眠る根源
6
ホウ、ホウ、と、梟の鳴き声が響いている。
満ち溢れた月明かりさえも
通さない、樹海の檻。
その暗闇の中に溶け込む人影の側を、
ひんやりした風が通り抜けていった。
シルエットは、
女性特有のボディラインを切り抜いている。
むき出しの左腕には、蓮模様のタトゥー。
迷彩服を身に纏った彼女の背中には、
手入れの行き届いた
ボルトアクションのライフル。
肩上まで切り揃えられた緑色の髪は、
樹海の檻の中でも自然に溶け込んでいる。
通り抜けていく風に乗った微かな匂いを
すん、と嗅いで感知した瞬間、しゃがみ込んで
背中のライフルを手に取り、構える。
備え付けられたスコープで覗き、
匂いの元の様子を探った。
肉眼や温度センサーでは、“その存在”を
確認する事が出来ない。
この特殊なスコープでなければ、
“目標とするもの”を捉えられないのだ。
そして仕留められるのは、
このライフルに充填している弾のみ。
使用は限られている。
慎重かつ確実に撃ち抜かなければならない。
「おるな。」
女の元に届く、男の声。
彼は音もなく、彼女の直ぐ後ろに現れる。
額に付けていたゴーグルを装着し、
銃口が向いている先を見据えた。
このゴーグルは、
スコープ同様の働きが得られる。
「ステルス機能、異常なしや。いけるで。」
なまっている男の言葉が
女に届いているのは確かだが、
微動も返答もない。
スコープに映りこむ、
“その獲物”だけに集中している。
それに気分を害することなく、彼は
しゃがみ込む彼女と同じ高さまで
腰を落とした。
「捕獲網、出番あるとええけどな。」
今まで、仕留められた事は一度もない。
女は、すぅ、と小さく息を吸う。
“獲物”は、彼の言うステルス機能の効果で
こちらに気づいていない。
いや、気づきながらも平然としている、かも。
それすらも分からない。
“仕留められるのかお前に”、と、
嘲笑っているのかもしれない。
いずれにせよ、撃つ。
聖域時間の、10秒。
空間を切り裂くには、十分すぎる。
引き金に指を掛けて引くと、
音もなく一直線に“獲物”へと飛んでいった。
グァァァァァァッ!!
激しい振動が、二人の身体に伝わる。
“獲物”が絶叫する声を、初めて聞いた。
「命中したんやないか?!」
「手応えは、あった。」
ようやく女は、返答する。
二人は立ち上がると、
鬱蒼とする茂みの中を掻き分けて
“獲物”がいた場所へ歩いていった。
「網の出番、ある?」
彼女が問うと、彼は残念そうに首を振った。
「おらん。血だけは流しとるみたいや。」
視線が、地面へ向いている。
“それ”が流した血らしきものが、
地面に付着しているらしい。
それをわざわざ確認するのも、面倒くさい。
特殊ゴーグル、特殊スコープ、そして
“それ”適応ライフルは、
各自一つを所持しているに過ぎない。
改良に改良を重ね、今に至るらしい。
自分たちは、それを試験的に
使用しているだけだ。
なので、“それ”を目視する為だけのゴーグルは
彼に任せていた。
「一発で仕留める、ってわけにはいかんか。」
自分は、“それ”をスコープで標準を定めて
撃ち込む。聖域時間を使って、だ。
「急所が分からない限りは、無理だね。」
「せやな。」
男は、腰に付けていたウェストバッグから
専用の採取キッドを取り出し、
血が付着している部分を丁寧に
サバイバルナイフで、がりがりと削る。
「・・・・・・でも、傷は負わせた。
お手柄じゃないの?」
女は言葉を吐き、ライフルを背中に戻す。
「先生、喜んでくれるとええけどな。」
「ご褒美貰わないと、割に合わないね。
酒飲みたいし、タバコも吸いたい。」
男は、歯を見せて笑う。
「あんさん、
身体に悪いもん好きやもんなぁ。」
「ベースギターも、
新しいの欲しいんだけど。」
「はあぁ?またかぁ?同じよーなもん、
もう3本も持っとるんやで?
どこが違うんや??
ギュイーンって音鳴るだけやろ?
服とちゃうんやで?」
「ギュイーン、は違う。服と同じ。」
「分からんわぁ。」
「あんたの、乗らないバイクカスタムの方が
分からないけど。」
「な、何言うとんのや!ロマンやないか!
いつか『ここ』にサーキット作って、
走らせるんや!
その為のカスタムなんやで?!」
「声デカい。うるさい。」
「はぁーん?分かった。しゃーないわ。
俺の美声ぎょーさん聞かせたる!」
「変な風吹いてるの気づかないわけ?
あんたの馬鹿デカい声で別の“ヤツら”に
気づかれでもしたら、即終わりだってば!」
互いに、睨み合う。
仲裁するように、ホウ、ホウ、という声が
二人の間を抜けていった。
「・・・・・・今夜はもう、引き上げる。」
「確かに今夜は、深入りせん方がええ。」
察知していた。
目に見えない、“あちら側”の世界の風が
濃く舞い込んでいる。
引きずり込まれる前に、退散するべきだと。
戦線を潜り抜けてきた本能が、告げている。
「酒、飲みたい。」
「祝杯っていう名目で少しなら、ええやろ。」
「タバコ。」
「・・・・・・それは止めとき。
せっかく禁煙できとんのに。
これから子ども作らなあか・・・ごにょごにょ」
「ん?」
「身体を大事にしぃ。」
樹海の檻から去っていく二人を、
警戒と敵意をむき出しにして
見据えている“獣”がいる。
腹部に負う一発の弾痕で、息を荒げながら。
*
“間”と“常世”の違いは何かと問われると、
瞬時には答えられない。
ただ、湿った風が明らかに、
いつもの様子とは違っている。
そして、目に映る桜の揺らめきも。
主張して、語り掛けてくるかのような。
舞い散る花びら一片一片が、
自分たちに向かってくる感覚に陥った。
「異常はパッと見、ないみたいだな。」
一声を上げたのは、マナである。
「静かなのが、逆に怖いかも・・・・・・」
続くように、晴が言葉を紡ぐ。
『例の花の花粉量は、
アレルギーレベルを超えています。
みなさま十分お気をつけてください。
目の保護が必要と見受けられましたので、
急遽、微量な水膜を張っています。』
手に収めていた“心”が、注意深く告げた。
「ありがとう、“心”。気が利くね。」
『白夜様程ではありません。
貴方様のお陰さまです。』
彼に褒められた時の“彼女”は、
本当に嬉しそうだ。
なぜか自分が褒められたみたいで、
くすぐったいのだが。
心依架を始め、白夜、マナ、晴の口元には
マスクが付けられている。
実物じゃないのに
きちんとフィットしていて、
不思議な感じがした。
『心依架。
例の花の画像、見せてもらえないか。』
朋也に名前を呼び捨てされて、
気持ち背筋を伸ばす。
変な感じ。学校の先生に呼ばれてる気がして。
彼の申し出に、皆反応する。
「俺も見たいな。
異常に増えてる花なのに、何で一回も
見れてないんだろ?」
『危険が及ぶと判断した故、お主らから
遠ざけておった。儂の判断じゃ。』
「そうだったんですね・・・・・・」
『この場所には、確かに
発生していないようですね。』
『うむ・・・・・・』
「以前から、
この場所が気になっていまして。」
『この空間・・・・・・ううむ。』
「どうした、爺さん?」
和装の紳士が考え込んでいるのを
皆が注目していると、“心”が声を上げた。
『準備が整いました。
画像を大きく表示致します。』
“彼女”は心依架の手元から離れて宙に浮かぶと、
光の粒子に形を変えた後、スクリーンのように
大きな画面として現れる。
そこに、例の花の姿が鮮明に
浮かび上がった。
「・・・・・・綺麗な花、だね。」
ぽつりと零れる、晴の感想。
「見たことありそうで、ない花だな・・・・・・」
マナも、心当たりがない様子で反応が鈍い。
和装の紳士は、微動せず見守っていた。
『・・・・・・これは・・・・・・』
ただ一人、朋也だけが
何かに気づいたように反応を示す。
「どうしました?」
異変に白夜が問うと、彼は口を開く。
『他の画像は?あるなら、全部見たい。』
確信を得る為の、要求。
そう感じて心依架が頷くと、応えるように
“心”が声を響かせた。
『了解致しました。』
数ヶ月に渡って撮ってきた画像が、
皆の周りを囲む。
ズームアップして撮ったもの、
蔓延って広がったもの、
蔦状に伸びて絡まったもの・・・・・・
様々な形で収めていた。
『俺は個人的に、この花の映像を
とある施設で確認している。
・・・・・・二人とも、気づかないか?
