会合
5
バターが溶ける匂いと、
焼けた生地の香ばしさ。
それに包まれながら、仕事ができる幸せ。
元々パンが大好きな心依架にとって、
この空間は天国に思えた。
綺麗に並ぶ、
ふっくら焼き上がったメロンパン。
本物の果肉をクッキー生地に
練り込んでいるので、フルーティな甘さと
香ばしさが相まって、とても美味しい。
焼きたてを試食させてもらって、
あまりの美味しさに即買いしてしまった。
このお店の人気パンで、ベスト3に入る。
焼きたてのバケットは立て掛けられ、
山型の食パンは粗熱を冷ます為に
等間隔に並べられ、出番を待っている。
この光景を眺めるだけで
癒されるし、楽しい。
ただ、こうして成形されるまで
手間暇が掛かり大変だという事を
働き始めて知った。
生み出されたパンたちを愛でるように
スマホで、ぱしゃりと撮る。
パンたちのベストショットを撮って
コメントを付け、SNSに投稿する。
それも、自分の仕事になった。
まよごんパパママは宣伝が苦手らしく、
真世心に丸投げしていたらしい。
しかし彼女自身も得意ではない。
真世心の4歳上の兄、渉も
同じくなので、自分に回ってきたという
流れである。
勿論自分もプロじゃないし、
撮るのが好きってだけで
コメントとか作るのは得意じゃない。
大半が、パンを食べて感じたそのままを
言葉にしている。
真面目に辞書で調べて、言葉を考えるなんて
学生の時にしてなかったというのに。
今では、空き時間があれば
言葉を調べている。
こういうもんよね。
必要な時に、必要な分だけ。
訳分からず勉強しても、何も身に付かない。
それが最近分かった事である。
「みぃ。そろそろオープンするよ~!」
厨房から、真世心が姿を見せた。
店オリジナル制服にエプロン姿は、
本当に良く似合っている。
「まよ。とりあえず午前中は、
みぃちゃんと二人で売り子な。」
彼女に続いて、現れる青年がいる。
真世心の兄、勇 渉(いさみ わたる)だ。
「いいの?わたにぃだけで回る?」
「まかせろ。」
親指を立ててグッドサインを送る彼は、
まよごんパパママの技を引き継ぐ為に
日々修行している、頼もしい存在。
兄弟のいない心依架にとっても、
本当の兄のように接している。
背丈も体格も大きいので、最初
怖い印象を受けたが、働いている内に
それはすぐに消えた。
とても優しくて、穏やかな人である。
ロールスクリーンのブラインドを開けると、
見える範囲ぎっしりの、人の行列が
すぐ目に入った。
「うわっ!めっちゃ並んでるっ!」
「やっべ。気合入れっぞ。」
「うははっ!みぃに宣伝頼んで良かった!
自分が看板出してくるから、レジにいて!」
自分の宣伝効果、だけじゃないと思う。
お世辞抜きで、ここのパン最高なんだもん。
勇一家が経営する“ISAMIベーカリー”は、
都内有数にあるベーカリーの中でも
トップ10に入る人気店に浮上している。
店主・勇 陵介が
厳選した材料と、天然酵母。
伴ってその技術と日々の努力が加わり、
高く評価されている結果ともいえる。
陵介を支える妻の日登美の、
繊細な加工技も注目されている。
濃厚なカスタードクリームが
たっぷり入った“はこふぐパン”は、
そのフォルムと愛らしさが
子ども中心に人気急上昇中。
小麦アレルギーの人にも食べられるよう
米粉+生クリームバージョンもあり、
店の看板商品になりつつある。
そんな二人を陰ながらに支え続けている、
渉と真世心。
彼らのパンもいつか、店頭に並ぶことを
心依架は心から願っている。
こんなに温かいファミリーの中で、
笑顔が絶えない自分でいられる事。
本当に、感謝しかない。
「はぁーっ、疲れたぁ・・・・・・」
今日の昼休憩のまかないは、
まよごんパパ特製のBLTサンド。
これが、タダでいいのか。
レモンティーは、まよごんママが
いつでも飲めるよう常備してくれている。
まともに働き出して、約二週間。
十分すぎるまかないに、心依架は
喉を潤しながらBLTサンドを頬張る。
「いつもより、お客さま多い気がするね。」
「紹介されたってのもあるけどさぁ、
ヤバすぎ。有難い事なんだけどねぇ。」
休憩所として使っている場所は、
店の裏手に設置されている簡易テーブル一式。
雨の時は、工房の隅っこに移動する。
外から見えないように
パーテーションで仕切られているが、
周りの高いオフィスビルの上からは丸見えだ。
「みぃが来てくれて、ホントに良かったぁ。」
「役に立ってる?」
「女神だね!パパママも、わたにぃも、
心依架さまさまだよ~。」
女神って。言いすぎっしょ。
「・・・・・・そういえば、ここのバケットを
お土産で彼んとこに持って行ったんだけど、
かなり美味しいって言ってたよ。」
「パパの魂が入ってるかんね!
いつか自分が作ったやつも、
食べてもらえるようにがんばろーっ!」
そう言って笑う真世心は、
とても輝いている。
学校に通っていた時の彼女よりも、ずっと。
「・・・あ。ウワサなんだけど、みぃ目当てで来る
お客さまもいるらしいよ?」
「・・・・・・えぇ?」
「みぃの丁寧な接客と、かわいい笑顔に
癒されるんだって。」
そんなウワサ、信じられない。
「ISAMIベーカリーの女神だね。」
「言いすぎ。」
「女神はゆっくり休んでて。
わたにぃと変わってくる。」
「自分も行くよ?」
「大ジョーブ!」
BLTサンドを、素晴らしい早さで
口に放り込みレモンティーで流し込むと、
真世心は店内に戻っていく。
自分も、食べたらすぐ行こう。
怒涛のように忙しいけど、
言い様のない充実感が、とても清々しい。
ここで働けて、良かったな。
生きている実感を、覚えられる。
ISAMIベーカリーでの勤務が終わり、
心依架は電車から降りると
自宅のマンションへの帰路を歩く。
時刻は、19時前。
日は落ち、辺りの暗さに
明るい街灯の光が淡く滲んでいる。
ラウンジ勤務だった穂香の仕事は、
自分の卒業と同時期に
雑貨屋の店員へと転職している。
9時から17時までの勤務になった事で、
ゆっくり心依架と顔を合わせて
夜を過ごせるようになった。
会話も増え、今では
料理を教えてもらったりもしている。
心依架自身、母子関係が
こんなに良くなるなんて、思っていなかった。
今では、心から頼れる存在になっている。
心依架の手提げエコバッグには、
穂香に頼まれた紅茶とクッキーが入っていた。
それと、渉が帰り際にくれた試作品のパン。
いつも何かしら、持たせてくれる。
今日は、アップルパイだ。
「ただいまー。」
何の躊躇いもなく、この言葉が言えるのは
幸せなことである。
「おかえりなさーい。」
そして、すぐに返ってくる優しい声。
このやり取りだけで、ほっとする。
リビングの方から漂ってくる、
煮込まれたデミグラスソースの良い香り。
心依架は靴を脱いでリビングへ直行すると、
エコバッグをテーブルに置いて
中身を取り出す。
元気に葉を広げるパキラが、
横目に入ってきた。
ただいま。
「先にお風呂入っちゃいなさい。
・・・あら、今日はパイなのね。」
「アップルパイだよ。半分こしよ。」
「ふふっ。紅茶に合いそうね。」
渉に貰う試作品パンは、いつも
晩御飯後のデザートタイム行きである。
試作品と言われるが、どれもこれも
完成品と思えるくらいに美味しい。
「いただきまーす。」
今晩のメニューは、煮込みハンバーグ。
大好物の一つである。
それと、たっぷりのレタスと
トマトサラダ。これがあったら、
無限に食べれそうな気がする。
「真世心ちゃんとこのパン、大人気ね。
働き先の人たち、みんな通ってるみたい。」
テーブルの真ん中に置かれた
パーティサイズのサラダボール。
それを、穂香が取り分けてくれた。
「だよね。めっちゃ美味しいもん。」
「今度行ってみようかしら。」
「食べたかったら、買ってくるよ?」
「ふふっ。レジに立つ心依架が見たいのよ。」
まさかの、自分目当て。ここにいた。
「い、いいよ。恥ずかしいし。」
「何言ってるの。
何も恥ずかしい事ないでしょう?」
授業参観っぽくて、落ち着かない。
「真面目に働いてるとこ見られるのって、
何か変な感じするじゃん。」
「そう?それに、
真世心ちゃんにも会いたいし。」
「・・・・・・
もし来るんだったら、連絡してよ。」
「はいはい。」
今夜の煮込みハンバーグ、激うま。
いつも美味しいんだけど、何だろ。
今夜のは、過去イチかも。
黙々と食べ進める心依架を、穂香は
微笑みながら見守り、トマトを口に運ぶ。
こうして顔を合わせて食事する時間も、
今では大事なルーティーンになっている。
母親の笑顔が見れる事も。
「・・・・・・言ってた通り、
今夜泊まりに行くから。」
話を切り出すと、彼女から
小さな溜め息が漏れた。
「・・・・・・やっぱり、行くのね。」
「うん。行っていいんでしょ?」
「彼に、迷惑掛からないかしら。」
「いつでもいいって言ってくれてるもん。」
「・・・・・・
今度、ここへ連れてきて。会ってみたい。」
そんな提案が出るとは思わなかった。
心依架は箸を止めて、穂香を見据える。
「・・・・・・会ってみたいの?」
「ええ。どんな人か知りたい。」
自分の気持ちを彼に伝えたその日、
穂香に白夜の事を話した。
出会った時の事と
このマンションに住んでいるという以外、
どんな名前か、職業か、知らせていない。
だが彼女は、何も訊かずに
“彼ぴ”の存在として受け入れてくれた。
だが穂香は、条件を出した。
卒業するまで、
彼の所へ泊まりに行く事は禁止。
会う事に制限はしないが、必ず
どこに行くか教える事。
それを呑めば、自由にしていいと。
卒業して、ベーカリーで働き出して
約二週間。やっと、ついに許可が下りたのだ。
「心依架が選んだ人なら、私は良いと思う。
ただ、あなたが傷つくのは見たくない。」
「そんな人じゃないよ。」
「まだ分からないでしょう?
