プリンセスS
私は、部室で本を読んでいた。目の前に座っているのは榊という一年だけ先輩の男で、数式の並んだプリントを広げて、レポートを書いている。
部室棟ではチャイムは鳴らないけど、近くの棟から午後の授業の終わりを告げるチャイムが小さく聞こえる。解放された学生たちが友達と笑い合う小さな声まで聞こえる気がした。基本的に静かな夕方である。
そのとき、廊下をドタドタと走ってくる足音がした。足音は私たちのいる部屋の前でぴたりと止まり、勢いよくドアが開かれた。
「榊! 波田野が! 波田野が!」
息を切らし、興奮状態で立ち尽くすこの男は、寺沢という名前で、やはり私の一年上、榊と同学年である。波田野というのも同じ学年の男の先輩だ。
波田野先輩がどうしたんだろう?
私は、本を閉じて、寺沢の次の言葉を待った。しかし、寺沢は「波田野、波田野」と繰り返すばかりで、事の次第は全くわからない。榊が寺沢の肩に手を置いて落ち着かせると、ようやく寺沢が叫んだ。
「波田野が! 会うって! プリンセスSに!」
ハンドルを握る榊は、いつにも増して焦っているようだ。無口で表情の乏しい先輩だけど、部室でよく一緒に過ごすおかげで、榊の微妙な感情の変化は、いつの間にか手に取るようにわかるようになっていた。それは、私以上の時間を榊と過ごしてきた寺沢にとっても同じだった。いつも榊の冷静さにすがっている寺沢は、榊の焦りを敏感に感じ取って、いつも以上に不安定だ。
「凜ちゃん! なんで凜ちゃんがいるの?」
榊と私を交互に見比べながら、寺沢が叫んだ。榊は何も言わないけれど、「それどころじゃない」と背中に書いてある。
「波田野先輩がどうしたんですか?」
私は寺沢に聞いた。波田野先輩がプリンセスSという人(女?)と会うのが、どうしてこんなに先輩たちを焦らせているのかわからない。プリンセスSって何者だろう? 私が先輩たちの車に乗り込んだのは、波田野先輩が心配だからなのはもちろんだけれど、その女に対する好奇心を抑えきれなかったせいでもある。
しかし、寺沢は私を見て金魚のように口をパクパクするばかりだ。答えにくい話のようだ。寺沢は榊の背中を見て、
「そうだよね。凜ちゃんも大人だしね。波田野のこと一番心配してるもんね」
と呟いた。残念ながら、私には榊の背中からそこまでは読み取れない。「面倒だ。適当によろしく」そう言っているだけのように思える。榊、寺沢、波田野。この三人組の関係性は謎に満ちていて、それでいて羨ましい。
「波田野は、ギリギリなんだよ」
散々逡巡してから、寺沢が話し始めた。
「あいつ、いつも爽やかに笑ってるから、全然わからないと思うけど、ああ見えて、結構切羽詰まった生活を送ってるの。部屋はグチャグチャに散らかってるし、朝六時に寝て昼の二時に起きるのが日常だし、毎年必修科目を二つ以上落とすし、風呂だって毎日入ってるか怪しいし、」
そこまでまくし立てて、最後は吐き捨てるように言った。
「そして何より、彼女ができたことがないんだ!」
突然の告白に唖然としていると、榊が唐突に付け加えた。
「彼女はいないけど、彼女みたいな電話なら毎日かかってくる。母親から」
これはいよいよ榊も興奮状態なのだろう。それ以上のことは、まだわからない。
寺沢は大声で続ける。
「それであいつ、毎日言ってるんだよ。『死にたい』って!」
それは意外だった。でも、そんなこと誰だって少なからず口にすることではないか。さっきの波田野の生活の乱れも、学生として常軌を逸しているとは言い難い。波田野のどこが「ギリギリ」なのか、いまいちピンとこない。口には出さなかったけれど、寺沢はムキになって叫んだ。
「俺にはわかるよ! あいつは本当に『死にたい』ほど『ギリギリ』なんだって!」
それで、「プリンセスS」とは?