この花の蔦、見覚えがあるはずだ。』
そう言われて、マナと晴は改めて
食い入るように画像を見つめる。
「・・・・・・うーん・・・・・・」
「・・・・・・あっ!」
何かを思い出したように、マナが声を上げた。
「晴さん、あの時っすよ。
樹くんの病院に行った時っす。
“意念体”の女の子が、捕まってた時の・・・・・・」
「・・・・・・
・・・・・・あぁっ!」
朋也は頷き、補足するように言葉を紡いだ。
『そう。樹の病院に行った時だ。
“少女”を捕まえていた蔦と、
形状が一致している。・・・・・・
あの時から、この花は存在していた。』
三人の記憶が繋がっている事柄に、白夜は
神妙な表情を浮かべて尋ねる。
「それは、いつの話ですか?」
『約、10年前だ。』
「えっ、そ、そんな前だった?・・・・・・
時間が経つのは早いね・・・・・・」
「そうだ、あの時の、気持ち悪いやつ・・・・・・
うえぇぇ、思い出したら、吐き気が・・・・・・」
『わんさか湧いてきたのぅ。』
「爺さん。やめてくれ。」
『あの時の蔦は恐らく、
“あいつ”の息が掛かっていただろう。
今の状態が、本来の性質に近いと考える。』
―10年前?
マナさんと晴さんって、何歳だろう?
若見えだけど・・・・・・
もしかしたら、意外と年上なのかも。
『お主の言う通り、“黒い風”の息は感じられぬ。
元々が、“意念体”の記憶を養分として
吸い取る、奇怪な性質の花だと
認識しておる。じゃが、以前までは
気に留める程、表立ってはおらんかった。』
「かなりヤバい花だな・・・・・・」
「ま、待って。このお花が、“現”にも
出現しているって話だけど・・・・・・
それは、人を養分としているって・・・・・・」
『何らかの原因で、
性質が変わっている可能性がある。
・・・・・・詳しく調べられなかったのが
心残りだったが、この花の記述は
確かに、データとして保存されていた。』
「今、そのデータは
残されてないって事っすよね・・・・・・」
『ああ。各方面で隅々まで探したようだが、
得られなかったと聞いている。』
話は見えないが、例の花の事で
新事実があったのは確かだろう。
心依架は黙って、皆の話に耳を傾ける。
『だが、この花が繁殖する原因は、
“あいつ”が意図して起こした。
そう考えるのが、自然だろうな。』
「・・・・・・本当に、怖い人だね。」
怯える晴に視線を向ける朋也は、
優しく慰めているように見えた。
僅かに静寂の時が過ぎた後、白夜が
言葉を告げる。
「“意念体”が操られていた事項を、自分たちは
数ヶ月前に確認しています。・・・・・・
マナさんに“切り離し”を依頼した件で、
その際に拾った物の詳細ですが・・・・・・
あれは、その花の種子である事が
分かりました。」
『うむ。やはりそうじゃったか。』
「・・・・・・操られるなんて・・・・・・
まるで、花に意思があるみたい・・・・・・」
「そうっすね。」
眉間に皺を寄せて、マナは言葉を添えた。
「“ヤツ”の意思とは関係なく、増えて、
“意念体”だけじゃなく、人にまでっ、て・・・・・・
これが起こっているのって、相当っすよ。」
「原因を突き止めて抑えないと、更に
浮き彫りになるのは・・・・・・
間違いないと思います。」
『その花が開花した状態で採取して、
詳しく調べられるといいが。』
「・・・・・・はい。それが安全に出来れば、
苦労はありませんが・・・・・・」
「楽には、ってわけには
いかないよな・・・・・・今の時点で、
白夜くんたちが困っているわけだし・・・・・・」
「うん・・・・・・
難しそうだね・・・・・・」
それから再び、しんと静まり返る。
皆が黙り込む中、心依架は
ゆらゆら揺れる桜を見上げた。
さっきから、何かを
訴えかけている気がしてならない。
普段は勿論、話し掛けたところで
言葉を返してくれるわけがないと、どこかで
分かっているというか、決めつけている。
でも、ここは“常世”。
心で話し掛けたら、
応えてくれるのではないだろうか。
―・・・・・・ねぇ。桜のみんな。
教えてほしいんだけど。
できるだけ強く、念じてみる。
―今、“ここ”には
たくさんの青いお花が
咲いてると思うけど・・・・・・
なんで、ここには咲いてないの?
じっと淡紅色を見据えていると、
風で小さく擦れる音とともに、
声の振動と似た音の波動が耳に届いた。
【・・・・・・この場所には、崇高で尊き
“彼の方”が眠りについています。
なので、我々は護られています。】
確かに、そう聞こえた。
鼓動を高めながら、更に問い掛ける。
―詳しく聞きたいな。もっと教えて。
【・・・・・・あの子たち、
ちょっとおかしいのよね。】
【そうそう。狂ったように元気で。】
【でも流石に、この聖域には
出しゃばれないみたいね。いい気味。】
【でもあいつら、
この場所を狙っているみたいだぞ。】
【無理だって。この場所は。】
【そうよ。“彼の方”が目覚めたら、それこそ
大変な事になるわ。】
【あぁ、恐ろしい。】
【私たち、大丈夫なのかしら。】
【心配しなくていいって。】
【あの“黒い風”が吹かなくなったと
安心していたのに・・・・・・
どうなっているのかしら・・・・・・】
桜のざわめきと、それを心依架が
見上げている様子に、白夜は気づく。
考え込んでいた皆も彼に続き、目を向けた。
―“あの子たち”って、
前は、おとなしかったの?
【はい。繁殖も難しいくらい、内気で。
見つける方が大変なくらいでした。】
【それが、“黒い風”のせいで
妙に元気になっちゃって。意念体にまで
ちょっかい出すようになっちゃって。】
【本当に、迷惑な話だ。】
【それだけじゃ飽き足らず、
生身の人間を養分にして、さらに領地を
広めているらしいわよ。】
【そんな子、今までいなかったのに。】
【あぁ、恐ろしい。】
「心依架ちゃん。」
呼び掛けられ、肩に手を置かれて
はっとする。
「白夜・・・・・・」
「どうしたの?」
彼の大きな双眸が、真っ直ぐ向けられている。
その瞳を窺って、把握した。
桜たちの会話は、白夜には届いていない。
そして、皆にも。
「えっと・・・・・・」
その事を、話そうとした瞬間。
【うわぁぁぁぁっ!】
がつんと、頭に響き渡る声。
同時に、桜たちが大きく揺れる。
【なんてこと!!】
【“彼の方”の従者にまでっ!!】
【終わりだぁぁぁっ!!】
桜たちの騒ぐ声が入り乱れ、
心依架は立っていられくなるくらいに
眩暈を起こした。
「心依架ちゃんっ!」
白夜に支えられて、何とか倒れずに済んだが
縋りつかないと、立っていられない。
『何か、来るぞ。』
短く、朋也が告げた。
グォォォォォォォッ!!
何かの叫び声が、響き渡る。
びりびりと伝わる、波動。
凍りつくように、全身が固まった。
「爺さん!」
『学!心してかかれ!』
和装の紳士からマナへ投げられるもの。
それは、一振りの刀である。
どこから、そんなものが。
驚いている間もなく
数十メートル先に現れる、真っ黒い何か。
全身を覆うその長い毛並みは、怒涛の如く
逆立っていた。
完全に、自分たちへ向けられる敵意。
じりじりと、間合いを詰めていく。
「足止め出来るかなっ・・・・・・?」
『出来ればいいが。』
刀の鞘を抜いて構えるマナから
少し離れて立つ、晴と朋也。
彼は大きな手を彼女の頭に置いて
寄り添い、その儚げな彼女が
両手に持つ物は、似つかわしくない拳銃。
それも、どこから。
白夜に支えられたお陰なのか
眩暈が治まった心依架は、
それを目の当たりにして驚く。
『未確認生物の腹部に、弾痕が見られます。
その傷口から例の花の花粉が侵入し、結合。
根付き始めています。』
冷静に分析する“心”へ、白夜は
注意深く言い放つ。
「“切り離し”は実行可能?」
『分析致します。
・・・・・・心依架様、気を確かに。』
その言葉の意味は、何となく分かる。
自分は今、眩暈から解放されたものの
靄がかかったように、意識がはっきりしない。
支えるように自分の肩を抱く彼が、
顔を覗き込んで声を掛けた。
「君には感謝しているよ。もう少しだけ、
自分たちに付き合ってほしい。」
ぎゅ、と手を握られる。
その温かさが伝わると同時に、意識が
研ぎ澄まされる気がした。
彼が、力を分け与えてくれているのか。
自分は、部外者かもしれないが。
自分が役に立てるのなら。
もう少しだけ、頑張れ。心依架。
「桜たちが、教えてくれた。
この場所、誰かが眠っているみたい。
あの子はその、“彼の方”っていう人・・・・・・
人かどうか分からないけど、従者だって。」
心依架が告げた事を耳に入れた
和装の紳士は、何かの確信を得たのか
しわがれた声を響かせる。
『そうじゃったか・・・・・・!
