残された不安
あなたは元の生活へ戻るといい。
ほとんど初めて見る字だったが、これほどわかりやすい簡潔な手紙を書く人物を、フェネルは他に知らなかった。
ガードウィンが姿を消すと、フェネルは本当にすぐに元の生活に戻った。
手紙を見てぼんやりとしたままいつものように朝食を摂ってすぐ、トールが姿を見せたと思うと、彼は事務的にお試し期間の終了を告げた。そしていつかの契約通り、フェネルの新しい住居を用意してくれ、すぐさまあの不思議な手品で荷物ごと彼女を送り届けてさえくれた。
しかし、ガードウィンの消息だけ一つも語らないまま。
気にならないといえば、嘘になる。
気難しいくせに優しい魔法使いは、両親以外でフェネルが初めて共に暮らした人だ。礼儀正しくて頭はいいのに、要領の悪い彼に親しみも沸いた。
けれど、結局本当に信じられるものが己しかないフェネルにとって、少しばかり一緒に暮らした彼をよすがにすることは出来ない。
今までも、これからも、フェネルにとって頼れるものは自分だけだし、ガードウィンもフェネルとずっと暮らすつもりなどなかったのだ。
そして仕事場である菓子屋に近い、前よりも日当たりの良い少しばかり広い部屋で体調を取り戻したフェネルは、いつものようにパイの生地を作っている。
(そういえば、魔法使いと住んでいたのに、ほとんど魔法なんて見られなかったわ)
魔法を使ったことと言えば、契約の時とフェネルの荷物を移動する時と、フェネルが覗き見をしようとした時だけ。
あとはほとんど薬売りのような生活をしていた。
冷たい手からは薬の匂いがうっすらとして、フェネルを見つめる赤い瞳はいつも穏やかだった。
パイ生地を型に流し込みながら、フェネルは苦笑する。
どうやらトールの思惑に未だはまっているらしい。
一国の宰相と連絡をとる手段など持ち合わせていないが、突然居なくなられてしまうと、気になるというものだ。
きっと、彼のことだから何所かで元気に暮らしているとは思うのだが。
フェネルはそう思うことにしてパイ生地をオーブンへと押し込んだ。
「いやだねぇ」
たっぷりとしたクリームをスポンジの上に乗せていたフェネルの耳に店の主であるリーザイルが客と話している声が聞こえてくる。
「隣の国とまた戦争だって? まだ男たちが徴兵されるまでは悪くなっちゃいないようだけど」
スポンジを被せてクリームをまた重ねることを繰り返しながら、フェネルは唐突に不思議に思った。
戦争の話はフェネルも知っている。街で配っている号外ぐらいは読めるのだ。けれど、
いったい、誰が戦争をしているんだろう。
この国では戦争をしていることを隠したりしない。隣の国と昔から折り合いが悪く、領土や水の問題で小競り合いを繰り返している。けれど、少なくともフェネルが生まれてからこのかた、この国が戦火に焼かれたことは一度もない。
城にたくさん抱えられている騎士や兵士たちが出兵するとなったら、街の中を通らない道はない。だから、街中が大騒ぎなるはずだ。
赤い木の実を持つ手が震えた。
けれど取り落とすことはしないまま、フェネルはいつもの作業を繰り返す。
木の実を等間隔にクリームの上に乗せれば特製のケーキの出来上がりだ。
慣れた作業を繰り返しながら、フェネルは気付いてしまった不安を打ち消せないでいた。
この国で、魔法使いは嫌われている。
部屋は骸骨だらけだとか、墓を掘り返しているだと、怪しい薬を作っているだとか。そんな噂に彩られて。
けれど、建国されてからたかだか三百年ほどの国の中で、すでに魔法使いだけ五十二代目。王様だってせいぜい十八人目だというのに。まともに学校にも行ったことのないフェネルだって知っている。
少ない知識から手繰り寄せると、何故か恐ろしいことが頭に浮かんだ。
フェネルは仕事の終わりを待って、城へ出かけることにした。
ガードウィンが姿を消して、すでに一週間が経とうとしていた。