『澱み』
森に入ってから僅か一分、異変は起きた。
その異変とは――、
「うっ‥‥‥気持ち悪い。ねぇ、他の場所に変更ってできたりするかな‥‥‥」
明華雅は極度の湿邪持ちだった。にわか雨程度でも普段は外せない用事があるとき以外は外出しないくらいには湿度に弱かった。『MCT』に入ってからというもの、薬学に精通しているチームが特製ブレンドの薬を作ってもらうことで日常生活での支障はなくなっていた。しかしながら、任務中にここまで湿度の高い場所に来ることになってしまった。
「‥‥‥はぁ? お前、さっきまではあんな自信満々だったっていうのに、この掌返しは一体全体どういうことなんだ」
「面目ないです、でもノリと勢いでつい‥‥‥」
「つい‥‥‥で、済ませられる出来事があるとでも?」
正論のダイレクトアタックで藻掻き苦しむが、割と本当にそれどころじゃない。本当にそろそろ限界だ。
ここまで辛い湿度は、生涯初の経験だ。只々、高を括ってしまったことが私の敗因なのだが。
しかし、目の前まで行ってやっぱり無理です! ‥‥‥なんて言える訳があるだろうか? いや無理だろう。
少なくとも私は見得を切ることしか出来なかった。情けないこと、この上ない話だが、前向きに捉えつつ、起死回生の一手を探し求める。
「う~ん、どうしようかなぁ。このままやっても本気で取り組むことできないもんね」
こちらの心中などお見通しかのような透き通った純白の瞳を閉じてこちらを値踏みしてくる。
初対面では、とっても可愛げがあり、黒髪の少女と違って、根っからのいい人なんだと勝手に決めつけてかかってしまった。だが実態はどうだろうか。
傍から見れば中々いい性格していると勘繰るのではないだろうか?
だがしかし‥‥‥
「おい、なに放心状態になってんだよ。ここから、出んじゃねぇのか?」
留止めのない思考を頭の中で垂れ流しにしてたせいで、会話を聞いていなかったようだ。
「ごめんなさい、出させて。やっぱり私、耐えられそうにないの」
「そうか、じゃあ、一旦休憩挟んで、探索なしの制限時間三十分、場所短縮で挑むんだな」
「うん‥‥‥って、え? 場所変更してくれないの?」
「お前、話聞かずに相槌だけ打っただろ」
「沈黙で‥‥‥」
その様子を伺って彩花は無言でニコニコと満面の笑みで微笑んでいた。
取り敢えず、ここに居座るわけにもいかないため、私たちはそそくさと駆けて行った。
例の森から離れて体感約一㎞。ようやく息をつくことができた。道中、お前一㎞も離れなきゃいけないのに堂々と宣言したの頭おかしいんじゃねぇか? という視線がびしばし、双方から解き放たれていた。
ごめんなさい、反省はしているからね?
この空間に入った時からずっと感じていたのだが、辺りが本当にだだっ広い平原が広がっていて、地平線が見えるような気がするくらいだった。この子たちは一体何処からここまで来たのだろうか。あの忌まわしき森はスタート地点からでもおおよそ三十分かかった。
それでも尚、見ることが不可能な集落‥‥‥
時に、この休憩地帯に移動する道中から休憩まで一度も会話がなく最早、両者から見放されたのかと思い私は震え上がっていたのだが、良いか悪いか、思考をまとめるには丁度良い時間になったのでありがたくこの暇を頂戴していた。
さて。作戦会議始まり! まずは、あの澱みの攻略だ。エリアはまだ確認していないが何れにしても、あの澱みが完璧に打ち消されることは有り得ないだろう。
精々タイムリミットは、死ぬ気で耐えて十分‥‥‥だがしかし、当然十分ごときでかくれんぼがクリアできる訳などない。
それはさておき、体調不良は多分、澱みの吸引が原因なはずだ。多分、というのは、私自身が専門知識を持ってないからだ。だから単なる賭けに過ぎないのだが。よい子のみんなは真似しないでねってやつ。
人間は、皮膚でも呼吸しているが、勿論、圧倒的に肺呼吸の方が吸引量が多い。
なので主に鼻呼吸だけ止めておけば苦しまずに済むに違いない。よって疑似的にガスボンベのようなものがあればいいはず‥‥‥。まぁ、そのようなもの常備している訳ないが‥‥‥
取り敢えず私の所持品でどれだけ足掻けることができるか確認してみよう。
どれどれ‥‥‥? まず服装は、ピンク色の髪の毛を黒色のシュシュで留めたポニーテール、黒と白のいい感じのタイトスカートと黒色のスニーカー(使い古している)と茶色のショルダーバック(ブランド物ではない)。所持品は、財布(そんなに潤ってない)、スマホ(充電はぼちぼち)、とらっち(この空間だと何の用途もない)、ゲーセン帰りのロゴ付きのビニール袋と景品のチョコレートと小さい猫のぬいぐるみ‥‥‥、以上。
‥‥‥なんで、なんで、なんで。こんな物で対策ができるわけないだろう。もう少し普段の生活に無頓着でなければよかった。
これでは、精々、交渉道具くらいにしかならない。この惨状を楽観視するのは到底無理で甚だしい。