【この空間】は・・・・・・!
百夜、お前は一刻も早く
【この空間】から立ち去らねばならぬ。
憶えがないわけではあるまい。』
その、紡いだ言葉の意味が
とても気になった。
しかし、それに対して彼は
動じるどころか、受け入れている様子だった。
「・・・・・・はい。
薄々と、気づいていました。ですが、
この状況で離脱する事はできません。
なぜ、【ここ】に繋がったのか。そして、
例の花が根付かないのか。
その解明も必要です。
影響は出るかもしれませんが、彼女がいる。
その存在が、自分を認知してくれる。」
『・・・・・・ううむ・・・・・・
なぜ、【この空間】に繋がったのか・・・・・・
儂にも理解できぬ。』
「恐らく、彼女の“月”が・・・・・・
【ここ】へと呼び寄せた。覚醒する前に、
何とか従者を切り離します。」
『・・・・・・そうか。お前は、
全てを見渡した上で、儂らを。』
「申し訳ありません。」
『謝る必要はない。賢明な判断じゃ。
ならば、それこそ一刻を争う。』
二人の会話は、自分にとって知り得ないもの。
それなら。今は、できることを。
「・・・・・・“心”!お願い!」
その懇願と共に、どくん、と
大きく鼓動が鳴る。
痛くなる程、胸が苦しくなったが、構わない。
『反響レベルの上昇を確認。分析致します。
・・・・・・
“切り離し”を実行可能にする為には、
未確認生物の腹部に埋まった弾を
消滅させる必要があります。』
心依架は、改めて“獣”を見据える。
紛れのない、暗闇。
全身を覆う黒く長い毛と、鋭い爪。
苦し気に大きく開けた口から見える、
尖った4本の牙。
狼が巨大化したような“その生き物”は、
血走った目を自分たちへ向け、
唸り声を上げながら威嚇している。
この角度からでは、“彼女”が示した
その弾痕が窺えなかった。
「腹部に弾が埋まってるそうです!
それを、消滅させてください!」
武器を構える二人に、
示された通りの言葉を投げる。
状況的に、それを実行できるのは
この二人だけなのだと、判断した上で。
「いいねぇ、みぃちゃん。りょーかい。」
「・・・・・・何か、あの子・・・・・・
怯えてるみたいに見える・・・・・・」
晴の呟きを、朋也が拾う。
『傷を負って錯乱状態、という見解だな。
それに、俺たちに対しての敵意を
強く感じる。・・・・・・
この場所に踏み入れている時点で
侵入者と見なし、排除するだろう。』
「話は、できないって事なんだね・・・・・・」
『心依架の指示に従うしかない。
根源が分かったからには、
俺たちの銃弾も届くはずだ。』
マナは“獣”を見据えながら、言葉を吐いた。
「根付く前に断ち切ってやりてぇな。」
『手遅れやもしれんが、不可能ではな・・・・・・』
「うりゃあぁぁぁぁっ!!」
急なマナの雄叫びに、心依架は
びくっとする。
彼は、あっという間に“獣”へ近づくと
刀を振り抜いた。
確かに胴体を切ったように思えたが、
何の影響も見受けられなかった。
「手応えが全く、ねぇ!!」
『成長がないのぅ!とにかく切るという精神、
いい加減に止めんか!!』
「こっちだって何回も言ってんだろ?!
切らねーと分かんねぇってばっ!!」
『前を向け!!来るぞっ!!』
グオォォォォッ!!
至近距離に入ったマナへ目掛けて、
“獣”は足の鋭い爪を振り下ろす。
危ない、と目を覆いたくなったが、
彼は難なく躱して素早く後退し、逃れた。
とても、常人の動きとは思えない。
行動的なマナとは対照的に
静かに佇む晴と明也へ、心依架は目を向ける。
まだ動きはないが、銃を構える彼女と
その彼女に寄り添う彼の周りには、
絡み合っていく糸のようなものが見えた。
「弾が埋まってるって・・・・・・
実弾が、あの子に届いたってこと?
そんな事、出来るの?」
『・・・・・・白夜の様子からすると、あれは
身内が撃ち込んだ弾なのだろう。
把握済みの被弾、と考える。』
「・・・・・・花が根付くのも、予想して?」
『それも、想定内だと思うが。』
「・・・・・・根付く事が止められれば、
あの子の苦しみを取り除ける?」
『足止めするのが精一杯だな。』
不思議な光景に、心依架は見入った。
絡み合う糸が二人を取り囲み、編まれて
拳銃へと充填される。
それで、何となく理解できた。
彼女と彼が紡ぐものは、
苦しみと悲しみを解き放つ、レクイエム。
魂を傷つけるものではないのだと。
ダァァン!!!
大音響に思わず耳を塞ぐが、
リアルではない事に気づくと、耳鳴りもせず
自然と受け入れられた。
撃った弾は、“獣”に届いたのか
動きが一瞬、止まる。
それを見越していたように、既にマナは
胴体近くへ踏み込んでいた。
刃は、弧を描くように振り抜かれる。
同時に、風が巻き起こった。
自分を支えるように回されていた
彼の腕が、急に重みを生じて肩に寄り掛かる。
目を向けると、彼の眼差しに
ぶつかった。
柔らかな微笑み。
なぜ今、それを自分に注ぐのか。
理解する間もなく、彼の瞼が落ちる。
「・・・・・・白夜っ!!」
白夜の身体が、地面に崩れ落ちる。
それを和装の紳士は、
心依架の呼び掛けと共に気づき、言い放った。
『これ以上はもう、限界じゃろうて。
お嬢さん。かたじけない。
“間”へと繋げさせてもらうぞ。』
状況が把握できないまま、目の前が
真っ白になった。
彼が倒れた原因も、“獣”が
どうなったのかも、分からないまま。
遠吠えのような声が、微かに
聞こえた気がした。
真っ白な空間。
馴染みのある所へ来たと同時に、静寂が包む。
緊迫していた空気も、騒いでいた桜も、
唸り声を上げていた“獣”の姿も、ない。
ただ在るのは、座り込む自分と、
地面に伏している白夜。そして、
自分たちに目を向ける、皆の姿。
その中、“心”が声を響かせた。
『晴様の一撃と、学様の一太刀にて、
未確認生物の意識レベルが低下。
昏睡に陥っています。
それに伴い、根付きの停止が窺えます。』
『・・・・・・ふむ。上出来じゃろうて。
今のところ、ここまでのようじゃ。
御苦労であった。“心”殿。百夜に代わり、
大いに感謝の意を表する。』
『勿体なきお言葉です。“初代”様。』
「状況が掴めねぇけど・・・・・・
白夜くん、大丈夫なのか?」
大丈夫と、言って欲しかった。
『大事ないと言いたいが・・・・・・
深い眠りにつく事は確かじゃろう。
それが一日か、数日か、一週間か・・・・・・
定かではない。』
「えっ・・・・・・?」
晴の驚きは自分も同じだったが、
感情が、ついていかない。
『生身にも影響が出ているやもしれん。
すぐ診てもらった方が良いじゃろう。
・・・・・・無理を承知の上で、
今回の会合を実行させた。
本人が、一番よく分かっておるじゃろう。』
「根詰めてたのは知ってたけど・・・・・・
何で詳しく、俺たちに伝えなかったんだ。
分かっていたら、もっと楽な方法が・・・・・・」
『確証が持てない上での実行だった。
そして、俺たちなら良い方向へ導けるという
信頼があった。・・・・・・
最善の策を練った結果だろう。』
「・・・・・・心依架ちゃん・・・・・・」
彼女が真顔で、自分を見据えている。
何だろうと目を向けると、ぽたりと
“心”を握り締めていた手元に、何かが落ちる。
それで気づいた。
涙が、溢れ出ていた事に。
「・・・・・・あの、彼は・・・・・・
起きますよ、ね?」
考えたくない。起きないなんて。
『・・・・・・心依架。』
「だって、ここは“間”だし、ここに、
こうして、彼は、いるし・・・・・・」
うつ伏せになっていた彼の身体を、
仰向けにさせる。
「こうやって、触れるし・・・・・・」
「みぃちゃん・・・・・・」
ただ、爆睡してるだけ。だよね?
