嵐の前の静けさ
8
その不気味な程に怪しく輝く花は、
風に揺られて踊っている。
日没直後の夜空のような、淡い藍色。
花粉を飛ばすその姿は、
狂ったように笑っているようにも見えた。
街中のアスファルトに蔓延り、
絨毯のように彩っている。
【解せぬな。】
一言。
重低音の声が響くと同時に、狼に似た
大きく真っ黒い獣が
蔓延る花たちの方へ飛び出した。
オォォォォッ!!!
咆哮が、辺りを揺るがして響き渡る。
咲き誇っていた花弁が
悲鳴を上げるように震えて、落ちた。
蔦の部分は萎れて、一気に
枯れ野原へと色を変えていく。
黒い獣は、それを貪り食い始めた。
それを止めることなく、声の主は
傍らに姿を現し、佇んでいる。
その容姿は、一言で言えば毛玉。
ふわふわで真っ黒い繊毛は、
どこからともなく吹く風に靡いている。
【我が眠っておる間に、随分と
荒んでしまったようだ。】
好き放題しおって。
紡ぐ度に、地響きが生まれる。
【ここまでの狼藉を、
人の業が起こすとはな。】
全くもって、解せぬ。
黒い獣の貪り食いは瞬く間に終わり、
見渡せる範囲までが一掃された。
元の景色に、戻っているように見える。
だが。
根元までは、枯れていない。
【厄介事を増やしおって・・・・・・】
彼は、愚痴のような言葉を漏らした。
しかし、揺れる体を見る限りでは
笑っているようにも窺える。
【しばらく、退屈せずに済みそうだ。】
その二方を目の当たりにする、
若い女がいた。
『ひぃぃぃっ・・・・・・』
恐れおののき、腰を抜かしている。
目が何処にあるかも分からない黒い毛玉から
帯状に伸びて、その女を捕らえた。
【食い零すとは。何をやっておる。】
咎められ、キュウン、と
黒い獣は小さく鳴いた。
女は、大きな恐怖が後押ししたのか
必死で足掻いて、逃れようとする。
【・・・・・・普通の反応は、こうであるな。】
彼は、大きく揺れた。
思い浮かべるは
儚げに微笑む、想い人。
【案ずるな、女。これも縁。
我に呑まれて、全てを忘れよ。】
我の一部に。
彼の声は、女に届く様子はなかった。
それに対し、更に可笑しそうに揺れる。
【“あれ”が、変わっておるだけか・・・・・・】
ばくん。
女は、黒い毛玉の
大きく開けた口(?)の中へと
吸い込まれた。
何事もなかったかのように、言葉を漏らす。
【“あれ”は、生かしておく方が面白い。】
さて。
あの男の豪語は、誠なのか。
じっくり、見せてもらおう。
我を目覚めさせ、御影を委ねたからには。
無事で済むとは思うなよ。
【ただ黙って見守るのは、つまらぬな。】
あの男の力は面白い。
我の媒体など、並大抵の人間では務まらぬ。
影響も。上手いこと流しておる。
【少しばかり、遊んでやろう。】
本来の力を戻したからには。
楽しませてもらおうか。
*
時間が経つのは、早い。
社会人になったと同時に、それが分かった。
学生の頃に考えていた
時間の価値観とは、かなり違っている。
あの出来事から、気づけばもう
約三ヶ月過ぎていた。
特に何も、変わっていない。
いや、変わっているのかもしれないが。
仕事が忙しいのは、目に見えて変わらない。
ISAMIベーカリーの人気は
衰えを知らないし。変わった事といえば、
自分の他に従業員が4人も増えた。
そして代わりのように
真世心の伯母である智絵里は、
お店から引退してしまったけど。
心強い助っ人だったし、師匠だったので
彼女が離れたことは、とても心細かった。
しかし彼女に倣って身に付いた
接客術は、今でも活かされている。
前よりも自分は、きっと冷静に
物事を見据えて対処できるようになった。
と、思う。
少し変わったのは、白夜の部屋に行く回数。
もう、住んじゃえば?と
まよごんに言われるくらい、行っている。
穂香にも言われた。
同棲してみたら?って。
いや、目と鼻の先だし。
別に、形として当て嵌めなくても。
もう一個部屋が、できたと思うくらいで。
・・・・・・と、自分に言い聞かせている。
彼に施す膝枕の回数も、増えた気がする。
でもなぜか、“間”には行かなかった。
あの出来事以来、一度もない。
普通に、白夜が眠っているのを
ゆっくり、眺めることが出来る。
画像に収めることも。もう、数え切れない。
ただ。一番最初に収めたあの、透明人間の謎。
未だに辿り着けないし
解明されていない。
・・・・・・その話題に触れる程、互いに
もう気にしていないようにも思える。
最近では、“写っていない”のではなく
“写っているが現像不可”なものが
収められたのだと、割り切っているような。
いつか、自然に分かる時が来ると
成り行き任せで、落ち着いている。
白夜は、というと。彼も変わらない。
以前に増して、まぁ、ふんわりしている。
本業が忙しくて疲れているのか、
部屋で会っても眠ってばかりだ。
自分は、膝枕ばかりしている。
それで、癒されるなら・・・・・・いいけど。
あの時、何が起こったのか。
未だによく思い出せない。
忘れてしまったのか、
思い出さないようにしているのか・・・・・・
よく分からないままだ。
ぼんやりとしている。
でも。きっと。
あれから、何かが変わったのは間違いない。
そう。目に見えないもの。
きっと、それだと思う。
でも、まぁ。
平穏で、平和。それが一番だ。
そう、言い聞かせていた。
*
「ずっと、雨降ってるね。」
部屋の窓に付いていく水滴を眺めながら、
心依架は言葉を投げる。
「今年の梅雨は、長いらしいよ・・・・・・」
リビングのソファーに寝転がっている白夜は、
大きな欠伸をして応えた。
彼は今、晩酌の途中だ。
それにも関わらず、もう眠りそうだった。
「思ったんだけど・・・・・・」
「ん?」
カーテンを閉めて
彼がいる所へ歩いていくと、
ソファーのフレームを背にして腰を下ろす。
いつもの定位置である。
「本職は、順調なの?」
―あれから、栞さんと会っていないし
連絡もない。マナさんとおじぃちゃんにも。
晴さんとは、この間
パンの予約で連絡し合ったけど。
みんな、どうしてるのかな?
“間”に行ってないのも、流石に気になる。
あ。叔父さまと会うのも、実現してない。
いつ、会えるのかな?
