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その罪に名前をつけるなら

作者: 鈴谷なつ

「お願い、先輩。……自首しないで」

 夕暮れ時の薄暗い空間に、少女の切なる声が響く。

 震える両手で男の手を握り、お願い、ともう一度少女は繰り返した。

「先輩が私を守ってくれたみたいに…………、今度は私が、先輩を守るから」

 潤んだ瞳は、それでいて意志の強い光を灯している。

 男はしばらく黙っていたが、握られた手をぎゅっと握り返し、目を閉じた。それが答えだった。

「……絶対に、私が先輩を守ってみせる」

 やわらかな声とは裏腹な決意のこもったその言葉に、男は再び目を開き、少女と目を合わせる。

 どこまでも静かに、二つの視線は交わり続けていた…………。



 その日、友田和哉は告白をするつもりだった。同じ吹奏楽部の後輩である秋元楓。彼女とは、周りからお似合いだと揶揄われるほど仲が良いし、楓から嫌われていないことも確かである。

 例えば練習するときに、たまたま二人きりになると、少し照れたような表情を見せたり。はたまた帰り道が一緒になったとき、遠回りをして帰ろうと誘ってくれたり。

 そんな風にさりげなく好意らしきものを向けられていることを自覚して、和哉は自分から告白することを決意したのだ。年下の女の子から言わせるのなんて、男らしくない。

 ジェンダーレスの時代にそんなことを言うのは昭和の男だと言われかねないが、常々男らしく、格好よくありたいと思っている和哉にとっては大事なことだった。

 今日こそは告白をするぞと意気込んで登校してきたのも束の間。やけに校内が騒がしいことに気が付き、和哉は友人の有馬智に声をかけた。

「なんか今日、騒がしくねぇ?」

「……ん、そうだね」

 どんなときでものんびりしている友人は、読んでいた本からちら、と一瞬目線を上げて和哉を一瞥した後、再び本の世界にのめり込んでしまった。

 そんな友人の姿に、もったいないな、と和哉は思う。

 少し癖っ毛の茶髪に、整った容姿。智は二年生にして学校一格好いい男と評判なのである。今年の文化祭で開かれたミスターコンテストでも、優勝を手にしていた。

 三連覇がかかっていた三年の先輩は悔しそうに智を睨んでいたが、当の本人は全く興味がなさそうで、ふわぁと小さなあくびを漏らしていたくらいだ。

 そんなことよりも、と智から目を離し、学生鞄を机の横にかける。そして鞄の中から取り出したコンクールの課題曲の楽譜を開くが、何度もページを行ったり来たりしてしまう。今日告白するのだ、と決めてから何かと落ち着かないのだ。

 後輩である楓は今日も朝練に行っているのだろう。遠くから楓の吹くオーボエの音が聴こえてくる。それだけで昨日の帰り際にはにかみながら言われた「明日も一緒に帰りましょうね」という言葉を思い出すのだから重症だ。

「よし」

 今日の部活が終わった後。帰り道に告白する。

 そう意気込み、意識を切り替えて、疎かになっていた譜読みに集中しようと目線を落とす。

 すると後ろの席から、何がよし? とやわらかな声が飛んでくる。どうやら読書に夢中になっていた智の耳にも、独り言が聞こえてしまったらしい。恥ずかしさに頰を赤らめながら、何でもねぇよ、と答えると、和哉は再び前を向く。

 そして今度こそ譜面に目を走らせ始めたその時だった。

「友田和哉。ちょっと来い」

 二年二組の担任である野々村が、教室のドアから顔を覗かせてこっちを見ている。

 せっかく集中しようとしていたのに水を差されたようで気分が悪いが、まさか教師の声を無視するわけにもいかない。和哉は立ち上がり、野々村に連れられるままに生徒指導室へと向かった。

 いつのまにか、遠くに聴こえていたオーボエの音は止んでいた。


 生徒指導室に入るのは初めてだった。秋元楓はひどく緊張しながら、勧められるがままにソファーに腰掛けたが、どうも落ち着かない。

 何か悪いことをしてしまったのだろうか。考えてみても思いつかなくて、楓はストレートの黒髪をいじりながらじっと足元を見つめていた。しばらく待っていると、ガラリと扉が開き、見覚えのある男子生徒が入ってきた。

「あれ? 秋元?」

「友田先輩……!」

 それは楓の所属する吹奏楽部の先輩、友田和哉だった。

 同じ楽器の担当でこそないものの、分からないことを教えてもらったり、一緒に帰ったり、と知らない仲ではない。

 むしろ、楓は和哉に好意を持っているくらいだ。先輩とはいえ親しい人が入ってきてくれたことにより、楓は少しだけ緊張が緩むのを感じた。

「どうして呼ばれたか、分からないんです」

 和哉にそう訴えかけると、俺も詳しいことは何も聞いてないんだよな、と困ったような表情を浮かべる。

 それから和哉は少し隙間を空けて、楓の隣に腰を下ろした。ちょっとだけ間隔が空いているとはいえ、狭いソファー。いつもより近い距離に、楓は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

 どうしよう、ドキドキする。

 少し俯いて、膝の上でぎゅっと手を握りしめる。じとりと汗をかいているのは、暑いせいじゃない。確かに先程まで吹奏楽部の朝練習に参加していて、暖房とハードなレッスンに少し暑いくらいだったけれど、今のこれは緊張のせいだ。

 早く誰か来て、と二人きりの空間に耐えられなくなった頃、生徒指導室の扉が開き、二人の担任と知らない男が二人入室してきた。見覚えのない男性二人に、楓はまた違う意味で緊張が走るのを感じた。

「こちらが一年三組、秋元楓さん。そしてこっちが二年二組の友田和哉です」

 口を開いたのは、和哉の担任であり歴史教師である野々村だった。男二人に和哉と楓を紹介すると、今度は楓達に向き直り、こちらは警察の方だ、と言った。

 びく、と身体が震える。警察。誰もが知っていながらも、日頃関わりのないその組織の人に、全身が緊張するのが分かった。

「警察っすか?」

 和哉の声にハッとする。いつも通りのその声の調子に、自分が呼吸を忘れていたことに気が付いた。静かに息を吐くと、少しだけ緊張が和らいでいった。

「はじめまして、友田くん、秋元さん。少し話を聞かせてもらえないかな」

 警察手帳を出した男達は、和哉と楓の顔をじっと観察するように見つめてそう言った。

「話? 何かあったんすか」

「三年生の支倉圭太くんを知っているかい? 学年が違うから知らないかな」

「いや、知ってるっすよ。支倉先輩、有名ですし」

「有名って?」

 ぎら、と警察の目が光るのを感じ取り、楓は再び身体が震えた。

 支倉圭太という生徒は、楓も知っている。今年のミスターコンテストで二位を取ったイケメンで、その見目の良さから学年関係なく人気があるのだ。

 三連覇のかかっていたコンテストで二位だったのは惜しかったが、それでも学校で一、二を争う人気な男、と言っても過言ではないだろう。

 楓とは違い、全く緊張した様子のない和哉がそれを説明すると、警察の二人は顔を見合わせて頷いた。それから神妙な面持ちを浮かべ、低い声で衝撃的な言葉を放った。

「その支倉くんが、遺体で見つかった」

「えっ」

 初めて楓は声を上げた。驚きのあまり漏れた声だったが、警察のじとりとした視線に居た堪れなくなって、再び俯く。

「遺体、って……支倉先輩、死んだんすか」

 和哉が少しだけ声を震わせながらそう訊ねると、警察の二人がそうだよ、とどこか冷たい声で返した。その空気に耐えられず、楓はぎゅっと膝の上で握った手に力を込めた。

「屋上からの転落死。だけど事件性があると僕達は考えている。だから君達に話を聞かせてもらいたいんだ。いいかな」

 それは、質問という名の強制だった。楓は目の前が真っ暗になるような感覚を覚えながら、何とか頷く。隣からごくんと何かを飲み込むような音が聴こえてきた。和哉が緊張して唾を飲み込んだのだと理解することすら、楓には出来なかった。


 羽柴美優は栗色の長い髪をなびかせながら、窓の外を眺めていた。

親友である秋元楓が吹奏楽部の朝練習に行ったきり、お昼過ぎになっても帰ってこないのだ。授業もなぜか自習ばかり。校舎裏の教師用駐車場にパトカーが停まっている、とクラスメイトが騒いでいたので、それが関わっているのかもしれない。

 また、楓が朝からずっと席を外しているため、教室内では楓が何かをしたのではないか、と噂になっていた。

 楓が警察に呼び出されるような、悪いことをするはずないのに。

 美優はそう確信しているが、楓以外に友人のいない自分では、噂の誤解を解くことが出来ない。

 どうしよう、このままでは楓がどんどん悪く言われてしまう。どうにかしないと。

 そう思っているうちに、ガラリと教室の扉が開き、担任の山口が入ってきた。

「今日は授業はなしだ。もうお前ら帰れ。部活も禁止だ」

「ええーなんで?」

「パトカー来てたじゃん! 何かあったの?」

「もしかして秋元が関わってたりとか」

「事件でもあったの?」

 事情を把握しているであろう担任の登場に、教室内が一気に騒がしくなった。噂をしていた生徒達が、こぞって質問を投げかける。

美優は窓の外から目を離し、担任の顔をじっと見つめる。どうやら疲れ切っているようで、いつもならすぐに生徒の喧騒をおさめるが、代わりに溢れたのはため息だった。

「詳しいことは連絡網で回すから、今日は帰りなさい」

 はーい、と間伸びした返事が教室内に響き、生徒達は一人、また一人と帰っていく。

 美優はどうしようか、と決めかねていた。楓と帰る約束はしていない。いつもならば楓は吹奏楽部の練習に出て、好きな先輩と一緒に帰路へ着くはずだ。美優はどの部活にも所属していない、いわゆる帰宅部なので、楓を置いて真っ直ぐに帰っても怒られはしないだろう。

 でも、と空席になっている楓の机を見やる。鞄がぽつんと置かれたままで、持ち主は不在のままだ。朝から姿を現していない楓のことが心配だ。もう少し待ってみようかな、と再び窓の外に目をやったときだった。

「羽柴」

 聞き慣れた声に名前を呼ばれ、振り返る。気付くと担任が近くに立っていて、困った表情を浮かべながら美優のことを見つめていた。

「悪いが、秋元の荷物をまとめてやってくれないか。ちょっと事情があって教室に戻って来られないんだ」

「…………分かりました」

「悪いな」

 疲れ切った表情の担任の言葉に、美優は静かに頷く。

そして楓の机から教科書やノートを取り出すと、学生鞄にそれらを丁寧に詰め込んだ。

「じゃあ一緒に来てくれ」

「はい」

 二人分の鞄を持って、美優は担任の後ろを歩いていく。まだ教室内に残っていたクラスメイトから、もしかして羽柴さんも関係あるのかな、なんて声が聴こえてきたけれど、聞こえなかったふりをした。


