしまった気がする。
朝、目が覚めた時、テーブルの上にあったコップは二つだった。
昨日の夜、洗ったはずの食器が、いつの間にかひとつ、棚の奥に足されていた。落ちた拍子に割れた小皿も、代わりを買ったままビニールから出していなかったのに、もう使われていた。
誰かが増えたわけではない。むしろ逆だ。ただ、居なくなった人の形をなぞるように、モノばかりが増えていく。
部屋の中には、整頓されたまま動かされていないものがいくつもある。読みかけの本。飲みかけのペットボトル。ベッドサイドに置かれたままのリップクリーム。
時間だけがきれいに流れて、けれど、その中にぽつんと取り残されたような痕跡だけが、まだそこにある。
夏は嫌いじゃなかった。
特別なことが起きる季節ではなかったけれど、二人でベランダに出て、アイスを食べたり、洗濯物の間をすり抜ける風に笑ったり、ほんのささやかな出来事が、小さな記憶として積もっていた。
そのひとつひとつが、こんなにも失くしたときに響くものだなんて、思いもしなかった。
午前中に冷房をつけることは、以前はなかった。
けれど今日は午前十時にもならないうちにリモコンを手に取っていた。気温は三十五度を超えていたけれど、体のどこかが妙に冷たく、つま先まで届かない。
温度の話じゃないのだと、わかっている。けれど、冷房を止める勇気が出ない。
カーテン越しに差す光が、やけに白くまぶしい。
床の上に伸びる影だけが、少し前まで誰かがここにいたことを想起させる。
あの人は、光が差すとすぐにカーテンを引いてしまった。日焼けするのが嫌だとか、眩しいのが苦手だとか、理由はいつもふざけたような声で語られていたのに、いざいなくなると、それすらも懐かしくなる。
昼過ぎにスーパーへ行く。
二人分だった買い物は、今では半分の量で済む。
肉も、野菜も、果物も、食べ切れないからと躊躇するようになった。お菓子のコーナーで立ち止まって、ふと手に取りかけては、やめる。あの人が好きだったグミ。冷蔵庫のドアポケットにいつも入っていた缶ジュース。もう買わなくなったものが増えていくたびに、誰かの輪郭が薄れていくようで怖くなる。
夜になると、部屋の静けさが際立つ。
テレビの音をつけても、どこか騒がしさが足りない。
「それ、見たことある」
「またそれ録画してるの?」
何気ない言葉が、かつては画面よりも印象に残っていた。今では、それらはすべて無音で、自分の心の中にしか流れない。
お風呂に入ると、シャンプーの匂いが違うことに気づいた。
隣にいた誰かの好みに合わせていた香りは、もう買い替えた。
けれど、湯気の中にふと、あの人の声がよみがえる。
「ねぇ、なんでボディソープを毎回並び替えるの?」
「こっちの方が使いやすいんだって」
そんなくだらないやり取りも、今となっては遠く響く音のようだった。
使われることのなくなったシャンプーボトルが、浴室の片隅に取り残されている。
ラベルの文字は少し薄れ、ふたの開け閉めで削れた痕が、あの人の手の跡みたいに見えた。
部屋が、少しずつ広く感じられるようになった。
何も変わっていないのに、間取りが変わったみたいに空間が余っている。
手持ち無沙汰に本棚を整理してみる。けれど並びを変えても、ぽっかりと空いたスペースだけが目に入る。そこにあった何かが思い出せなくて、それでも確かに存在していたことだけが心に引っかかる。
夜風が吹いて、ベランダに出てみた。
都会の空は相変わらず星が少ない。
それでも、少し涼しい風に頬を撫でられて、心が少しだけ動いた気がした。
あの人と過ごした夏の記憶は、もう戻らない。けれど、完全に消えてしまったわけでもない。
思い出すことができる限り、それはどこかに、確かに生きている。
ただ、それが幸せなことなのか、まだわからない。
必要だった人がいなくなった空間には、妙にたくさんのものが残っていく。
残したものに囲まれながら、増えてしまった日常と向き合うのは、思っていた以上に難しい。
夏は、過ぎるのが早いのに、忘れるには遅すぎる。
今日も、気温は高い。
けれど、心の中は、少し肌寒いままだ。