大乗仏教への違和感
大乗仏教には2重構造が感じられる。色即是空などの思想はとても優れたものだと思えるが、肝心の宗教としての大乗仏教は、それらを悪用しただけにしか見えない。以前は思想家としての竜樹しかしらなかったが、今はちょっと違う。彼は小乗に対する批判者として過激派的一面があったそうだ。
普通なら隠す部分だが、当時小乗は批判されてて、小乗への強い反抗姿勢は良い事だという空気があったので、後の時代にどう思われるか?あまり考えなかったと思われる。ようはかなり真実に近いと見ている。暴力的に虐殺したとかそういう話じゃないので許されるのだろう。
ただ彼が論理を捻じ曲げるほどの熱情を持っていた根拠にはなる。ただし、大乗仏教は捻じ曲げられてるとは思ってない。どうも大乗仏教は目的ありきの論を作り上げた事を否定できない。その目的とは在家信者が直接的に救われないから。これは小乗と言うか大乗前の仏教が抱える根本的な問題。
根本と書いたのは当時小乗批判が起こったのは、学問としての仏教研究に没頭するあまり肝心の信者の救いから程遠かったからになる。当時ヒンズーが流行して信者が奪われたのもある。だがこれらは枝葉だと思うのは、大乗前の在家信者の扱いがあまりに雑だと私も思うから。
ただ問題はその解決方法として生み出された大乗仏教は安直だとしか言いようがない。安直だというのは、当時ヒンズーに信者を取られていたここが重要で。難解な大乗仏教理論は置いておいて、実際に在家信者レベルで大乗仏教が行った事は、仏陀の神格化に他ならない。
大乗仏教が日本で残ったのは偶然じゃない。精緻な話をすると違うと言われるのは分かってるが、在家信者レベルでは、日本の神道ととても相性が良い。日本には数多くの人が神様になって祭られている神社がある。これらと神格化された仏陀が融合するのはとても自然な事になる。
実際はこれらと菩薩などさらに難解なものが関わる。難解と言うより狂気と言いたくなるようなもの。仏陀の七変化のようなものだと見てる。何故そんな事を大真面目にやったか?というとそれが色即是空が関わってくる。時間と空間の超越性。これらに仏陀が姿かたちを変えて現れるというわけだ。
キリスト教の3位一体に似てると思う。さらに何故大乗仏教はヒンズーと深く結びついてるか?と言うと日本に来るまでにヒンズーが生まれたからになる。元々時空を超えた普遍性をやらされた仏陀は七変化と言う形で様々な存在になる。この事で仏教理論があるが私は詳しくないし割愛する。
省略したい理由は、この辺りどうも狂気だと感じるものでまともに扱えないと思ってる。これは色即是空が根底に持っていた問題にもかかわる。このヒンズーがこれらの七変化をさらに悪化させ、これらの細分化されたものは寺を抱えたまま神社の神と共にまつられる。
日本らしいとなるのだが、私はそれだけじゃないと思う。大乗仏教が地元インドですでにヒンズーと混じったのが原因だと思ってる。そしてその根幹は仏陀七変化にあると見てる。七変化と書いたが実際はちょっと違う。仏陀が時代を超えて現れるというか輪廻転生してる…。
やっぱり真面目に考えるとこの辺り狂気だと思うんだよな…。涅槃などのような境地を菩薩と捉えたって説があり、まあ私もそういった概念の偶像化だと見てる。正確には仏陀自身じゃない。仏陀の心?の偶像化?まあなんとも難解と言いたくないので狂気としか言えない。
日本において大乗仏教は、在家信者レベルでは仏陀を神格化して信仰する宗教に実質なってしまってる。これはキリスト教と大差ない。一神教かそうじゃないいか?の差。七変化する仏陀は一神教になりようがない。
在家じゃない部分に入っていこうと思う。実際竜樹はこんな未来考えてなかったと思う。ヒンズーと大乗の成立はとても近いのだが、竜樹にその思想が影響してると思えないので、後の時代に入り込んだとみている。その原因を作ったのは間違いなく竜樹だが。
根本の竜樹の結論ありきの論がすべての間違いだと思ってるが、途中もいろいろ言いたくなるものはある。だが世界の捉え方として空は魅力的。元は仏陀の言葉だが精緻な理論化したのは間違いなく竜樹。ただそれが思想的には正しくても仏教的には正しくなかったと私は見ている。
結論として出てきた仏陀の普遍性による救済がとんでもだから。論として、土台からくみ上げて勝手に出てくる結論。こうじゃない、邪ともいえる邪念のような熱意に満ちたゴールに向かって必要なパーツを集めて行ったと見ている。仏陀ならこんな現実を見ずに好き勝手論に論を重ねるものを認めるか?