 ひっく、ひっく、と泣き声が響く生徒指導室。

 友田和哉は困りきっていた。訳も分からぬまま警察に事情を問われ、話が終わって警察と担任が部屋を出て行くと、隣で秋元楓が泣き出してしまったのだ。

 頭を撫でてなぐさめてやりたい、という気持ちが沸き起こるが、付き合ってもいない男にそんなことをされたら気持ちが悪いに違いない。

いくら楓から好意を向けられているような気がするといっても、あくまでまだ気がする、という段階で、本人に確認した訳ではないのだ。

 結果、和哉はどうすることも出来ぬまま、隣で泣きじゃくる楓の姿を眺めるに留まっているのだった。

「失礼します」

 不意に、こんこんというノック音がして、鈴の音のような声が響く。

 開いたドアから顔を出したのは、学年の違う和哉でも知っている有名人だった。

「あっ、羽柴美優」

「えっ?」

「ああ、ごめん。勝手に呼び捨てにして。羽柴さん、ミスコンで優勝してたからそれで知ってて」

 本当はそれだけではないけれど、それらしい理由で言い訳をする。

 実際のところ、一年生にしてミスコン優勝を勝ち取った少女は、和哉の友人である智と並んで立っていた姿がひどく印象的だった。

智はどこかあどけなさを残した甘いマスクと、のんびりした性格のせいか、浮世離れして見える雰囲気が人気の秘密だ。それこそ学校一の有名人、支倉圭太と僅差でミスターコンテストの優勝争いをしたくらいのイケメンなのである。

 羽柴美優は、その智と並び立っても見劣りしない、それどころか思わず目を引かれてしまうようなそんな容姿をしていた。

 ふわふわとした栗色の髪、ぱっちりとした大きな目、陶器のように白い肌に、ほんのり赤い形の良い唇。

 アイドルにでもなれそうなその容姿は、ミスコン優勝という肩書きに誰もが納得するそれだった。

 しかし、和哉が美優を知っていたのは文化祭の前からだ。可愛い一年生がいる、という噂は知っていたが、いつもその隣にいるのが自分の想い人である楓なのだから、印象に残らないはずがない。どうやら美優は楓の親友のようで、帰り道にする雑談の中で、何度も美優の名前を聞いたことがある。

「もしかして友田先輩、ですか?」

「えっ? なんで知ってるの」

 和哉は智達のように目立つ存在でもなければ、もちろん美優との面識もない。知られている理由が思いつかずに、首を傾げて問いかけると、隣で泣いていた楓がそっと顔を上げる。

「美優ちゃん……」

「楓、大丈夫?」

「うん……」

 全く大丈夫ではなさそうな声で、楓が弱々しく返事をする。そんな姿も可愛いと思ってしまうのだから末期なのかもしれない。こんな状況で不謹慎だ、と自分を叱咤して、和哉は楓の顔を覗き込む。

「秋元、無理するなよ」

「はい……ありがとうございます」

 震える声が可哀想で、和哉は眉を寄せた。

すると、楓からよく友田先輩の話を聞くんです、と美優がこちらを向いて言った。それが先の質問に対する答えだと分かるまでに数秒かかったが、それよりも先に頰を赤らめた楓が美優ちゃん! と嗜めるような声を上げたものだから、和哉は何の反応も出来なかった。

 楓が友人に自分の話をしてくれている。それは、和哉にとって嬉しいニュースだった。

 そしてまた、美優のおかげで楓が少し元気を取り戻したように見えて、ホッとする。いつもやわらかな笑みを浮かべていて、泣いた姿なんて見たことがなかったから、どうしていいか分からなかったのだ。こういうときに頼れる男になりたいな、と反省しながら、和哉は楓に話しかけた。

「秋元。今日はもう帰っていいって」

「はい、すみませんでした、泣いたりして……」

「いや、俺もびっくりしたし、こんな状況じゃ仕方ないだろ」

「でも、友田先輩はしっかり受け答えしてて……かっこよかったです」

 私も見習わなくちゃ、とはにかみながら呟く楓の姿に、胸がきゅんと音を立てる。まだ少し赤い目もとをこすって涙を拭うと、美優が持ってきてくれたらしい鞄を受け取った。

 昨日の放課後、明日も一緒に帰りましょうね、と楓は言ってくれたが、この状況ではそれも叶わないだろう。本当は告白するつもりだったが、そんな場合ではないことも分かっている。和哉は少しだけ残念な気持ちになりながら、美優の方へ向き直ると、秋元のこと送ってやってくれる? と訊ねた。

「えっ、でも、楓は先輩と帰った方がいいんじゃ……」

「み、美優ちゃん!」

「友田先輩が送ってあげてください」

 にこ、と笑みを浮かべる楓の友人の姿に、不覚にもドキッとしてしまう。さすがナンバーワン美少女。これはモテるだろうな、と関係のないことまで考えてしまう。

 楓を見やると、迷惑じゃないですか? と上目遣いに訊ねられ、一瞬でも好きな人の友人を可愛いと思ってしまったことに罪悪感を抱いた。

「迷惑じゃないよ。じゃあ秋元は俺が送って帰るから、羽柴さんも気をつけて」

「はい、楓をよろしくお願いします」

「美優ちゃん、鞄ありがとう。夜に電話するね」

「うん、またね」

 扉を開けて出ていく後ろ姿を眺めて、楓が和哉の顔を覗き込む。

「……美優ちゃん、可愛かったでしょ」

 どこか得意気なのは、どうしてなのだろうか。

親友が可愛いと嬉しいものなのか。友人の智が格好いいことに関して、嫉妬こそすれど自慢に思うことはないので、これは男女の違いなのかもしれない。

「モテそうだなとは思ったよ」

「えへへ。そうなんですよ、美優ちゃんは話してくれないけど、昨日も呼び出されてたみたいだし、モテモテなんですよ」

 まるで自分が褒められたときのように嬉しそうにそう語る楓は、ひどく無邪気で愛らしい。先ほどまで泣いていたとは思えないくらいだ。

 でも、と楓が鞄を握りしめ、和哉の目をじっと見つめる。

「友田先輩は、美優ちゃんのこと、好きになっちゃダメですからね」

 小悪魔的なその言葉にドキッとして、それってどういう意味、と投げかけると、内緒です、と可愛らしい笑みで返される。

どうやら恋の駆け引きは、楓の方が一枚も二枚も上手のようだった。


 有馬智はぼんやり外を眺めていた。トラブルが起きたとかそんな理由で生徒達が早く帰される中、下校指示を無視して教室で頬杖をついている。

「智? 何やってんの」

「ああ、帰ってきた」

 ふいに教室の入り口から声をかけられてゆっくり振り向くと、友人の友田和哉が立っていた。今朝方、ホームルームが始まる前に担任に呼び出された和哉は、昼過ぎになっても帰って来なかったので心配していたのだ。

「大丈夫だった?」

「ん? なにが」

 格好つけたがりの友人は、智の心配に対し、知らぬ顔をしてみせた。

「支倉のことで呼ばれたんでしょ」

「っ! 何でそれを……!」

 三年の支倉圭太が死んだというニュースは、自習だった二限目の途中に舞い込んできた。職員室にプリントをもらいに行ったクラスメイトが盗み聞きをしてきたらしい。

 支倉圭太が死んだ、という話を聞いて、智が抱いた感想は、ふーん、という冷たいものだった。

 支倉は知らない仲ではない。今年の文化祭、ミスターコンテストというイベントで、やたらと智を敵視してきた男だ。

 結果は僅差で智の勝利に終わったが、それ以降支倉からは嫌がらせのようなことが続いていた。例えばすれ違いざまわざとぶつかってきたり、そんな些細なことだったのでそこまで気にしていなかったが、支倉のことを先輩と呼ぶ気になれないのはそのせいだ。

「クラスで話題になってたよ。何で和哉が呼ばれたの」

 俺が呼ばれるなら分かるけど、という言葉は飲み込んだ。支倉からの地味な嫌がらせについては、誰にも話したことがないからだ。

「昨日の放課後なんだって。支倉先輩が死んだの。自殺か、事故か、事件か、警察も判断しかねてるみたいだけど」

「ふぅん」

「で、いつも吹奏楽部が一番遅くまで部活やってるだろ? その中でも昨日最後に帰ったのが俺と秋元だったから、それで何か見てないかって」

 すげー緊張したよ、刑事さんの圧がすごいから。と和哉は肩をすくめてみせた。

それからハッとしたように、悪い、秋元を待たせてるんだった、と言って智の前の席から鞄を取り、慌てた様子で教室を出て行った。

 智がそのまま頬杖をついて外を見ていると、校庭を横切っていく仲の良さそうな二人の男女の姿が飛び込んできた。和哉と、和哉の後輩である秋元楓という女子だろう。上手くいくといいね、と智は心の中で呟いた。

 それからしばらく眺めていると、栗色の髪の女生徒が校庭に現れた。ふわふわの長い髪を揺らしながら歩く後ろ姿が、くるっと振り返り、こちらを見上げる。少女はじっと三秒ほど智を見つめ、それからまた歩いて行ってしまった。

校舎の二階と校庭。離れた場所にいるのに、彼女がどうしてこちらを見たのか。そして何を言いたかったのか。智には何となく分かる気がした。


「それでね、ひどいんだよ。私と友田先輩が帰るの一番遅かったからってそれだけの理由で、ずっと質問責めだったの。何か大きな音とか声とかはしなかった? 帰り道に中庭を通らなかった? 怪しい人影は見なかった? 靴のサイズは何センチ? とかって。最後の質問なんて、あまりにも意味が分からなすぎて何ですかそれって友田先輩ちょっと怒ってたもん!」

 羽柴美優は帰宅後、友人である秋元楓と電話をしていた。スピーカー状態にしているので、スマートフォンは机に置いて、数学のノートを開きながら話を聞いている状態だ。

「そんなに質問されたんだ、こわいね」

「でしょ? なんかね、支倉先輩、自殺じゃないみたいなの」

「えっ?」

「争う声は聞こえなかったか、とか怪しい人は見なかったか、とか、そういう質問が多かったの。自殺だったらそんな質問しないよねぇ」

 不審者だったらどうしよう、と不安気な声を楓が上げるので、美優は少し悩んでから、毎日友田先輩と帰れば大丈夫だよ、と言ってあげた。

 自殺じゃない、か。

 美優は楓の愚痴を聞きながら、ぼんやり考える。

 支倉圭太とはほとんど面識がない。学年が違って、部活にも入っていない美優は、先輩後輩という縦の繋がりがほとんどないのだ。それでもこの学校に通っていて支倉圭太を知らない人はいない、というくらい、その人は有名だった。