絶対とは言えない。だからもし、
あなたが悲しむような事になったら・・・・・・
私はいつでも味方になるから。
例え彼氏彼女の関係だとしても。そこは、
踏み込んでおきたい。
・・・・・・母親として、先輩として。」
「・・・・・・」
前までの自分なら、
感情的になっていたかもしれない。
自分の事が信じられないのか、
彼の事を疑うのか、投げつけていただろう。
「ありがと。ママがいるって思ったら
心強いな。今度連れてくるね。」
心依架の言葉に、穂香は目を見開く。
「とーーーっても、カッコよくて優しいから。
ママが好きにならないでよ?」
「・・・・・・ふふっ。」
吹き出すように、彼女は笑った。
「そんなに素敵なの?」
「間違いなく。」
「心配しなくてもいいわよ。当分の間ママは、
恋愛お休みだから。」
「分かんないでしょ。火がつくかも。」
「うふふっ。心依架、あなたかわいすぎ。」
「は?何が?」
「画像、いっぱい撮ってるんでしょう?
見せて。」
「えっ、やだ。」
「あら、どうして?」
「今度連れてくるから、いいじゃん。」
「固いわね~。」
冗談抜きで、ママは雰囲気があるんだ。
年齢を感じさせない、女の魅力というか。
娘が言うのも何だが、綺麗で艶がある。
白夜の好みは分からないが、油断できない。
どんな女性も丸くしてしまう才能がある上に、
容姿が整っているともなれば。
母親も、好きになる可能性だってあるのだ。
警戒するように、じっと見ていると
穂香は、面白そうに笑う。
「100%ないわよ。心依架。」
「分かんないっしょ。こればかりは。」
「私の性格分かっているでしょう?
運命とか一目惚れとか、
信じないタイプなのよ。」
「えっ、なにそれ。心依架が、
運命とか一目惚れとか、
してるみたいな言い方。」
「うふふ。だって、どう考えても
公園で出会って、同じマンションに
住んでいて、みたいな感じ・・・・・・
あなたが好きそうな話じゃない。」
「はぁぁっ?!」
「しかも、カッコいいんでしょう?
出来過ぎてるわ。私なら疑っちゃう。」
「み、心依架だって、最初は疑ってたし!」
「でも、ころころと転がって落ちちゃった。」
「こっ・・・・・・」
「ママが心配するのは、そこら辺ね。」
「自分たちは、特別だもんっ。」
「特別。そう。特別って思っちゃう。
でもね、それを言ったらみんな特別なのよ。
どの人にもドラマがあって、世界に一つ。
あなたもその一つを、過ごしているだけ。
そう思えるようになるのは・・・・・・
いつになるのかしらね。」
止めていた箸を、素晴らしい早さで動かして
ハンバーグを平らげると、手を合わせる。
「ごちそうさまっ。」
「もういいの?」
「美味しかった!ありがとっ。」
「ふふっ・・・・・・」
ツンとしながら心依架は、
食器をシンクへ持って行く。
少なくとも。
自分と白夜の関係は、普通じゃない。
多分、それこそ世界に一つだ。
それを言葉にして話せたら、どんなにいいか。
「今は何言っても、
聞き入れられないわよね~。」
「言っとくけどママが思うような恋愛、
自分たちしてないから。」
ジャーッ、と水を出して、スポンジを濡らす。
「どういう事かしら?」
実を言うと、身体の関係は
今まで一回もない。
“間”で漂うのと、リアルで多少
イチャつくのはあるけど。多少・・・多分。
健全な仲だと、言っていいだろう。
「心で繋がってんの。」
「あら、素敵ね。」
洗剤を付けて泡立て、食器を洗い出す。
「一緒にいるだけで楽しいし、満たされる。」
「とっても素敵じゃないの。」
「身体だけの関係って、一時的でしょ?」
「・・・・・・そうね。」
「大事にしてくれてる。」
「その人、まだ・・・・・・心依架の事、
同じ位置で捉えていないのね。」
「・・・・・・えっ?」
穂香の言い分が気になり、目を向ける。
彼女は椅子から立ち上がると、
ケトルを手に取った。
心依架の横に並ぶと、
シングルレバーを上げて水を入れる。
「あなたを宝物扱いしている。」
「ど、どういうこと?」
「心依架。それであなたが満足なら、
いつか終わりが来るわ。」
「・・・・・・?」
「そうね・・・・・・今夜、
言ってみるのはどうかしら。」
そっと、耳打ちされる。
告げられた言葉に対し、
全身が沸騰するくらいに熱くなった。
「えっ・・・・・・ママ、それ、ガチで言ってんの?」
ケトルの電源を入れ、穂香は微笑んだ。
「これで何も起こらなかったら・・・・・・
考えるべきね。お付き合いすること。」
母親から出た言葉とは思えなかった。
食器を洗い終えた心依架は
ソファーへ一直線に歩いていき、座り込んだ。
顔が熱い。
「ティータイムしてから、支度しなさいね。」
穂香は鼻歌交じりに、キャビネットから
お揃いのティーカップを取り出す。
せっかく気軽に、
彼の部屋へ行こうと思っていたのに。
まさかの母親の一言で、
緊張する事になるとは予想もしていなかった。
彼に告げる勇気は、あるのか。
それで、受け入れられた時のドキドキと、
断られた時のショックに、耐えられるのか。
彼と出会った最初に言われていた、
“その気にならない”件。
イチャつくことはあっても、
進展する事はないと思っていた。
自分たちの距離は、かなり縮まって
互いの温もりを感じられるようになった。
それで正直、不満はない。
それが特別だと、思っていた。
でも。
母親の指摘は、
間違っていないのかもしれない。
“宝物扱いしている。”
確かに、同じ位置として捉えていないと
いうのも、核心を突いている気がする。
自分は、変わったと思う。
こうして、受け入れられるか否かの
葛藤をしている。
彼は、どんな反応をするのだろう。
着替えとコスメ類が入ったリュックを持って、
心依架は白夜の部屋へ足を運んだ。
服装は、部屋着のままだ。
変に気合いを入れるのも、おかしい。
インターホンを押す手が、震える。
最初に訪問した時よりも、遥かに
緊張している。
10秒くらい経って、玄関のドアが開いた。
「こんばんは~。どうぞぉ。」
気の抜けた、彼のふんわり声。
迎え入れてくれた白夜は、
既に眠たそうな顔をしている。
微かに香る、アルコールの独特な匂い。
「飲んでた?」
「うん。」
とても幸せそうに、微笑んでいる。
「この前、心依架ちゃんからもらった
バケット、少しだけ冷凍して
取っておいたんだぁ。ふふふ。
アヒージョと、最高に合うんだよぉ。
それと、ワインをすこぉし。」
そう。一本空けたのか。
彼が飲んでいる時点で、
穂香に告げられた言葉をぶつける
シチュエーションは、無いに等しくなった。
ほっとしたような、拍子抜けというのか。
ご機嫌な様子で、白夜は先導して
リビングへ歩いていく。
飲んでいる時の彼は、妙に色がある。
白くて綺麗な首筋が見えて、ドキドキした。
気候も暖かくなり、ファッションも
地肌が見えるようなものに衣替えしている。
「桜が、ぼちぼち咲いてるねぇ。」
「満開になるのは、
来週の日曜日ぐらいになるみたい。」
近所の公園の桜も、少しずつ
花を開かせている。
「そうみたいだねぇ。」
ソファーに促され、白夜の隣に座ると
心依架は、じっと視線を送る。
それを受け止めて彼は、ふんわり笑った。
「やっと、お泊りの許可が下りたねぇ。
おめでとう。」
その“おめでとう”に、過敏に反応してしまう。
「おめでとうって、何が?