いろんな疑問が浮かんだ中、問い掛けたのは
当たり障りないものである。
「あぁ・・・・・・順調だよ。」
ふんわり、彼は微笑む。
「気になるよねぇ。」
「・・・・・・かなり。」
彼が関わるプロジェクトの実態。
それを聞いたのは憶えている。
「君が心配するような事は、起こってないよ。
今は・・・・・・待つのみ、かな。」
ふわぁぁぁ、と欠伸が漏れる。
吸い込まれそうなくらい、大きなやつ。
「いつもより、欠伸してない?」
「そう?いつも通りだと思うけど・・・・・・」
「また、眠りっぱなにならないでよ?」
心から、そう思う。
もうあんな寂しい思い、したくない。
「・・・・・・ふふふ。」
彼の顔が、近づく。
「ホントに心依架は、かわいいね。」
彼は、ドキッとさせる天才でもある。
「・・・・・・ガチで、心配してるんだけど。」
誤魔化すのが上手いのだ。この男は。
むくれていると、更に彼は笑う。
「もうちょっと待ってて。
すぐに分かるから。」
「・・・・・・何が?」
「ナイショ。」
出た。秘密主義。
「ほんっっっとに好きよね。ナイショごと。」
「好きっていうか、
言葉にするのが難しいだけだよ。」
それも、耳にタコ。
「眠たいんでしょ?寝るなら、もう帰る。」
「えっ。膝枕は?」
自分は、枕じゃない。
「明日仕事だし。」
「いつもならいるでしょ?」
今日の分の膝枕、してもらってないよ?
そんな声が聞こえそうな顔してる。
「やだ。」
「お願い。お腹空いたよぉ。」
「さっきから、
飲んだり食べたりしてんじゃん。」
「それとこれとじゃ、話は別。」
どう別なのか。分からない。
「心依架ぁ」
「甘えるなっ」
ハグしようとする腕を、払う。
「今日、冷たくない?」
「別に。」
つんとして、立ち上がる。
「教えてくれたら、いてあげるけど。」
「だからぁ」
「もうあんな思いはしたくない。」
死ぬほど、辛かったんだから。
玄関に向かって歩いていこうとすると、
引き留めるように
背後から彼の両腕が回された。
「あの時は、ごめんって。
何度も謝ったでしょ?」
「分かってない。反省してない。」
腕を外そうと、もがく。
勿論、本気じゃない。
引き留めなかったら、一週間
口きかないつもりだった。
「何とも思ってないっしょ?」
「違う。どうしたら、分かってくれる?」
「あの時の事、全部教えてくれたら。」
憶えていない、というはずがないんだ。
今になって、栞さんの意味不明な発言が
思い浮かんで、確信する。
ゼッタイ、何かが起こったはず。
「・・・・・・それも含めて、
もうすぐ分かるって言ってるのに?」
駄々っ子みたいだね、君は。
溜め息混じりで、笑いも零れる。
「いっっっつも、
重要なとこ言ってくれないもん。」
「変な誤解を与えたくないからだよ。
言葉は、難しいんだ。」
「心依架にはいいっしょ?
誤解なんて気にしなくていいから
話してよ。」
「自分は気にするの。」
諭すように、頬にキスされる。
「黙って、膝枕されてください。」
「ちょっ」
ふわりと、身体が浮いた。
抱き上げられ、心依架は慌てて
足をバタつかせる。
「おっ、下ろしてっ」
「受け付けません。」
身長はあまり変わらないのに、彼は
かなり力がある。
いつも軽々と、自分を持ち上げるのだ。
その度、狂ったように
ドキドキが止まらなくなる。
そして、向けられる大きな双眸の眼差し。
「やっ・・・・・・だってば・・・・・・」
これには、いつも勝てない。
いや、無力化する。
ずるい。ずるいよ。自分が逆らえないの、
分かって向けてくるもん。
「・・・・・・もう少しだけだから。ね?」
「・・・・・・」
小さく、頷く。
分かっている。彼が、どれだけ考えて
行動しているのか。
だからこそ、知りたいと焦ってしまう。
彼の首に、しがみついた。
「あまり、無理しないでよね・・・・・・」
お願いだから。
強く、そう思うしかできなくなる。
「うん。勿論。
・・・・・・もう、君に助けられたから。
もう、以前の自分じゃないよ。」
優しく囁かれて、ソファーに運ばれる。
下ろされ、座らされた後
白夜は寄り添うように腰を下ろした。
「膝枕だけは、ちょっと増えたかもね。」
くすっと笑って、彼は寝転がる。
自分の膝の上に、頭を置いて。
「ほぼ、日常化してるよ。」
呆れたように見下ろして、心依架は笑った。
「次の休みは、いつ?」
「明後日、かな。」
「じゃあ前夜に。泊まりにおいで。
その時に、分かるようにする。
もう、頃合いだと思うから・・・・・・」
瞼を閉じたと思ったら、すぐに
すぅ、と寝息を立て出す。
寝つき、良すぎだってば。
「頃合いって・・・・・・何の?」
尋ねても、返事は来ない。
分かっていても、問い掛けてしまう。
「もう・・・・・・」
寝顔、かわいすぎ。ホントに罪だ。
何でも許せちゃう。
仕方ないので、スマホを取り出して
彼の寝顔を、ぱしゃりと撮る。
この瞬間、幸せ。
何もかも、忘れられる。
二人だけの、秘密の時間だ。
「好きすぎて、おかしくなりそう・・・・・・」
これが本音。
眠って聞いていないのをいい事に、
つい漏らしてしまう。
「ずっと、一緒にいたいな・・・・・・」
彼は、束縛とか嫌うのではと。
だから同棲とか結婚という形に
当て嵌めるのも、違う気がして。
だけど、自分の本音は。
「ねぇ・・・・・・どうしたらいいの?」
何が正解なのか分からない。
言っていいものなのかも。
とりあえず今が幸せなら、それで。
そう言い聞かせてばかりいる。
それで時々、気持ちが漏れそうになって
隠そうと、裏腹な態度に表れてしまうのだ。
ここまで、沼ってしまうとは。
彼はホントに、罪だ。
「・・・・・・お疲れさま・・・・・・」
いつも最終的に、労いのキスを落とす。
これで幸せなのだから、自分は
案外ちょろいのか。
溜め息を、漏らした。
*
前夜という時間は、すぐにやって来た。
「じゃあ、行ってくるね。」
「行ってらっしゃい。」
いつものように、穂香が玄関で送り出す。
「あっ」
出ていこうとしたのを止めて、
心依架は振り返った。
「今度、彼を連れてくるね。」
ずっと先延ばしにしていた、
白夜を家に呼ぶ件である。
「いつでもいいわよ。無理なくね。」
いつも優しく笑顔で手を振って
見送ってくれる彼女に、感謝しかない。
「・・・・・・ママ。」
「ん?」
「結婚したこと、後悔してない?」
何気に、聞いてみた。
離婚するとは思わなかったはずの、
結婚生活。それがダメになった今、
悔いはないのか。
「後悔なんて、ないわよ。
あなたを生んで、
本当に良かったと思っているわ。」
淀まず、紛れずに彼女は
満面の笑顔で告げる。
「誰でも、すれ違いは起こる。
それを受け入れて、進めるか。
それだけだと思う。・・・・・・
私たちの場合は、互いに
心が離れてしまった。その結果よ。」
ぽんぽん、と頭に手を置かれて
背中を押される。
「もっと気軽に考えなさい。
我慢せず吐き出すのも大事よ。」
良い方に転がるから。
そう言葉を掛けられ、送り出された。
―ママには、敵わないな。
何で分かっちゃうんだろう。
もわっとした空気が、身体に纏わりつく。
今日やっと、梅雨明けしたって聞いた。
本格的に夏が始まる。
「花火、見に行きたいな・・・・・・」
浴衣着て、彼と一緒に。
彼の部屋に行く途中の独り言は、大半が
伝える為の予行練習だ。
会えるのは、いつも夜だ。