 自殺じゃないなら、事故か、他殺か。警察は何を根拠にして、自殺じゃないと判断しているのだろう。

 高校生にとって、それがたとえ関わりのない相手だとしても、同じ学校の生徒が死んだというのは大事件だ。それも、自殺ではないというのなら尚更である。

「美優ちゃん? 美優ちゃんはどう思う」

「えっ?」

「事故だと思う? それとも、誰かに殺されちゃったのかな」

 楓はとても女の子らしい子だが、好奇心旺盛な面がある。今回の支倉の死は、身近で起こった大事件なので、興味を持たずにはいられないのだろう。

 美優は、んー、と少し考えてから、こう答えた。

「支倉先輩って、よく知らないけどすごく人気のある人だよね? だったら殺される理由なんて、ないんじゃないかなぁ」

「人気者だからこそ嫉妬されてーって可能性もあるけど……それだけで殺したりはしないよね、普通」

 電話越しで楓が肩をすくめた姿が見えたような気がして、美優は少しだけ肩の力を緩める。

 そしてノートに走らせていたボールペンを机に置くと、親友を心配する言葉を口にした。

「でも楓、これ以上巻き込まれないといいね。何かこわいもん」

「本当だよ。また警察に話を聞かれるのなんて絶対嫌!」

 楓の願いは虚しく、その翌日、再び楓は和哉と共に生徒指導室に呼び出されることになった。美優はその後ろ姿を見届けて、数学のノートを開くと、真っ白なページにボールペンを走らせていった。


 支倉圭太の死体が発見されたのは、一月十三日の午前七時半のことだった。中庭の花壇の中に倒れている支倉を発見したのは同じ三年生の吹奏楽部員で、朝練習に行く途中の出来事だったという。

 死亡推定時刻は一月十ニ日の午後六時から午後七時の間。発見までに約十二時間が経過していることになる。

生徒の完全下校時刻が午後七時半であることを考えれば、放課後誰かが発見していてもおかしくない状況ではあったが、運悪く朝まで支倉の遺体が見つかることはなかった。

 何らかの理由により屋上から転落し、花壇のレンガに頭部をぶつけたことによる失血が死因と見られている。

 しかしその手首に手の形をした痣があったことから、誰かが屋上にいた可能性、つまり自殺ではなく他殺の線も考えられるというのが警察の見解だった。

事故であったとしても、直前に何らかのトラブルがあったと考えられ、死亡推定時刻付近に屋上にいた者の特定を急いでいる。

 梅木はうんざりしていた。もうすぐ定年を迎えるという折に飛び込んできたこの事件。未成年の学校内での死、というセンセーショナルなニュースに、マスコミが飛びつかないはずがない。

しかも死亡したのはかなり容姿の整った男子生徒、ということで、テレビや雑誌でおもしろおかしく騒がれているのだった。

 おかげで警察にも、いじめを苦にした自殺ではないか、自殺と断定しないのは殺された可能性があるのか、人気者故の嫉妬による殺人かもしれない、など、余計な御世話とも言える電話が後をたたない。

 梅木が遺体を見たとき、自殺はないだろうな、と直感的に思った。それは長年培ってきた刑事の勘というものかもしれない。それから手首に手形の痣があることが判明し、直感は確信に変わった。

「支倉は少々やんちゃなところもありましたが、成績優秀で進学もほぼ問題ないレベルでしたし、いじめなどを受けている様子もありませんでした」

 だろうな、と梅木は思う。写真を見る限り容姿端麗。

しかも文化祭のミスターコンテストで二位を取ったというくらいだ。学内での人気は高かったであろう。典型的なスクールカーストの上位にいるタイプ。

 いじめられる側、というよりは、いじめる側の方がしっくりくるくらいだ。それはあくまで梅木の主観にすぎないが。

「自殺するような理由は思い当たらないんです。圭太は本当にいい子で、頭も良くて、運動も出来て……親の私も驚くくらい出来のいい子でしたから。まして殺人だなんて、絶対にありえません」

 涙ながらにそう語るのは、支倉圭太の母である。事故だと言い張っているが、屋上のフェンスに壊れたところはなかった。

 事故だとしたら、物理的に難しいことになる。何者かが支倉をフェンスの外に落とすか、もしくは支倉自身がフェンスを乗り越えたとしか考えられないのだ。

学生同士でふざけていて、遊び半分にフェンスを乗り越えた可能性はある。そのまま誤って支倉が落下し、打ち所が悪くて死亡。それに怖くなった仲間が、言い出すことの出来ないまま怯えている、そういう可能性もあるだろう。

 しかしその場合、支倉の手首にくっきりと残った手形の痣は説明がつかなくなってしまう。

 やはり事故ではなく他殺なのだろうか。

梅木は様々な可能性を考えながら、今日も生徒達に聞き込みをする。マスコミに騒がれてしまっている以上、一日も早く結論を出さねばならないだろう。それでなくても、未成年の尊い命が失われているのだから。


「もう話すことなんてないっすよ」

 友田和哉は若干うんざりしながらそう言った。

 昨日に引き続き、今日も和哉と楓は生徒指導室に呼び出され、事情聴取をされている。

想い人である秋元楓と一緒だからこそ、楓を守ってやらなくちゃ、という気持ちで臨めているが、一人だったらとっくに心が折れていただろう。

「もう一度訊くけど、本当に何も物音や争う声は聴こえなかった?」

「聴こえませんでした。そもそも七時過ぎまで吹奏楽部の練習をしていたので、何か音がしていても聴こえなかったと思います」

 楓は昨日と違い、はきはきとした口調でそう答えた。いつもの楓だ、とホッとして和哉もその言葉に頷く。

「支倉先輩が亡くなったの、六時から七時の間って言ってましたよね? その時間は合奏をしてたから、顧問の柏木先生に訊いてもらえれば分かると思いますよ」

 俺達にはアリバイがある。そう暗に示すと、刑事は少し表情を緩めて、君達を犯人として疑っているわけじゃないよ、と言った。

「ただ、支倉くんが発見された花壇の土には、複数の足跡があった。その足跡が君達のものと一致するから、現場を見たんじゃないかと思ってね」

「えっ?」

 だから昨日靴のサイズを問われたのか、と和哉は納得し、同時に慌てて反論する。

「でも学校指定のローファーだし、俺達のものじゃないっすよ! 同じサイズの生徒ならいくらでもいるはずだし」

「そうです! そもそも事件当日についた足跡かなんて分からないんじゃ……」

「いや、あれは当日についたものだよ。事件の前日は雨で、土がぬかるんでいたはずだからね。それに秋元さんはともかく、友田くんの足のサイズは大きいから、校内を探してもそう人数がいるとは思えないんだよ」

 和哉はこんな時だというのに感心してしまった。専門家が見れば、ただの足跡さえもいつ頃ついたものか分かるというのだから。

 でも私達じゃないです、と凜とした声が生徒指導室に響く。声の主は楓だった。

「私と友田先輩は、確かにあの日、一番最後に帰りました。でも中庭は通っていないし、もちろん支倉先輩のことだって見ていません。何も知らないんです」

 行きましょう、と席を立った楓に腕を引かれる。ドキッとして思わず楓に連れられるがままに、生徒指導室を後にする。

「よかったのかな、刑事さんの話、まだ途中だったみたいだけど」

「知りません! だってあの人達、まるで友田先輩が嘘をついているみたいに言うんだもん」

 腹が立っちゃった、と頰を膨らませる楓の姿に、胸がきゅんとする。

 どうやら楓はあの場で和哉が疑われていたことに対し、怒ってくれたらしい。自分のために怒ってくれたということが、こんな時だというのに嬉しい。

「それにしても、何で俺達、こんなに疑われているんだろうな」

「本当ですよ! ただみんなよりちょっと遅く帰っただけなのに!」

 本当に怒っているらしい楓は、それでもぷんぷんと効果音のつきそうな可愛らしい怒り方だった。

 そんな楓に和みながら、大丈夫だよ、秋元、と声をかける。

「刑事さん達だってプロなんだし、ちゃんと調べれば俺達が何かやったんじゃないって分かってくれるよ」

「そうだといいんですけど……」

 まだ少し不安気な様子を見せる楓に、頭をくしゃりと撫でてやると、頰を染めてこちらを見上げてくる。

「……ずるいですよ」

「ん?」

「怒ってたのに、怒りがどっかに行っちゃった」

「何だそれ」

 笑いながらもう一度その頭を撫でると、猫のように目を細めて、楓は微笑んだ。


 秋元楓が教室に戻ると、其処彼処で自分の噂をされているのが聴こえてきた。

 秋元が支倉先輩の自殺に関わっているらしいよ、という軽いものから、楓ちゃんが殺したんじゃないの、という恐ろしいものまであって、楓は居心地の悪さに自分の席で縮こまることしか出来なかった。

 いつもならば声をかけてくれる友達も、今日ばかりは遠巻きに楓を眺めるだけで助けてくれない。

どうしよう、と泣きたくなっていると、長い栗色の髪をふわりと揺らし、美優が隣にやって来た。美優は小柄だけれど人一倍存在感があるので、俯いていた楓もすぐに気がついた。

「……美優ちゃん?」

「楓、教室を出よう」

「えっでも授業は」

「どうせ自習だもん」

 それにこの教室うるさいでしょ、とやわらかく笑う美優に、泣きそうになりながら楓は立ち上がった。

「ありがとう、美優ちゃん。正直居心地が悪かったんだ。みんな私の噂をしているから」

 廊下に出るなりお礼の言葉を口にする。美優はにこりと可愛らしい笑みを浮かべ、首を横に振った。

「支倉先輩って人気があったみたいだし、身近な人が亡くなるなんて珍しいニュースだから、皆思わず噂しちゃってるだけだと思うの。誰も楓のこと、本気で疑ったりしないよ」

 楓がいい子だって知ってるはずだもん、と美優が笑いながら理科室の戸に手をかけた。

「理科室?」

「うん、静かだし……どのクラスも今は自習ばっかりで使わないだろうから」

「美優ちゃん……ありがとう」

 楓のためを思って教室を連れ出してくれたこと。変わらずいつも通り話しかけてくれること。誰も来ないであろう教室を選んでくれたこと。

 そのどれもが美優の優しさに溢れていて、泣きそうになる。

 窓際の一番後ろの席に腰掛けて、美優が持っていた教科書とノートを机にしまう。

「勉強しないの?」

「今日は楓の愚痴を聞く日にする」

 勉強は家でも出来るもん、という言葉に、楓は涙腺が緩むのを感じた。じわりと浮かび上がってきた涙を見て、美優は少しだけ驚いた顔をした後、大変だったね、と楓の頭を撫でてくれた。さっき友田先輩も撫でてくれたな、と楓は思い出した。