『心依架殿。』
しわがれた声が、力強く掛けられる。
しっかりしろ、と言われている気がして、
顔を上げ、白髪が覆っている目を見つめた。
『百夜が眠る根源は、桜が申していた
“彼の方”という存在の影響じゃ。
詳しく申し上げるのは、そなた自身に眠る
【月】の力が目覚めてからと、考えておる。
・・・・・・過去にも、今のように
昏睡へと陥った事があるが、その時は
およそ一ヶ月という期間であった。』
およそ、一ヶ月。
「・・・・・・じゃあ・・・・・・
起きるってことですよね?」
どんな事よりも。
彼が、起きるのであれば。自分は。
『そなたの、【月】の力があれば・・・・・・
刹那であろう。しかし同じく、
“彼の方”も目覚める。』
「ニュアンス的に、それ、
ヤバそうだけどな・・・・・・」
マナの呟きに、和装の紳士は頷く。
『無論、儂らでは手に負えぬ。』
「その、【月】の力が目覚めたとして・・・・・・
心依架ちゃんは大丈夫なのでしょうか?
えっと、何だっけ・・・・・・」
『“心理の記憶”に関わるのでは?』
「そう!それ!」
朋也が紡いだ聞き慣れない単語に、晴は
同意するように声を上げた。
『“心理の記憶”に触れる事は、お主たちも
知っての通り、魂に影響を与えてしまう。
“黒い風”が消えた故に語れる事実じゃが、
あの時は苦肉の策で
忘却という形を取り、お主たちの
“心理の記憶”を切り離した。
・・・・・・だが今回は、真逆なのじゃ。
それに触れ、繋がらなくては
状況を覆す事は皆無と、百夜は
考えたのじゃろう。儂にとっては、
懸念しかない試みじゃ。』
まるで、いつも理解不能だった
白夜の言葉を、和装の紳士から
聞いている感覚だった。
『百夜は恐らく、例の花の繁殖を抑える
打開策が見出せると踏んで、
心依架殿の“心理の記憶”を
蘇らせようとしておる。
・・・・・・【月】の力は、“常世”でのみ
発揮されるもの。
触れなくては、何も始まらないのじゃ。』
理解できなくても、何となく分ればいい。
そんな時は自発して、意見を口にする。
「心依架がその、【月】の力を使えば・・・・・・
白夜は、すぐに起きるって事ですよね?
どうやればいいのか、もし知っていたら
教えてください。」
“彼の方”と呼ばれる誰かが、
一緒に起きる事になっても。
彼が傍にいれば、どうにかなると信じている。
白夜の片手を強く握り、
真っ直ぐな眼差しを送る心依架に、彼は
首を横に振って言葉を紡ぐ。
『・・・・・・目覚めを促す事は出来ぬ。
ただ、【あの空間】に長く踏み入れたら
自然と、触れる事になるじゃろう。
だがそれは、そなたに
影響が出るという事にも繋がる。』
「それが分かっていた上で、彼は実行した。
じゃあ、何とかできる方法を思いついたから
飛び込んだってことっしょ?
だから今すぐ、【あの場所】に行きます。」
今の状況を何とかしたい。
その思いしかなくて、ヒートアップする。
『ならぬ。百夜が目覚めるのを待つのじゃ。
そなた一人で出向けば、目覚める前に
確実に、命を落とす。
・・・・・・辛抱して、待つのじゃ。
百夜の覚醒と、
そなたの【月】の目覚めを。』
宥めるように告げられて、
口を結ぶしかなかった。
このまま何もせず、ずっと、
待てというのか。
それで彼が、ずっと起きなかったら?
手遅れとかなったら?
でもって自分も、目覚めなかったら?
悪い方にしか、考えられない。
「・・・・・・何とか、私からも
お願いできないでしょうか。お爺さん。
何か良い方法があるのであれば、是非。」
優しい声音が耳に届き、思わず
その声の主へ視線を向けた。
晴の言葉に、和装の紳士は尚も
首を横に振る。
『善処して、今の結果を招いておる。』
「爺さんなら、何とか出来んだろ?」
マナの声も掛かる。
二人の要求は、自分を援護してくれている。
『ええい、お前までっ。分からず屋めがっ。
不可能だというのが分からんのか。』
『不可能を可能にできるのが御仁だと、
俺は記憶していますが。』
大きな援護が、もう一つ。
どこか微笑んでいる明也に対し、
彼は、ううむ、と呻いた。
『お主まで、儂を苦しめるのか。』
『策があるからこそ、懸念している。
そうにしか見えません。』
団結している皆の視線を受け、和装の紳士は
観念したように深く頷き、人差し指を立てた。
『一先ずは退散する。
急がば回れと言うじゃろう?
“常世”に関わる事は、一筋縄ではいかぬ。
そなたらの体力と精神力が持つまい。
・・・・・・百夜が、この事態を想定内と
考えておったなら、
根回しを怠るわけがない。
心依架殿の案ずる気持ちは痛い程分かるが、
兎に角、一週間という猶予を
儂に、与えてはもらえぬか。』
本当は、今すぐに何とかしたい。
そう思い、焦る気持ちで一杯だ。
だけど。彼の言い分は、正しい気がする。
心依架は納得させるように頷くと、
深く頭を下げた。
「・・・・・・はい。よろしくお願いします。」
『うむ。聞き分けが良いのぅ。
あまり案ずるな。“心”殿が在る限り、
百夜は大丈夫じゃ。』
『そうです。心依架様。
白夜様との愛の結晶である私が在る限り、
心配は無用です。』
愛の結晶、って何だろう。
後で調べよう。
「流石爺さん!頼りになるなぁ!」
『“現”での影響は、何とも言えぬ。
学。お前が責任持って、
百夜を連れていくのじゃ。よいな?』
「お安い御用だぜ!」
「お爺さん。
私にも何か、手伝える事はある?」
『晴殿は変わらず、
麗しい音色を奏でていておくれ。
・・・・・・そうじゃ。心依架殿に、
調べを届けてあげてはくれんかのぅ。
幾分は落ち着くはずじゃ。』
「はい。分かりました。」
『出番があれば、いつでも呼んでください。』
『うむ。お主の洗練された見解力は、
大きな支えになる。遠慮なく頼むぞ。』
ざぁ、とざわめく音とともに、
右肩に寄り掛かる温かさと
フレグランスの香りが届いた。
瞼を開けて映り込んだのは、
繊細な灰色の糸と、青白い頬。
固く閉ざす瞼に生える、長い睫毛。
彼の美しい寝顔。
幾度となく瞳に通して刻んできたが、
こんなにも儚げに映った事はない。
自分の指と絡み合う彼の手は、
とても冷たかった。
息をしているのか心配になって、
彼の呼吸に耳を澄ます。
小さく、微かではあるが、繰り返している。
ほっとしたが、状態としては
あまり良くない気がした。
心依架に身を預けるように、眠る白夜。
二人は、地面に座り込んでいた。
そんな二人の元へ、マナが歩み寄ってくる。
彼の方へ目を向けたが、視線が合わない。
無言のまま、自分に寄り掛かる白夜の身体を
引き離し、背負う。
「心依架ちゃん。立てる?」
柔らかく優しい声が掛かり、寄り添う。
肩を抱くようにして、晴が支えてくれた。
「・・・・・・はい。大丈夫です。
ありがとうございます。」
足に付いた砂を払い、立ち上がる。
少しふらつくが、どこも悪いところはない。
和装の紳士と明也の姿は、ない。
戻ってきたんだと、実感する。
「・・・・・・栞さんに、知らせた方がいい。
でも俺、連絡先、知らないんだ。」
「自分が、知ってます。連絡します。」
身元保証人と言っていた彼女。
この事態は、知らせた方がいい。
深夜だけど緊急だし、いいよね。
ポケットに入れていたスマホを取り出して
画面を見ると、丁度3分前に
彼女からメールが届いているという通知が。
このタイミングは、偶然だろうか。
時刻を見て驚くが、この公園に来て
マナたちと合流してから、まだ
10分程度しか経っていなかった。
【いつでもいいから必ず連絡して】
その一言だけだが、なぜだろう。
こうなる事を、知っていたような。
心依架は躊躇うことなく、栞に連絡する。
コール音が3回目を鳴ろうとする前に、
繋がった。
【挨拶は省くわよ。今、白夜は?】
直ぐに彼の名前が上がるという事は。
「・・・・・・眠っています。」
【“常世”に行ってから、ってことよね?】
「はい。」
【近くで待機してたから、すぐ迎えに行くわ。
・・・・・・悪いけど、心依架。
あなたは連れていけない。
付き添いたいと思うだろうけど。】
「・・・・・・どうしても、ダメですか?」
【ごめんなさい。必ず追って、連絡する。
それまでは・・・・・・
いつもの日常を過ごして。
部屋は自由に使っていいと、前もって
彼からの伝言を預かっていたわ。
部屋の鍵は、あなたが持っていて
構わないと思う。】
彼の傍にいる事が出来ない。
見ることが出来ない。
そんな日常を過ごして、待つ。
ここでも、待たないといけないのか。
【彼は、大丈夫。
・・・・・・今だから話すけど、
彼が心を許して傍に置く人なんて、
心依架以外に誰もいないわ。
あなたの事を、とても信頼しているの。
あなたがいたから彼は、この事態を
受け入れることが出来た。道を作れた。】
力強い栞の言葉は、萎れていた自分の花に
水と光を与える。
【離れていても、繋がっている。
彼とあなたは反響し合いながら、
作った道を進んでいける。
そう、私は思うわ。
・・・・・・いい?泣かないで、待つのよ?