花火なら、見に行けるかも。
誘ってみようかな。
彼の部屋への道のりは、短い。
エレベーターを上がったら、すぐだ。
それなのに、じんわりと汗が滲む。
「本業で、忙しいかな・・・・・・」
気を遣ってしまうのは、関わる仕事が
終わりが見えず身を削るようなものだからだ。
とある研究で残された根深く悲しき残骸を、
払拭するというプロジェクト。
自分の足りない頭では、それを全部
理解するのは難しいが、
皆が見えないところで彼は動いている。
褒められる事も、称えられる事もなく。
それだけでも、十分すぎる程
尊敬に値する。
自分が足枷にならないようにと、
いつも心掛けている。
「息抜きは、必要っしょ・・・・・・」
そうだ。息抜きとしてなら。
誘ってもいいかも。
部屋のドア前に着くと、心依架は息を整えた。
―あの時、何があったのか。
今夜分かるんだよね。
知りたいけど、ちょっと怖いな。
インターホンを鳴らすと、
すぐに白夜はドアを開けてくれた。
「こんばんは。」
ふんわり優しい微笑みに釣られて、頬が緩む。
「外、めっちゃ暑い。」
「今夜は風が無いから、尚更かもね。
そんな中、申し訳ないけど・・・・・・
これから公園へ行きたいんだ。」
涼むというご褒美は、
得られないかもしれない。
「いいけど・・・・・・汗かきそう。」
「紫蘇ジュースをご馳走するから。
マナさんからもらったんだよ。」
マナさん特製の、紫蘇ジュース。
聞くだけで、何か美味しそう。
十分ご褒美だ。
「氷たっぷり入れてね?」
「うん。かき氷に掛けても美味しいよ。」
「うわぁヤバいっ」
「ふふふ。実は、かき氷機あるんだよねぇ。
食べたい?」
聞くまでもない。
「食べたい!」
「決まりだね。」
「早く行こうっ」
「はいはい。」
コスメと日用品の一部は、お泊まり用として
彼の部屋に置かせてもらっている。
スマホはポケットにあるし、手ぶらである。
既に行く準備をしていたのか、白夜は
そのまま外に出て、ドアを施錠した。
「何で、公園に?」
今夜の気候では、用事がなければ
外に出ようとは思わない。
並んで歩き出し、心依架は問い掛けた。
また“ナイショ”と言われるかも、と思いながら。
「理由は不明だけど、あの場所は
“常世”と繋がりやすくてね。」
答えてくれたのが、まさかの
“常世”という言葉。
別の意味で、涼めるかも。
「“常世”に・・・・・・行くんだ?」
「正確には、“間”を中継していく。
その点は前と同じ。
その方が、安全だからね。」
久しぶりで、ちょっと嬉しいかも。
“間”に行くのは、どちらかというと
好きな方である。
「“心”に会えるって事だよね。」
「そうだねぇ。」
エレベーター内は冷房が効いていて、涼しい。
一緒に乗り込んで、一階へと下りる。
「・・・・・・“彼女”にも、ね。」
「・・・・・・?」
“彼女”とは、“心”の事ではなくて?
首を傾げていると、白夜は
こちらに目を向けて言葉をくれた。
「不具合で、君は忘れているだけなんだよ。
ようやく、受け入れる準備が整った。」
不具合。
そういえば、そんな言葉を
蔵野が言っていた気がする。
“・・・・・・公園へ出向く手間を、省かせてもらう。
それによって生じる不具合がある事を、
頭に置いてもらいたい。”
もしかして、その“不具合”が起こって
自分は忘れているだけ・・・・・・って事?
それなら、話は変わってくる。
「受け入れる準備って?」
「これからの、お楽しみ。」
エントランスを抜けて外に出ると、
ふと夜空を見上げる。
小さく疎らな星が、浮かんでいた。
「楽しい事、なんだ?」
「きっとね。」
ふふふ、と笑う白夜を眺める。
それ以上言わないのは、いつもの流れだ。
「きっと、って。他人事みたいじゃん。」
「予想がつかない事象は、楽しいね。」
彼は、いつものように
意味不明な言葉を紡ぐ。
「予想がつかないのって、怖いけど。」
「分かってないねぇ。予想外なもの程、
ワクワクするものはないんだよ。」
「それは白夜だけっしょ。」
「心依架は楽しくないの?」
「平穏が一番っしょ。」
「スリルあっての、人生だね。」
食い違っている。
その為に、引き下がれなくなった。
「安定は求めないって事?」
「・・・・・・そうとは言ってないよ。」
「スリルがないとダメって事っしょ?」
「ダメとも言ってない。」
「平凡すぎる時間は、
つまらないって事だよね。」
「・・・・・・どうしたの?
一体、何のことを言ってるのかなぁ?」
しまった。
「・・・・・・知らない。」
「心依架。」
こういう時の呼び捨て、反則。
早歩きをして、彼の前を行く。
「白夜だって、重要なこと言わないくせに。」
「それとこれとは、違うと思うけど。」
「違わない。」
「あのねぇ・・・・・・何で怒ってるの?」
「怒ってないし。」
吐き出せない自分に、苛立っているだけ。
「君は、言いたい事を抑えちゃうでしょ?
自分は、言いたくても言えないんだよ。
だから楽しもうと思って。
この違い、分かってほしいなぁ。」
屁理屈じゃん!
そう言おうとして立ち止まり、振り返ると
歩くのを止めなかった白夜にハグされる。
「うわっ」
「心依架が急に止まっちゃうから」
不可抗力だよ。笑い混じりで言われる。
「吐き出してよ。素直に。」
「・・・・・・っ」
言葉が詰まる。
単刀直入に訊かれると、何も言えない。
「・・・・・・ここ、公共の道路。」
「ハグって、公然でしちゃダメなの?」
知らなかったなぁ。と、のんびり言われる。
それが、イラっとした。
「暑いから離れてってば!」
心依架はハグを振り切って、再び歩き出す。
「何で、機嫌悪くなっちゃうのかなぁ・・・・・・
言ってくれないと、分からないよ?」
不満とかじゃない。
言えない自分が、嫌になるだけだ。
「近々、一緒に住もうと
思ってるんだからさぁ。吐き出さないと、
ストレス溜まっちゃうよ?」
投げられた彼の言葉に、足を止める。
今度は、彼も距離を保って
立ち止まったらしい。
振り返らずに、ぼそっと問い掛ける。
「・・・・・・今、何て言った?」
「・・・・・・吐き出さないと、
ストレス溜まっちゃうって・・・・・・」
「その前。」
「一緒に住もうと思ってるって、
言ったけど・・・・・・」
聞き違いじゃなかった。
堪らずに、心依架は彼の方へ振り向く。
「・・・・・・ガチ?」
「ガチ、だけど。ダメとか、言わないよね?」
本当に。自分と、一緒に。
「同棲ってこと?」
「まぁ、そうなるかな。」
「それは、け・・・・・・」
動悸を鎮める為に、大きく深呼吸をする。
「結婚するのを・・・・・・考えて?」
「逆に・・・・・・それ以外、あるの?」
可笑しそうに自分を見つめて、白夜は笑う。
「結婚しようよ。」
ダメだ。ドキドキが治まらない。
「こんなタイミングで、
言うつもりなかったのになぁ・・・・・・」
どのタイミングでも、嬉しすぎる。
「心依架で・・・・・・ホントにいいの?」
「こっちが言いたいよ。
こんな自分で良ければ、
もらわれてほしいなぁ。」
彼に目掛けて、駆け出す。
全力で抱きつくのを、
難なく受け止めてくれた。
「いいの?ホントに?」
「ふふふっ。かわいすぎるんだけど。」
「まだ早いとか、束縛されるの嫌とか、
そんなの思わなかったの?」
「ん?・・・ふふふっ、よく分からないなぁ。
こういうのって、
早いも遅いもないと思うけど?