 そして楓は泣きながら、昨日の電話では言えなかったこと、今日刑事に言われたことを全て美優に話したのだった。


 教室へ戻る帰り道、羽柴美優はふと立ち止まった。親友の秋元楓が不思議そうな顔でこちらを見て、首を傾げる。

「どうしたの、美優ちゃん」

「話に夢中で、教科書とか全部置いてきちゃった」

「ふふ、本当だ。一緒に行こうか?」

「ううん! 楓はここで待ってて」

 すぐに戻るから、と言って理科室へ引き返す。

 ガラリと扉を開けると、見覚えのある男子生徒が窓際に立っていた。

二年の、有馬智だ。ミスターコンテストで優勝した人だから、美優ももちろん知っている。

話しかける理由はなくて、だからと言って無視するのも感じが悪い。目が合ってしまったのだから仕方がない、と思い、ぺこりと頭を下げると、智も会釈をして返した。

 そして忘れ物の教科書を机から取り出すと、美優は何も言わずに理科室を後にした。

「美優ちゃんおかえり」

「ただいま。ごめんね、待たせちゃって」

「全然大丈夫だよ」

「どうせ教室に帰っても自習だしゆっくり戻ろう」

楓が笑いながら言う。まだ目元は少し赤いが、元気になったみたいでよかった、と安心する。

 教室内は、未だに支倉と楓の話題で持ちきりだった。楓はクラスに入るなり俯いてしまう。無理もないだろう。支倉圭太の死に関わりがある、と思われてしまっているのだから。

 自殺、事故、他殺、まだどんな状況で支倉が亡くなったかも分からないのに、いや、分からないからこそ面白おかしく騒ぎ立てるのだろう。

当事者である楓の気持ちは無視をして。辛いだろうな、と親友の心情を考えて、美優も胸が苦しくなる。

 気にすることないよ、そう楓に声をかけながら、美優は持って帰ってきた数学の教科書を鞄にしまった。


 支倉圭太の死から一週間が経った。

警察がマスメディアにした発表は、事件性があるとして捜査を進めている、というもので、自殺の可能性を否定するものだった。事故か、殺人か。この情報だけでも世間を騒がせるには十分だった。

 しかし、学校に押し寄せるマスコミの数も事件当初に比べれば大分減り、半分程度になった。それでも未だ生徒にインタビューをしようとする記者は後を立たず、生徒達もうんざりし始めている頃だった。

「智、プリント見せて」

「んー? 終わってないよ」

 授業が無事再開し、友田和哉への警察からの呼び出しも減った。それでもたまに呼び出されることはあるが、他の吹奏楽部の生徒にも同様に声をかけているようなので、和哉は納得しているようだった。

 振り向いて机を覗き込んでくる和哉の前に、お目当てのプリントをひらりと差し出す。半分も埋まっていない数学のプリントに、うげ、と和哉が眉をひそめた。

「しょうがないじゃん、数学苦手なんだから」

智が言うと、まあ俺も同じようなものだけどさ、と返ってきた。そもそも与えられた課題を自分で解こうとせず、人のものを写そうとするのが悪いのだ。智のように解くのを諦めてしまえば楽なのに。

 和哉が前を向いたのを確認し、智はプリントを数学のノートの脇に置くと、ぼんやりと真っ白なページを眺めた。

 当然授業が終わる時間になっても課題のプリントは終わらず、和哉と智は二人揃って居残りを命じられたのだった。


 梅木は焦っていた。支倉圭太が亡くなってから一週間経つが、その後捜査に進展はない。

 事故だという確証も得られなければ、他殺だという証拠が出てくる訳でもない。捜査を始めてすぐに見つかった支倉の手首に残された手形の痣。現場付近に残された、当日のものと思われる二種類の足跡。自殺を否定する根拠はそれだけだ。

 事件当日、支倉の死亡推定時刻に学校にいたと思われる学生を中心に聞き込みを進めているが、大体の生徒は部活動による居残りであったため、屋上に近づいたという者はいなかった。

 不審者の可能性も考えられたが、それにしては現場である屋上と、支倉の遺体が綺麗すぎる。手に残された痣だけ、それでは争った形跡があまりに少ない。

 そのため事故、または他殺であったとしても、その場にいた者は支倉の知人である可能性が高い、というのが梅木の出した結論だった。

 聞き込みを進める中で、もう一つ興味深い話が出てきた。提供元は支倉のクラスメイトで、特別仲の良かった友人の安西である。

「圭太のやつ、数日前に変なこと言ってたんすよ。もう二位とは呼ばせねぇからな、学校一可愛い彼女を作ってやる、って」

 ミスターコンテストで今年二位を取った支倉は、三年連続優勝がかかっていたという。それだけでも十分すごいと思うが、仲間内ではどうやら二位と呼ばれてからかわれていたらしい。

 そして、先の発言である。学校一可愛い彼女。そのワードに、梅木は食い付いた。

「学校一可愛い、って言うと誰になるのかな。具体的に名前は出していたのかい」

「いや、名前は言ってなかったっす。でもうちの学校で一番可愛いって言ったらやっぱり、羽柴美優じゃないっすか」

 羽柴美優。それは、捜査線上で初めて出てきた名前だった。他の生徒に訊いてみても、学校一可愛いという単語を出せば、揃って美優の名前が挙がる。

 関係ないかもしれない。支倉が何気なく言っただけの、その場限りの言葉だった可能性もある。

 しかし、もし本当に支倉が美優に告白をしていて、彼女だったなら? 何か知っているかもしれない。これは話を聞かない選択肢はないな、と梅木は美優のクラスをメモしながら、口元を緩めた。

「羽柴美優です、よろしくお願いします」

 教師に呼び出してもらい現れたのは、驚くほどの美少女だった。栗色のふわふわの髪、整った顔立ち、小柄で細い身体。確かに学校一の可愛い女子として名前を挙げられるのも分かる気がした。事前情報にてミスコンで一位だったという話を聞いていたが、これは納得の容姿である。

「じゃあ羽柴さん。話を聞かせてくれるかな」


「その日は、誰かに手紙で屋上に呼び出されました。差出人は書いてなかったのでいたずらかもと思ったんですけど、大事な用かもしれないから一応屋上まで行きました。放課後のことです」

 羽柴美優は、やわらかな声でそう語った。支倉圭太が亡くなった当日の出来事。親友の秋元楓にすら言わずにいたことを、警察の前でゆっくり話していく。

「屋上の鍵は閉まっていました。しばらく屋上の扉の前で待っていたんですけど、誰も来なくて。いたずらだったんだな、と思ってそのまま帰りました。時間は覚えていません」

 美優の語る言葉に、刑事二人が顔を見合わせるのが分かった。

「鍵がかかっていたんだね?」

「はい、間違いないです」

「扉の向こうから何か聴こえてこなかった? 話し声とか、争う音とか」

「…………吹奏楽部の練習の音が響いていたので……、でも何も聴こえなかったと思います」

 聴こえていたら覚えていると思うので、と美優は付け足した。それから少し俯いて、おそるおそる心に引っかかっていた疑問を口にした。

「あの……」

「ん? どうしたの」

「私、どうして呼ばれたんでしょうか」

 美優はどうして自分が呼び出されたのか、聞かされていなかった。梅木と名乗った刑事が少し考えた後、口を開いた。

「亡くなった支倉くんが、学校一可愛い彼女を作る、と豪語していたらしいんだよ。それで聞き込みをしていたら、この学校で一番可愛いのは羽柴さんじゃないか、って意見が多かったから」

 美優が納得して頷くと、支倉くんに告白されたことはある? と梅木が直球な質問を投げかける。美優は困った表情を浮かべながら、ありません、と答えた。

 それから「支倉くんが亡くなった事件……あえて事件と呼ばせてもらうけど、その事件は知っていたよね? どうして名乗り出なかったの」と梅木は訊ねてきた。その質問の意味が分からずに、美優は首を傾げる。

「支倉くんが屋上から落ちて亡くなった事件、それと同じ日に羽柴さんは放課後に屋上への呼び出しがあった。……何か関係があるとは思わなかった?」

 ぎら、と梅木の目が獰猛な肉食獣のように光った。その目が恐ろしくて、思わず美優は俯く。

それから、目を逸らしたのはまずかったかな、と思い再び顔を上げると、梅木の問いへの答えを返した。

「関係あると思います。……誰かが私を、犯人に仕立て上げようとしたのかなって、そう思っていました」

 だから怖くて言い出せなかったのだ、と美優は言った。

美優は支倉の死を自殺だとは思っていない、そして事故だとも。他殺であると考えているのだ、と暗に示す言葉に、梅木が何度か頷いて、ありがとうございました、と頭を下げた。

「羽柴さん、また事情を聞かせてもらうことがあるかもしれませんが、その時はご協力お願いします」

「はい、もちろんです。それでは失礼します」

 ぺこり、と小柄な身体を折り曲げて、美優が退室しようとした時だった。梅木がああそういえば、と思い出したように声を上げ、美優はゆっくり振り返る。

「羽柴さん、靴のサイズはいくつですか」

「靴、ですか? 二十三センチです」

「…………分かりました。ありがとうございます」

 今度こそ生徒指導室を後にすると、美優は誰にも聞かれないように、小さくため息をこぼした。

 自分はしっかりと受け答えが出来ていただろうか、と心配になる。万が一にも疑われるようなことがあってはたまらない。

 教室に戻る前に、理科室で息抜きをしていこう、と美優は教室とは反対方向に歩き始めた。


 秋元楓は、限界が来ていた。

大好きな吹奏楽部の練習にも身が入らない。片想いをしている友田和哉と二人で帰るときですら、あの事件のことが頭にチラついて離れないのだ。

「秋元? どうした、元気ないじゃん」

 和哉が心配をして、声をかけてくれる。楓は少し悩んだ後、和哉も当事者なのだから相談してみよう、と話を持ちかけた。

「友田先輩は気にならないですか? 支倉先輩の、事件の真相」

「事件……なのかな。事故の可能性もあるんじゃない」

「でも、腕に人の手の形をした痣があった、って刑事さんが言ってましたよ。誰かに強く腕を掴まれなきゃ、そんなことにはならないんじゃ……」

「落ちそうになったところを掴んだのかもしれないだろ」

 その発想はなかった。驚いて目を丸くすると、和哉は照れたように頬をかいてみせた。

「俺も気になっていろいろ考えたんだけどさ、やっぱり事故じゃないかな」

「事故、ですか?」

「屋上でふざけて遊んでいて、支倉先輩が落ちそうになったのを、誰かが慌てて止めようとして腕を掴んだ。だけど力が足りずに支倉先輩は落っこちて、打ちどころが悪くて死んじゃった、っていう」