起きた時、何を話そうか考えておくの。
思いっきりイチャつこうとかでも。】
「・・・・・・ふふっ。」
小さく笑った心依架に、マナと晴は
釣られて頬を緩ませる。
「いつも、ごめんなさい。はい。
連絡を待ちます。」
なぜか栞の前では、
堂々とイチャついている事が多い。
気づいて思わず、笑ってしまった。
【その調子よ。じゃあ、切るわよ。】
通話がすぐ切れて1分も経たない内に、
聞き馴染みのある
スポーツカーのエンジン音が聞こえた。
「栞さんが、迎えに来てくれています。
・・・・・・マナさん、彼をお願いします。」
深々と頭を下げた自分に
言葉を発することなく、彼は会釈して
公園の出入り口へ歩いていく。
それを、晴と二人で静かに見送った。
「・・・・・・付き添えたら、良かったのにね。」
ぽつりと零した彼女の言葉に、心依架は
小さく首を横に振る。
「彼の事を考える時間が増えたと、
思えばいいなって。」
自分から出た言葉なのに、ちょっと驚く。
「うわぁ・・・・・・心依架ちゃん、素敵。」
「あ、いや、その・・・・・・
そう考えたらいいのかなって、
思っただけで・・・・・・
できたらいいなって・・・・・・」
今から実行しようと思っている事を、
口走ってしまった。
「うふふ。白夜くんと付き合ってると、
そうなっちゃうのかもね。
・・・・・・彼の考え方、素敵だもん。
とても達観してるというか。」
よく分かってくれる人が、ここにも。
理解不能な言葉をよく出すし、聞いても
答えを考えるように仕向けるし。
・・・・・・ん?素敵、かな?
「・・・・・・えっと、今から
ある場所へ行こうと思うけど・・・・・・
一緒に、付いてきてもらえる?」
「・・・・・・ある場所、ですか?」
「うん。着くまでのお楽しみ。
最近完成した場所なんだけど・・・・・・
部外者では心依架ちゃんが初、かも。
あ、もう部外者じゃないね。ふふっ。
お友だちになってくださいっ。」
深々と頭を下げる彼女に、和らぐ。
―晴さんって、不思議系だよね。
ちょっと明日葉の雰囲気に似てる、かも。
癒される。
「自分で良ければ。
・・・・・・カラオケとか、ですか?」
「えっ。違うよ?
私、歌えないの。ばりっばりヘタクソ。
あっ、方言出ちゃった。ごめん。」
「・・・・・・自分も、歌うのは苦手です。
聴くのは好きですけど・・・・・・」
「ふふっ、良かった!聴くのが好きで!
カラオケじゃないんだけど、
ピアノが聴けるところ、かな。
きちんとここまで送り届けるから、
安心してね。」
もしかして、
生バンドが聴けるバー、とか。
お酒は飲めないけど、興味ある。
明るい笑顔を浮かべる晴は、
夜桜にも負けないくらい魅力的だった。
今から帰ったとしても、白夜はいないし
家に帰ってしまったら、気まずい。
一人でモヤモヤするよりも、
どこか出掛けて過ごした方が、紛れる。
「はい。是非、行きたいです。」
「よし、決まり!
それじゃあ、迎えの人呼ぶね。」
来た時に気づかなかったが、ベンチの傍らに
白い小さなショルダーバッグが置かれている。
それに向かって彼女は歩いていき、
中からスマホを取り出した。
「迎えの人って・・・・・・タクシーですか?」
「ううん。専属に、
送迎してくれる人がいるの。
職業柄、時間帯が不規則で
交通機関を使うのが難しくて・・・・・・」
専属に、送迎?
えっ。晴さんって、お嬢、なのかな。
納得できる部分は、あるけど。
スマホを宛てがい、短い会話をして
通話を切った彼女を、呆然と見つめる。
「晴さんの職業って・・・・・・何ですか?」
くすっ、と微笑む表情が、妖しく綺麗だった。
「それも、ナイショ。」
どこか楽しそうに弾んで歩いていく
晴の後を、心依架は首を傾げながら
付いていく。
彼女が上機嫌になる理由が、見当たらない。
「やっぱり、心依架ちゃんは
知らないのかぁ。そうだよね・・・・・・」
「え?何が、ですか?」
「ううん。こっちの話。」
答えをくれないのは、何かの策略だろうか。
サプライズ好きの彼と、どこか
同じ匂いがする。
公園の出入り口付近でまで歩いていくと、
心依架は振り返って、
先程まで皆と一緒にいた場所を見渡した。
彼の匂い、彼の温かさ、彼の声、心・・・・・・
全てが、自分の傍にあった。
一週間後、桜は散り、花びらが
地面に敷き詰められ、葉桜となり・・・・・・
今とは違う景色が彩られているだろう。
どんな気持ちで、またここに踏み入れるのか。
公園を出て数十メートル先に、
一台の白い乗用車が停まっていた。
その車に、躊躇いもなく晴が
近づいていくところを見ると、
話していた専属の送迎車に間違いない。
想像していた高級な車ではなく、
街中でよく見る普通のやつだ。少し安心する。
晴は運転席側の窓に近づいて会釈をすると、
後部席側のドアを開け、心依架を手招きした。
促されるままに乗り込むと、彼女は
その反対側の方に回って乗り込む。
「スタジオまでお願いします。」
「かしこまりました。」
このやり取りに、違和感を覚える。
運転している人は女性。その一言だけで、
こちらに見向きもしない。
晴も、それ以上運転手と
会話をする様子はない。
プライベートに介入しないという、
姿勢なのだろうか。関係性が読めない。
行き先はバーと思っていたけど、
“スタジオ”っていうのは・・・・・・
車が緩やかに発進して少し経ってから、
何気なく問う。
「晴さん。スタジオって・・・・・・」
内緒だと言われるかと思ったが、晴は
にこやかに答えてくれた。
「私専用の部屋、ってとこかな。」
「部屋、っていうのは・・・・・・」
「ふふっ。心依架ちゃん、聞きたがりだね。
私と同じ!」
いや、だって。会ったばっかりだし。
ダチになったといっても、何者か
全然知らないし。聞きたくなるっしょ。
「・・・・・・あ、うん。ごめん。」
急に、辻褄が合わない謝罪。
「えっ。何で謝るんですか?」
「あっ。えっと・・・・・・えへへ。
今は明也の姿、見えてないんだっけ。
いつもの感じで、つい。気にしないで。」
しかも、なぜ明也さんの名前が。
・・・・・・えっ。まさか。
「今、朋也さん、いるんですか?」
「普段は、消えてるんだけど。
今、助手席にいるよ。」
これだけ聞くと、ホラーなのは間違いない。
事情が分かっている自分は良いが、
これを聞いた運転手は。
そう思って反応を窺ったが、動じていない。
プライベートに介入しない、ということなら。
心依架は、助手席に向かって
会釈をしつつ言い放つ。
「見えませんけど、一応。
さっきは、どうもです。」
「あははっ!心依架ちゃん、面白い!」
何か、ウケたっぽい。
運転手からしたら、
酔っ払ってるとしか思えないだろう。
「いつも、傍にいるんですか?」
「家にいる時とか、一人の時は
ほぼ現れてくれる、かな。」
「お風呂とか、トイレの時とかも?」
「ももも勿論その時は消えてるよ?」
めっちゃ慌ててる。
明也さん、笑ってるかも。
「普段どうしてるのか、
めっちゃ気になります。
良ければ教えてください。」
「な、何か、取材みたい・・・・・・」
「“常世”で明也さんが頭に触れてましたけど、
触れ合えるんですか?」
「そこ?!」
「え、だって、幽霊なのに触れるって・・・・・・」
「えーっとね、それを説明するには
言葉が・・・・・・」
「言葉選びが難しい。」
「そう!それ!」
白夜が、口癖のように言ってるやつ。
何となく分かるから、何でもいいんだけど。
「共鳴してるのもあるけど、
心で触れ合える・・・って、
言ったらいいのかな。」
「なるほどですね。じゃあ、
イチャついたりできるんだ。」
「えぇっ?!!」
顔、真っ赤。ふふっ。
「できるんですよね?」
「み、心依架ちゃん・・・・・・
そんなとこまで理解してるの?」
「彼のお陰さまで。」
普段よく、漂ってたから。
「じゃ、じゃあ、私からも質問!