したいと思う時が、ベストでしょ。」
よしよし。
宥めるように、頭を撫でられる。
「もしかして、君が言いたかったのって
同棲のこと?そうだとしたらねぇ・・・・・・
激カワすぎだよ。ふふふ・・・・・・」
そう言われて、急に恥ずかしくなった。
「だっ・・・・・・だって・・・・・・
白夜って、束縛されるの嫌いっぽいし・・・・・・」
「先入観だね。・・・・・・まぁ、仕方ないよねぇ。
自分、フラフラしてるとこ多いから。
逆に、自分でいいのか不安だよ。」
ハグし合う自分たちを横目に、
通り過ぎるサラリーマンがいる。
それに気づいて、二人は笑った。
「こんな道端で、ヤバいよね。」
「こんな暑い中よくやるなぁと、
思われたかもねぇ。」
嬉しさが抑えきれず離れたくなかったが、
彼の方から手を繋いでくれた。
そのまま歩き出す。
ニヤけが止まらない。
「機嫌直って良かったぁ。」
そんな心依架を見て、白夜は
安心したように微笑んだ。
「いつから住んでいいの?」
こうなると、気持ちが急く。
「いつからでもいいよ。」
「ママに会ってもらって、
許してもらえたらにしようかな。」
「あぁ。そういえば
出向こうって言ってたよねぇ。
・・・・・・じゃあ、明日でいいかな?」
明日。そんなに早く。
どうしよ。ヤバい。
そうなるとこれって、結婚の挨拶っぽくない?
「待って待って。
ママの心の準備ってのもあるから、
明日来てもいいか聞いてからにするよ?」
「ふふふっ」
「伝えて、オッケーもらったらでいい?」
「いつでもどーぞ。」
飛び上がれそうなくらい、足が弾んじゃう。
そんな彼女の様子を、笑顔を絶やさず
彼は眺めながら歩く。
「そんなに嬉しい?」
「嬉しすぎっ」
「こんなに好きになってもらって、
もったいなくて申し訳ないけど。」
さっきから彼は、
自虐のような言葉を述べている。
それが、とても意外だった。
もしかしてこれが、彼の
本当の姿なのだろうか。
そう思いながら心依架は、聞き入れる。
自分が大好きで自信溢れてる姿を、
勝手に作り上げていたのかもしれない。
「重いとか、思われるんじゃないかなって
心配だった。」
「重い?・・・・・・
その感覚は、分からないなぁ。」
「だって自分、めっちゃ大好きなんだもん。
好きすぎて、ヤバいんだから。」
「おぉーっ・・・・・・
直球すぎて、こっちがヤバいよぉ。」
「あははっ」
「ふふふっ」
意味なく走り出したくなる。この気持ち、
今なら分かるかも。
公園に辿り着いた時には、暑すぎて
汗が溢れ出ていた。
気持ちが舞い上がっているのもあるが、
今夜は風もなく熱帯夜だ。
水浴びしたいくらいである。
「早く涼みたい。」
「ごめんねぇ。ちょっとだけ我慢して。」
仲良くベンチに座っても尚、互いに
繋いだ手を放す事はなかった。
汗が滲んでいるが、不快とは思わない。
「もしかして、膝枕すんの?正気?」
ふと思った事を告げると、彼は更に
上を行く発言をする。
「いつでもどこでも出来るよ。」
「えっ・・・・・・いやいやいや。」
「どんな時でも。」
「それ、刺さらない。」
口説いてるっぽい言い方だが、響かない。
「大丈夫。“間”と“常世”に行っている間は、
体感温度を感じないから。」
それ、危なくないか。
「おやすみ。」
「あっ、ちょ・・・・・・」
嬉しそうに白夜は、
心依架の膝上に頭を置いて寝転がる。
「“間”に行くの、久しぶりだねぇ。」
笑顔で言われて、何も言えなくなった。
こうなったら、暑さは関係ない。
「初めまして、というべきかなぁ・・・・・・」
むにゃむにゃと呟き、瞼を閉じて直ぐに
彼は、すぅ、と寝息を立てる。
がつん。という効果音が聞こえそう。
それ程に、強い眠気が襲った。
この感じ、確かに、久しぶりかも。
真っ白な空間である事には、変わらない。
久しぶりすぎて、懐かしいとさえ
思ってしまう。
それだけ、この事から離れていた。
相変わらず、何もない。
只々、白い空間。
「早速、“心”を呼ぼうか。」
いつの間にか隣には、白夜の姿がある。
そうだ。“彼女”だ。
名前を聞いたら、急に会いたくなった。
「・・・・・・“心”。」
光の粒が、白夜と心依架の間に集結する。
見慣れているスマホを形取ると、“彼女”は
ふわふわと浮かんだ。
『あぁ。心依架様。白夜様。
やっとお会いする事が出来ました。
“心”は、とてもとてもとてもとてもとても
・・・・・・』
“とても”が連発されて、終わらない。
バグったのかと心配になる。
「ねぇ・・・・・・ちょ・・・・・・」
『とてもとてもとてもとても・・・・・・』
まだ続く。
「ふふっ」
流石に、彼が吹き出した。
「嬉しいんだよね。」
『はい。とてもとてもとてもとてもとても
嬉しいのです。』
「あはっ」
自分も“彼女”に再会できて、とても嬉しい。
「元気だった?」
『元気ではありません。お二人に会えなくて
拗ねておりました。』
「悪かったよ。“君”を修復するのと
“彼女”を受け入れる為の錬成で、
時間が掛かっちゃったんだ。」
『心得ております。冗談です。
白夜様の深い優しさとお心遣いは、
身に沁みております。』
修復と、錬成。
聞き慣れない言葉に首を傾げていると、
白夜は答えるように紡ぐ。
「“心”は、“彼”に壊されてしまってね。」
「・・・・・・“彼”・・・・・・?」
『はい。とてもとてもとてもとても、
恐ろしいお方でした。』
ブルブルと、“彼女”は震える。
『でも、“御影”様には
大変お優しい一面を持っておられますから、
一先ず安心して身を任せられます。』
“御影”。
その響きに、心依架は動きを止める。
「是非、貴女の力をお借りしたい。御影。」
“御影”。
彼が紡ぐと、自分の中で
別の誰かが膨れ上がった。
―「本当に、強かな人ね。あなたって。」―
自分の口から紡がれたそれは、明らかに
膨れ上がった誰かが発したものである。
驚くしか出来ずにいると、両手が勝手に動いて
白夜の両頬を捉えた。
―「“彼”を怒らせたら、一瞬で
呑まれてしまうというのに。」―
「貴女こそ。恐れるどころか、
“彼”に意見してしまうのだから。
正直、驚きました。」
明らかに、彼が向ける視線は
自分ではなく、その誰かに注がれている。
優しい眼差しだが、どことなく
敬意が窺えるような。
自分であれば、頬を捉えに行くような
照れくさい事はしない。いや、できない。
見つめ合うことも、長くは続かない。
この、何とも言えない均衡状態に
戸惑っていると、助け舟のように
“心”が言葉を紡いでくれた。
『心依架様の、“彼の方”に関する記憶、
“御影”様に関する記憶が一部、
途切れたままになっています。
繋げるには、反響レベルを最大限に
上昇させる必要があります。』
ふわふわ浮かぶ“彼女”に目を向ける、二人。
その片方は自分なのだが、
自分の意思ではない。
―「なぜ心依架は、私の事忘れたままなの?