別に、泊まるってだけっしょ?」
「・・・・・・ふふふ。」
目が、とろんとしている。
「・・・・・・いつも以上に、眠たそう。」
「んー。良い気分だよぉ。」
言い終わる前に、ソファーに寝転がる。
夜訪ねたら、こうして
晩酌している事が殆どだ。
進み具合によっては、寝てしまう事が多い。
膝枕どころでは、なくなる。
「・・・・・・ねぇ。」
むにゃむにゃして、もう目を閉じている。
「白夜っ。」
この状態になると、揺すっても起きない。
彼の、平和で気持ち良さそうな寝顔を見て、
心依架は小さく息をつき、笑う。
―・・・・・・撮っちゃお。
ポケットに入れていたサードニクスを
手にして、ぱしゃりと撮る。
彼の寝顔の画像は、今まで撮ってきた中で
ダントツに多い。
眺めては、癒されている。
例の花の画像も、“間”で
かなり撮ってきた。
詳しい情報は相変わらず得られないが、
最近気づいたのは
発生場所が、とある場所の付近で
集中しているという事。
それはあの、お化けの森だ。
いつか、自分たちの住む所にも
例の花が発生しても、おかしくはない。
しかし今のところ、事件は起こっていない。
ちょこんと座っていただけの心依架は、
白夜にソファーを譲るようにして
ふかふかのラグマットの上に座る。
定位置に近い。そして、
フレームに背を預けてスマホを扱う。
―お店のホームページ、
少し作り変えたかったんだよね。
彼が眠ってしまった時は
好きなだけ部屋にいて、気が済んだら
出ていく事にしていた。
でも今夜は、お泊り。
帰る事を考えなくていい。
このまま、いてもいいんだ。
それが、なんだか嬉しい。
時々、彼の寝顔を眺める。
フレグランスの香りが漂う、彼の居城。
その中で、ゆったり過ごす時間。
現実を忘れられる、特別な空間だった。
静かだけど、寂しくはない。
彼の至福を、自分も一緒に味わっている感覚。
いつか、彼と一緒にお酒を飲みたいな。
良い気分に、なってみたい。
時刻は、22時を迎えようとしている。
微かに聞こえるシャワーの音で、瞼を上げた。
気づけば、寝落ちしていたようだ。
白夜が寝転がっていたはずのソファーに、
いつの間にか自分がいる。
掛けられた毛布を手にして、身体を起こした。
テーブルに置かれていたワイングラスも器も、
片付けられている。
―・・・・・・起きたんだ。
朝まで起きないと思ってたのに。
欠伸をして、ゆっくり立ち上がった。
気だるいが、何とか重い足を動かす。
ここで待つべきだと思うが、
眠気が勝ってしまいそうだった。
もう家で歯磨いてきたので、寝るだけだ。
ベッド、貸してもらお。
以前彼が、ゲストルームと言っていた部屋。
そこへ向かう。
白夜の部屋は流石に、踏み入れる勇気はない。
というか、以前の事もあるので自粛。
それに、“咲茉”の存在を無視して
眠る事なんて出来なかった。
心依架は部屋のドアを開け、踏み入れる。
壁を手探りして、照明を点けた。
照度調整できるやつだ。
カラオケルームみたい。
すぐ眠りに入れるように、明るさを落とした。
真ん中の位置にベッド一台と、
壁沿いにドレッサー。
照明効果もあるが、他の部屋とは違って
セピア色で統一されていた。
準備していたのか、
綺麗にベッドメイキングされている。
サイズも、大きい。ホテルみたい。
倒れ込みたくなる衝動に、逆らえなかった。
ばふっ、と背中から落ちると、
少しバウンドする。
この跳ね返りが、気持ちいい。
―今日は特に、忙しかったもんなぁ・・・・・・
疲れちゃった。
この部屋にも、フレグランスの香りが漂う。
寝転がって気づいたが、ヘッドボードに
ちょこんと置かれている、小さな植木鉢。
ピンク色の小さな多肉植物だ。
土の上に、ぽわんと広がっている。
かわいい・・・・・・こんばんは。
挨拶がてらスマホで撮ろうと思ったが、
リビングのテーブルの上に置きっぱなしだ。
戻る気力もない。既に瞼が重い。
柔らかいシーツに、すぅっと、
沈み込むような勢いである。
―・・・・・・このまま寝て、朝を迎えても・・・・・・
それでも、いいな・・・・・・
*
湿ったにおい。
真っ暗で、何も見えない。
座り込む所も冷たくて、震えるしかなかった。
その中で、荒々しく聞こえる息遣い。
それは、私に向けられている。
私を、食べようとしている。
何も見えない、暗闇の獣。
逃げる事なんて、考えなかった。
だって、私は。
この獣に食べられる存在だから。
怖くはないっていうのは、嘘になる。
怖い。多分痛いと思うし。
苦しまずに食べられたいな。
獣の息吹が、喉元に掛かる。
首を狙ってくれている。有難い。
お願いが届いたのかな。
『・・・・・・お前は、面白いな。
命乞いしないのか?』
獣の声は、不思議な響きを持っていた。
低いのに、耳障りじゃなくて、心地好い。
『ちょうど、この待遇に飽きていた。
お前を、傍においてやろう。』
獣の息遣いが、遠ざかる。
何が起こったのか、分からなかった。
ただ、私は、生き延びた。
食べられずに、済んだ。
生きてもいいのか。私が。
喜びも、悲しみも、押し殺してきた私が。
だって、私は・・・・・・
*
左半身が、温かい。
その心地好さに、心依架は瞼を上げた。
視界に入ったのは、超絶近い白夜の寝顔。
息が止まりそうになるくらい驚き、
慌てて身体をひっくり返して
彼から背中を向ける。
今、何時だろう。
この部屋には時計がない。
スマホがないので、確認できない。
どくんどくんする鼓動を鎮める為に、
深呼吸を繰り返した。
何か、変な夢を見た気がする。
何だったのか、もう忘れてしまった。
今、それどころではない。
おでこをくっ付けたりすることは、よくある。
イチャつく距離感とか、何回も味わっている。
でも。
―ねぇ、待って。
何で白夜、ここで寝てるの?