じゃ仏陀の空は何だったのか?論じゃないと思う。この世界は空なんだろうなってそれ以上のものじゃないかと。仏陀は論にするのを嫌ったのじゃないかなと見てる。仏陀は書物を嫌ったのだが、これは伝える事を嫌ったわけじゃない。うまく伝わらないのを嫌っただけ。
そもそも仏陀自身も言葉によって空をまとめられると考えてなかったかもしれない。仏陀は単純な断定を嫌う。だが一貫して執着を否定的に扱う。そして、数多くの迷信的な物への信仰は妄想への執着なのではないか?と見ててなるべく排除しようとしてる。時折神が出てくるのは執着さえなければ問題が無いから。
空は雑に扱うと妄想への執着に繋がりかねない。そして竜樹にはその危険性がある。竜樹は元は存在論の学者でそこから仏教に転向して、大乗の改革者になる。それゆえに実在論の学者への反論として空の理論化に関わる。これを利用しようとしたか?なら多分あるだろうな。当時の小乗批判に学者的な研究ばかりって批判があったので、それらを退治する必要があったと思ってる。
元居たところなので真面目に反論したかったのもあると思うけど。ミイラ取りじゃないけど、この手の神学論争に近いものに手を出すと自分もその論法になってしまう。仏陀なら無言によって抵抗したんじゃないかな。これは相手したら負けなのだ。
色即是空が最新の量子論と似通ってる話があるが、これは私は竜樹の先進性だとは全く思ってない。そもそもこのアイデアは仏陀だし、これは偶然の一致と言う結果論に過ぎないと思ってる。科学の精緻な実証的研究と比較すると大違いだと思ってる。
科学でこれが出てきたのは竜樹と全く逆で、実証的な事実を見てたらこうやって考えを改める必要があると理解しただけで、後から理屈はついてきたんだ。竜樹の論の立て方の危うさがこれで分かると思う。これは仏陀がずっと言ってきた自然に見たものについて思考するって姿勢を放棄してる。
仏陀は空を精緻化して後世に伝える気が合ったか?分からないとしか言いようがない。仏陀の後の境地なのでかなり重視していたのは間違いない。出来なかったのか?やらなかったのか?は今となっては分からない。私は出来なかったからやらなかったと見ている。
量子論と大乗仏教だが、馬鹿みたいに大乗仏教を持ち上げようとする坊主がいろいろ述べるが、正直あの時代にこの発想はすごいと思うが、今まで書いたようにいくつか不満な点もあり、かつ結論としての在家信者を救う大乗仏教と言う教えは酷いと思ってる。色即是空と言うスタートは良いが大乗仏教と言うゴールは何一つ認めるべき点が無い。
私は大乗仏教を信仰するぐらいならキリスト教とかイスラム教の方が良いと思ってる。信仰と言う点で大乗仏教は洗練されてない。仏教は小乗のままで良いと思う。結局仏教は在家信者の問題を抱えたまま成立するしかない。大乗仏教は在家信者問題を安直な形で解決した愚策だと言える。または問題を隠ぺいしてしまったと言える。
本来の在家信者の在り方はスジャータがどう見てもモデルだと見ている。自分一人では悟れなかったという縁を大事にしてるのじゃないかなと見てる。ただそれでも悟る主体は仏陀自身だと思う。先進国において信仰が人々の救済において時代と合ってないと感じられるようになってきた。
そうなると時代に適して変化した仏教の悪いところばかりが見えてきてしまう。だからと言って小乗に戻ったものが素晴らしいとは言わない。問題を安直に解決しないままの形で良いと思う。幸い日本人は大乗仏教のおかげで仏教というものに触れられることが出来た。この事だけは大乗仏教の最大の功績だと思う。