 話が上手く出来過ぎかな? と和哉は肩をすくめる。

 でもそれは、他殺の可能性よりもずっとあり得そうな話だ、と楓は思った。一緒にいた仲間が怖くて言い出せないまま今に至るのだとしたら、辻褄が合う。

 花壇の中に残された靴跡だって、支倉の生死を確認するためのものだったのだろう。

警察は靴のサイズが和哉と楓のものと一致したと言っていた。しかし、楓は女子にしては足のサイズが大きい方なので、靴の持ち主は男子だったかもしれない。

目をつぶってみれば、支倉とよく一緒にいる男子生徒二人が、屋上、そして花壇にいるところが想像出来た。

「すごい……それ、もしかして正解なんじゃないですか」

 刑事さんに話してみましょうよ、と楓は前のめり気味に声を上げる。

 だってもう限界だったのだ。

支倉が亡くなってから学校に立ち込めているピリピリした空気も、刑事が当たり前のように校舎内を歩いていることも、事件当日最後まで校舎に残っていたからという理由だけで警察に事情を聞かれることも。

全てが楓のストレスになっていた。

 事件翌日から今日までずっと、支倉の事件が頭の片隅にある。家に帰っても、友達と仲良く話している時だって、気が休まらなかった。一刻も早く事件を解決してほしい、それが楓の一番の願いになっていた。

「うん、そうだな。梅木っていう刑事さんに話してみるよ」

 一人で考えてると自信がなかったけど、秋元もそうかもしれないって思ってくれるなら、ちょっとくらいは可能性があるかもしれないし。

 そう言って和哉は笑う。それから、ふと真面目な表情を浮かべ、楓に向き直った。

「秋元、あのさ」

「はい」

「この事件が解決したら、聞いてほしいことがあるんだ」

 告白かもしれない、そう思った。

 和哉が自分に好意を向けてくれていることは知っている。和哉が告白しやすいように、楓自身も自分の気持ちをアピールしてきたつもりだ。

 いつ告白してくれるだろうか、それとも、楓から告白しないとダメなのかな、と事件前には悩んだりもしていた。それが今、現実になろうとしている。

「…………はい」

 頰が赤くなっている気がする。でもこれでいい。この方が和哉に気持ちが伝わるような気がして、楓はまっすぐに彼を見つめ頷いた。


 その日、梅木は友田和哉から連絡を受けて学校へ足を運んでいた。何か事件に関することを思い出したのかい、と訊ねると、支倉圭太の事件に対する和哉なりの推理を聞かされたのだ。

 警察でも、事故として捜査する中で挙がった一つの可能性。しかし、その意見がまだ高校生である和哉から出たのだから驚きである。

 すでに数度聞き込みはしているが、梅木は支倉の同級生に話を聞きに来た。支倉と特に仲が良かったのは二人。沢村と安西という男子生徒だ。ちなみに二人の靴のサイズは、花壇に残された二つのどちらとも一致しないことが確認されている。

「何度も話を聞きに来てすまないね。支倉くんの事件当日、君達が放課後何をしていたか、聞かせてもらっていいかな」

 何度目か分からないアリバイを確認するこの質問に、支倉の友人二人は顔を見合わせて、別にいいっすよ、早く解決出来るなら、とそれぞれ声を上げた。

「俺は放課後、まっすぐバイトに向かいました。駅前のハンバーガー屋っす」

 沢村が迷いなく答える。

このアリバイは確かなものとして立証されていた。ハンバーガー店の店長含む複数のアルバイトから、沢村が勤務していたことは確認が取れている。もちろん支倉の死亡推定時刻である午後六時から午後七時の間も、沢村はアルバイトに勤しんでいた。

 安西の方を見やると、彼も淀みなく答えた。

「俺はサッカー部の練習を見に行ってました。もう引退してるけど、しごいてやろうと思って。帰りは部員の山本と木崎と一緒でした」

 こちらも確認は取れている。

サッカー部の部員である二年の山本、木崎曰く、「安西先輩ってめちゃくちゃ厳しいんすよ、一瞬でも気を抜くと罵声が飛んできますから」と。つまり、安西はずっとサッカー部の練習に注目していた訳だ。部員全員がアリバイの証人となっている。

「圭太の事件、まだ解決出来なそうっすか」

「……正直なところ、底の見えない沼にハマったような、そんな感覚だよ。自殺には見えない。だけど事故にしても他殺にしても、残された証拠が少なすぎる」

 とても学生に出来る殺しとは思えないね、と言いかけて梅木は言葉を飲み込んだ。さすがに不謹慎だし、何よりまだ他殺と決まった訳ではないのだ。

「でも出来る限り早く解決することを、約束するよ」

 梅木は決意の言葉を口にする。沢村と安西はもう一度顔を見合わせて、そうしてやってください、とどこか悲しげな声を返した。

 学校からの帰り道、梅木はパトカーの中でしばらく黙っていたが、ふいに口を開いて言った。

「……友田和哉を重要参考人として引っ張るぞ」

「え? 友田をですか? でも未成年ですよ」

「容疑者じゃない。あくまで重要参考人だ」

 梅木は相方である柳にそう告げる。

 和哉が犯人である可能性は低い。死亡推定時刻にアリバイがあるからだ。

しかし、何かを知っている可能性は大いにある。和哉くらいガタイが良ければ手のサイズも大きいはず。支倉の遺体に残されていた手形の痣も大きかった。

 それに何より、花壇に残された足跡のサイズ。大きい方は和哉と、少し小さい方は、和哉と事件当日一緒に帰ったとされる、秋元楓のものと一致している。これは、事件に関わっていなかったとしても、和哉と楓が遺体を発見していた可能性を示している。

 そして、今日の和哉の推理。あれは、自分はこの事件に関わりがないと示すものだった。何かを知っていて、それを隠すために捜査を混乱させる目的で、梅木にあの推理を告げたのではないだろうか。そう考えたのだ。

 状況証拠しかないこの現状で、果たして上司が和哉を重要参考人にすることを認めてくれるか。

 綱渡りだな、と呟きながら、梅木はパトカーの中、目を閉じた。


 智は白紙のノートを見つめ、ぼんやりしていた。それもそのはず。友人である友田和哉が、支倉圭太の事件における重要参考人として警察に連れて行かれたのだ。

 警察が和哉を連れて行くとき、智は信じられない気持ちでいっぱいだった。何かの間違いであってほしいとすら願ったほどだ。しかしその願いも虚しく、和哉は連れて行かれたまま帰ってこない。きっと取り調べをされているのだろう。

 事件当日、帰るのが一番遅かったから、という理由で、何か知らないかと和哉が警察に呼び出されるのは見てきた。しかし、ここまで本格的に連れ出されたのは初めてのことだった。

 和哉が犯人でないことを、智は分かっていた。正直者で嘘の付けない友人は、何かしら事件に関わっていたとしたら隠し通すことなど出来ないし、何より一番に智に相談してくれるはずだからだ。

 それでも、当然だが警察は和哉の性格など知る由もないし、知っていたとしても捜査する上で考慮してくれることはないだろう。

 だからこそ智は焦っていた。和哉は素直な性格だが、我慢強い方ではない。警察に自分の言葉を信じてもらえず疑われ続けたら、下手をしたら見てもいないことを見たと言ってしまいかねない。そんな危うさが和哉にはあった。

 何より、和哉は智の大事な友人だ。その親友が疑われているのに、何も出来ずにいるのは嫌だった。

 智に出来ることは限られている。それでも何もしないよりはましだ、とノートを持って立ち上がり、教室を後にした。


「友田先輩が、警察に連れて行かれたって……! 重要参考人って言われたみたいなの」

 秋元楓は狼狽えながら、親友の羽柴美優に抱きついた。美優は楓の背中を優しく撫でながら、どうしてそんなことに、と小さく呟く。

「友田先輩、支倉先輩の死は事故じゃないかって推理してたの。それを警察の人に話したら、何でか友田先輩が怪しいってことになっちゃったみたいなの」

 どうしよう、私が警察に話してみればって言ったからだ。

 そう言って、楓はぐす、と鼻をすする。泣いているのかもしれない。楓はすっかり混乱しているようで、上手く話せていないが、美優はこれまでの詳しい経緯を聞いていたので何となく話が繋がる気がした。

 花壇に残された足跡が、友田和哉と同じサイズのものだったこと。そのサイズが平均より大きいもので、和哉の他に足のサイズが合うものはほとんどいないこと。

 そして事件当日、一番最後に帰ったこと。

 警察としても、最初は和哉のことを少し怪しいと思っていた程度かもしれない。しかし、和哉自身が自分は犯人ではないという推理をしたことにより、逆に怪しく見えてしまったのだろう。

「状況証拠しかないんでしょう? それに、事件当日、楓が和哉先輩と一緒に帰ったなら、楓がアリバイを証明出来るんじゃない」

 死亡推定時刻には吹奏楽部で合奏をしていたと言っていたし、アリバイは完璧なように思える。

「美優ちゃん……」

 ありがとう、と言って楓が顔を上げる。その目は涙に潤んでいた。そして美優から離れると、楓は涙を拭い、「私、警察のところに行ってくる」と決意の言葉を口にした。

 楓の後ろ姿を見送って、美優は理科室へと足を運ぶ。窓際一番後ろの席で、小さなため息をこぼした。

 そうしてしばらくぼんやりした後、潮時かな、と小さく呟いたのだった。


 秋元楓は刑事の梅木に会いに来ていた。高校名と名前を名乗り、待つこと数分。やってきたのは梅木ではなく、いつも梅木と話を聞きに来ていた柳という刑事だった。

「うん、つまり秋元さんが言いたいのは、友田くんにはアリバイがあるってことなんだね」

「はい……! 支倉先輩が亡くなったって言っていた十八時から十九時は合奏中でしたし、部活動が終わって、帰る時は私が一緒でした」

「合奏中、友田くんが一度も音楽室を出なかった、って言い切れるかい」

 柳は意地悪ではなく、純粋に質問をしているようだった。

 楓は事件当日の合奏のことを思い出してみたが、はっきりとは思い出せなかった。何せ日数が経ち過ぎている。

 それに、合奏中に部員が席を立つのはよくあることだった。音楽室は飲食禁止なので、水分を摂りに行ったり、お手洗いに行くために席を立つことだってもちろんある。

 だから和哉が事件当日の合奏中、ずっと音楽室にいたかと問われると、はっきりとは答えられないのだった。

 素直な楓は、どうしても嘘が吐けなかった。

分かりません、と正直に答えると、刑事はその答えに納得したように頷いた。

「本当のことを言うとね、警察も困っているんだよ」

「え?」

「支倉くんの腕に残された手形の痣が、サイズ的に男のものであること。それから支倉くんが発見された花壇に残った足跡。二十四センチと二十七センチのものだったけれど、大きい方は関係者の中で一致するのが友田くんしかいない。それくらいしか怪しいところはない」