彼女が戸惑っているわ。」―
「やむを得ず、空間を繋げてしまったのが
関係しています。今からそれを、
繋げようと思います。」
―「・・・・・・あなたの他にも、
才覚ある人がいるのね。」―
「この件について、叔父に代わり
お詫びを申し上げます。」
―「最善な判断の結果、という事でしょうから
何も咎めたりはしないわ。ただ、
心依架が可哀想ね。今の状況、きっと
彼女は怖いはずよ。」―
その通りです。
誰か分かりませんが、察してもらって
助かります。
自由が利かない中、そう思った。
操られたような状態なのは怖いが、不思議と
この誰かに対しては怖いと感じない。
「・・・・・・心依架。」
名前を呼んでくれた白夜の眼差しは、
射抜くように強い。
今、確かに、自分に向いている。
鼓動が高まった。
『反響レベル上昇は見受けられますが、
孤立した時空と連鎖するには
エネルギー不足です。』
―「後押しするわ。」―
小さく漏れた、誰かの声。
その唇は、彼の唇を目掛けて近づく。
―えっ、えっ、これって・・・・・・
複雑すぎない?
自分じゃなくて、誰かの意思で・・・・・・
【何を考えておる。】
全身を逆撫でするような、重低音。
それは白夜から発せられた。
そのタイミングは、まるで
唇同士が触れるのを阻止するような。
【一体、何を始めようとしておるのだ。】
再度響いたその声に、心依架は凍りつく。
―「今、貴方が出てくる時じゃないわ。」―
【我の勝手である!】
彼の口が、あり得ないくらいに裂ける。
覗く犬歯は鋭く尖り、それは獣のようだ。
―「もう、ほら。
心依架が怖がっているしょう?」―
【知らぬ!】
何か、言い合いになってるし。
自分の中の誰かと、彼の中の誰か。
明らかに今、カオスだ。
「・・・・・・とりあえず、
自分たちに主導権をください。お二方。」
発せられた白夜の声は、穏やかだ。
共に顔も、普段の美しい面持ちに戻っている。
「彼女と、キスが出来ない。」
えっ。
彼の心配は、そこ、なのか?
しかし、場違いのように思えた
その一言で、空気が和む。
―「うふふ。そうね。ごめんなさい・・・・・・
何だか楽しくて、つい。」―
【解せぬ。何故我が、
お前の指示に従わねばならんのだ。】
―「いいじゃない。貴方も嫌でしょう?
私が別の人と口づけするのは。」―
【・・・・・・
終わった後に、説明するのだ。いいな?】
「はい。一旦、お鎮まりください。」
彼は、恐れることなく告げる。
重低音の誰かが話す度に、口が
めっちゃ裂けるのが、すんごく怖いけど。
「・・・・・・ねぇ。どういう状況?」
やっと、自分の口が
自分の思う通りに動いた。
「思い出せば、もっと楽しくなるよ。」
白夜は笑って、心依架の身体を引き寄せる。
「これ、楽しいって言える?」
思い出したところで、自分が楽しめるか
不安すぎる。
「スリルあるでしょ?」
「・・・・・・ありすぎっしょ。」
「お二方を纏えば、“常世”に難なく
踏み込むことが出来る。・・・・・・
例の花の調査も、大詰めになったんだ。」
『“獣神”様と“御影”様の反響指数は、
桁違いです。今までの許容範囲を、
遥かに超えます。ですが、流石は白夜様。
それに耐えられる“間”の空間錬成を
施しておられます。』
「・・・・・・よく、分かんないけど・・・・・・
良い方向に進んでるってこと?」
「・・・・・・そういう事だね。」
彼の両手が、そっと
自分の両手に添えられる。
「咲茉の事まで、君は忘れているらしい。」
「・・・・・・咲茉・・・・・・?」
「そして、小さい自分の事も。」
「・・・・・・小さい、白夜・・・・・・」
「全てが、君に助けられたという事を。」
“『・・・・・・反省してる。
百に、大きな迷惑かけちゃっているし・・・・・・
だから、どうにかしたいの。
百が大好きなんでしょ?わたしも大好き。
同士として、お願いするわ。』”
・・・・・・咲茉、そして・・・・・・
“『・・・・・・咲茉を、解き放ちたい。
僕に縛られて、動けないんだ。
そして、僕も。
大人の僕のところへ、帰りたい。』”
・・・・・・百、夜。
重なり合った瞬間、靄がかかっていたものが
晴れた気がした。
そして、誰かの正体も。
一気に映像と言葉が流れ込んで、眩暈がした。
それを支えるように、彼が抱き留める。
「・・・・・・思い出した・・・・・・」
ぽつりと告げると、微笑みが返ってきた。
「“間”でお二方を受け入れた時、君は
暗闇の中で溺れていた。だから、その時の
自分たちのやり取りは分からないと思う。
・・・・・・お二方は、
自分たちに力を貸すという約束を
してくれたんだ。」
もう大丈夫、というように
心依架は、彼の懐から少し離れる。
「・・・・・・それで、この場を作った・・・・・・」
「それもあるけど・・・・・・」
真っ直ぐに眼差しを向け、白夜は紡いだ。
「再びお二方が寄り添えるように、っていう
自分の願いも籠ってる。」
ふわりと、二人の間に風が吹く。
『“常世”への入り口を開きます。』
“心”の声が響いたと同時に、景色が変わった。
目に飛び込んだのは、
見渡す限りに広がった草原。
見慣れている公園ではなかった。
どこからともなく吹き荒れる風。
それに揺られる、見覚えのある蔦状の茎。
「・・・・・・ここは、一面に
例の花が咲き誇っていた場所。
“彼の方”が一掃してくれて、一時は
元のアスファルトに戻っていたみたいだけど
・・・・・・また芽を出して、
花を咲かせようとしている。」
「・・・・・・根っこを取らないと、
また生えてくるって事じゃなくて?」
