魔法使いの家
十歳で両親が死んだ。
それは珍しくもないことだ。長年の苦労は彼らに途方も無い辛苦を舐めさせたし、娘の目から見ても両親はあまりに優しく、あまりに世間知らずだった。
そんな両親からは溺愛されていたが、容姿は親戚中から嫌煙されていた。
老婆のような白銀の髪、そして水銀のような瞳。
髪の色は父から、瞳の色は母から、とそれぞれ忘れ形見のように授かったのだが、それが重なると不気味な印象を作り出した。銀髪の女は珍しいのである。高齢でもない限り、こんな色になることはない。瞳も光の加減では光沢のある銀に見える。
幸い、魔法を使うような娘ではなかったため、町で面倒を見てもらえることとなり、今まで暮らせていたのだ。
それが、どうしてこんな結果を招いてしまったのか。
運命などという掴み所のないものに自分の未来を託したことの無い。だが、今度という今度は幸運とかそういうものに見放されてしまったと思わざるを得なかった。
フェネルは生まれて初めて現実を恨んだ。
「こちらが魔法使いのガードウィン殿でございます」
魔法の杖を片手に紳士は優雅としかいえない所作で、何やら机に向かって薬の調合をしていたと思しき老人をフェネルに紹介した。
老人はさして驚いている様子もなかったが、突然のことに不機嫌さを露にしていた。薬匙をテーブルに置いて、静かに紳士に向き直る。
「何事ですか。トール宰相」
宰相と聞いて、フェネルは傍らの紳士からパッと身を引いた。今の今までただの王室付き執事だと思っていたのだ。トール宰相といえば、国内外で能吏と知られている敏腕宰相である。
「呼び鈴も鳴らさず、年若いお嬢さんを連れて、しかも何処かしらの家具ごとお見えになるとは聞いておりませんよ」
老人の言葉はもっともだった。
フェネルと紳士は、フェネルの家にあった家具ごとこの家――魔法使いガードウィンの家に転送されたのだ。広いとはいえ、物が散在しているこの部屋にフェネルの部屋にあった家具が割り込んできたのだから、部屋は大変な混雑具合となっている。
家は古かった。煉瓦造りが主の今の建築とは違い、木と石を組み合わせて作られている。一見、大嵐にでも飛ばされてしまいそうな外見ではあるが、太い柱や頑強そうな石というより岩はがっしりと家屋の形を保っている。古い型の暖炉があり、広い部屋には所狭しと本や何かの機材がびっしりと壁際に置かれた棚に放り込まれており、梁には乾燥した薬草が鈴なりにぶら提げられている。魔法使いの家ならば骸骨の一つや二つはあるだろうと思っていたフェネルは少し毒気を抜かれた。これではまるで田舎の好々爺の家である。
「ガードウィン殿。こちらはフェネル様と仰って、あなたの花嫁候補です」
そう紹介されて、フェネルは殊更大きく首を横に振る。大声で抗議しようとする彼女を制したのは、それまで落ち着いて座していた老人だった。
「待ってください。宰相。私がいつ、嫁を取ると進言しました? 少なくとも私の記憶にはありませんよ」
無表情な紳士は、意外なことを聞くとでも言うようにわざとらしく肩を竦めて見せた。
「あなたが王に条件を出されたのではありませんか」
「あれは、ただの条件でしょう。私は結婚する気などありません」
落ち着き払った紳士を睨むようにして老人は苦々しく言い放つ。
「では、わたくしがここに連れて来られた意味などないではありませんか」
フェネルは我慢できなくなって、とうとう紳士に噛み付いた。
「魔法使い様は結婚する気などない。私も先ほどお断りしたばかりですわ。個々人の問題である結婚に双方の同意が得られないというのに、このような徒労を費やすほど宰相様はお暇ではないでしょう? わたくしは即刻家具を持ち帰り、退散させていただきますわ!」
フェネルの剣幕に紳士は少し押し黙るが、効果のほどがほとんど窺い知れない表情で、彼女に向き直る。
「それこそ、無駄な徒労というものでございます」
「は?」
思わず顔を顰めた彼女を諭すように紳士は冷然と続けた。
