四 社長令嬢の弱音
体に仰々しい機械を繋げられて、苦痛に満ちた定期検診を受けること一時間。
ようやく解放されて家路についた時には、西の空が夕日で紅く染まりきっていた。
「これなら明日は天気にも恵まれそうでござる、なっと!」
手にした斧を勢いよく振り下ろすと、土台にしている切り株の上の木材が小気味よい音を立てて割れた。
夕暮れの神埼邸に、拙者が薪を割り続ける音が一定の調子で響き続ける。
世界的な大企業の令嬢なのだから、さぞかし豪奢な家で生活をしているのだろう。
そんな世間一般の予想に反して、殿は郊外にある庭付きの一軒家に、母君と共に住まわれている。
目聡い者なら使われている木材の質の良さや、手入れの行き届いた庭木の価値に気がつくのだろう。
しかし、一見すれば、何の変哲もない木造平屋建ての日本家屋。
ここに、拙者は殿の付き人として居候させてもらっている。
そして、拙者の機械嫌いの体質に気を遣っていただいているせいで、この家には家電と呼ばれる物が極端に少ない。
その代わり、掃除や洗濯、炊事など、家電を使えば楽できるような仕事は全て拙者が行うことになっていた。
まあ、流石に殿や母君の下着の類まで拙者がどうこうするわけにはいかんので、拙者の部屋から一番遠いところに必要最低限の家電はまとめておいてあるのだが。
お二方に不便をかけるわけにはいかない。
こうして風呂を沸かすための薪を割ることもまた、拙者が果たすべき仕事の一つなのであった。
春一番によって天気が安定しなかったのは、少し前のこと。
しばらくは晴天が続くそうなので、このまま一気にまとまった数の薪を作ってしまおう。
そう意気込んで手斧を握り直し、腕を振り上げた時だった。
「寒太郎、ちょっといいか」
「おや、殿。どうかなさったので?」
見ればちょうど、殿がこちらへ歩いてこられていた。
すぐ傍の縁側から声をかけるのではなく、玄関口からわざわざ外履きになって出てきているところからすると、ただ話があるだけではないのであろう。
「薪割りは、後じゃ駄目かな? これ、付き合ってほしいんだ」
そう言って拙者に竹刀を差し出す殿。
自らも竹刀を携え、帰宅した時の制服から、動きの妨げにならない胴着姿に着替えられていた。
侍を名乗る拙者は勿論だが、主君である殿もまた剣の道を嗜んでおられる。
付き合うとは、要するに、剣を振って体を動かしたいということ。
「心得た。お付き合いさせていただくでござる」
切り株に手斧を置いて竹刀を受け取り、拙者は屈んだ姿勢から立ち上がる。
「……っ! ……はっ!」
しばらくの間、殿は何も口にすることなく、構えた拙者に向かってひたすらに竹刀を打ち込んでいた。
剣が空を切る音と、竹刀と竹刀がぶつかる乾いた音、殿の鋭い呼気の音が、庭先で繰り返し響く。
相変わらず、美しく、洗練された動きでござるなあ。
その惚れ惚れするような太刀筋を見て、受け止める拙者は感心する。
本来なら防具も着けずに力一杯竹刀を振るうなど有り得ないことだ。
だが、拙者は人並み外れて頑丈なので、もしも捌き損ねて体に一撃もらってもまるで問題はない。
昔から、殿が自らこの手の申し出をしてくるときは、心中に何かを抱えられている時だ。
それを受け止めるのも、拙者の勤めというか、役得である。
「私は……っ!」
少し息がはずみ、頬が心なしか上気しはじめた頃、殿はようやく口を開いた。
一度、大きく息を吸うための間が空いて。
「明日、上手く話せるかなぁ!」
庭全体に響き渡った声と同時に打ち込まれたのは、先ほどまでとは異なる乱雑な一撃。
明らかに力んだことがわかるその重い手応えに、拙者は察する。
「なるほど。不安なのでござるか」
「まあ、ねぇ!」
大上段の構えから再び振り下ろされる、力任せな一振り。
怒りか。それとも焦りか。
この一太刀が殿の胸中を表すなら、その真意は一体、何なのだろうか。
「父上が、来られるから?」
「それだけじゃ、なぁい!」
先ほどまでの美しい動きとは全く違う、子供が癇癪を起こした時のような剣の振りだ。
ふとした拍子に受け止め損なってしまいそうで、とても危なっかしい。
「うちの学校に来る子は、みんな優秀だろ。私なんかが代表で話していいのか、いつも怖くなる」
剣を中段に構えたまま、殿が動きを止めて、ぼそぼそと呟いた。
「恥かくの、やだよお」
目を伏せて、口先を尖らせた顔でそんなことをぼやく殿。
失礼を承知で、拙者はこう思う。
こういうときの我が殿、実に可愛い。
「そういうことでござったか」
長い付き合いだ。
拙者は自分の仕える人物が、決して超人でもなければ天才でもないことを知っている。
殿、神埼統真という人間に人より秀でたところがあるとするならば、それはひとえに、本人の努力の賜物なのだ。
己の弱さを知り、だからこそ強くあろうとする。
そんな克己の心が、殿を気高く、美しく見せる。
では、悩める我が主君に、何を進言すればいいのか。
「拙者は、いつもの殿がいいでござるよ」
少し考え、素直に伝えることが一番であろうという結論に至った。
「何の苦労もせず、小器用になんでもできてしまう人間の、上から目線の説教など退屈の極み。できない者の辛さを知り、共に学ぼうと呼びかける殿の姿こそ、新たな学び舎に足を踏み入れる者達には心強く見えるはずでござる」
「…………そうかな」
「そうでござるよ」
「じゃ、そうする」
ふうっと、息を吐いて、殿が構えを解いた。
これで終わり、ということでござろうな。
顔を見る限り、少し気が晴れたようではあるのだが。
「明日の殿のお話、楽しみにしているでござるよ」
「おい、余計なこと言うな。また緊張しちゃうだろ」
しまった。
励ますつもりが失言だったらしい。
殿が恨めしげに拙者を睨んだところ。
「二人ともー、そろそろご飯にしなーい? お母さん、お腹すいちゃったー」
縁側の向こう、家の中からふわふわとした声が飛んできた。
殿の母君のものだ。
「かしこまりました! すぐに支度しますので、少々お待ちを!」
「私も、お腹減ったな。かんたろ、ここの片付けは私がやるから。台所、行ってきなよ」
「かたじけない。お任せするでござる」
空を見ればもう、夕暮れの赤は紫から黒へと移ろうとしていた。
薪割りはまた明日でもいいだろう。
拙者は急いで夕飯の支度に向かうことにした。
主君だからすごい人である必要はなくて、侍従だからといって卑屈である必要もない。
支え支えられ、そういう関係の二人です。