『一緒に寝よう』
穂香が耳打ちした言葉。
それが、頭の中で何度も繰り返された。
この意味は勿論、分かっている。
だが添い寝状態で、
事が起きるような危うさはない。
静かに流れる時間が、鼓動の波を
穏やかにしてくれた。
『これで何も起こらなかったら・・・・・・
考えるべきね。お付き合いすること。』
自分たちは、心で繋がっている。
それで、十分だ。
なのに、不安になる。
『心依架。それであなたが満足なら、
いつか終わりが来るわ。』
―ママが、変なこと言うから。
不安になっちゃうじゃん。
・・・・・・違う。ママのせいじゃない。
人間である以上、自然な事だ。
好きな人と触れ合いたいと思うのは。
「・・・・・・起きちゃった?」
眠そうな声が、後ろから掛かる。
彼が、目を覚ましている。
それに、動揺を隠せなかった。
寝たフリをしよう。そう思って、
何も返事をしなかった。
すると、背中に温かみが生じる。
密着されると、尋常じゃない心臓の音を
聞かれるのではないかと、焦った。
「・・・・・・心依架ちゃん。」
耳の側で呼び掛けられて、後ろから
彼の腕が絡みつく。
緊張と焦りが、身体を小刻みに震わせた。
流石に、起きていると気づかれただろう。
「・・・・・・怖い?」
そう訊かれて、反射的に声を漏らす。
「・・・・・・怖く、ないよ・・・・・・」
「じゃあ、裸にしてもいい?」
具体的に言われて、言葉を失う。
「・・・・・・まぁ、ダメと言われても・・・・・・
剥がしちゃうけどねぇ。」
そう囁かれて、息ができなくなる。
―ママ。どうしよう。
何も言ってないのに、
何も起こらないどころじゃ、ないんだけど。
身を固め、縮こまっていると
彼の笑い交じりの息が、小さく届く。
「・・・・・・
緊張が解けるように、少しだけ
話を聞いてもらおうかな。」
猶予をくれるのは、有難かった。
「・・・・・・マナさんと同じく、
本職の手伝いをしてくれる女性が
存在するんだけど・・・・・・
そうなったきっかけは、彼女が
“常世”にいる、とある一人の男性と出逢って、
好きになってしまったところからなんだ。」
驚く以外、なかった。
同時に、疑問が浮かび上がる。
生きている人が、幽霊に恋をする。
何で、そんな事になったのか。
というか、あり得るのか。
「想像がつく通り、生身の彼女と
意念体である彼は、触れ合う事が出来ない。
心を通わせることは出来ても、
体温を、匂いを、息遣いを、
実感することは不可能だ。
・・・・・・でも、二人は今でも
愛し合っている。
その苦難を、乗り越えて。」
問わずにはいられなかった。
「・・・・・・何で、その女性は恋をしたの?
彼だって、どうして想うことが・・・・・・」
生きている彼女は、まだ分かる。
しかし彼は、時間が止まっているというのに。
記憶だって、生前のままのはず。
「・・・・・・奇跡、という言葉が近いかな。
ただし、それだけでは片付けられない。
彼らが存在する事は、誰も否定できないし、
理解することも赦されない。」
独特な、彼の見解。もう慣れている。
こんな時は、何となく分ればいい。
「・・・・・・そんな、夢みたいな話・・・・・・」
「あるんだよ。」
「その人たちに会う事って・・・出来るの?」
「心依架ちゃんに会わせたいと思ってた。
実際会って、話すといいよ。
・・・・・・そうだねぇ。桜が満開の時に。」
優しい抱擁だったのが、力強くなる。
「触れ合いたくても、触れ合えない。
そんな二人を目の当たりにして、
好きなだけ触れ合える時間を
躊躇うなんてこと・・・・・・
自分には無理だよ。」
その話が本当なら、自分もそうだと思う。
「確かめ合える時間を、大事にしよう。
同じ時間は、二度と来ない。
・・・・・・今ね、ホントに幸せだよ。
君と、過ごせる時間が。」
彼の甘い声が、身体に溶け込む。
力が抜けそうになるのを堪えて、告げた。
「・・・・・・あの、ね・・・・・・ママに、
白夜を家に連れて来てって言われた。」
「へぇ。心依架ちゃんママが?
会ってみたいね。是非、
伺わせてもらうよ。」
急に、胸の奥がチクっとする。
「・・・・・・ママ、綺麗だから・・・・・・
白夜、好きになっちゃうかも。」
「ふふふ。勿論好きなると思うよ?
だって、君のママでしょ?」
「・・・・・・そうじゃなくて。」
「・・・・・・何の心配をしてるのかなぁ。」
顔を覗き込まれて、現実を知らされる。
「お話は終わりにしよっか。」
「・・・・・・ま、待って。」
「今ので待てなくなった。」
ヤバい。
いらない心配が、彼に火をつけてしまった。
笑顔でロックオンされて、心依架は慌てて
話題を作ろうとする。
「あのね、今さっき、変な夢見たの。」
「ふぅん。どんな?」
「えっとね、えーっと、その・・・・・・」
あぁ、そうだった。忘れちゃったんだった。
どうしよ。どうしよ。
「ふふふ。慌ててる。かわいい。」
「何で嘘ついたの?」
「嘘って?」
「その気にならないって言ってたじゃん。」
こうなったら、ストレートに聞くしかない。
「ゼッタイ、
その気にならないとは言ってないよ?」
あ。それ。自分のやつ。
「“今のところは”、って言わなかった?
元々君は、とっても魅力的だもん。
おあずけするの、大変だったんだよぉ?」
そんな事、言われちゃったら。
もう、言葉が見つからない。
「一緒に寝よう・・・・・・心依架。」
*
明け方まで降り注いでいた雨は上がり、
済んだ青空に浮かぶ太陽が
燦々と、光を放つ。
隙間なく開花した都内の桜は瑞々しく、
暖かい陽気を含んだ風に逆らうことなく
ゆっくりと、揺れていた。
ISAMIベーカリーでは、季節限定として
桜の塩漬けを乗せた、うぐいすあんパンを
販売開始していた。
店頭に出すと直ぐに売り切れる程人気で、
その美味しさを知っている心依架も、
従業員特権で取り置きしている。
真世心が完全に製作へ回り、
心依架一人ではレジが捌ききれない為、急遽
アルバイト募集を掛けている。
採用されるまでの期間、
真世心の伯母である智絵理が
手伝いに来てくれていた。
「ありがとうございました~!」
明るい笑顔が何処となく、真世心に似ている。
それが最初の印象だった。
彼女の、テキパキと会計を済ませる器用さと
手際の良さは、見習うべきところである。
「このバッグに入れてください。」
最近、パンバッグを持参してくれる客も多い。
資材を軽減できてエコなので、かなり助かる。
「はい。ありがとうございます。」
心を籠めて、お礼を告げる。
心依架は笑顔で預かると、
パンを丁寧にトングで挟んで
パンバッグに入れていく。
今日も、客足が途絶える事はない。
並んだ焼きたてのパンたちは、
飛んでいったかのように姿を消していく。
目が眩みそうな忙しさだけど、
人と関われて仕事ができるのは楽しい。
自然と、笑顔になれることも。
心を籠めて作られた商品を、
熱を持って渡せるのは幸せだと思う。
店内を見渡せる暇もなく、心依架は
レジに並ぶ客たちの対応に追われていた。
隣に並ぶ智絵理も、同じように。
レジ画面でやっと確認できた時刻は、
14時23分。
15時を過ぎると客足が落ち着き始めるので、
頃合いを見てどちらか片方が休憩に入る。
順番は交互に変えていて、今日は
智絵理が先だ。
約30分後に、その兆しが見えてくる。
「じゃあ、お先に入るわね。」
「はい。お疲れさまです。」
にっこり笑って去っていく智絵理の後ろ姿は、
とても50代には見えない。
自分がその歳になった時、彼女のように
若々しく元気でいられているだろうか。
心依架は小さく息をついて、
店内に目を向ける。
すると、丁度店に入ってくる
一人の男性が視界に飛び込み、目を見開いた。
以前白夜と一回だけ伺った、バーのマスター。
その時は栞と待ち合わせしていて
すぐに出ていったので、ゆっくり話も
何も出来なかった。
彼の名前は、白夜が時々口にする。
マナさんだ。
彼はトレーとトングを持ち、
パンが並ぶ棚を眺めている。
存在を気にしつつ、心依架は
レジに来た客の会計を済ませていた。
パンを選び終えたマナが、
レジへ向かって歩いてくる。
じっと窺うが、彼と視線が合わない。
あの時もそうだったが、それが
不自然だと思えた。
目を合わせるのが苦手な人は、勿論いる。
でも、彼の職業柄
目を合わせずに、接客が出来るのだろうか。
「・・・・・・こんにちは。
ご無沙汰してます。」
心依架は敢えて、呼び掛けてみた。
彼は会釈をするが、何も答えない。
気まずい空気を感じながら、
トレーに乗ったパンを確認する。
―はこふぐパン5個に、メロンパン5個。
たっぷりツナマヨロールと、たまごサンド。
うわ。食べ過ぎじゃない?