口には出さず、寺沢の答えを待つ。
「プリンセスSは・・・」
そう言ってから、やはり寺沢の口はパクパクで、後が続かない。
「やばい女」
運転席から榊の声が飛んできた。
「プリンセスS」
SNSで検索すると、思いのほかたくさんのアカウントがヒットした。しかし、どれもこれも、詳細を書くのがはばかられるようなアカウントばかり。つまり、性的な関係を求めるものばかりだ。プロフィールは、画像も言葉も生々しい。
目を背けつつ、一応ざっとスクロールしてみる。
「凜ちゃん!」
寺沢に見つかって、少し恥ずかしかった。寺沢が横から手を伸ばして、私のスマホを操作し、スクロールした検索画面を一番上まで戻してタップした。
表示されたプロフィール画像は黒一色、詳細は何も書いていない。名前は「S」と一文字だけだ。地味すぎて気に留めなかったが、これが本物のプリンセスSのアカウントらしい。毎日決まった時刻に、一桁の数字を一つだけ投稿している。
「これ、何の数字ですか?」
おそるおそる、寺沢に聞いてみる。
「その日の、男の数」
背筋がぞっと冷たくなるのを感じた。確かに、プリンセスSは異様な人間に違いなかった。
榊がおもむろに車を止めた。そこそこ多くの人が行き交うターミナル駅だ。寺沢によると、波田野とプリンセスSはここで待ち合わせているらしい。この場所をどうやって知ったのか私は知らない。
現代アート風の巨大なモニュメントの前の待ち合わせスポットに、その女はいた。寺沢や榊に言われるまでもない。友達や彼氏を待つありふれた若い女たちの中で、彼女だけが明らかに異質だった。
喪服のように吸い込まれるような黒色のワンピースはノースリーブで、真っ黒の布地に白く長く美しい腕が、眩しく輝いている。明るめの黒髪は滑らかに胸元まで流れ、その近くで、飾らないシルバーのシンプルなネックレスがきらめいている。
「あの・・・」
寺沢の声に、遠くを見ていた彼女はゆっくりとこちらを向いた。
こんなに整った顔立ちの女を、私は見たことがない。真っ白く滑らかな肌に、淡く色づいて潤った唇、そして、長いまつ毛に囲われた、黒く大きな瞳。その目で、彼女は私たち三人を注意深く観察した。しかし、特に気を引くことはなかったようで、またすぐにどこか遠くへ視線を投げてしまった。
「プリンセスS、ですよね?」
寺沢が慎重に聞く。
彼女は、再び優雅に振り向いた。そういう所作の一つ一つを、彼女は楽しんでいる。
「そうよ。だけど、あなたたちに用はない」
プリンセスSは、大きな瞳をぱちぱちと瞬いて、寺沢を見つめた。寺沢は完全に言葉を失っている。それはそうだ。私が男でも、あっという間に一目惚れだろう。
代わりに、榊が口を開いた。
「私たちは、あなたに用がある。波田野と待ち合わせしてるんだろ」
私たちは、駅前のカフェの奥の席に腰を下ろした。プリンセスSの正面に座った寺沢が嘆願する。
「今日、波田野と会うのをやめてください!」
「なぜ? 私が誰と何をしようと自由でしょ」
プリンセスSは、ミルクの入ったアイスコーヒーのグラスにささった赤いストローを咥えた。唇の艶やかさが一層際立つ。いちいち演技掛かった動作なのに、その魅力に抗いきれない自分がいた。
「あなたもそう思わない?」
プリンセスSは、寺沢から私に視線を移し、その大きな美しい瞳で私の目をまっすぐに見つめていた。胸の動悸が速くなる。
プリンセスSはいたずらっぽく笑って付け加えた。
「私が波田野って男と何したって構わないわよね? 今夜、ホテルで」
怒りなのか、恥ずかしさなのか、胸の中でざわざわとした感情が吹き荒れて止みそうにない。何も言えずに、視線を落とすしかなかった。悲しかった。
「やめてください!」
寺沢が大声で言い返してくれた。
しかし、
「悪いけど、私、お嬢ちゃんの恋心なんて興味ないの」
プリンセスSは楽しそうに言い放ち、最後には恐ろしいほど魅惑的に笑ってみせた。心の中をぐちゃぐちゃに掻き回されて、どうにかなってしまいそうだ。
「それは違います!」と、勢い良く言った寺沢は、私の様子を覗き込んで、「いや、違わないのかもしれないけど・・・」と、続けた。恥ずかしい。
「波田野は、童貞なんです!」
寺沢が大声で叫んだ。店中の視線を背中に浴びた気がするが、振り向いて確かめることもできない。