「じゃあどうして……!」

 楓は泣きたい気持ちになりながら、刑事に質問を投げかけた。

美優の言っていた通り、状況証拠しかないのだというのなら、和哉が捕まるには根拠が弱いように思える。まだ重要参考人だというだけで、警察に捕まった訳ではないのに、楓は混乱して正常な判断が出来なくなっていた。

「柳、ちょっといいか」

「はい。秋元さん、ちょっとごめんね」

 他の刑事に呼ばれて、柳がその場に立ち上がる。それから羽柴美優が? と驚いたような声を上げるので、楓も思わず顔を上げた。

「ああ。羽柴美優と名乗る少女が、梅木さんを訪ねて来ている。どうする? お前が預かるか?」

 その言葉に、楓は落ち込んでいた気持ちが浮上するのが分かった。

 美優ちゃんが来てくれた……!

 きっと楓一人では心細いだろうと思って、わざわざ会いに来てくれたに違いない。美優はそういう優しい子なのだ。

「用件は聞きましたか」

「ああ。どうやら自首をしに来たらしい。支倉圭太の事件に関わっている、と言っているようだ」

「えっ」

 楓は目の前が真っ暗になるような、そんな気がした。


「支倉くんの事件に関わっている、と言ったらしいけど、詳しい話を聞かせてくれるかい」

 梅木は興奮する自分を抑えながら、出来る限り優しい声で羽柴美優に問いかけた。相手は未成年だ。取り調べも慎重でなくてはならない。

「はい。事件当日、私は放課後屋上に呼び出されました。手紙に差出人はありませんでした」

 それは、以前話を聞いたときにも言っていたことだった。

「放課後、屋上に行くと、鍵が開いていました。屋上で待っていたのは、支倉先輩でした」

「…………その時点で、支倉くんと面識があったのかい」

「いえ……。でも、文化祭のコンテストのときに顔を合わせたことがあります。話したことはありませんでした」

「そうか。話を続けて」

 はい、と美優は呟いて、少しだけ俯く。伏し目がちにしていても、美少女だとはっきり分かった。長いまつ毛が少し震え、それから美優は再び目を上げる。

「告白を、されたんです。その……好きです、付き合ってください、みたいな」

「うん」

 この容姿ならば、あり得そうな話だ。面識のない人から告白されることも、よくあることだろう。

 相槌を打って話を促したつもりだったが、美優はしばらく黙り込んでしまった。どうしたの、と訊ねると、震える声でその、と言い淀む。

「告白を、お断りして……」

「うん」

「そしたら、その……」

 ひどく言いにくそうに、美優が口ごもる。その肩がかすかに震えていることに気がついて、まさか、と梅木は眉をひそめた。

「そのまま、自殺してしまった?」

「………………」

 はい、と答えた声は、小さく消え入りそうだった。

 そうだとしたら、支倉の腕に残された手形は何だったのか。小柄な美優は、あの大きな手の痣の持ち主ではないように思える。念のため美優に手を出して見せてもらうが、やはり支倉の遺体に残っていたものよりも小さかった。

 それに、花壇に残された足跡。あれも、複数人のものだった。以前美優の靴のサイズを訊いたが、それとも一致しないし、釈然としないところが多い。

「ごめんなさい、私……私のせいで人が死んでしまった、っていうことが怖くて、刑事さんに嘘を吐いて隠していました」

 何か罪に問われますか、と眉を下げて質問する美優に、問われないよ、と梅木は答える。

「もちろん真実を隠していたことも、嘘を吐いたことも褒められることじゃない。それでもこうして勇気を出して話に来てくれたことが大事なんだ」

 これから君に対する事情聴取が増えると思う。羽柴さんにとっては思い出すのも辛い内容かもしれないけれど、真相究明のために協力してほしい。

 梅木がそう言うと、美優はこくん、と小さく頷いた。その身体が小刻みに震えていたので、目の前で人が自殺したことは、この少女にとって相当なショックだったのだろうと考える。

 手形と靴跡。まだまだ調べなければいけないことは山積みで、煮え切らないところも多い。

それでも、美優の勇気ある告白により、支倉圭太が自殺だったという一つの真実が明らかになった。これは、事故か他殺だろうと考えていた警察には、大きな進展だった。

 でも、と梅木は美優の表情を盗み見る。しおらしい表情を浮かべ、俯いている少女の証言を、どのくらい信用していいものだろうか。

 これから事情聴取をしていく中で、嘘があったならば暴かれるだろう。警察はプロ。いくら相手が未成年とはいえ、それほど甘くはない。

 男の手形と二人分の足跡という残された謎が、梅木を慎重にさせていた。

 羽柴美優への事情聴取は長いものになる。そんな予感がしていた。



 放課後、屋上で待っています。

 そんな手紙を受け取ったのは、その日の朝のことだった。机の中に折り畳んだメモがそっと置かれていて、誰にも見られないようにそれを開くと、そのメッセージが書かれていたのだ。

 告白、かなぁ。

 少しだけ憂鬱な気分になりながら、羽柴美優はそのメモをスカートのポケットに仕舞い込んだ。

文化祭のミスコンに出場してからというもの、告白ラッシュが続いていた。クラスメイトの熱に圧されて出場したのだが、結果は優勝。学年問わず同じ学校の生徒から注目を浴びる結果となり、しまいには他校の生徒からも声をかけられる始末だ。

 人見知りで喋り下手な美優は、それが憂鬱で仕方なかった。まして告白など、してもらえるほどの価値が自分にあるとは思えない。

親友の秋元楓のようにいつも笑顔で可愛らしく、誰とでも仲良く話せるのなら話は別だが、そういうタイプになれないことは分かっていた。

 嫌だなぁ、とポケットの中のメモに触れながら、美優は静かに窓の外を眺める。

校庭には、もう予鈴が鳴っているというのに、堂々とのんびり歩く男子生徒の姿が見えた。きゃあ、智先輩だ! というクラスメイトの声に、その男は目線を上げ、首を傾げる。それから美優と一瞬目を合わせると、再び目を逸らし、玄関の方へと歩いて行ってしまった。

 あの調子ではきっと遅刻だろうな、と他人事のように考えて、一限目にある日本史の授業の準備をする。

憂鬱な気分は、なぜか少しだけ薄らいでいるような気がした。


 智を呼び出したのは、間違いなく男だった。靴箱に雑に入れられていたメモには名前が記されていなかったが、直感的にそう思った。

女子からの呼び出しならばもっと丁寧にメモが入れられているはずだし、そもそもルーズリーフの切れ端を使ったりはしないだろう。何度も女子からの告白を受けている智だからこそ分かることだが、どんなに丁寧に字が書かれていようとも、女からの呼び出しだとは思えなかった。

 それでも智が放課後の屋上へ向かったのは、呼び出し人が支倉圭太ではないか、と思ったからだ。

もしそうならば、ここ最近続いている地味な嫌がらせをやめるように言ってみようと思ったのだ。やめてくれ、と言ってみて駄目なら仕方がないが、黙って我慢してやる筋合いもない。

 もしも差出人が違ったならば、普通に用件を聞いて帰ってくればいいだけだ、と。その時は軽く考えていた。

「俺さぁ、羽柴ちゃんのことが好きなんだよね。付き合ってくれねぇ?」

 屋上に続く階段を登り切り、ドアを開けようとしたときだった。その告白の言葉が耳に飛び込んできたのは。

 羽柴、という名前には聞き覚えがある。確か、一年の羽柴美優という女性徒だ。

アイドルのように可愛らしい容姿をしていて、いつも二年の男子の間で話題になっている。女子にそこまで興味がない智ですら知っているのだから、相当有名な子なのだろう。

 そんな有名人に告白する猛者は誰なのか、と気になり、野暮なのは承知の上で屋上の扉を薄く開く。音を立てないようにそっと開けると、そこにいたのは支倉圭太だった。

 驚いて、声が出ない。いや、声を出してはいけない場面なのだが、それほどまでに驚いていた。

 智を呼び出したのは支倉ではないのか。支倉なのだとしたら、どうしてその場で羽柴美優に告白しているのか。

なぜ、とぐるぐる頭の中を巡る問いに応えるように、支倉が一瞬こちらを見た。目が合った瞬間、にやり、と笑みを浮かべる男の姿。その意味が分からず、智は見なかったふりをして帰ろうとドアを静かに閉めた。

「ごめんなさい。……私、支倉先輩とは付き合えません」

「…………、は?」

 振られると思っていなかったのだろうか。ひどく低い声が、扉の向こう側から聴こえてくる。

 その次の瞬間だった。ガシャン、と大きな音がして、女子の悲鳴のようなものが耳に飛び込んでくる。

 慌てて智が屋上の扉を開けると、美優の上に馬乗りになり、ブラウスのボタンに手をかける支倉の姿。一瞬で頭に血がのぼるのが分かった。

「何してんだよっ!」

 いつものんびりとしていると言われる智からは想像もできないほど素早く動き、支倉の腕を思い切り掴み上げる。力が強くて押さえつけることは出来ないが、どうにか美優の上から退かすことが出来た。

美優は丸い目を大きく見開いて、大粒の涙を浮かべている。ガタガタと震えているのが横目でも分かって、さらに怒りが増した気がした。

「見せつけてやろうと思ったんだよ! お前に! 俺が一番だって!」

「は?」

「ミスコンで一位だったこいつが彼女になれば、お前より俺の方が上だってことになる。もう二位なんて誰にも呼ばせねぇ!」

「そんなどうでもいい理由で襲ったのかよ!」

 ぐぐ、と掴んだ腕に力を込める。痣になるほど強く握っているせいで、智の指先も痺れてきたが、絶対に離したりはしない。震えている美優の前で、みすみすこいつを自由にさせてやるものか。