あ、でも、ご家族がいるとか。
そうだよね・・・・・・多分。
「・・・・・・2930円になります。」
そう告げると、彼はスマホを取り出す。
何も発さないが、その動作で
キャッシュレス決済なんだな、と理解する。
踏み込んだ事を聞ける程打ち解けていないし、
これ以上話し掛けるのも、気力が必要だった。
会計を終わらせた後、黙々とパンたちを
袋に詰めて、手提げ紙袋へ纏めていく。
「ありがとうございました。」
ここへ来てくれた事は、とても嬉しい。
そう思って、顔を綻ばせ手渡そうとする。
すると、視線が合わなかった彼の目が、
真っ直ぐに自分へ向けられた。
微笑みと、共に。
「・・・・・・お邪魔します。心依架さん。」
それは、肌で感じる違和感。
はっとして周りを見渡すと、彼の他にもいた
客たちの姿が、どこにも見当たらない。
いや一人、姿を確認する。
だが、それも違和感。
マナの腰辺りまでの背丈しかない、
和装した白髪の老人。いや、紳士と呼ぼう。
『ふぉふぉ。どれもこれも美味しそうじゃ。
お嬢さん、おすすめはなんじゃろう?』
訊かれて、すぐに応えられる状況ではない。
「爺さん。自己紹介が先。」
『なんと。お前に言われとうないぞ。』
「ごめんね。いきなり訪問して。」
片手を立てて小さく頭を下げる
その人は、第一印象とは全く違う。
切れ長の目が、真っ直ぐに
自分と視線を合わせている。
この場に白夜がいたら。
そう考えるが彼は、いない。
「改めまして、俺は
佐川 学(させん まなぶ)。
白夜くんには今日、ここに来ることを
伝えてある。どうしても驚かせたいから、
心依架ちゃんには黙っとくからって
言われてたけど・・・・・・初めてでこれは、
キツいよな。」
うん。彼はサプライズ大好き。でも。
マナさんの言う通り、教えといてほしかった。
「でも・・・・・・見たところ
みぃちゃん、平気っぽいな。」
じろじろと、観察するように見られる。
みぃちゃん?いや、確かに
まよごんたちには言われてるど。
マナさんから言われると、何か、変。
『れでぃをそのように、執拗に観察する
お前の方が不躾じゃ。』
「いや、見ちゃうだろ。聞いてた通り、
この子普通じゃねーし。」
『良く言う。普通じゃないのはお前じゃ。』
「爺さんに言われたくねぇ。」
何か、コントみたいなのが始まっている。
話し掛けたいけど、声が出ない。
口を必死でパクパクしている
心依架に、和装の紳士は
白髪と蓄えた髭が覆い被さる顔を向けて、
優しく語り掛ける。
『お嬢さん。儂は、
己を出す程の者ではなく、
名も無きただの老いぼれじゃ。
じじいとでも、爺さんとでも、何なりと
呼んでおくれ。』
身体と目は、自由に動くらしい。
只々視線を向けていると、ふぉふぉと笑って
しわがれた声を響かせる。
『・・・・・・お見受けしたところ、
“すまほ”というものをお持ちじゃろう。
出してはくれんかのう。』
・・・・・・ごめん、おじいちゃん。
“心”を出すのは、呼び掛けないと・・・・・・
「白夜くんがいないと、難しいかもな。」
直立して目だけを動かしている
心依架の様子を窺い、マナは言葉を掛ける。
「俺は、相手と視線を合わせて
認識してしまうと、こうして
“間”へ連れて行ってしまう。
意思に関係なく。だから普段、
目が合わないと思うけど・・・・・・
この“力”を発生させない為の、苦肉の策と
伝えておく。理解できないかも、だけど。」
心依架は、首を横に振る。
何となく、理解できる。
お陰で、視線が合わない謎が解決された。
「おぉ?みぃちゃん理解力あるな。未だに俺、
さっぱりな部分あるけど。」
『教えても無駄骨で、もう諦めておるわ。』
「はいはい。すんませんね。・・・で、この空間は、
俺と爺さんが繋げた“間”。
“常世”ではないけど、紙一重って所。」
首を二回、縦に振る。
「これも分かる?へー。
白夜くんの教育すげーな。」
『このお嬢さんの素養じゃろう。』
「だな。それが大きいかも。」
心依架が両手に持ったままの紙袋に
目を落とし、マナは笑みを浮かべる。
「それ、俺一人が食うわけじゃないから。
嫁さんと、溺愛してる娘。あともう一人、
俺と同じく白夜くんの手伝いをしてる
女性に。彼女、このパン屋に行くって
言ったら、是非買ってきてって。・・・あ、
ツナマヨロールとたまごサンドは、
完全に俺の。ヤバいよな。即買い。」
奥さんと娘さん、いるんだ。ちょっと意外。
ツナマヨロールとたまごサンドは、分かる。
自分も、即買いしちゃう程好き。
そして彼が語る人物に、心当たりがある。
“常世”の住人を好きになった、女性の事だ。
「・・・・・・今夜、みぃちゃん家の近所にある
公園に、俺たち行くから。
明日、仕事休みだって聞いてるから
遅くなっても大丈夫かな?
・・・時間は、深夜2時。
白夜くんと、一緒においで。」
今夜近所の公園で、待ち合わせをしてるの?
これも白夜、言ってなかった。もう。
お泊まり決定じゃん。あはは。
・・・・・・じゃあ、その時は。
マナさんとおじいちゃんに
話し掛けられるかな・・・・・・
そう思って微笑むと、彼は
とびっきりの笑顔で返してくれた。
「みんなで、お花見行こうな。」
『旨い酒が欲しいのぅ。
お嬢さんと一献、酌み交わしたいのぅ。』
「ダメダメ。みぃちゃんはまだ飲めないの。」
『立派な成人じゃ。』
「爺さんの時代とは違うんだよ。
じゃあ、また後で。」
いつの間にか、両手に持っていた紙袋がない。
同時に、馴染みある店の雰囲気が
戻っている事に気づく。
和装の紳士以外の、客たちの姿も。
すかさずマナの行方を目で追うと、
出入り口付近に背中が見えた。
「また、お待ちしています!」
慌てて声を掛けたが、振り返ることなく
去ってしまった。
でもそれがもう、気まずいとは思わない。
“間”での彼は、明るくて面白そうな人だった。
多分、それが本来の姿。
そしてあの、おじいちゃん。“常世”の人だった。
でも、全然怖くなかった。
真っ白な髪とヒゲで、顔が見えなかったけど。
穏やかで、優しそうだった。
今夜が楽しみになってきた。
彼女に会える事も。
勿論、深夜わざわざ待ち合わせをして
集まる理由は、分かっている。
ただのお花見では、ない事は。
マンションに帰宅してすぐに心依架は、
今夜白夜の所へ泊まる事を穂香に伝えた。
急に決まった事というか、
お泊まり確定の事態になったというか。
とりあえず理由は、何も告げずに。
駄目と言われるだろうと思っていたが、
すんなりと笑顔で許してくれた。
「ダメって言っても、
飛び出していくでしょう?