「あいつ、いつも『死にたい』って、そればっかりなんです! でも、『かわいい女の子とセックスするまでは死なない』って! だから、万が一の事が起こらないようにって、こいつのことも四六時中見張って・・・」
そう言って寺沢は私の肩に手を置いた。隣で榊も真剣に頷いている。
そうだったのか? なんだか、ここ数時間でイメージがだいぶ崩れてしまったが、それでも、私が波田野を大切に思う気持ちが揺らぐことはないのが不思議だ。
「そうか」
そう呟くプリンセスSの瞳の奥で、何かが揺れている。学校の生徒指導室を思い出した。確か、先生たちもこんな目をして私たちの話を聞いてくれた。
私は急いで頭を振って、浮かんだイメージを払い落とした。目の前にいるのはプリンセスSで、頼れる大人なんかじゃない。騙されてはいけない。
「安心しろ、少年」
唐突に、プリンセスSが言った。
「私が一晩かけて言い聞かせてやる」
「でも・・・」
不安そうな寺沢にプリンセスSが言う。
「大丈夫。私が今まで何人の男の相手をしてきたと思う?」
プリンセスSは、その美しい指を店の照明にかざして曲げ伸ばした。経験の少ない男子学生なんてこの指一本でどうにでもなる。まるでそう言っているみたいだ。
あまりの美しさに、私には、その指のしてきたであろうことが信じられない想いだった。
「でも、やっぱり・・・」
なおも食い下がろうとする寺沢を制したのは、意外にも榊だった。
「俺たちはできるだけのことをした。後は波田野の人生だろ」
結局、プリンセスSが波田野に何をしたのかはわからない。しかし、次の日、波田野は変わらずに学校にやってきた。部室に来たときには毎回しているように、静かに本を読んでいる。隣では、榊がせっせと数式の並んだレポートを書いている。いつも通りの、静かな時間。
私は読んでいる本から視線だけを浮かせて、波田野のことを眺めていた。こんなに穏やかで理知的な人が、本当に私の知らないところで「死にたい」とか「セックスしたい」とか言っているのだろうか。全て寺沢の作り話ではないのか?
そして、その横で静かにレポートを書く榊。まさか同性愛とまではいかないと思うけれど、波田野のことを想う気持ちは、寺沢とともに、並みのものではないだろう。
それから、私。
「待って!」
立ち去ろうとしたプリンセスSの背中に、思い切って叫んだ。彼女だけでなく、寺沢も、榊も、その場に居合わせたすべての人間の視線を一斉に浴びたのがわかった。
「それは、あなたのすることじゃない!」
「じゃあ、あなたがするの?」
プリンセスSも、負けずの大声で聞き返した。
「私は」
言葉を切って、深呼吸する。
「私は、波田野先輩と、話してみます!」
プリンセスSは驚いたようだ。一か八か、さらに畳みかけてみた。
「どうして、あなたは、身体を重ねることしか考えないんですか!」
すると、プリンセスSが大股で歩み寄ってきた。
「それで? 彼と話して、精神的に追い詰められた彼があなたの身体を求めてきたらどうするの?」
「先輩が、それで救われるなら、私は・・・」
声を絞り出すが、言い終わらないうちにプリンセスSが言葉を被せてくる。
「死ぬよ。彼は『かわいい女の子とセックス』したら、満足して死ぬんだよ」
「なら・・・」
「拒否すれば、絶望して死ぬね」
言いようのない怒りがわいてくる。
「あなたに、先輩の何がわかるんですか!」
「わからない。でも、男のことならだいたいわかっている。経験が違うんだ」
その目は、挑発的でもあり、なだめるようでもあった。
「私に任せないと損。お嬢ちゃん」
「俺の顔に何かついてる?」
波田野が言った。
「いえ、何も」
本の後ろに隠れようかという考えも少し頭をよぎったけれど、結局、私は緩んだ顔で波田野のことを眺め続けることにした。。
心は、目に見えない。けれど、確かにここには三者三様の気持ちがあって、隠されたり、暴かれたり、静かに呼吸をしている。それもすべて、私たちが生きている人間だからだ。血の通った人間だからだ。
この人が死ななくて、本当に良かった。
「凜ちゃんさ、」
珍しく、波田野が私の目をまっすぐに見て言った。
「焼肉、奢ってあげる」
暖かい日差しが降り注いでいた。
連載設定にはしていますが、別編を書くかはお楽しみです。