だがしかし、『案ずるより産むが易し』という言葉がある以上ここでグダグダするのは好ましくない。
少なくとも打開策に繋がればいい。そう思い、雅は実際に行動へ移すことにした。
「ねぇ、このぬいぐるみのことどう思う?」
出来るだけ、交渉だと悟られないように話を持ちかけた。このタイミングでというのだから何言っても無駄だとは思うが。
黒曜石のように透き通る瞳は、じっと地平線を眺め無視を突き通す。全てを見透かすように透き通る白瞳は、こちらに視線が釘付け。いやはや、‥‥‥以下略。
そのまま、こちらを訝しみつつも、彼女はこう言った。
「それ? ‥‥‥可愛いと思うよ」
‥‥‥? 何だろうか、この言い回しは。何か違和感を感じるような。
「これ欲しいと思わない?」
「‥‥‥。これで私を釣ろうとしてたりする?」
そう言い、そっぽを向いてしまった。
――、魂胆丸見えか‥‥‥。雅はすぐに諦めへと移った。そして、すぐさま第二の策を鉄の熱いうちに打った。
「ねぇ、甘い物好き?」
これならどうだ。昔の時代は甘い物が貴重。そして目の前にいるのは齢六歳くらいの少女‥‥‥、
我ながら完璧な作戦では?
固唾を飲み、自身の昂る感情を抑え込みつつ、少女の反応を待った。
「まぁ、好きだよ。――でも甘い物っていっても、果物がたまに食べれる程度だけどね。城下町ではお菓子とかいうものがあるらしいけど、そんなの夢のまた夢だよね」
少女の想定外の食らいつく様に一筋の光を見つけ、歓喜の雨あられ。
今なら、あの森だって怖くない。‥‥‥というのは流石に冗談にもほどがあるので声高々に叫ぶことは不可能だが。
さぁ、今こそ例のブツを‥‥‥
「実は‥‥‥。
言えなかった言葉の代わりに声高々と代わりに発するはずだった。――が、その声は奇しくも今まで一言も語る雰囲気のなかった人物に塗りつぶされることになった。
その少女は勢いを止めることを知らずに述べ続けていく。
「お菓子って言うと、団子や金平糖っていうのがあるんだってな。噂だとよ、和菓子っいうめっちゃ小せぇのにめっちゃ高ぇっていうもんがあるって聞いたことがあるぜ。一体何がそんなに魅了するんだ?そんなに美味いのか?」
肉食動物が草食動物に飛び掛かる瞬間、更に上の食物連鎖の覇者に邪魔されるかのような勢いで私は吹き飛ばされたが、もしかしてこの小さなライオンは単なる強面な子猫なのかもしれない。
そして、今の言葉からして、いわゆる甘党なのだろう。彼女の意外な一面を知れて少し和やかな気分になりつつも、怒りを買わないようにポーカーフェイス。
そして、そのまま彼女たちの話は続く。
整っている二重瞼を閉じ、思案顔でほんの少しだけ、うーん‥‥‥、と唸らせてから彼女はいたずらを仕掛ける前の小悪魔のような笑みで答えた。
「身分の高い人たちのことは私たちには理解できないからね。多分、綺麗なんじゃないかな」
鋭い勘で見ず知らずの物をスパッと当てていく様には驚愕より、もはや感動を覚えた。もしこの質問に直面するのが私だったら、その答えに辿り着くまでに一体、何度人生を繰り返せばいいのか見目もつかない。
知性と山勘は別物だが、もし、ミレイ・コウとクイズ対決でもしたら、互角になるくらいには優秀な人材なのではないだろうか。
蛇足だが腹の立つことに、私は彼の出すクイズには正答したことがない。認めたくないが、彼と私では、天と地の差がある。かつて人づてに聞いた話だが、彼は『とらっち』を初めとした数々の発明品の創作者らしく、発明チーム有数の実力者らしい。あまり彼の道具は使ったことないのだが。
そんな余計な情報を考えている間に少女たちの方は話が終わったらしい。
甘い物の話をした後は甘い物が食べたくなるっていうのは共通認識なはずだ。
「さてっ! そんなお二人方にピッタリなブツがあるんでっせ。お見せしたるは、このお品!」
詐欺師もビックリな悪人のようなセリフ。そんな冗談を散りばめつつも、もちろん行動に怠慢はない。
「――何だこれ? 見たことのない包装に良く分からない絵がかいてあんぜ?」
訝しむのも当然。昔の人達にとって、こんな派手な素材はない。その上、英語なんて一部の有識者ぐらいしか知っているはずがない。だからこそすぐに受け入れられるなんてことは、余程のギャンブラーでない限り、有り得ないだろう。
「これはチョコレートって言って西洋から渡ってきたお菓子なの。最近この国に伝わったもので裕福な階級の人しか食べられないんだけど、その中でも一際、美味しいのはこれなの」
彼女たちの会話からして恐らく、この空間内での時代は江戸時代と考えられる。
そして彼女たちにとっては生涯味わうことの出来ない甘美な誘惑。このような状況下であれば誰もが渇望し、奴隷のように、飼いならされているペットのように媚び諂らうはずだ。
――さてどうなる?