ぽた、と視界の端で涙がこぼれ落ちるのが分かった。その瞬間に、自分の中で何かがぷつんと音を立てて切れた。

 死ねよ、と思わず溢れた言葉に、美優が息を飲む。支倉は何も言わずに身体の力を抜いた。智はこれ幸いと美優から距離を取らせる。支倉はされるがままになっていたが、不意にはははっと笑みをこぼしてみせた。

「なぁ、自殺教唆って知ってるか?」

「は?」

「人を自殺するように唆す。これで俺が自殺未遂をすれば、お前は犯罪者だ」

 ぐい、と思い切り腕を引かれて、屋上の床に転がる。同時に離してしまった支倉の手を再び掴もうと起き上がるが、支倉は屋上のフェンスに足をかけていた。

「……………やめて」

 小さな声が、制止する。

 お願い、やめて、あなたと付き合えばいいなら、そうするから、やめて、と。

 何が起こったか、智には分からないままだった。フェンスを乗り越え、屋上の端に支倉が降り立つ。

「安心しろよ。この高さじゃ飛び降りても死んだりしねぇから。ちょっと骨が折れて、内臓が潰れるだけだ」

「っ、や、やめて、お願い」

「俺はさぁ、お前を社会的に殺せるなら何だってするよ、有馬智」

 は? と智が問いかけるのと、同時だった。

 ふいに視界から支倉の姿が消える。そして永遠にも感じるような長い時間の後、ドサッと嫌な音が響いた。


「せ、せんぱ…………、さとし、せんぱい」

 名前を呼ぶのが、精一杯だった。

 親友である秋元楓が、智先輩と呼んでいるのを聞いていたせいもあるかもしれない。今さっき、支倉の口から有馬智というフルネームを聞いていたのに、苗字が頭に思い浮かばなかったのは、それほど混乱しているからだろう。

 震える声でもう一度智先輩、と呼ぶと、智はゆっくり振り返り、大丈夫? と美優に問いかけた。

 こくこくと震えながら頷くと、のそりと歩いてきた智が、ちょっとごめんね、と言いながら美優の胸元に手を伸ばす。驚いて固まった美優に、優しい指先がブラウスのボタンを留め直してくれた。

「怪我は?」

「な、ないです……智先輩は」

「俺も大丈夫」

 その言葉を聞いて、少しだけ身体から力が抜けるのが分かった。それから、ハッとして救急車、と呟く。

 智も思い出したように、ちょっと待って、と言って、フェンスに足をかけた。落ちないように慎重にフェンスを乗り越えて、下を覗き込む。

「智、先輩……?」

 美優がためらいがちに名前を呼ぶと、智は無表情で振り向いた。

「動かない……。死んでる、なんてこと……」

 ある訳ないよな、と自分に言い聞かせるように智が呟く。美優もおそるおそるフェンスの向こう側を覗き込むと、高さにくらっと目眩がした。そして飛び込んでくる、人の形をした影と赤い血溜まり。

「…………っ!」

 死んでいる、どうしてか確信的にそう思った。

 血の気が引いていく。それと同時に、美優はどこか冷静な頭で智に呼びかけた。

「智先輩……。今日、先輩がここにいることを知ってるのって、」

「俺だけだよ」

「私も、誰にも言わずに来ました」

 しばしの沈黙。それから美優は靴を履き替えましょう、と言った。

「え?」

 アクシデントの最中の、後輩からの思いもよらぬ一言に、智は間の抜けた声を出す。美優の言っている言葉の意味が分からなかったのだろう。

 靴を履き替えて、支倉先輩の……生死を確認しないと、と美優が呟く。靴を履き替える、という意味がまだ理解できなかったらしい。智がどういうこと、と訊ね、美優は泣き笑いを浮かべながら答えた。

「だって……智先輩が掴んだ腕の跡がある。……きっと殺人だと思われます。それなら現場の足跡は、私達のものじゃない方がいいでしょう?」

 くらり、と目眩がしたのだろう。よろけた智を慌てて抱き止めるが、支え切れずに尻餅をついた。

「ごめん、大丈夫?」

「…………絶対、大丈夫ですから」

「えっ?」

「自殺教唆なんかじゃない。殺人でもない。これは、支倉先輩の自殺です」

「…………」

 何も言わない智に、美優は言葉を続ける。

「智先輩が私を守ってくれたみたいに……、今度は私が先輩を守るから」

 智の顔が、夕焼けに滲んでいく。堪え切れなくなった涙がこぼれ落ちていった。震える両手で智の手を握り、それを涙が濡らしていく。

「だからお願い、先輩。……自首しないで」

 あなたを犯罪者にはさせない。私が、絶対に。

 強い決意と共に紡いだ言葉に、智が目を閉じる。そうしてしばらく黙っていたけれど、次に目を開けたときには、覚悟の光が灯っていた。

 二人の間に芽生えたこの気持ちを、恋と呼べたらどんなに楽だっただろう。

 愛と呼べたなら、どんなに幸せだっただろう。

 それでも二人はこの気持ちを、罪と呼んだ。


 靴を持ってきたのは美優だった。

智の靴のサイズを訊ね、それとは違う誰かのものを持ってきたのだ。学校指定のローファーは智のものよりも少しだけ大きくて、歩きにくい。

しかし美優はもっと歩きにくそうで、歩くたびに、ぱか、ぱか、と踵が脱げる音がする。美優は背が低いので、足も小さいのかもしれない。こんなときなのに、可愛いな、と思った。現実逃避をしているのかもしれなかった。

 二人とも無言だった。中庭に着く頃にはすっかり陽が落ちていて、そこに人影があることは、あると知っていなければ気づかないほど暗かった。

「…………死んでる」

「…………はい」

 知っていたかのように、美優が頷く。屋上の遠目から見てもすごい出血量だったので、当然だろう。支倉の死体は、頭が割れてとても見られたものではなかった。

屋上から飛び降りても死なない、とどうして支倉は思ったのだろう。土がクッションになると思ったのだろうか。実際は、花壇のレンガに頭をぶつけて死んでしまったわけだが。

「…………戻りましょうか」

 美優が小さな声で呟く。むせかえるような血の匂いに智も耐え切れなくなっていたところだったので、うん、と頷いた。

 校舎に戻ると美優はローファーに付いた土を落として、またどこかに戻しに行った。智は結局それが誰のものか知ることはなかった。

「今日のことは、」

 戻ってきた美優に声をかけると、智の代わりに美優が言葉を続ける。

「二人の秘密、です」

「うん」

「もし美優に連絡を取りたくなったらどうしたらいい」

 何も考えずに名前で呼んでしまってから、しまった、と思う。

しかし美優は気にした様子もなく、こてん、と首を傾げる。

「連絡先を交換したら……」

「俺達が繋がっているって、証拠が残らない方がいいでしょ」

「……それなら、」

 美優は小さな声で提案する。それに智が頷いて、秘密の関係が出来上がった。

 互いの数学のノートの真っ白なページに、インクのないボールペンでメッセージを書く。うっすらと跡が残るはずなので、目を凝らして見れば読めるはずだ。そうして読み終えたなら、そのページを板書に使ってしまえば、証拠は残らない。

それを、理科室の窓際一番後ろの席に残し、交互に取りに行く。この学校は一クラスの生徒数が少なく、一番後ろの席まで使うことはまずないので、安心して置いておける。もし見つかってしまったとしても、メッセージの書かれたページは一見ただの白紙なので問題ない。

 そうして二人は秘密のやりとりをすることにした。

 校内で目が合っても、他人のふりをする。それでも心は繋がっている。そんな奇妙な二人の関係を、人は共犯と呼ぶだろう。しかしその言葉だけでは語れない何かが、二人の間には芽生えていた。



 羽柴美優が警察の事情聴取に呼ばれるようになってから、一週間が経った。家と警察の往復をしているようなので、任意のものなのだろうが、美優は素直に従っているらしい。

 有馬智は、この一週間ずっと落ち着かない気持ちで過ごしていた。学校には通っている。しかし、噂で美優の話題が出るたびに、思わず反応してしまうくらいには落ち着きがなくなっていた。

 それは、美優が自分のことを話してしまうのではないか、という不安からくるものではない。

 むしろ智は、早く真実を話してしまえばいいのに、とすら思っていた。真実を隠し続ければ、美優が苦しむばかりだ。共犯であるはずの智は、何の罰も受けずにこうしていつも通りの日常を送っているというのに。

 私が智先輩を守りますから。智先輩は、絶対に自首しないでくださいね。約束です。

 二人だけの秘密のやりとり。何度この言葉をかけられたか分からない。全部警察に話そう、という智と、絶対にダメです、という美優。二人の意見が交わることはなかった。

 そもそも美優が警察に事情聴取をされているのだって、元はと言えば智が原因なのだ。秘密のノートに、智が書き込んだ一言。

 和哉が疑われているみたい、どうしよう。

 その言葉が、美優を動かしてしまったのだ。

私が何とかしますから、智先輩は私を信じて動かず待っていてください、とノートには書かれていた。しかし、それは智に自首をするな、と暗に言っているようなものであり、結局智は待つことしか出来ないのだ。

 美優が智を守ろうとしてくれているのは、智にも充分伝わっていた。なぜなら支倉圭太の死に直接関わりがあるのは、美優ではなく、智なのだから。智の一言で、否、智を追い込むためだけに、支倉は屋上から飛び降りたのだ。美優は巻き込まれただけで、何一つ悪いことはしていない。

 強いて言うならば、足跡の偽装をしたことくらいだろう。後から聞いた話によると、吹奏楽部員の靴を借りてきたらしい。誰のものかまでは訊かなかったが、友人の警察に呼ばれる頻度の高さから、智は何となくあれが誰の靴だったのか、だいぶ初期の段階から察していた。

 それでもこれまで何も言わなかったのは、美優の行いが全て智を守るためのものだったからに他ならない。現に今も、警察による聴取が行われているが、美優は自分が現場にいたことを語っただけで、智のことについては何も話していないようだ。