その点は安直な問題解決は正しかった面だろうと思う。ただ根幹にこれは仏教組織と言う組織が命を持ったようになりその存続に執着する原因になってると見ている。滅びを受け入れる教えが組織的に残されて語り継がれてるというのはどこか矛盾めいたものを感じる。
おそらく仏教は今の時代じゃないと大乗と言うねじ曲がった形でしか生き残れなかったと断言できる。ただタイで小乗が残ってる奇跡はあるが、インドで消えたのはさもありなんだ。信仰となった仏教により洗練された信仰宗教に勝てるわけが無いのだ。
さて次に量子論についてだが、私は根幹に違和感があるが、最大の問題は結論だと思ってる。根幹部分は仏陀も精緻な哲学を持っていたわけじゃない。この点は正直答えられなかったのか?たまたま答えなかったのか?は謎だ。それほど仏陀は思い入れたっぷりに空について語ってるのだ。
すべて事実を元に試行してるわけじゃないのと、この事実の扱い方に仏陀はたまたまセンスがあっただけで、勘違いを事実として捉えてまき散らす人と根本的に何が違うのか?と言うと違わない。そこは仏陀はそういうとんちきな人と違うセンスを持っていた程度でしかない。
竜樹と仏陀が決定的に異なるのは、竜樹は論理の飛躍が過ぎるのだ。それがスタートからずっとそう、あの調子ですべてを語る仏陀を想像できない。ただそれは明確化された差ではない。私が感じる仏陀のセンスへの信頼で、所々見ると仏陀も怪しい部分がある。
伝聞だから誤って?だから所々なのだ。この時代の人なのでそれが当たり前なのだ。むしろ仏陀のこのあたりのセンスは異常なのだ。その根底の問題を置いておいても結論としての時空を超えた普遍的仏陀による救いは無茶苦茶だ。
まず量子論は不確定性原理がある。小さな範囲での事しか関係が無い。シュレ猫は?無視しよう。そっちよりEPR実験の方がすごい。アインシュタインは生きてる間に結果を知る事は無かったが、馬鹿すぎて話にならないとして出した話だ。んでアインシュタインが馬鹿すぎると考えていた結果になった。
まあこれは情報の伝達としたからで、ここで物質の局所的実在が否定されて今になる。ただし、これは科学的言及じゃない。科学的事実への解釈の話。EPRの結果は竜樹の我田引水結論を支えてしまう。ちなみに竜樹が明確に後の大乗仏教の経典を残した事実はない。ただし、彼は最初から過激な小乗批判者なのは忘れてはいけない。
この点について私は仏陀が人が人に伝えるって事をとても重視いていた点を注目したい。仏陀が普遍的存在になり悟りの手助けをするって考えは、それは仏陀は伝える事を放棄したのか?となる。これは後の人が勝手に解釈して作り上げたものだ。仏陀が述べた事を解釈してそうなったとするには強引すぎる。
最初からそんな便利な方法があるなら、そうしてろって言いたくなる…。後の人が勝手に作り上げたものだ。あれだけ伝える事を重視ししていた仏陀が、こんなバカな考えに同意するだろうか?これが私の最大の大乗仏教に否定的な点だ。小乗の一部の人は大乗は偽典だと述べてる人がいるが私もそう思う。
日本人が仏教を知るきっかけになった点は功績だと思うが、それ以外害悪だと感じる面がある。何度も言うが私は信仰を否定してるのではない。時代に合ってないと思ってるが、それでも大乗をやるぐらいならイスラムやキリスト教のやったほうがより信仰を洗練されたものに触れる事が出来る。
