不思議な生活
次の日も晴れていた。
早朝から起き出して、台所に向かう。台所は、田舎には何処にでもあるような釜戸や水場が置いてあり、いずれも綺麗に整頓されている。調味料も料理器具も同様だった。
フェネルはいつものように自分一人分の朝食を作った。パンとベーコン、卵の組み合わせは、一般の人間としては裕福な品数だ。野菜サラダとミルクも取りそろえる食卓はフェネルにとって、非常に華やかなものだった。
朝食を終えると仕事へ行く身支度を調え、家を出る。
そこで、
「おはようございます」
声をかけられるのだ。
朝日に眩しそうに目を細めながら遣ってくるのは、若い男である。
長身痩躯で、長い金髪をひとまとめにした軽装の、いかにも行商風のこの男は、魔法使いの弟子だと言った。穏和な笑みを浮かべていれば、人の良さそうな青年に見える。
魔法使いの婚約者という馬鹿げた理由で魔法使いの家に連れてこられて、その次の日、見知らぬ若い男に事情を説明されて驚いたフェネルだったが、二日目には慣れて、三日目の今日には平然と
「おはようございます」
挨拶するようにまでなっていた。
魔法使いの弟子だというのはフェネルに不信感を持たせるのに充分な要素だったが、いつでもにこやかな青年に対していつまでもそれは持続しなかったのだ。疑心暗鬼になるのは今でも拭いきれてはいないが。
連れだって街に行き、彼は何処かしらに仕事へ向かい、フェネルもフェネルで店仕事に向かう。
途中会ってしまった同僚は、魔法使いの弟子のことを聞きたがった。
「ねぇ、いつのまにあんないい男見つけたの? 何処の人よ。ここのあたりじゃ見かけないわよ」
フェネルはあらかじめ決めておいた言い訳を顔色一つ変えず教えてやった。
「隣街の従兄弟。母さんも父さんも死んだんだけど、親戚で一人だけ面倒見てくれるって叔父さんが出てきたの。彼はその息子さんよ。朝と晩、送ってくれるの。仕事がこっちにあるからって」
いざ、叔父さんと会わせろと言われたら、あの無責任な宰相を変装させてでも連れてくる。魔法使いと綿密に取り決めたことでもあった。
魔法使いにとっても、フェネルと住んでいるという事実は隠しておきたいことらしかった。
しかし、フェネルは魔法使いの家で彼とあまり顔を合わすことはない。時折、暖炉の前でローブ姿の魔法使いを見かけることがあるだけで、彼もフェネルに声をかけることはない。ただ、二、三言、他愛もない話をした覚えがあるかないかぐらいだ。
『食事、どうしてるの?』
居候の自分一人だけ食事していることが不気味だった。
ただ、それだけで魔法使いに話しかけるのには勇気がいることだったが、黙って隣にいれば、一般人とかわりがない。話しかけたくなるのも人のサガというものだろう。
暖炉の前に腰掛けていた魔法使いはフェネルに向かって顔を上げる。
『食べていますよ』
殊更に不快感を表すのでも、嘲笑するのでもなく、魔法使いはやんわりと笑んだ。
『何か不都合でもありましたか?』
そう問われると応えに窮する。だが、フェネルは何とか答えようと言葉を絞り出した。
『魔法使いは食べなくても生きていられるのかと思ったの』
そう言うと、魔法使いは苦笑した。
『魔法使いは、あいにくと仙人ではありませんので。霞を食べているだけでは生きていけません』
フェネルは返答を不思議と当たり前のように受け入れていた。一般論では魔法使いは悪魔と同じで、人間が食べるものを受け付けられないという。フェネルも当然のようにそういうものだと思っていたのだが、ここにきて、魔法使いが普通の人間と変わりがないのではないかと思い始めている。
しかし、それでは何百年も生き続けている説明がつかない。
興味深いことではあるが、尋ねて応えてくれる可能性は低いと思われた。
魔法使いはフェネルにあまり姿を見せないようにしている節がある。それはフェネルが怖がっていることを考慮してのことなのだろうか。
(それにしては、異常なのよね)
奇麗に整頓された台所、金髪の若い男、誰もいないような家。
共に暮らすと公言したわりにフェネルと魔法使いの接点はあまりにも少ないのである。
それに、魔法使いの家の中で、彼の弟子と出会ったことがない。