白夜くんとの結婚は、考えてますか?」
えっ。
「そ・・・それは・・・・・・
その・・・・・・できれば・・・・・・
したいなと・・・・・・思ってますけど・・・・・・
相手からしたら、早いのかなって・・・・・・」
重いと思われたら嫌だから、
自分から言わないけど・・・・・・
「ひゃあぁぁぁっ」
両手で顔を覆い蹲る晴に、心依架は戸惑う。
「いや、思ってるだけで、
口にはしませんよ?」
「かわいすぎるぅ・・・・・・」
いや、あなたの方が。
「向こうは、考えてないと思いますし。」
がばっと起き上がって、
輝かんばかりの目を向けてくる。近いです。
「そうかな?考えてると思うよ?
白夜くんのことだから、普通のプロポーズは
しないと思うよ?多分、いや、確実に
すごいやつ考えてると思う。
ひゃあぁぁぁぁっ、いいなぁぁぁっ」
・・・・・・そうだと、いいですけど。
「そう、うまくはいきませんよ。
待たないといけないし、
どうにもならないし。」
「・・・・・・心依架ちゃん。」
「こうしてる間にも、
このまま会えなくなったらとか、
悪い方にばっか考えちゃうし・・・・・・
良い方に考えようと思っても、
期待に裏切られた時のショックに
耐えられなくなりそうで・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・すみません。」
彼女に本音をぶつけたところで、
何も状況は変わらないのに。
「・・・・・・白夜くんは、
心依架ちゃんの事を信じているから、
頑張れていると思う。」
優しい声音の中に、芯の強い響き。
真っ直ぐで揺るがない、その瞳を受け止める。
「二人とも同じ方向を見据えていたら、
その先を見渡すことが出来る。
・・・・・・これはね、綺麗事じゃなくて
本当に実現できるの。
実際に乗り越えてきたから、言えるの。」
その言葉が、出来上がろうとしていた
心のフィルターを崩す。
晴の瞳の奥には、紡いだ事柄を証とする光が
輝き、浮かんでいた。
決して上辺ごとではないと、主張するように。
「彼と同じ景色を、見たいと思わない?」
「・・・・・・思います。」
「じゃあ、見よう。
心依架ちゃんなら、見れる。
白夜くんも、そう思ってる。」
ふと、助手席の方へ目を向ける。
勿論、朋也の姿は捉えられない。
しかし彼女と同じ眼差しで、
自分を見据えている気がしたのだ。
「その為には、笑うこと。
彼は良い笑顔するでしょう?
とても苦労してるのに、笑顔を忘れないの。
彼の笑顔を見る度に、見習わないとなぁって
いつも思うの。」
彼の、ふんわりした笑顔。
確かに、いつも笑っている気がする。
心から笑っていない時も、勿論気づいていた。
何で、笑うんだろうと思った。
公園での、彼が眠る前の笑顔。
あの笑顔の意味は。
「・・・・・・
彼と、一緒に笑いたいです。」
最近、自然と笑えるようになったのは、
彼のお陰。彼と出逢う前は、
それが出来なかった。
「同じ景色を、見たいです。」
「うん。」
彼女の、明るい笑顔。
これも、苦難を乗り越えてきたから、
浮かべる事ができるのかもしれない。
「ありがとうございます。晴さん。」
「えっ?何で?」
「ダチになってくれて。」
どうしようもない自分に、付き合ってくれて。
温かい言葉を掛けてくれて。
「ふふっ、こちらこそ!」
「ハグしちゃっていいですか?」
「えっ?」
「晴さん、かわいすぎますもん。」
返事を聞かずに腕を回して、ぎゅーっとする。
自分よりも小さくて、細い。いいにおい。
「心依架ちゃんの方が、かわいすぎるよぉ?」
彼女も、ぎゅーっとしてくれた。
「ふふっ」
「えへへっ」
「到着致しました。」
運転手の声が掛かる。
ちょっと、笑ってるような感じだった。
「えっ。はやっ。」
「ふふっ。意外と近いとこだったんだよ。
・・・『ことり』さん。すみませんが、
しばらく待ってもらえますか?
帰りは、この子の家まで
よろしくお願いします。」
「かしこまりました。」
ハグを解くと晴は、にこっと
心依架に向けて笑った後、車のドアを開ける。
それに続くようにドアを開けて外に出ると、
心地好い風が吹き抜けた。
昼間の深緑は、夜の闇のせいか黒々と見える。
自分の家のマンションよりも、
“お化けの森”の領域に近い場所。
それに驚いていると、彼女が告げた。
「表は閉まってるから、裏口から入るね。」
軽やかに歩き出した彼女の後を、
慌てて付いていく。
どこかの敷地内にある、駐車場。
向かう先には、暗い中でも分かる
お洒落な外観のビル。
じっくり見回す間もなく、裏口へ到着する。
「お疲れさまです。」
「・・・あぁ、どうも!お疲れ様です!」
「この子は、私の連れなので。」
「分かりました。どうぞお通りください。」
ガラス越しにいる守衛に声を掛け、
晴は颯爽とビル内へ入っていく。
こういうのって、深夜だし
チェックが厳しそうなのだが。
すんなりと入れた事を問う事も出来ず、
まだ真新しくて綺麗な廊下を歩く。
「ここって・・・・・・晴さんの職場ですか?」
「うーん、職場と言えば
職場なんだけど・・・・・・
私的には、そんなイメージがなくて。
ここで寝泊まりする事もあるし。
今夜も、そうするつもり。
だから帰りは一緒じゃないけど、きちんと
運転手さんが送ってくれるから。」
ここで、寝泊まり?
差し掛かる階段を先に上がっていく
華奢な彼女の背中を、じっと見つめる。
「時々ね、マナくんがバイク便・・・・・・
ふふっ、差し入れしてくれるの。
今日持ってきてくれたパン、かわいくって、
とっっっても美味しかった!」
すぐに、ピンときた。
昼間マナさんが話していた、ある女性への
差し入れ・・・・・・晴さんに、だったのか。
「今度是非、メロンパンも。」
「うわぁぁぁっ、ヤバいっ。
お腹空いてきたぁぁっ。」
階段を上っている途中で止まり、悶え始める。
気持ちは、すんごく分かるけど。
心依架は二段下がった所で立ち止まり、
壁にへばり付いている彼女を眺めて、待つ。
「ダチの家族がやってるお店で・・・・・・
そこで、働かせてもらってます。」
「いいなぁっ。じゃあ、従業員特権で
パン食べ放題とか、だよね?」
食べ放題って。
それじゃ太っちゃいますよ。晴さん。
「た、食べ放題じゃないですけど・・・・・・
まかないで、お昼はサンドイッチとか。」
「あぁ・・・・・・ダメ。
心依架ちゃん、今度必ず出向きます。
大量に買っちゃうかも。」
「あははっ。その時は連絡ください。
事前に予約してもらったら、その数を
用意できます。」
くるりと振り返った彼女の視線が、
閃光のように自分へ降り注ぐ。
「覚悟してよ?みんなの分もだから、
いっっっぱい頼んじゃうよ?」
みんなの分?