黒曜石のような怪しげな光を放つ双眸をこちらに向けながら少女は警戒し続ける。そこで停滞した空気を動かしたのは、隣の瞳に輝く星を宿している少女だった。
「甘いもの食べれるの?」
その一言は少女らしい感情とは裏腹に大人びた声色だった。
そして、すぐ隣には電池切れが目前の懐中電灯のように弱々しい光を宿している黒瞳がそこにはあった。
「――勿論。遠慮しないで受け取って」
甘美な誘惑を扇動しつつ、獲物を狙う肉食獣のように、餌にかかるのを待つ釣り人のように待ち続けた。
そして、恐る恐る、「じゃあ‥‥‥」と彼女たちは難色を示しながら、その禁断の果実に手を伸ばしていったのであった。食べ方が分からなかったようなので、私は、おぼつかない動作でパッケージの開封と半分に切り分ける作業をしてあげた。
「おい、これ半分に上手く割れてねぇじゃねぇか。そこは平等にしろよ」
その言葉を聞き、自ら二分割したチョコレートを見ると、お節介にも上手には言えない割り方だったが、気にしない人は気にしないといった程度の不格好さ。
違いに気を付けて注視すると僅かに一ブロック差があった。これは無論、私の気遣い不足ではあるのだが一つ言い訳をさせて欲しい。
そう、明華雅には友達と言えるような人間が存在しなかった。――とどのつまり、悲しいかな、チョコレートは、彼女にとって切り分けるようなものではなく、少しずつ食べていくものなのだ。
「ごめんね‥‥‥」
悲愴な感情を胸の内に隠蔽しつつ、精一杯の誠意を込めた謝罪をした。
言葉の真意を悟らせないよう表情や言葉の高低に気を付けたのだが、案の定、彼女は大人びた考えで受け止めてくれた。
「そこまで言わなくてもいいんじゃない? こんな貴重品をくれたんだから。ありがとうございます、雅さん」と彼女なりに少女の意見を咎めた。
正直に言うと彼女なしの明華雅では村の存在は疎か、番犬の少女によって一歩も動けずに数日を消費して怠惰を貪っていたかもしれない。そういった面で明華雅にとって彩花というピースは必要不可欠な存在であった。
そのため、チョコレート一つが彼女たちにとってどれくらいの価値があるのかは想像できないが、チョコレートを提供したのも私欲ではなくこれが一つの理由となっている。
だが、雅自身もこの程度でお詫びの品になるとは思っていなかった。だからこそ自分自身の未熟さを実感し、更なる成長が必須と重きを置く出来事となった。
——そして必ず彼女にはもっとちゃんとした礼が出来るようにと新たな出発点が設定された。
それから彼女たちはチョコレートと正面からご対面することになった。
「おい、てめぇ。これで毒とか盛った暁にはお前の存在できる場所は古今東西探してもないと思えよ?」
そう、キリキリと鋭い瞳孔を向けつつ、手厳しい評価を叩き付けてきた。
「‥‥‥まぁ、そう考えるのが普通の人間の思考だよね。両親にも、そう教わっているだろうしね」
「おい、てめぇ!」
そう荒んだ声で邂逅以来初めて本当の殺意を込めた眼光でこちらを打ち抜く。そのまま視点を横へとずらすと、色々な感情で入れ混ざっている表情が掻き立っていた。
まさか‥‥‥とやってしまった後悔に身を馳せようとした瞬間、視界には小さな腕が映り、胸倉を掴もうとする行為を捉えた。間違いなく、明華雅に対した明確な好戦的行動だった。
「‥‥‥花は、彩花は‥‥‥。彩花の両親はいねぇんだよ」
その言葉は、暴力的な気配と裏腹に、沈黙が全てを支配した。