「理屈では、そうだけど・・・・・・
単純ではないんだ。」
ふと目を向けた先に、花の蕾を見つけた。
心依架は、それに向かって歩いていくと
しゃがみ込む。
茎をそっと持ち上げ、見つめていると
それはゆっくりと開花した。
綺麗な花には違いないが、肌を刺すような
狂気の息吹を感じる。
ふわふわ浮かんで付いてきていた“心”が、
すかさず声を掛けた。
『心依架様。お下がりください。
花粉が・・・・・・』
―「大丈夫。」―
言葉を紡いだのは、“御影”である。
ついさっきまでは、自分の意思ではなく
勝手に喋って動く事に、戸惑いしかなかった。
でも今は。
“彼女”が、自分を包み込んで
助けてくれているのを理解する。
“彼女”は、笑みを湛えた。
―「この子から、
何か聞き出してみましょう。」―
【我では、そやつらは恐れおののいて
何も話そうとはせぬ。】
見上げた先に立つ、白夜の口が裂けていた。
彼もまた、“彼”によって言葉が紡がれている。
正体を知った今でも
ちょっと怖いが、“彼の方”は意外と
かわいい一面があるようにも思える。
だって、キスしようとしたの邪魔したし。
“御影”の事、とても大好きなんだろうと思う。
―「狂気に呑まれていても、
根は理解しているのよ。貴方が、
“常世”を統べる存在だという事を。」―
【・・・・・・
手を取れ、御影。力を貸してやろう。】
にぃ、と笑う口に、はみ出る大きな牙。
そして、差し伸べられる手。
―「・・・・・・この子、飲み込んじゃ駄目よ。」―
【誤って口に入っても、
不味くてすぐ吐き出してしまうわ。】
“彼女”は控えめに、
差し出された“彼”の手の平へ
そっと指を置く。
もどかしいと感じたのか、“彼”は荒々しく
その手を掴んで、ぐいっと引っ張った。
“彼女”の身体は、“彼”の腕の中へと収まる。
【・・・・・・成程。悪くない。】
―「じゃれ合いなら、いつでも出来るのに。」―
“御影”は柔らかく微笑みながら、頬を
“彼”の頬に摺り寄せた。
その、お二方の雰囲気が。
何とも。良い感じで。
第三者からすると、照れてしまうというか。
でも、自分たちも・・・・・・こんな感じなのかな。
―「・・・・・・さぁ。教えて。
あなたが知っている事を。」―
手にしていた花に向かって、
“彼女”は話し掛ける。
さっき自分が手にした時の、刺すような狂気は
もう感じられない。
若干萎れたように色褪せた花は、
訴えるように花弁を開いて応えた。
『・・・・・・お許し、ください・・・・・・
恐れ多い事、ですが・・・・・・どうか・・・・・・
助けて、ください・・・・・・
私たちは、決して、貴方様を、いえ、
“常世”を、支配しようとは、
思っておりません・・・・・・』
それは、傍にいる“彼の方”に向けられている。
“御影”は宥めるように、優しく語り掛けた。
―「分かっているわ。元々あなたたちは、
慎ましくて穏やかだったから。
一体、何が起こったの?」―
『・・・・・・分からない、のです・・・・・・』
花が紡ぐ声は、とても弱々しい。
『今、私は、貴女様のお陰で、
取り戻せましたが・・・・・・
“世界を埋め尽くせ”と、声が聞こえた、
途端・・・・・・何も、逆らえず、ただ、
言われるままに・・・・・・』
【声、だと?】
重低音の声が響いて、花は震えあがる。
『あぁ・・・・・・“彼の方”・・・・・・
申し訳、ありません・・・・・・
どうか、お許し、ください・・・・・・』
―「その声が聞こえたのは、何処で?」ー
恐怖を逸らすように、“彼女”は問い掛ける。
『それが・・・・・・分からないの、です・・・・・・・
気づいたら、もう・・・・・・』
花弁に、雫が伝う。
泣いているのだろうか。
そうだとしたら、胸が痛い。
意思と違うところで、何も分からず
動かされていたとしたら・・・・・・
恐怖もだが、悔しくてたまらないだろう。
―「あなたはもう、大丈夫。私が護るから。」―
『美しい、月の方。どうか、皆も・・・・・・
救ってください・・・・・・どうか・・・・・・
よろしく、お願い致します・・・・・・』
―「ええ。勿論。」―
シャボン玉のような膜が現れ、その花を覆うと
群れと繋がっていた蔦を断つ。
“御影”は花を、手の平に
ふわりと浮かせて風に乗せた。
それは、“心”の元へと辿り着く。
―「この子を預かってほしいの。“心”。」―
『承知致しました。“御影”様。』
光の粒が、花を覆った膜に取り巻くと
“心”の中へと吸い込まれた。
これまでの動作は全て、“彼女”が実行している。
“御影”の振る舞いは、どことなく
気品があって美しさを感じた。
“彼女”の素性は知らないが、
名家のお嬢様だったと言われても
違和感はない。
―「この花が根強いのは、どこかに
根源があるのかもしれない。」―
「はい。その可能性が高いと、
自分も思います。・・・・・・
貴女の見解を、聞かせてください。」
いつの間にか、白夜に戻っている。
花に怖がられて控えたのか、
“彼女”に寄り添えて満足したのか。
どちらにしても今もう、“彼”に恐怖は感じない。
―「“発生させる何か”・・・・・・としか。
特定するには難しいわ。けれど、
花たちを脅かし、意のままに動かす何かが
“常世”のどこかに存在する。
それを絶たない限り、蔓延り続ける
・・・・・・と、思うわ。」―
「感謝致します。確信を得られました。」
“御影”の意見に、彼は納得したようだ。
「その根源を探し当てるのも、是非
お力添えを頂きたいです。
花を無事に保護できた事は、
大きな一歩になります。