「みんなの分って?」
「ここのスタジオで働く、みんなの分。」
「・・・・・・なるほど。
どのくらい、いるんですか?」
「100個以上、かな。」
「ひゃっ・・・・・・」
30人くらいだと思ってたのに。
「頼める?」
「・・・・・・は、はい・・・・・・要相談、ですね。」
「うふふっ。楽しみに待ってます!」
眩しい笑顔で、待ってますと言われたら。
相談してダメでしたとは、言えない。
「とりあえず、晴さんの分だけ
買いに来ませんか?
いろいろ味見してもらって、
コレ!っていうやつを、頼むとか。」
「おーっ、流石!それいいかも!」
「いろいろ、食べてもらいたいですし。」
「うんうん!」
朋也さんも、食べれたらいいのに。
「明也も、見て楽しむから
是非行きたいって!」
自分が思った事に、彼が答えをくれたような。
そんな、彼女の言葉だった。
「私専用の部屋は、階段を上り切って
すぐの所にあるの。」
「改めて聞きますけど、晴さんって
何者なんですか?
もう、教えてもらっても・・・・・・」
「うふふっ。部屋に入るまでダメ。」
そこは、白夜を見習わなくても。
「あともう少しだから、ね?」
まるで、背中に羽が生えているかのように、
足取りが軽い。
この人は、天使かもしれない。冗談抜きで。
「心依架ちゃんの、一番好きな曲は?」
「えっ・・・・・・いきなり、ですね。」
「良ければ、教えてほしいなぁ。」
階段を上り切って、その名前を口にする。
「・・・・・・fActerの、
Called,“Remove and add.”・・・・・・です。」
推しの、デビュー曲。これ以外、ない。
「あはっ!私も大好き!」
「えっ?!ガチですか?!」
「うん!
よく聴いてるし、アレンジもしてる!」
・・・・・・アレンジ?
「とっても素敵な曲だよね!
ふふっ、了解しましたぁ。」
とある部屋のドアの前に立つと、晴は
心依架の方に振り向いて、微笑む。
「到着しました。どうぞ、お入りください。」
とりあえず、ドアノブが、普通じゃない。
それを彼女は、ガチャン、と上げて
ドアを開けるが、分厚くて重そうだ。
言われるまま、促されるままに
その部屋の中へ入る。
視界に飛び込んできたのは、
紛れもない黒を纏った、グランドピアノ。
照明に反射して、眩しい程に輝いている。
広い空間に、それが主役とばかりに
真ん中に置かれており、壁際には
控えるように、数脚の丸椅子が重ねてあった。
新しい、木の匂いがする。
床は綺麗にワックスが掛けられており、
その上を晴は、小気味よいヒール音を響かせて
丸椅子の方へ歩いていった。
それをただ呆然と見守っていると、彼女は
丸椅子を一脚、両手に持って
ピアノの方へ歩いていく。
「これに座ってね。」
それは、ピアノから少し離れた場所に
そっと置かれた。
「ここ、が・・・・・・晴さん専用の部屋?」
想像していた部屋とは、かけ離れすぎている。
「うん。何時間でも、好きなだけ
練習できるから、とっても有難い場所なの。
私のお城、って言ってもいいな。」
そう紡いで、ピアノの縁に触れる晴。
彼女だけが、触れるのを許されるような。
なぜか、そんな気がした矢先だった。
「改めまして、私は“HARU”と申します。
ジャズを中心に演じる、ピアニストです。」
彼女は、自分に向かって
深々とお辞儀をする。
顔を上げて、笑みを浮かべる表情は
とても凛としていて、美しかった。
「ピアニスト・・・・・・」
「心依架ちゃんの大好きな曲を、今から
アレンジを加えて弾こうと思います。」
告げた言葉に加えて、艶のある笑顔。
これから、恍惚の時間が始まる。
そんな彼女の心の声が滲み出ているせいか、
自分も一瞬、思うままに
彼女を撮りたいという衝動に駆られた。
抑えつつ、問い掛ける。
「え、は、晴さん。ガチ、ですか?」
分かり切っている質問に、晴は
吹き出して答えた。
「ここまで来て、嘘でしたぁ~なんて
言わないよぉ?」
可笑しそうに笑いながら
ピアノの屋根を上げて、突上棒で支える
彼女の後ろ姿を、心依架は呆然と眺める。
「・・・・・・あ、あの・・・・・・
もしかしたら、ですけど。もしかして、
かなり有名だったりします?」
この設備、この待遇。
今までの振る舞い、言動。雰囲気。
全部が、それに繋がる気がした。
「そこそこ、かな。
心依架ちゃんくらいの世代は、
知らない方が多いし・・・・・・」
ママなら、知ってるかもってやつ?
「SNSは、勿論してますよね?」
ピアノ椅子を引いて腰を下ろし、
鍵盤蓋を上げる晴の視線は、もう
グランドピアノを外す気配はない。
「公式としてはあるけど、それは宣伝用かな。
事務所の人に任せてる。
プライベートでは、してないかも。」
彼女は、譜面台に置かれていたクロスで
軽く鍵盤を拭くと、横髪を耳に掛ける。
「公園に行く前も、ここで弾いていたの。
・・・・・・今、こうしていられる事は
本当に、感謝しかない。」
愛しい誰かに、話し掛けるような。
柔らかく微笑む彼女に、心依架は申し出た。
「・・・・・・撮っても、いいですか?」
「あ。うふふ。恥ずかしいけど、どうぞ。」
許可を得た。よし。
即座にポケットからスマホを出し、
ぱしゃりと撮る。
それには流石に、晴は目を向けた。
「は、早いねっ。」
「よく言われます。
演奏中も撮っちゃうかも、です。
気になるようだったら、
もう少し離れます。」
「あっ、多分、大丈夫。逆に、
演奏中の方が気にならないかも・・・・・・」
「ありがとうです。」
「こ、こちらこそ・・・・・・」
互いに、好きなことを、好きなだけ。
それが出来るなら、言うことはない。
彼女の正体を知る前に。
ダチになれてよかった。
もしかしたら彼女は、それを
狙っていたのかもしれない。
表向きの顔を知られる前に、
素の状態を知ってもらう為に。
それなら、本当に。この人は、
かなりのお人好しだ。
きっと周りの人は、それに気づいている。
だから、護ろうとしているのかもしれない。
貴重な、彼女の心を。
静かな、幕開け。
丁寧に音が紡がれた時は、
自分が知る大好きな曲を丸裸にしたような、
基本のコード。
でも確かに、愛して止まない、推しの歌だ。
それから少しずつ、飾りが増えていく。
身を護る為に、服を着るような。
この曲の歌詞と、リンクしている。
とにかく、鳥肌が立った。
穢れなく、綺麗なものに出逢った時の感覚だ。
白夜という存在も、それに近い。
歩いていたら、見つけた。出逢えた。
『お前が笑顔にならないと
どうしようもないだろ』
そう。あの笑顔は。そう言ってた。
『一緒にいてやるからさ
二人で行こう』
会いたい。白夜。会いたいよ。
起きてよ。笑顔で、いるから。
晴が紡ぐ自由な旋律に触れながら、心依架は
躊躇いなくシャッターを切る。
この刹那を収めたいという、強い思いで。
そして涙を流し、笑顔を浮かべながら。
―なに、これ。カッコよすぎ。
ピアノもだけど、晴さん、
めっちゃカッコいい。きれい。
気づけば曲は、武装する程に
強く激しい音色を彩っている。
自ら鼓舞して、突き進んでいくような。
戦場へと、立ち向かって行くような。
花道が、築かれていく。
立ち止まるな。進め。
そんな力強い声が、届いた気がした。
終止符が打たれた後の余韻が、
静けさの中に漂う。
動けずにいると、晴は椅子から立ち上がって
深々と頭を下げた。
彼女の笑顔が目に飛び込んでくると、
許しを得たように心依架は、ため息をつく。
涙を拭うと、スマホを膝上に置いて
拍手を送った。
「聴いてくれて、ありがとう。」
「な、何言ってるんですか!こちらこそです!