「あなた様のお部屋は今日限りを持って売却されました。住宅移住法第五十条百六十五項目『特殊事情による移住』を参照し、住民票は国庫預かりとなりましたので、即日、こちらに住民登録を移しました。住民登録後は戸籍登録法第三十七条を参照しまして、最低でも一ヶ月、住民登録地での定住が求められます。なお、確かに法的な結婚については個々人の問題と不可侵視されています。法的な強制力を受けませんのでご安心下さい」
つまり、結婚は前提としているがまず一ヶ月この家で暮らせ、というのだ。フェネルはあまりに強引な手引きに開いた口がふさがらなくなった。
「お待ちください」
紳士に負けず劣らぬ怜悧な声を滑り込ませたのは老人である。
「強制力はない、とおっしゃられましたが、では第五十条の『特殊事情による移住』の適用基準は? それに適用されたとしても戸籍登録法での『特殊事情移住者の登録』で定住は一ヶ月ではなく、一週間となっているはずですよ。そもそも借家の売却にかかる日数は最低でも三日かかるはずですが?」
それに、と老人は一呼吸おいて続ける。
「私の条件をこのお嬢さんが満たしているとは思えません」
意見だけは老人に賛同していたフェネルは少し息を呑む。最後の老人の言葉が、反論の切り札なのだ。
魔法使いが出した条件がどんなものかは知らないが、紳士が勝手に選んでつれてきた娘である。フェネルが必ずしも条件に見合うというわけではない。いざとなれば、どんな問題もでっち上げることが出来るのだ。フェネルは出来うる限りの応対をざっと頭に浮かべておいた。
だが、紳士は怯むどころか、微かな笑みさえ浮かべて頷く。
「いいえ。私はフェネル様が理想的なあなたの花嫁だと確信しております」
紳士はフェネルに視線を改めて向ける。
「こちらは条件を全て満たしておいでです。フェネル様に不服はおありでしょうが、ガードウィン様に不服を言う権利はありません」
「それは貴方の私見ではありませんか? 宰相」
魔法使いは食い下がる。しかし、
「はい。私の見解も踏まえた上で判断してよいと下知されておりますので、そのようにいたしました」
外交で辣腕を振るうプロに幾ら魔法使いとは言え、勝てなかった。
老人は唸るように言葉を切ると、諦めたように手を振る。
「すみませんね。娘さん」
意外にも先に謝罪されて、フェネルは少し目を丸くした。だが、彼女は小さく頷く。プロにここまで食い下がったのは褒めるだけの価値がある。
「では…」
紳士は仏頂面に勝ち誇ったような雰囲気を漂わせて、老人とフェネルを見遣るが、老人が彼の言葉を遮った。
「どう考えてもその法律適用は無理がありますから、私が言ったように期間は一週間。一週間、彼女を預かり、今後のことを話し合いましょう。結婚できないと結果がでれば、その判断は不可侵としていただきます」
老人は一枚の紙を取り出すと、何かを万年筆で書き出し、宰相に差し出した。
「誓約書です。私の言葉が記録されました。それから、フェネルさん」
突然、名を呼ばれてフェネルは瞬きしたが、老人に向き直る。
「貴女はここで見たこと、聞いたこと全てを決して何処へも漏らさないことを誓ってください」
老人は宰相に渡した紙と同じような紙をフェネルに差し出す。紙には、ただ彼女の名前が書かれていた。
「私も一応魔法使いの端くれなので、薬の調合法なんかを同業者に知られると色々と不味いんですよ」
不思議そうな顔をしていたのだろうか。老人は少し苦笑したようだった。
老人はフェネルに紙を手渡すと、自分も紙切れを取り出して、何かを書き出す。
「私も誓約しましょう。この誓約を破ると体が動かなくなる程度の呪いがかかりますが、要は信用の問題ですから」
「確かに」
紳士は紙切れを再度確かめると、懐に仕舞いこんだ。
「三日後、様子見にお伺いいたしますが、雑費もかかりますでしょうから、とりあえずこれをお納めください」
紙切れと入れ替わりに紳士が取り出したのは、小さな皮袋である。