 それが智には耐えられなかった。美優がたった一人で真実を抱え込んでいること、そして厳しいであろう警察の追及に耐えている、という事実が、智を苦しめている。

 気が付けば、自然と警察署に足を運んでいた。どうかしましたか、という警察官の声に、足がすくむ。

 本当にこれでいいのだろうか。美優はきっと、こんなことは望んでいない。

 全身全霊をかけて智を守ろうとしている、美優の気持ちを無碍にすることになる。智のしようとしていることは、自分が楽になるためだけの行為ではないのか。

 立ち止まったまま何も言えない智に、警官が心配の声をかけてくれる。どうしよう、と悩んでいたその時だ。

 それは、偶然だった。

 警察署の奥から歩いてくる小柄な人影。長くふわふわの栗色の髪に、整った顔立ち。可愛らしい顔には疲れが滲んでいて、智の胸の奥がぎゅっと悲鳴を上げる気がした。

 ふいに、視線が交わる。驚いたような表情で美優が立ち止まった。どうして、とその目が訴えていたが、その瞬間、智の覚悟はもう決まっていた。

「どうしました? 大丈夫ですか」

 入り口に立っていた警察官が、もう一度智に問いかける。智はふっと笑みを浮かべ、そしてこう言った。

「俺が支倉圭太を殺しました。全部話しますから、羽柴美優を解放してください。彼女は関係ありません」


「智先輩と、……美優ちゃんだったんですって」

「うん」

「私と友田先輩の靴を使ったのも、二人なんですよ」

「…………うん」

 遠くで吹奏楽部の練習する音が聴こえる。友田和哉と秋元楓は、部活動をサボっていた。

 真っ暗な教室で二人きり。お通夜のような空気の漂う空間で、二人はぽつりぽつりと言葉を交わす。

「自殺教唆って言うんだってな」

 智の罪、と和哉が呟く。楓は何も答えなかった。殺人みたいなものじゃないですか、と言いかけた言葉を飲み込んだのは、有馬智が和哉の親友だったからだ。

 親友、だった。楓と美優も、親友だと思っていた。しかし、裏切られた。誰よりも心を開き、何でも相談していた友人は、楓に罪を被せようとしたのだ。

「嫌われていたのかな、私」

 仲良しだと思っていたのは自分だけで、もしかしたらずっと、嫌われていたのかもしれない。そう考えると、この世の全てが信用出来なくなるような、そんな恐怖に駆られた。

「…………違うんじゃないかな」

「えっ?」

「俺は羽柴さんのことよく知らないけど、違うと思うよ」

 言葉の続きが聞きたくて、じっとその目を見つめると、和哉は困ったように眉を下げて笑った。

「想像だけどさ、秋元のこと、信じてたんじゃないかな」

「信じて……どういうことですか」

「秋元なら疑われないって。周りの友達からも信じてもらえるって、……そう信じてたんじゃないかなって俺は思うけど」

 想像だけどね、ともう一度和哉が繰り返す。

 でも、それは素敵な想像だ。嫌われていると考えるより、ずっといい。

楓の人柄を誰よりも知っている美優が、楓ならば疑われることがないだろうと信じてくれた。そうだったらいいな、と楓は少しだけ泣きそうになりながら、そっと目を閉じる。

きっともう、本人に確認することはないだろう。だけど、和哉の言葉のおかげで、楓は救われたのだ。

「友田先輩」

「…………ん?」

 静かな声が教室に響く。

 楓は勇気を振り絞り、言葉を紡いだ。

「前に言ってた、事件が解決したら聞いてほしいこと。あれ、今聞きたいです」

「今? 真っ暗だし、そんな雰囲気じゃないし、後でもいいけど」

「今がいいんです」

 繰り返した言葉に、和哉がしばらく沈黙する。それから暗闇の中で二人の視線が交わった。

「俺、秋元のことが好きだよ」

「……………………はい」

「秋元の返事、聞かせて」

 優しい声が、楓に問いかける。ずっと聞きたかった言葉。だけど、今はどうしようもなく胸が痛い。

和哉の愛情で、どうかこの心の傷がふさがりますように。そう願いながら、楓は答えを口にする。

「私も、……友田先輩のことが好きです」

 告白には似つかわしくない、暗いムードだった。それでもよかった。

楓は暗い教室の中、手探りで和哉の手を探し当てると、そっと指を絡める。握り返された手に安堵して、楓は小さく呟いた。

「いつか……」

「ん?」

「美優ちゃんとも仲直り出来たらいいな」

「…………出来るよ、楓なら」

 初めて呼ばれた名前。その響きが優しかったせいだろうか。じわりと浮かんだ涙を堪えながら、うん、と楓は頷いた。

 暗闇の中、優しい空気が二人を包んでいた。


 美優はひとりぼっちだった。

 親友を裏切った罰だろうか。それとも、罪を隠そうとしたからか。

 どちらでも構わない、と美優は思っていた。ひとりぼっちは寂しいが、自業自得なのだから。入学してからずっと仲良くしてくれていた秋元楓と、その好きな人に罪を被せようとし、挙句素知らぬ顔で美優は安全地帯にいたのだ。

 教室の中は居心地が悪くて、授業をサボって抜け出してきた。きっと美優がいなくても困る人はいないだろう。

 理科室は、今日も使われていなかった。定位置である窓際一番後ろの席に座ると、じわりと涙が込み上げてくる。

「智先輩…………」

 守りたかった人。身体を張って美優を守ってくれた、大事な人。美優に何も言わずに自首してしまった人。

 智が美優を守ってくれたように、美優も智を守りたかった。たった一人の親友を騙して、裏切って、そうまでしても守りたかったのだ。ただそれだけなのに。

 ぽつりと涙が溢れた。机を濡らしたそれを慌てて手で拭うと、視界に入ってくる一冊のノート。

机の中から顔を出しているそれは、見覚えのあるものだった。

「智先輩のノート……なんでこんなところに」

 小さく呟きながら取り出すと、それは数学のノートだった。

心臓が、どくんと大きく音を立てる。震える手でページをめくっていくと、最後のページには智の字で美優への手紙が綴られていた。

『美優へ

 守ってくれてありがとう。待っているように言われたけど、ごめん、だめだった。

美優一人に苦しい思いをさせて、自分だけ守られているなんて、そんなこと俺には出来なかったよ。

 あの日、美優は俺が守ってくれた、って感謝してくれてたけど、あの日からずっと俺は美優に守られていた。辛い思いをいっぱいさせてごめん。それから、守ってくれてありがとう。

 俺、たぶん、美優のことが』

 そこで手紙は終わっていた。

「最後まで書いてよぉ……」

 きっとそこには、美優が一番欲しかった言葉が書かれていたはずなのに。

 智からのメッセージに涙が止まらない。ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、美優は机に突っ伏して泣きじゃくった。

 どれくらいの時間泣いていただろうか。泣き疲れた美優が、腫れたまぶたを擦り顔を上げると、手紙の最後に凹凸ができていることに気付く。

慌ててシャープペンシルを取り出し、そこに薄く色付けていく。浮かび上がってきた文字は。

『俺、たぶん、美優のことが 好きだよ』

 美優が欲しかった言葉。手紙の、続き。

 ぼろぼろと涙が溢れ出す。

 私だよ、私のセリフなんだよ。全部、全部。

守ってくれてありがとう、助けてくれてありがとう、支えてくれてありがとう。

どんなにありがとうを言っても足りない。

あなたがいてくれたなら、どんなに辛いことにも耐えられた。だから、自首なんてしなくてよかったのに。

 そんな風に考えてみても、智はもういない。美優を助けるために、警察に自首をしてしまったのだから。

「うわぁぁぁぁん、智先輩、智先輩っ……!」

 美優は泣きながらノートにすがりつく。あるはずのない智の温もりを探すように、ぎゅっとノートを抱きしめながら、いつまでも涙を流し続けた。



 二年後。

 有馬智は、支倉圭太の事件について、自殺教唆の罪に問われた。しかし執行猶予がついたため、智は罰を受けることのないまま生活している。

智は今、別の街の本屋でアルバイトをしていた。高校は通えなくなって中退した。ひどい中傷が続いていたし、何より共犯関係にあった羽柴美優を守るためには、距離を置くことが一番だろうと考えたからだ。

母は泣いていた。家にまで誹謗中傷の張り紙をされて、引っ越しを余儀なくされた。ごめんね、と謝ると、智は悪くないわよ、と母は味方をしてくれた。

死ね、という言葉を使ったのは悪いことだ。もう二度と使っちゃいけないよ、と刑事の梅木にも言われた。

しかし、自殺教唆というには、あまりに支倉の心が歪んでいた。

「有馬くんを陥れるために、自殺未遂をはかる。それほどプライドが高かったのかな」

理解はできないけれど、納得はした、と梅木は言った。

智は梅木に一つだけ嘘を吐いていた。支倉の手首に残された手形の痣。

支倉が飛び降りたのを止めようとして掴んだけれど、力が足りずに落下してしまった、と説明したのだ。

どうしても美優を巻き込みたくなかった。すでに自首をしていた美優は、支倉に告白された後、智と支倉が揉めたその現場に居合わせただけ。他人の靴を借りることも智が提案したことにした。

嘘を吐いたことは心苦しいが、これで美優が守れるのならば、それでよかった。

結局その後美優と顔を合わせることは出来なかったが、それくらいの罰は当然だろうと智は考えている。何せ自分は、人を一人自殺に追い込んでしまったのだから。

 からんからん、と店の入り口に設置された鈴が鳴り、客がやってきた。

「いらっしゃいませ」

 店の端にある専門書コーナーからは客の姿が見えなかったが、智はやわらかな声で挨拶をする。そしていつ会計に来てもいいようにレジへと移動すると、長い栗色の髪をした少女がやって来た。帽子を目深に被っていて顔は見えないけれど、二年前に恋をした女の子と同じ髪の色だった。懐かしい気持ちになりながら、少女がレジカウンターに置いた一冊のノートを見て、今度こそ智は息を飲んだ。

「すみません、このノートが欲しいんですけど」

 やわらかい、鈴の音のような声。そして有馬智、と書かれたノート。

「…………っ!」

 風でページが捲られていく。

 見覚えのある手紙のページが、さらにめくれて、もう一枚。

 智先輩へ。丸みを帯びた字で書かれた、その続きは。

『智先輩へ

 私もたぶん、智先輩のことが、    』



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[良い点] 冒頭部分が上手いです。真相を知るまでは、和哉と楓のことを指していると思っていました。 [気になる点] 最初の生徒指導室のシーンの切り替えがよくわからなかったので何度も読み返してやっと和哉か…
[良い点]  誰かを守りたいという想いから生まれてしまった罪でした。そこに悪意はなかったのでしょう。  一連の行動理由が親友の楓を裏切ったのではなく信じていたからこそ、そしてそれを誰にも伝えなかったと…
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