めっっっちゃカッコよかったですっ!」
「ふふっ。」
こんな特等席で聴けるのは、ないと思う。
ヤバい。カッコいい。もう、彼女のファンだ。
「撮ったやつ、どんな感じかな・・・・・・?」
ほぼ、無意識で撮りまくってた。
うわ。すごい枚数撮ってる。
「うわぁっ、たくさん!恥ずかしいっ!」
晴はスマホを覗き込んで、顔を覆う。
「何も恥ずかしい事ないですっ。
良ければ全部、あげますよ?」
「えぇっ?!・・・・・・じゃあ、
公式のやつで使わせてもらってもいい?」
「良ければ、どうぞ。送っときますね。」
「ありがとう!」
とても嬉しそう。
喜んでもらえる事態、ありがたい。
自分の撮ったやつ全部あげたとしても、
彼女の演奏には匹敵しないのに。
連絡先を交換して画像を送ると、
心依架は椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。
自分の為に、弾いてもらって。」
彼女が向ける微笑みと眼差しは、
とても柔らかくて優しかった。
「聴きたくなったら、いつでも連絡してね。」
「えっ?・・・・・・いいんですか?」
「もちろん!
ただ、この時間になっちゃうけど。
それでもいいなら。」
全然いい。良すぎる。VIPすぎるっしょ。
「ありがとうございます。
・・・・・・もう、帰ります。」
この時間は、きっと、彼女の貴重な時間内。
長居は、できない。
「・・・・・・眠れそう?」
「多分、大丈夫です。」
眠れなくても。
とりあえず、彼の部屋に行こう。
傍にいられる気がする。
「駐車場まで、送るね。」
「・・・・・・はい。」
もう自分たちは、歩き出しているんだ。
見渡せないほど暗い、闇の中を。
自分を届ける為に走行する、白い乗用車。
運転手の女性は相変わらず
何も発さなかったが、それが有難いと思えた。
彼女の演奏の余韻に、浸ることが出来る。
晴の姿を映した画像を眺めていると、
一枚だけ、半分白くなっているものがあった。
照明のせいだろうと思ったけど、
心当たりがあるとしたら、
彼が写り込んでいたのでは、と。
それから、彼女の事を検索した。
フォロワーが、桁違い。彼女の演奏は、
世界でも高く評価されている。
音楽界では、かなりの著名人だという事。
壁を越えて活躍する彼女は、
難病を抱える子どもたちの支援にも
力を入れている。
それに救われている人は、数知れない。
聖人に近い彼女の存在に触れ、自分は
本当に小さいな、と思わざるを得ない。
でも。
それでも、自分に出来ることを。
それしか、ないのだ。
「到着致しました。」
『ことり』と呼ばれていた彼女の声は、確かに
鳥のさえずりのように、澄んでいる。
「ありがとうございました。」
感謝の言葉を告げると、丁寧に
会釈をしてくれた。
車のドアを開けると、
自分の住むマンションが目の前だった。
住所は、一言も教えていないし、
知らないはずなのだが。
その疑問を投げる前にドアを閉めてしまい、
聞くことが出来なかった。
白い車は、ゆっくりと走り去っていく。
見慣れた、マンションの玄関前。
帰ってきたんだと、心依架は息をつく。
安堵と共に寂しさが訪れるが、
それを気に留めないように
エレベーターへ乗り込む。
白夜がいない時に訪問するのは、
これで二回目・・・・・・か。
あの時は、罪悪感と一緒に探検した。
スリルがあって、ちょっと楽しかったかな。
今回は。寂しさが勝ってるかも。
白夜が眠る根源って、なんだろう。
いつも彼が眠そうにしてるのって、
理由があったって事だよね?
自分が、何かに“目覚めた時”。それを、
おじぃちゃんが話してくれるって言ってた。
自分に眠るものって、なんだろう。
よく、分かんない。
白夜の部屋のドア前に立ち、見据える。
いつの間にか、ポケットに
部屋のカードキーが入っていたんだ。
いつ、入れたんだろう。
それに気づいたのは、栞さんに連絡しようと
スマホを取り出す為に、手を入れた時だ。
栞さんが、“部屋は自由に使ってもいい”と
言っていた。だから、こうなる事を
事前に備え、予測していた事になる。
彼は本当に、何を考えているのか分からない。
カードキーを差し込み、心依架は
部屋の中へ足を踏み入れた。
彼の匂い。フレグランスの香り。
それが、ふんわりと
迎え入れてくれた瞬間だった。
『おかえりなさい。』
頭から、迎えてくれる者がいるなんて
思っていない。予想すら出来ない。
でも今、自分を、
とびっきりの笑顔で迎える少女がいる。
心臓が、自分のものじゃないくらい
跳ね上がり、驚きのあまり後ずさった。
「・・・・・・えっ・・・・・・?」
『ずっと、待ってたのよ。こっちに来て。』
黒く滑らかな、真っ直ぐで長い髪を靡かせて
その少女は、廊下を歩いていく。
―・・・・・・誰・・・・・・?
鍵は、掛かっていた。
だとしたら、彼女は、一体。
思い当たるのは、少女の笑顔。
花が咲き誇ったように、瑞々しくて明るい。
「・・・・・・えっ、うそ・・・・・・」
『どうしたの?ほら、早く。』
くるりと振り返って
自分に大きな双眸を向ける、美しい少女。
間違いない。この子は。
もしかして、知らずに
“常世”へ踏み入れてしまった、とか。
いや、でも今、白夜は傍にいない。
写真から飛び出したのだろうか。混乱する。
「・・・・・・なんで・・・・・・?」
驚いてばかりで動かない心依架に対し、
少女は頬を膨らませる。
『なんで、じゃないでしょ?
ずっと一緒にいたでしょ?もうっ。
大人の“百”が、いけないんだ。
わたしが、いないとばかり思ってる。
傍に、いるのに。』
大人の、“百”。白夜の本名である一字。
彼女は、彼の事を
そう呼んでいたのだろうか。
「・・・・・・“咲茉”・・・・・・なの?」
『そう。わたしは“咲茉”。
・・・・・・やっと、見てくれた。』
本当に、この子は、“咲茉”なのだろうか?
『子どもの“百”は、きちんと分かってる。
わたしが傍にいること。でも・・・・・・』
「ちょ、ちょっと、待って・・・・・・」
この状況は、何なのか。
マナと和装の紳士なら、分かるだろうか。
どうにかして、知らせることは出来ないのか。
戸惑っていると、少女―“咲茉”は踵を返して
リビングの方へ駆けていく。
「あっ、まっ・・・・・・」
慌てて、後を追い掛ける。
知らずに“常世”へ来たとは、思えない。
それなら、“心”がいるはずだ。
しかし、呼んでも現れてくれない気がする。
感覚で、分かる。
リビングへ行ったはずだが、見当たらない。
見渡して、ふと目に留まったのは
彼の寝室。全部、青に染まった部屋だ。
心依架は、その部屋のドアを見据えて
息を整える。
ドアを開けた向こうに、
彼女がいるのは間違いない。
だけど、まさか現れるなんて、
夢にも思わなかった。
落ち着け、心依架。
これから、何が起こるのか。
彼女は何の為に、自分の前に現れたのか。
・・・・・・
いや、“咲茉”は言ってた。
【ずっと一緒にいたでしょ?】
まるで最初から、彼と出逢った時から
自分たちの傍にいたという感じだ。
今まで、気づかなかったというのか。
大人の“百”って、今の白夜の事?
子どもの“百”って?
【子どもの“百”は、きちんと分かってる。
わたしが傍にいること。でも・・・・・・】
話を遮ってしまった。
尋ねたら、答えてくれるだろうか。
深呼吸をした後、ゆっくりドアを開けた。
広がる光景は、信じ難い。
ベッドの上に、白夜が眠っている。
しかしその姿は、
写真の彼と変わらない、少年の姿。
それを傍で見下ろす“咲茉”の表情には、
先程の明るい笑みは浮かんでいなかった。
『わたしが起きるとね・・・・・・
子どもの“百”は、眠っちゃうの。
目を覚ますと、今度は
わたしが眠っちゃう。』
彼女は、眠っている彼の傍へ
寄り添うように座り、そっと
身体を抱き上げる。
その姿は、不思議にも
深い愛を注ぐ母親のように見えた。
『・・・・・・あなたなら、断ち切れるでしょ?
わたしたちの、“反動の鎖”。』
再び浮かべて自分に向ける
彼女の微笑みは、
期待を信じて疑わない光に、溢れている。
『わたしたちを、飛び立たせて。』