ふふっ。一緒にいたくて堪らないのよね。」
そう言われると、何か恥ずかしい。
先日の、初お泊まりの結果は
穂香に報告済みだ。普通に、喜んでくれた。
自分でも驚く程自然に、それを
受け入れられたというか。
でも、思い出しちゃうと、ヤバい。
“心依架”と呼び捨てされたのは、
その時だけだったけど。
あれで、頭が真っ白になった。うわ。
思い出しちゃった。ひゃあぁぁぁ。
本当に、それこそ、夢のような時間だった。
こんなに、幸せでいいのかって。
ずっと、思いながら。
晩御飯を済ませて支度し、心依架は
家を出ると白夜の部屋へ足を運んだ。
この前泊まった時に、
自分専用の歯ブラシとかアメニティグッズは
置かせてもらっている。
彼の部屋に自分の物があるというのは、
傍にいるのを
許してもらえてる気がして、嬉しい。
「こんばんは。」
何事も無かったかのように
ふんわり笑って出迎える彼に、少しだけ
むくれるが、労いの言葉を零す。
「・・・・・・お疲れさま。」
「ふふふ。心依架ちゃんこそ、お疲れさま。」
普段彼が、どんな形で
本職の仕事をしているのか分からないが、
訪れた時に見せる疲労の色を
見逃してはいない。
「ビックリするどころじゃなかったけど。」
「マナさんの“力”を、直に
体験してもらいたくてねぇ。」
「声が出なくて、“心”呼べなかった。」
「あぁ。やっぱり、そうなるよね。」
「あのおじいちゃん、知ってる人?」
「・・・・・・まずは、中に入って。」
促されて、素直にスニーカーを脱いで
廊下へ上がる。
フィカス・アルティシマの
綺麗な緑色を目に入れて、心の中で
挨拶の言葉を掛けた。
連れられるようにリビングのソファーへ
腰を下ろすと、隣に座る白夜の大きな双眸が
自分に向けられる。
「会えたんだね。どんな感じだった?」
「どんな感じって・・・・・・
かわいい感じ、かな。」
それを聞き入れた彼は、吹き出して笑った。
「流石心依架ちゃんだねぇ。ふふふっ。
“初代”の事をそんな風に言える人、
他にいないよ?・・・・・・ふふふっ」
何にツボったのか、全く分からない。
「“初代”って・・・・・・?」
問い掛けるが、白夜は笑い続ける。
笑う彼を見守るのは、悪い気はしない。
しばらく眺めていると、彼は息を整えて
ようやく答えてくれた。
「“彼”は、自分たちの組織を創った人。
“間”を創ったのも、“彼”だよ。」
「えっ?」
―“間”を創ったって・・・・・・どういう事?
「やっぱり君は、只者じゃないねぇ。」
ふわりと頭に、手を置かれる。
撫でられることよりも、話が気になった。
「創れるもんなの?」
「ふふふ。」
「ねぇ。教えてよ。」
「知りたいなら、キスして。」
急すぎる要求に、目を丸くした。
交換条件には、釣り合わない気がする。
「待ち合わせまで、まだたっぷり
時間あるでしょ。
ゆっくり、教えてあげる。」
両手を頬に置かれて、一気に火照った。
「ちょ、まっ・・・・・・」
「知りたいんでしょ?」
「や、やっぱいい。」
「ふふふ。それじゃつまんない。」
色のある視線に、鼓動が急上昇する。
完全に、スイッチが入っている。
いやいや、急すぎるってば。
「膝枕、膝枕したげる。ね?」
慌てて腿に、とんとん手を置くと
彼は、満面の笑みを浮かべた。
「飲まずに待ってたんだよぉ。」
すぐさま、自分の腿を枕に寝転がる。
もしかして、膝枕したい為に・・・・・・
「ちょっと。」
「もうさぁ。膝枕しに、毎晩来てくれない?」
「な、何言ってんの?」
それもう、一緒に住んだ方が早くない?
「5日、もたないんだよねぇ・・・・・・
すぐ飢餓状態になっちゃって・・・・・・」
彼の寝顔を見る間もなく、強い眠気が
心依架の瞼を落とそうとする。
最近、何日か空いて膝枕した時に
寝落ちするスピードが、尋常じゃない。
言葉を発する隙も与えられず、
深い眠りに誘われる。
白夜と自分の“間”は、昼時マナに連れていかれた
“間”と、決定的に違う所がある。
現実と変わらない風景だったのに対し、
今訪れている“ここ”は、真っ白で何もない。
立っている所でさえ、
地面かどうかも判別できない。
例外なのは、雪が降っていた時と、
タクシーで移動している時。どちらとも、
形は違うが光が生まれていた。
「思ったんだけど・・・・・・何で、
自分たちの“間”は真っ白なの?」
問い掛けると、自分の片手を繋いで
横に並ぶ彼の姿が瞳に映った。
「自分のは、夢というデバイスを
通しているからね。
精神に影響ない形を取っている。
・・・・・・マナさんの“間”はダイレクトで、
“常世”と紙一重の世界。“初代”の力で
抑えているけど、単独だったら彼は
生きていくことが、厳しいだろうね。」
白夜の話を聞いて、考えてしまう。
“現”と“常世”は表裏一体だというのに、なぜ
踏み込んでいく為に
犠牲を払わなくては実行できないのか。
「・・・・・・声が出なかったのって、何で?」
「それは、自分のせい。
今からそれを解除するから。
・・・・・・“心”。おいで。」
眩しい光が胸元で発生して、目を細める。
サードニクスとなって
ゆらゆら宙に浮かぶ“彼女”は、
彼に呼ばれて嬉しそうに見えた。
『はい、白夜様。
今夜は楽しくなりそうですね。』
「ふふふ。楽しみにしてくれてるんだ?」
『勿論です。最高のお花見に致しましょう。』
「頼りにしているよ。」
最初の無機質さはもう、見受けられない。
“心”が話す口調は、人と大差ない。
『ご用件は、いかがなさいますか?』
「今夜だけ、自分と常に
繋がったままでいてほしい。」
『・・・・・・それでは、
白夜様のお身体に障ります。』
「平気だよ。心依架ちゃんに
本領発揮してもらう為には、必要なんだ。」
話は見えないが、
白夜にとって負担になるなら、
無理に解除しなくてもいいんだけど・・・・・・
『現時点で心依架様のアップデートは、
不可能だと思いますが・・・・・・』
「大丈夫。一時的に、可能だよ。」
ふ、と繋がれた彼の手が離れて、
自分の腰元に置かれる。
その拍子で彼に目を向けると、
額同士が触れ合った。
“間”での彼は、基本ふんわりしていない。
冗談とか返せる雰囲気ではなく、
心臓を掴まれるみたいに、囚われてしまう。
これだけ間近に寄り添えば、
彼の鼓動まで聞こえてくる。
「・・・・・・
変な夢を見たって言ってたね。」
心地好い声が、自分の身体に反響する。
全身が痺れてしまい、身を任せるように
彼の肩へ頭を預けた。
「・・・・・・うん・・・・・・」
「どんな夢だった?」
「・・・・・・もう、忘れちゃったよ?」
「少しだけ、思い出してみよう。」
今になって訊かれても・・・・・・
「自分が手伝うから。」
そう囁きが届いて、静かに瞼を下ろした。
とくん。とくん。
彼の鼓動を聞いていると、とても落ち着く。
次第に、自分の鼓動と
重なっていくのが分かった。
少しずつ、頭の中の靄を晴らしていく。
「・・・・・・
暗い所、だったと思う。
何も見えなくて、湿ってて、冷たくて。」
「怖かった?」
「・・・・・・怖いとは、思わなかった。」
「・・・・・・そこに誰か、いた?」
「・・・・・・分からない。」
分からないけど・・・・・・
「自分が、何かに食べられる存在だった・・・・・・
のは、分かる・・・・・・」
正体が分からない、何かに。
「・・・・・・よく頑張ったね。」
労いの言葉と共に、頬にキスが落とされる。
「君が目覚めるのは、
もうすぐかもしれないね。」
彼の、揺るがない抱擁。
暗闇から引き揚げるように、温かい。
そっと両腕を回すと、呼応して
更に強く包み込まれた。
「・・・・・・楽しもう。この時間を。」
ざぁ、と風で擦れる音が、
深夜の静けさに溶け込んでいく。
日が出ている時には白く輝いている
桜の花びらが、常夜灯のような淡い電灯に
反射して、深い淡紅色に彩られていた。
そして真上には、
大きく口を開けて笑うような
程よく満ちた月が浮かんでいる。
その光景を、ベンチに腰を下ろして
見上げる一人の女性がいた。
肩上までの髪は
ふわりとうねり、細身を包むトップスと
プリーツスカートは、
彼女の微笑みに似合う優しい藤色である。
とある風が吹くと、左肩に手を添える。
委ねるように瞼を閉じる姿を、一人の男性は
公園の入り口付近で目に留めた。
踏み入れて、彼女がいる方向へ歩いていく。
彼は隣に座らず、
風で揺れている桜を眺めた。
第三者が、この二人を見たとしたら
首を傾げるかもしれない。
会話をせず、それぞれ佇んでいる姿は
家族とも恋人とも、窺い知ることは難しい。
少し強い風が吹くと、女性が
ふと瞼を上げる。
ベンチの傍らに立つ男性を目に入れ、
柔らかく微笑んだ。
「差し入れありがとうね!