・・・・・・お二方、ご協力いただき
ありがとうございます。」
―「あなたの力が、ここまで導いたのよ。
素晴らしいわ。」―
【早く特定して排除してもらわねば、
鬱陶しくて堪らぬだけだ。】
黙っていた“彼”が、大きな口を開けて
声を響かせた。
“彼女”は微笑み、言葉を返す。
―「貴方が本腰で乗り気になってくれたら、
一瞬で見つけられるでしょうに。」―
【本来我は、人の業が起した事に
加担してはならぬのだ。】
―「あら。もう既に、
加担している事になるのではなくて?」―
【・・・・・・誠に、お前は・・・・・・
此奴もだが、罰当たりにも程がある。】
―「理に適っていない規則なんて、
破ってしまえばいいのよ。」―
【手に負えぬわ。】
笑うと、さらに口が裂ける。
すんごく怖いが、慣れてしまえば
受け入れられる・・・・・・かも。
“彼”は本当に、“御影”には弱い気がする。
―彼は、可愛いでしょう?―
“彼女”から、そんな声が聞こえた。
・・・・・・うん。何となく、分かる。
「今日は、ここまでにします。
心依架の負担が大きいので。」
白夜に戻ると、ギャップがありすぎて
ますます美しく目に映る。
―「ええ。彼女はよく頑張ってくれたから、
十分に労わってあげてね。」
「はい。」
―「あなたもよ。百夜。」―
「お気遣い、有難うございます。」
―「こちらこそ、有難う。
“彼”とまた、
寄り添える機会を与えてくれて。」―
景色が、無垢な白へと変化する。
同時に、身体が軽くなった気がした。
生身じゃないので、気のせいだと思うけど。
自分に戻ったような感覚、というのか。
心依架は、すぐ隣にいた白夜と
目を合わせると、笑みを浮かべた。
彼もまた、応えるように微笑む。
自然と手を繋ぎ、寄り添った。
「・・・・・・お疲れさま。」
「そんなに、疲れてないけど。」
さっき彼が、自分を気遣ってくれたのが
相当嬉しかった。
「・・・・・・新しい“間”、気に入ってくれた?」
そう訊かれて、笑うしかない。
気にいるも何も。
「すごすぎ。」
「嫌われる覚悟してたよ。」
そう言われて、さらに笑った。
これからも彼は、“ヒミツ”だと言って
いろんなことを考えて、考え抜いて、
人のために動くのだろう。
「好きが増してヤバいけど?」
「・・・・・・自分もね、大好きだよ。」
限界って、あるのかな。好きになる事に。
*
月の光は、
鬱蒼とする樹海の深部には届かない。
暗く、風で木々が擦れる音しか響かない中
踏み込んでいく、二つの影。
闇に溶け込むように、
道なき道を歩いていく。
「・・・・・・今度は、何やろなぁ・・・・・・
全然分からへん。」
言葉を零したのは、体格の良い男。
独特な髪型で、額には
ゴーグルが付けられている。
迷彩服を纏っており、
腰元にあるサバイバルナイフ以外
武器は見当たらない。
「さぁねぇ・・・・・・そこは別に、
考えなくていいんじゃない?」
もう一人は、肩まで切り揃えた髪を
緑に染めた女。
同じく迷彩服を纏う彼女の背中には、
手入れの行き届いたライフルがある。
「今回は、専門外。」
「俺もやで。ホンマ頼むわ。」
先を歩いていた女は足を止め、振り返る。
それに合わせて、男も立ち止まった。
「は?私ばっかり働いてない?」
「何言うとんのや。ぎょーさん動いとるで?」
「この前のやつだって、
私が撃ったやつ回収しただけでしょ?
今回は、あんたが動きなさいよ。」
「物探しとか、向いてないんや。
見つかった試し、あらへん。」
「あんたの、犬並の嗅覚が
役に立つでしょ?」
「俺の立派な嗅覚は、
大事なもんに働くんや。」
「それ、今じゃないわけ?」
「こういう、ぼやっとしたのは、あかん。」
「ホント、役に立たないね。」
「ほぉ?この広ーい樹海の中、
俺のスペシャルな嗅覚で
あんさんを見つけ出す自信、あんで?」
「キモい。」
「き、キモい?そこは、
きゃーっ!ちょー素敵ぃーっ!・・・やろ?!」
「素敵?どこが?」
「全部や!」
「本気で言ってる?」
「あんさんには、
言うてもらわなあかん!泣くで?!」
「あはは。泣けば?」
「・・・・・・冷たい。冷たいわ。
もっと、甘えてもええんやで?」
「キモいって。」
「・・・・・・ホンマに泣こうかな。」
穏やかな風が、吹き抜ける。
しばらく間を置いて、女は口を開いた。
「・・・・・・あれから、妙に平和なんだよね。」
「・・・・・・せやな。」
「変な風も、止んでる。」
「確かに。ええ事やないか。」
「あいつの気配、感じない。」
「・・・・・・くたばってもうた、とか。」
「あれ。仕留める為のやつじゃなかった。
それは別に、もうどうでもいい。」
「何や。気づいてたんか。流石やな。」
「あんたも気づいて言わないとこ、
相変わらずだね。」
「まぁ、事情があるんやろと思うて。
ホンマのこと話さへんの、
先生の十八番や。」
「・・・・・・今度は、
得体の知れないものを探すとか。」
「・・・・・・」
「何かヤバいこと起こるの、必死で
防いでいるような。」
「俺も、そんな気はしとった。」
「だからこれは、
嵐の前の静けさっていうやつ。」
「・・・・・・何や。怖い言い方やな。」
この静けさ。
平和、すぎるのだ。
死線をくぐり抜けてきた
身の上だから、分かる。
これは、何かの前触れだ。
「いつでも動けるように、しとくべきだね。」
「あんさんが言うと、ホンマに怖いわ・・・・・・」
「あんたは逃げ足だけ早いから、
それだけやっとけば?」
「俺のいいとこ、足だけ限定か?!」
「あと、くっそ打たれ強いとこ。」
「当たっとる!当たっとるわ!