日本人が合わないと思うのは伝統や歴史に騙されてるだけだ…。
追記:25/4/19
うーん竜樹の空やっぱり引っかかる。仏陀は空をある程度は精緻化してる。なのに二人が違うと感じるのは、仏陀はあくまで執着に対して空を持ち出した。そして仏陀は世界は空であるとすべてにも言った。だがこのスタート最後の境地は何か違いを感じる。
仏陀は最後の境地は精緻化してない。してたら竜樹は蛇足をした事になる。世界が空であるのを仏陀は詳細に語るつもりが無かったのじゃないか?と考えている。意外とこってりスタート段階で精緻化したのは、2つの意味がある。仏陀は最終的に実在論には突っ込まずに世界と空を結び付けた。
当然これ精緻化したものを弟子達から求められると思う。とりあえずはスタート時点の物で良い。だが究極的には実在論的に弟子たちは聞きたくなると思う。いらん事言った。そこまでしていったのは仏陀は空に特別な思い入れがある。それなんかわかった気がする。梵我一如、仏陀はこれに批判的だった。
我の中心のようなものがあるという考えが土台になってて今なら魂と言われるだろう。仏陀はこれを空にしたかった。ブラフマンが世界そのものなので、それゆえ実在論的なものに触れなくはいけなくなってしまう。出来なかったのか?やらなかったのか?は結局良く分からない。
ただ仏陀の熱意見たいのは分かった。なんでこんな事忘れてたんだ?ってちょっと自分でもうっかり。仏陀そういえばこれ批判的だったなと。そして我に関しては仏陀は精緻化してる。ゆえにスタートの時点では、空は十分仏陀は精緻化してる。ただ世界は空であるについては怪しい。
インド哲学側が変化したため、そっちに対応するように竜樹も最新のものを批判したからになる。仏陀の頃のものが土台になって発展したので、仏陀は答える必要が無かった。じゃ仏陀は竜樹と同じころに生きていたら、似たような結論になるか?ならなる可能性はとても高い。
その仏陀にも私は批判的か?なら批判的。仏陀は時折おかしなことをちょいちょい言う。これは人間は嘘をついてるわけじゃないのに幻覚や幻聴を簡単に起こしてしまう事実を知らなかったんじゃないか?と思ってる。
仏陀は時折そういう弟子たちの異常な精神状態をそのまま受け入れてしまってる部分があるため仏教と言えどもファンタジーにまみれている。その点大乗の酷い話はある程度仏陀にも原因があるんじゃないかな?と思ってる。ただ弟子たちが解釈しきれなかった可能性もありその辺り真の答えは良く分からない。
それでも比較的世界の宗教の中でもファンタジーが少ないのは確か。
何故こここんなにも難解なのか?と言うと仏陀は輪廻転生を否定してない。ただその肯定も否定も当時の常識とはかなり異なっていて物質や実在論と言うよりは我と言う心の理論としては精緻化してるからになる。その先は後の時代仏陀が批判的だった当時のインド哲学自体が変容したのが原因。
それに合わせて仏教の立場から意見したのが竜樹になる。何度も言うがミイラ取りがミイラになるので、これ無言が理想。やはり量子力学まで待つべき問題。でも全くの結果論で当たりを引き当てたのが竜樹。仏陀はやや不可知論的だが、徹底が無い。それゆえ現代的感覚だと矛盾が多い、と言うより当時の知識の限界だと思う。
仏陀は無言を貫けたか?なら無理だろうな…。いくら弟子たちがまとめた事だとしても、ここまで酷い脚色にならない。おそらく生の仏陀も意味不明なファンタジー理論いっぱいあったと思う。当時の人の中ではかなりマシってだけで。