とっても美味しかった~!」
男性―マナは返事の代わりに、会釈をする。
彼女と視線は、合わせない。
「朋也にも食べさせたかったなぁ。ふふっ。」
彼女の言葉に応えるように、
穏やかな風が届いた。
その拍子に、桜も笑うように揺れる。
「・・・・・・ツナマヨロール、ばりうまでした。」
「ツナマヨロール?!」
「・・・・・・たまごサンドも、ヤバいっす。」
「えっ、それ、食べたかったぁ。」
「・・・・・・すんません・・・・・・」
「今度行っちゃおうかな・・・・・・」
「・・・・・・買ってきますよ。」
「ううん。これは自分で行かなきゃ。」
「・・・・・・買い占めちゃいそうっすね。」
「何で分かったの?!」
びゅう、と風が吹く。
「あ、ちょっと。笑いすぎじゃない?」
「・・・・・・マジで、やりそうっすもんね。」
「だって、全部食べたいんだもん。」
「・・・・・・ぼちぼち、通いますから・・・・・・」
「目で見て、楽しみたいの。」
そよそよと、風が通り抜ける。
楽しそうに笑う女性と、
桜を見上げたままで顔を綻ばせるマナを、
心依架は公園の入り口で目の当たりにした。
「先を越されたねぇ。」
隣にいた白夜が、ふんわり笑って零す。
不思議な光景だった。
ベンチに座る女性と、
傍らに立つマナの距離感。
そして目に見えるはずがない風が、
二人を取り巻いているように見える。
この瞬間を、撮りたいと思った。
ぱしゃり。
了承を得る前に、ポケットからスマホを出して
シャッターを押してしまう。
やってしまった、と思って
白夜に目を向けると、彼は小さく笑った。
「後で謝っておこう。・・・・・・いいの撮れた?」
スマホを覗き込んでくる彼と一緒に、
画像を確認する。
桜が、笑う二人を取り囲むような。
風に揺れている様子まで、伝わってくる。
「おぉー。いいねぇ。流石心依架ちゃん。」
「・・・・・・めっちゃエモいの撮れた。
消さなきゃダメかな?」
「二人次第だねぇ。」
入り口付近で立ち止まっている自分たちに
気づいたのか、女性とマナが
こちらに目を向けている気がする。
微笑みを浮かべて、白夜は
二人の元へ歩き出す。
一歩遅れて、心依架は付いていった。
迎えるように、女性はベンチから腰を上げる。
「こんばんは。お二方、
御足労ありがとうございます。」
彼が会釈して声を掛けると、女性は
頬を緩ませて頭を垂れる。
「こちらこそ、
お花見に誘ってくれてありがとう。」
マナは相変わらず
誰とも視線を合わせないが、会釈をした。
彼女の目が自分に向くのが分かり、
小さく頭を下げる。すると、
花が咲いたように明るい笑顔で紡ぐ。
「初めまして、
藤波 晴(ふじなみ はる)です。
・・・・・・ホント、めっっちゃかわいい!」
目を、見開くしかない。
初対面で、こんなに
ストレートに伝えられた事は、今までにない。
何て反応したらいいか分からず
固まる自分の様子に、彼女は
はっと気づいて戸惑い出す。
「あっ、ごめんなさい、つい・・・・・
かわいいっていうのは聞いてたんだけど、
あまりにもかわいすぎて・・・・・・」
いや、えっと、自分の何を聞いてたって?
ありがとうございます・・・・・・
って言うのも、おかしいよね。
「ふふふ。めっちゃかわいいですよねぇ。
くっつきたくなっちゃうんです。」
え?・・・ちょ、何言ってんの?
「うふふ。白夜くんメロメロだね。
かわいい彼女さんできて良かったぁ。」
「出逢っちゃったんですよねぇ。
彼女以外、受けつけなくなっちゃって。」
「うわぁぁ。にやけちゃうぅ。」
「聞いちゃいます?」
「うんうん。聞きたいなぁ。」
え。これ、ど、どうしたらいいの?
二人のほんわか空気が作り出される中、
心依架は顔を赤く染める以外
何も出来なかった。
そんな中、強めの風が吹き上げる。
「・・・・・・困ってますよ・・・・・・」
そして、ぼそ、とマナが呟く。
女性―晴は慌てて頭を下げて、微笑んだ。
「つい、盛り上がっちゃった。えへへ。
ごめんなさい。
・・・彼女さんのお名前、
聞かせてもらってもいい?」
風とマナさん、止めてくれてありがとう。
「・・・・・・大川内 心依架です。
よろしくお願いします。」
「こちらこそ!今度、
パン屋さんにお邪魔するね。」
「・・・・・・やっぱ、行くんっすね。」
ふわりと、風が皆を包み込んだ。
咲き乱れた桜が揺れるのを、眺める。
「・・・・・・この場所だけ、まだ
及んでいないのよね。」
零れた声は、儚い。
発した彼女の姿に、心依架は目を向けた。
浮かべる表情と、桜色を映す瞳。
容姿も儚げだが、彼女の奥には
強く輝く光が窺える。
「はい。前々から調査していましたが
・・・・・・“まだ”、というよりも、
この場所一帯を避けている、という見解に
変わりつつあります。」
白夜の神妙な顔と声音は、
この場にいる者たちの心構えをさせるには
十分だった。
“この場所一帯を避けている”
と、いうことは・・・・・・
「・・・・・・白夜くん。行くよ。」
マナの、しっかりした呼び掛け。
彼と視線を、合わせている。
それを見た瞬間、ぐらっと目が眩んだ。
よろけそうになった身体を、
見越したように支える彼の片腕。
目に飛び込む、夥しい桜の花びら。
風に舞うと同時に現れる、二人の影。
それぞれの存在が、
心依架の瞳に焼き付いた。
一人は、昼下がりにマナと一緒にいた
初老の紳士。そして、もう一人は。
『確かに、この一帯には
咲いていないな・・・・・・』
そう呟いて、周りを見渡すロングコートの男。
季節外れの服装にも違和感があるが、
穏やかな雰囲気を掻い潜って窺える
強い灯火は、自分が理解する“彼ら”には
あるはずがない光だった。
『お嬢さん。夜分にかたじけないのぅ。』
ロングコートの男と、かなりの身長差がある
和装の紳士に目を向けて、心依架は微笑む。
「こんばんは、おじぃちゃん。」
『おぉ。お声も愛らしいのぅ。』
「デレデレしすぎじゃね?」
呆れてツッコむマナは、昼に会った時の
明るい雰囲気に変わっている。
“彼ら”の出現も兼ねて、すぐに
ここは“間”なのだと把握した。
「朋也。自己紹介して。」
自分たちに目を向けず辺りを眺めている
“彼”を促すように、晴が呼び掛ける。
寄り添った二人を目に入れた瞬間、
心依架は気づいた。
“彼”に灯る光と、彼女の奥に輝く光。
それは、繋がっているのだと。
自分に“彼”は目を向けて、口を開く。
『片桐 朋也だ(かたぎり ともや)だ。
・・・・・・君が撮った画像、見せてもらおう。』
低くて、良い声。
誰かに似ているような。
多分、俳優さんだ。ママが好きそう。
「・・・・・・“心”、おいで。」
素直に従い、“スマホ”を呼ぶ。
胸元が輝いて光の粒が発生すると、
形になり、目の前に浮かんだ。
その光景を皆、注目している。
『ごきげんよう、みなさま。』
発した“彼女”の挨拶に、心依架は
目を丸くする。
「ふふっ。ごきげんよう。」
「すげぇ。挨拶すんのか。」
「とてもいい子ですよ。」
『ほぉ。何とも奇妙な機械じゃ。』
『サードニクス、か・・・・・・』
それぞれの多様な反応に、
“彼女”は気を良くしたのか
ふわふわと揺らめく。
『今宵は、とても良い夜ですね。
私の名前は、“心”と申します。
出来る限りのサポートをさせて頂きます。
宜しくお願い致します。』
「“心”ちゃん!どうしよ、かわいすぎるっ。
こちらこそよろしくお願いしますっ!」
一際目を輝かせている晴は、“心”に向かって
丁寧にお辞儀をする。
―晴さんの方が、かわいいんだけど・・・・・・
今まで出会った大人で、これだけ
表情豊かで含みがないのは初めてだ。
『心依架様。現時点、“常世”を歩くには
例の花の花粉を防ぐ道具が必要になります。
作成が完了するまで、
お花見を堪能してはいかがでしょう?』
花粉を防ぐ道具。それ、マスクの事?