別の場所に住んでいるのだと、自分で納得させているが、教えをこうはずの弟子が師の家に全く寄りつかないというのは奇妙な話だった。
もしかして、フェネルの知らないうちにやって来ては帰っていくのかもしれない。だが、広くもない家の中で出くわさない方が不思議だ。
「フェネル」
隣で作業台に向かっていたはずのリーザイルがカウンターから呼びかけてきた。小太りでおおらかに笑うこの女性が一人でこの店を切り盛りする店主である。
「バリーさんよ」
フェネルが働いているのは、菓子屋である。大きくもないが小さくもない、街ではちょっと名の知れた砂糖菓子店で、幾つかの支店も出している。色とりどりの砂糖菓子を売るのはリーザイルとフェネル以外に三人。今は細工を作っているフェネルを残して、二人は出前に、一人は竈に向かっていた。
「バリー?」
招かれてカウンターに顔を出すと、金髪の弟子がにこやかに手を振った。
「まだ仕事は終わってないわよ」
フェネルがぶっきらぼうに言うと、弟子、バリーはきょとんと首を傾げた。
「お忘れですか。フェネルさん。今日はお客様がいらっしゃる日ですよ」
「あ」
今日は、フェネルを魔法使いの家に無理矢理押し込んだ張本人、トール宰相が様子を見に来る日だった。
この日までに何とか欠点や不満を見つけておこうかと思ったのだが、当たり障りのない魔法使いの応対にすっかり失念していた。
「三日前に自分で言ってたじゃないか。珍しくぼんやりしてるねぇ」
意味ありげにリーザイルが笑うので、フェネルは大きく溜息をついた。
「環境が変わったので、ちょっと寝不足なんです」
嘘ではない。だが、寝不足なのはバリーよりも先に街へ行ってやろうと躍起になって早起きしているせいだ。
「眠れないわけでもあるのかい?」
フェネルはなおも勘繰るリーザイルを置いて、荷物をまとめて店を出た。
煉瓦の敷き詰められた街路を歩いていると、ふいにバリーが顔を覗き込んできた。
この男、よく見れば目が赤い。まるで血を閉じこめた紅玉のようだ。
なるほど、魔法使いの弟子のわけだ。
自分の魔女めいた水銀の目を棚に上げて納得していると、手が伸びてきてフェネルの額にピタリと据えられた。
視界が一瞬真っ白になる。
「熱はないようですね」
ひんやりとした手のひらがふいに離れると、フェネルはようやく自分が息を止めていたことを知った。
新しい空気を求めて、フェネルはそっと自分の胸に手を当てた。
「……なんですか?」
「ああ、いえ。突然、すみません」
バリーはフェネルの反応に驚いたのか、頬をかいた。
「寝不足でいらっしゃるとは気づかなかったものですから。具合がお悪いのかと」
「気になさらないで」
まさかアンタより早起きしたかったとは言えない。フェネルの本音を知ってか知らずか、バリーは肩を竦めた。
「そうはいきませんよ。あなたはお預かりしている大事なお客様です。何かあってからでは、私がしかられてしまいます」
屈託無く微笑まれれば、黙って頷くしかなかった。フェネルの嘘のせいでこの弟子が魔法使いに叱責されるのはあまり気持ちのいいものではない。
フェネルの返事に満足したのか、バリーは街路の周りに陳列している店を見回した。
「フェネルさんの店でクリームケーキを買いましたから、紅茶でも買っていきましょうか」
紅茶は貴族の嗜好品である。今では貴族のみの特許品ではないが、一般市民には高値の花だ。
紅茶の専門店には、やはり身形のいい貴族の婦人達が集まっていて、フェネルやバリーのような庶民の服装は異様に目立った。別段、気にするわけではないが、暇を持て余しているらしいご婦人方の視線は痛い。
だが、バリーはそんな視線も感じないのか、店で一番高そうな良質の茶葉を買った。
ドアベルに見送られて店を出てから、フェネルはバリーを見上げた。
「何ですか?」
「……魔法使いって儲かるんですか?」
バリーは楽しそうに笑った。
何をそんなに笑えるような質問をしたのだろうかとフェネルは眉根を寄せる。
「変なことを聞きました?」
「いえ……」
笑い納めたバリーは手に抱えたケーキの箱と紅茶の入った紙袋をフェネルに手渡す。
「たくさん仕事をしていれば、それなりに。でも、多分、フェネルさんの月給と変わりないでしょうね」