せやけど、もっとないか?!」
「あはははっ」
女は、笑う。
いつも含み笑いしか受かべない彼女が、
大きく笑うのは珍しい。
滅多に見せない様子に、男は押し黙って
じっと見つめた。
「・・・・・・何?」
しかし、その視線に
すぐ笑みは消え、怪訝そうな顔になる。
「・・・・・・ど、どうしたんや。
あんさんが、大きい声出して笑うなんて。」
「・・・・・・笑っちゃいけないわけ?」
「い、いや!ええで?ええんやけどな?」
笑うと、ホンマかわいいんやけど。
「逆に、こわなっただけや。」
この女は、死神やから。
大抵、こういう笑いをする時は。
何かを、感じ取っとる証拠や。
「・・・・・・平和ボケしてたから、
丁度いいんじゃない?」
可笑しそうに言って、再び歩き出す。
「ぶっ壊しが始まるのは。」
*
ピュイ。
その囀りで、見上げた誰かがいる。
雀ではない。
燕でもない。野鳥の類いか。
目に映ったのは、
綺麗な伽羅色をした羽の小鳥。
くちばしには何かを咥え、
家の屋根に留まっている。
恐らく、今までに見掛けた事がない。
画像に収めようと、スマホを取り出す。
それに反応したのか、小鳥は飛び立った。
その拍子に、咥えていた何かを落とす。
丁度、足元に転がった。
拾い上げて手の平に乗せ、
観察しようと目を凝らす。
黒い。種子か。
認識したと同時に、それは重みを増した。
何事かと戸惑う内に、増々手の平にめり込む。
手から落とそうとしても、
くっ付いて落ちない。
ついに、皮膚を突き破って埋まる。
恐怖で地面に尻もちを付き、
そこから芽が出るのを凝視する。
痛みよりも、驚愕の方が勝っていた。
全身の力が、吸われたように抜ける。
視界に映った、同じ通勤途中の誰か。
その様子を見て立ち止まり、驚いている。
助けて。
力を振り絞って手を伸ばし、
助けを求めようとしても、声が出ない。
ついに、ひれ伏すように倒れ込んだ。
腕からも、芽が出る。
一つじゃない。二つ、三つ。
数えきれない程になると、もう
意識が朦朧とした。
何が起こったのかも、考えられないまま。
*
気づくともう、明け方。
それを気に留めるのも、ずっと前に止めた。
朝とか夜とかの、時間の感覚を気にするのも
もう、どうでもよくなった。
普通の生活を、捨てている。
そう割り切ると、楽になった。
いつからそう思うようになったのか、
分からない。でも、それでいい。
寝るのが惜しいのだ。
世界は、気になる事で溢れている。
元々、気になると没頭する癖があって
そのお陰で、今の天職に就けている。
功績が評価されて、とある
重大プロジェクトに加わる事も出来た。
拾ってくれた上司に、感謝している。
自覚がある。
自分が、普通に生きられない事は。
その生き方が災いして、
友だちというものはいない。
勿論、恋愛経験はゼロだ。
どちらとも、なくていいものとして
切り捨てている。
それに費やす時間が、もったいないとさえ
思ってしまう。それが、今を作っている。
でも流石に、どうかと思う
きっかけになったのが、一年くらい前。
“「君はホントに働き者だねぇ。
でも、このままだといつか
身も心も壊してしまうよ。
適度に、気分転換しなくちゃ。」”
自分とは真逆の、
気ままで経験豊富な上司の一言。
当初の第一印象は、最悪。
加えて、身元保証人を任されるなんて。
国は大丈夫かと、本気で思った。
彼は自分よりも恐らく、年下。
それくらいしか、知らない。
生い立ち、学歴、身の上話をするのはタブー。
そのルールは百歩譲って、
自分にとっても有難い。
今という、ありのままの姿を見てくれる。
身を置く『場所』は、丁度いい。
言われた通りに、とりあえず
気分転換になるとされる案を上げた。
すると、意外と溢れていて驚く。
そうか。みんなも、気分転換をしながら
この不条理な世界を生きている。
その術を、自分よりも知っている。
それに気づき、感動した。
この世の中で生きるのは、辛い事ばかりだと
思っていたのだが。
一先ず、メイクから始めた。
これを極める人は、世界に沢山いる。
有難い事に、動画まで載せてくれているから
それを参考に、自分を実験台にして勉強する。
それはかなり、気分転換になった。
次に、ファッション。
メイク施術は、ここに繋がるという事を知る。
コーデと略すこの世界は、実に深い。
自分に合う色は、何だろうか。
そこから始めた。
メイクもファッションも、まだまだ発展途上。
知れば知る程面白い。
気分転換どころか、ハマっている。
そして、酒とタバコ。
正に、嗜好品と呼ばれる物だ。
幸い、身を置く『場所』に
伝説級のバーテンダーが存在する。
極上の酒を最初に味わってしまった為、
一般で売られている物に手が伸びない。
適度に摂取するのが良いので、そこは
逆に良かったと思う。
のめり込むと、気分転換どころか
心身を壊しかねない。
極上の酒と、肴。また味わいたい。
最近、いつに増して忙しかったから
行くことが出来ていない。
今度必ず、出向こう。
気分転換を追及して、今に至るが。
いつも上司は微笑んで、言葉をくれる。
“「ふふふ。気分転換も
勉強になっちゃうんだねぇ・・・・・・
何でも真面目に向き合うのが、
君の良いところだよ。
いつも、ありがとう。」”
彼の姿は、誰もが油断する。
軽んじる者が、大半だ。
しかし自分は、仕事を共にして
十分に分かっている。
彼は、没頭するタイプだと。
積んできたものは違うなれど、気になれば
とことん追求する同士。
そして、有言実行のスペシャリストだ。
今まで彼が決めた事は、必ず実現し、
良い方向に繋がっている。
この前の事も、心依架の性格と思考を
把握していなければ、終わっていた。
彼が没頭している、子猫ちゃん。
今はもう、立派な大人へと成長しつつある。
“「このマンションにね、面白い子がいるんだ。
何か、目を引くというか。
この間、偶然に近所の公園で会ってねぇ。
うまいこと少しだけ、
月を頂くことが出来たんだけど・・・・・・
超絶美味い。只者じゃないよ。
もしかしたら、
探している人かもしれない。」”
最初聞いて、耳を疑った。
初対面で、どうしたら膝枕なんて
頼めるのか。でもって、させてもらえるのか。
どんな状況で、可能に出来るのか。
どう考えても、答えを導けなかった。
“「また頼んで、確かめたいんだけど・・・・・・
意外とガードが固くて。
副業の事知ってもらえたら、いけるかなって
思ったんだけど、音沙汰ナシ。」”
当り前だ。
もし自分なら、確実に通報している。
容姿端麗なのは認めるが、これでは
ただの危ない奴である。
それを悪びれなく武器にしているのには、
呆れを通り越して、感心する。
その後、心依架が部屋に訪れたのだ。
“「悪いけど栞、出てくれないかなぁ・・・・・・
眠くて仕方ないんだよねぇ・・・・・・」”
彼の眠気の原因は、仕事の関係上
伝えられていた。唯一の、事情だ。
不確かで、制限のない世界が存在する。
自分が携わってきた分野とは
全くかけ離れていて、始めは信じ難かった。
なぜなら、原理が覆されるものだったから。
ゼロから考え直さなければ、
腑に落ちなかった。
目に見える結果は、ほんの一握りでしかない。
それを知ることになった。
心依架が彼の所へ来たのは
興味本位だったのか、暇つぶしに来たのか。
そう思うよりも、捨てられた子猫のように
寂しそうだった。
普通の、女子高校生にしか見えなかった。
彼は正気か、と。
プロジェクトの遂行が行き詰っていた故に
血迷った、とさえ思えた。
しかし、彼と共に時間を重ねる度
見違えるように洗練されていった。
輝きが増す毎に、彼女の本質が窺えた。
これを、彼は見抜いたというのか。
執念が導いたのか。
いずれにしても、脱帽する。
なぜか二人は、自分の前で
堂々とイチャつく。見せつけたいのか。
恋愛は素晴らしいぞ、と教えたいのか。
残念ながら、こればかりは難しい。
自分は傍観するだけで精一杯。
気分転換どころか、考えれば考える程
何も手につかなくなりそうだ。
不確かなものに、答えはないからだ。
幸せそうな二人を窺えるだけで、
自分は十分、幸せである。
プルルルル。
白衣に入れていたスマホの、着信音。
この時間に掛かってくるのは、
あまり宜しくない。緊急である事が多い。
誰からなのか確認すると、やはり。
「・・・・・・はい。」
冷静に伝えなくては。
その、相手の心情が読み取れるくらいに、
告げられた内容を聞き入れた。
「分かりました。すぐに向かいます。」
自分も、だ。
冷静にならなくては。
言い聞かせて、通話を切って
タバコのスティックを抜いた。
いずれ明るみに出る事は、想定していた。
だが、思わぬ形で。今までとは違う。
メディアは食い止められない。
パニックが起こる。
何よりも被害が、広まらなければいいけど。