「どのくらいで出来るの?」
『“ここ”の時間で、10分程あれば可能です。
白夜様とお揃いでお作り致しますね。』
お揃い?いや、別に揃えなくても・・・・・・
「黒がいいなぁ。」
『了解致しました。』
「お二方の分も、作れる?」
『お安い御用です。』
“心”を手にして光が収まると、逸早く
晴が声を掛けてくる。
「それ、サードニクスが
ベースになってるんだね!すごいなぁ。」
『白夜とのデバイスか。良く出来ている。』
続くように呟いた朋也の言葉は、
白夜の顔を綻ばせた。
「流石です。お見通しですね。」
「道具も作れるのか。ヤバいな。」
『お嬢さんの力を、最大限に引き出しておる。
腕を上げたのぅ。百夜。』
“百夜”という単語を発した和装の紳士に、
白夜は頭を深々と下げる。
「勿体なきお言葉です、“初代”。」
『見ない間に、立派になったのぅ。』
「恐れ多いです。やっと、
叔父さんの迷惑にならない程度には
なったと思いますが・・・・・・」
『あやつはお前を、心から頼りにしておる。
胸を張って進むのじゃ。よいな?』
「・・・・・・はい。有難うございます。」
今まで見たことがない、白夜の笑顔だった。
やっと、認められたというような。
心の底から、安堵するような。
白夜の本名を知る和装の紳士は、きっと
自分の知らない彼の姿を見てきている。
短い二人のやり取りだが、心依架は
それを感じ取った。
「道具が出来る間、この見事な桜を
眺めておきましょう。」
『それもそうじゃな。素通りするのは、
それこそ勿体ない。』
例の花の画像を見せようと、心依架は
朋也に目を向ける。
すると彼は、小さく首を振って微笑んだ。
『今は、桜を眺めるとしよう。
後で見せてもらおう。』
氷が溶けるような、優しい笑顔。
このギャップは、反則だ。
晴さんが好きになっちゃうの、分かるかも。
自然と、二組ずつ分かれるように解散する。
心依架は白夜に手を繋がれて、
風に舞う満開の桜を仰いだ。
“桜の美しさに心を奪われるから”
彼の言葉は、ピッタリだ。
咲いている期間は一瞬なのに。いや、
一瞬だからこそなのかもしれないが。
こんなにも、心を奪われる程美しいのは。
「・・・・・・二人は、素敵でしょ?」
彼が視線を向ける先には、晴と朋也の姿。
彼女が綻ぶように笑うと、
彼が受け止めるように微笑む。
寄り添う二人には、同じ強い光。
「・・・・・・うん。繋がってるよね。」
「分かるんだ?」
「何ていう言葉が合うんだろ・・・・・・」
当て嵌まる言葉が、見つからない。
「共鳴しているんだよ。」
答えをくれるように、白夜は言葉を紡ぐ。
「二人の存在は、
“常世”の闇を照らしてくれている。」
「・・・・・・すごいね。」
どんな暗い場所でも、二人の光なら
明るく照らしてくれそう。
そんな気がする。
心依架は、ベンチに腰を下ろす
マナと和装の紳士に目を向ける。
「・・・・・・あのおじいちゃん、
白夜の親戚だったりする?」
そう、問い掛けてみた。
和装の紳士が彼へ向けた目と言葉は、
他人にはない親しみが籠っていたから。
彼は、小さく笑って答えてくれた。
「遠い親戚、というべきかな。
ご先祖様レベルだから。」
「ご先祖様・・・・・・」
それが事実なら、和装というのも納得がいく。
でも、どのくらい前の時代の人なのか。
「今組織を纏めている人は、
自分の叔父にあたる人なんだけど・・・・・・
本当は、父親が継いだんだけど
急死しちゃってね。」
零した、思わぬ事情に目を見開く。
「直系で言うと、組織を纏めるのは
自分だった。だけど、自分では
力量不足だし性格上、ふさわしくないと
分かっていた。だから、叔父さんに託した。
逃げたと言われれば
それまでだけど・・・・・・それで、
良かったと思ってるよ。」
彼の双眸に浮かぶ、儚げな光。
桜に反射して、淡紅色に見える。
「じゃあ、白夜の本職って・・・・・・」
問い掛けても、答えてくれないと思っていた。
「とある難題をクリアする為に創られた、
プロジェクトリーダー。・・・・・・としか
言えなくてごめんね。
カッコよく言っちゃったけど、
叔父さんのサポートをしてるだけだよ。」
彼の口から明かされた真実。
部外者以外、秘密事項だと聞いていた。
「心依架ちゃん。君はもう、
自分の支えとなる存在なんだよ。
・・・・・・こんな自分に付いてきてくれて、
ありがとう。」
真っ直ぐに見つめられ紡がれた言葉に、
心依架は胸が締め付けられた。
さっきから気になっていた、
普段の彼は吐かない、卑下。
しかしこれが、彼の本当の姿だとしたら。
「・・・・・・心依架の方こそ、だよ。
こんな子どもを、
必要としてくれてありがとう。」
いつも、葛藤していたのではないのか。
ずっと、劣等感を抱きながら。
「ふふふ。誰が子どもなの?」
繋いだ手を引き寄せられ、額同士がくっ付く。
「もう立派な女性でしょ。」
「立派じゃないよ・・・・・・」
彼の葛藤には、全然気づかなくて。
小さな事で機嫌悪くなるし。
ママにまで嫉妬しちゃうくらい、心狭くて。
自分が理想とする女性像には、程遠い。
「もっと、支えられるように頑張るね。」
「今のままで十分だよ。」
軽く、唇同士が触れる。
自然の流れだったのだが、はっとした。
ここは、いつもの“間”じゃない。
二人きり、ではない。
視線を感じて恐る恐る目を向けると、
皆が自分たちに注目していた。
何でみんな、桜を眺めてないの?
「白夜くん、やるなぁ。」
『ふぉふぉ。らぶらぶじゃな。』
「素敵すぎる・・・・・・」
『俺たちもしようか。』
「えっ、いや、私たちの場合は・・・・・・」
確実に、ざわついている。
ヤバい。これは恥ずかしい。
見せつけたみたいになってる。
白夜から離れようとしたが、
それを許さない彼のハグに捕まった。
「見せつけちゃおう。」
「いやいや、流石にっ・・・・・・」
ざぁっ、と、桜が揺れる。
誰かが、笑っているような。
そう感じたのは、刹那。
『道具の作成が完了しました。
いつでも、“常世”へとご案内可能です。』
風が、舞い込む。
雨が降る前の、湿った匂いがした。
暗くて冷たい、あの場所と同じように。