テーブルの上に置かれると澄んだ音が鳴った。
「豪気なことですね。たかが一介の魔法使いの問題でしょうに」
中身は金貨だとすぐ知れた。老人は鷹揚に溜息を吐くと、皮袋を紳士の方へと押し返した。
「とりあえずの生活費は私が持ちましょう。無理な生活はしませんから。余計にかかった経費だけ、後ほど請求させていただきます」
ここに来て、初めて紳士ははっきりと苦笑した。
「相変わらずですな。ですが何があるか判りません。問題が起こってからでは私どもでは初動作がどうしても遅れがちになりますから、どうぞ、予備費として」
紳士は穏やかに微笑むと押し返された皮袋は受け取らず、そのまま杖を手に少し開けた床に立つ。
「問題が発生した場合には必ずお知らせください」
彼は老人からフェネルに向き直り、仰々しく頭を下げる。
「どうぞ、よしなに」
そのまま杖の先で床をトンとつくと、嘘のように紳士の姿は部屋から掻き消えた。
紳士の消えた場所をフェネルは呆けて見送ったが、急に静かになった部屋を見回して改めて緊張する。
この部屋には今、魔法使いとフェネルしかいないのだ。
さて、と老人がのんびり立ち上がっただけで、フェネルは咄嗟に近くにあった椅子の後ろに後ずさった。
老人はフェネルを一瞥するが、さして関心もない様子で背伸びする。
改めて見る老人は、長身だった。
ローブを着ているが痩せているのは一目瞭然で、先ほどの紳士のようにすらりとした印象もある。だが、長い白髪と白い髭は顔を埋め尽くしていたので老人以外には見えなかった。
「まずは、あなたの部屋を用意しましょう。日当たりは良い方が好きですか?」
軽い口調で尋ねると、老人は窓際に足を向けた。
「え、ええ。まぁ…」
我ながら呆れるほど引き攣った声だ。フェネルは必死に緊張を悟られまいと語調を整える。
「朝日を浴びてから起きられますか?」
老人は窓際から少し離れた。
「ええ…」
フェネルの今まで住んでいた部屋は、四階建ての四階で、朝日がまともに入ってくる部屋だった。早起きのフェネルとしては都合の良い部屋だったが、あまり強く日差しが入る部屋は嫌われるものだ。
「高いところは大丈夫ですか?」
今度は今までいた場所から斜めに少し離れて、老人は立ち止まる。
「大丈夫です」
高い所ならば、時計塔で暮らしていたこともあるので大体は平気だ。
「わかりました」
老人は頷くと同時に足を踏み鳴らした。床を一度踏み、二度踏み、三度踏むと、地鳴りのような音がガタガタと響いてきた。そうかと思えば、突然、フェネルのベッドや棚が消えた。代わりに、古びたベッドと本棚が部屋の隅にきちんと並んで落ち着いた。
唖然として眺めるフェネルに、老人は一指し指で上を指した。
「あなたの家具は二階に運びました。最近は使っていないので、少し汚れているかもしれません。二階の廊下の突き当たりに掃除道具が入っていますから、お好きなようにお使いください」
言われてようやく頷き返したフェネルだったが、ふと思いついて老人を顧みる。
「あの、私はこれからどうすれば良いんですか」
「お好きなように、と言いたいのですが、世間様の目もありますから。この家でジッとしていていただくのが良いのですが…」
「そんな……」
困ると言いかけたフェネルだったが、魔法使いの家に住んでいるなどと町の住人に知れたらどうなるかが恐ろしくなった。今まで何とか続けてきていた店仕事も働き口が無くなってしまうかもしれないのだ。
押し黙るフェネルに、老人は軽く手を振った。
「良いでしょう。あなたが出かける時は、私も同行することにします」
「えっ」
フェネルは思わず声をあげて瞬く。こんな目立つ老人を連れて歩けば、魔法使いと同居していることはわからないにせよ何らかの関係があると思われてしまう。
「ご心配なく。この姿で無ければ良いのですから。こう見えて、私も外へ出かける機会が多いので一緒に出かけられると思いますよ」
老人は少し笑ったようだった。