手渡された箱と袋とバリーを見比べて、フェネルは目を瞬かせた。
「変わりがない? あれだけ薬を作って?」
詳しい魔法使いの仕事は知らない。だが、毎日、バリーが抱えて出てくる箱にはいっぱいの薬が入っていることは知っていた。バリーは魔法使いが街の人に依頼を受けて作った薬を配っているのだ。
「はい。規定の料金表があるわけではありませんし。場合によってはお金をいただいていません」
ただのお人好しだ。
フェネルの表情を読んだのか、バリーは苦笑した。
「お人好しでしょう? 私もそう思いますよ」
街を出ると、大きな道がある。だがその道を逸れて、小さな林道に入った。大通りに人は多いが、不思議なことに誰一人としてこの林道に気づいた様子の者はない。まるで忘れ去られた道だった。
木漏れ日と小鳥の鳴き声が響く道は、まるで胎内のように熱くもなく寒くもない。
ざわざわという胎動のような木々のざわめきを聞きながら林を抜けると、小さな家が見える。
こじんまりとしていながら、石造りのどっしりと土地に根付いている古い家。魔法使いの家である。
「では、私はここで」
いつもバリーとはここで別れている。来た道を戻っていく彼を見送り、フェネルは魔法使いの家へ向かう。
林を抜けたと言ってもそこには僅かな野原があるだけで、周囲は広大で深い森に囲まれている。
そのほぼ中央に建っている家は、外界から取り残されたようにも見えた。
フェネルはノックもせずに家へと入る。普段はそこに誰もいないのだが、今日は三揃えのスーツを着込んだ紳士が優雅にダイニングの椅子に腰掛けていた。
彼はフェネルを見つけると、折り目正しく礼をした。
「お久しぶりでございます」
「…あ、こちらこそ!」
フェネルは勢いよく頭を下げた。
「つつがなくお過ごしのようで安心いたしました」
「あー……まぁ」
問題の起こしようがないほどつつがないのは本当だ。
「ご不在でしたが、失礼とは思いつつ中で待たせていただいておりました。お許し下さい」
「いえ。……私がここの家主ではありませんから…」
そう言ったフェネルに紳士、トールは苦笑いしてみせた。
「まだ、そうではございませんでしたね」
たぬきジジィ。
「そういう寝言は寝てから言っていただきましょう」
フェネルの代わりに悪態をついたのは、書斎から顔を出した魔法使いだった。
彼の姿を見るのは日に何度も見るわけではないのだが、いつ見ても同じようなローブ姿だ。一見表情のわからない顔からは白い髪と髭がいつも通り覗いている。
「お忙しいようですね。大丈夫ですか?」
トールに微笑まれて、魔法使いは憮然と紳士を睨んだ。
「おかげさまで。薬の調合が残っておりますので、少しお待ち頂けませんか?」
「承知いたしました」
魔法使いはトールの応えを聞いてから、再び書斎のドアを開く。
「フェネルさん」
珍しく呼びかけられて、フェネルはびくりと魔法使いを見遣った。
「な、何ですか?」
「買ってきた紅茶とケーキを先に食べていてください」
言ったきり、魔法使いは書斎に消えた。
「……何で知ってるんだろ…」
魔法使いを見送ってから、フェネルはぽつりと漏らしていた。
どうして、話もしない紅茶とケーキのことを知っていたのだろう。
だが、魔法使いなのだから判るのだろうと根拠のない理由を考える。
ふいに失笑が聞こえた。
振り返ると、トール宰相が口元を押さえていた。
「いや…。失礼」
何を笑っていたのだろうか。不思議の思うがフェネルは質問しなかった。
「すみません。今、紅茶いれますね」
「あなたは本当にガードウィン殿に相応しい方のようです」
「……は?」
話題がちぐはぐだ。フェネルの困惑を察したのか、トールは頷いた。
「魔法使いというのは、仙人の類でも化け物でもありません。魔法自体、不思議な術ではなく、しかるべき法則に従った技術です。我々の間では魔法使いというのは、魔法を公使する操者というよりむしろ魔法を研究する学者という印象が強いのです」
「……つまり、魔法使いはただの人間だと?」
応えると、トールは満足したように口の端を上げた。
「ガードウィン殿は、一つ、あなたに嘘をついています」
フェネルは少し眉根を寄せた。だが、トールは呪文のように続ける。
「確かめてみては、いかがですか」