二十 十字に開く禁忌の扉
「そんな……駄目だ! 嫌だ! 殿! 殿! 統真! 頼む! こんな……ところで」
抱きかかえた殿の髪の間から、ぬるりと生暖かい血が流れ出しているのが分かった。
腕の中にある体は、細く、小さい。
内に秘めた何かが抜け落ちてしまったかのように。
微かに、ほんとうに弱く、殿は息をしていた。
死んではいない。生きている。
一呼吸、一呼吸するたびに、頭の中に広がっていく。
白く、冷たい何かが、世界を蝕むように膨れ上がり始めていた。
『ごめんなさい! 寒太郎くん、遅くなりました!』
耳元から聞こえてきたはずの声が、とても遠くに感じた。
これは、平殿からの通信か。
異常事態に駆けつけてくださったのだろう。
本来なら感謝すべきはずなのに。
遅すぎた。
間に合わなかった。
食いしばった奥歯が、軋む。
「いってぇ……どっから撃ってきやがった? やっぱあの嬢ちゃん、いい腕してるぜ」
少し離れたところでそんなことをぼやく伊達の耳元から、血が流れ出していた。
平殿の狙撃が掠めたのだろう。
本当なら、殿は直接殴り飛ばされていたはずだ。
おかげで間一髪。首の皮一枚、最悪の事態は避けられた。
何が、守るだ。
何が、誰も傷つけないだ。
拙者だけなら、殿の命は無くなっていたんじゃないか。
「おい! 寒太郎、統真ちゃんは? 無事か!」
遅れて駆け寄ってきた鶴城殿が拙者と、腕の中の殿を見比べて血相を変えた。
答えられるわけがない。
自分が不甲斐ないせいでこうなったなどと、口が裂けても言えるものか。
「鶴城殿……殿をお願いします」
「は? おい! 寒太郎!」
「いいから! さっさと行ってくれ! できるだけ、遠くへ!」
意識のない殿の体を鶴城殿に渡して、立ち上がった。
これ以上は、堪えきれそうにない。
そこに居る伊達の存在が、自分を狂わせていくのがわかった。
限界だ。
もう、どうにもならん。
「う、ぐ、はっ、あ、あああああああああああああああああああああああああ!」
抑えられない。
とめどなく溢れてくる。
罅割れた壁の隙間から漏れ出した白い「それ」は、止まらなかった。砕け、境目のなくなった感情が、際限なく膨らんでいく。
『解放潜在能力が十パーセントを超過しました。危険域に達しています』
ばぎん、と、顔の前で仮面が縦に開く音が聞こえた。
十文字に展開していく視界に青白い光が満ちていく。
塗り潰されていく!
「駄目だ! 撤退すんぞ平! こっちきて手を貸せ!」
殿を担いで駆け出した鶴城殿の姿を確認して、安堵する。
もう自分は止まれそうにないから。
何をしでかすか、わからないから。
「なんだ、お前。薬でもキメたのか?」
こちらを見つめている伊達から感じるのは、不快感というにはあまりにも激烈な感情だった。
憎悪、怒り、殺意。熱く、重く、粘ついている。
なのに、どうしてだ。
どうして拙者は、あの男ではなく、奴が纏う機械の部分にこれほどまでの負の感情を抱くのであろうか。
殿を傷つけられた事実すらも塗り潰して、あれを許してはならないと訴えかけてくる。
この感覚は、一体、なんだ?
まるで、自分が、自分ではなくなっていくかのようだ。
「ただ……今は、これで、ちょうどいい」
荒々しく暴力的な衝動に、身を任せてしまっても構わないだろう。
さあ、どうしてくれようか。
ちょこまかと動き回られるのは鬱陶しい。
手っ取り早く、自由を奪う方法を考えよう。
「あれを使うか」
視線を上げると、夜空を厚い雲が覆っているのが見えた。
今の自分なら、あの雲を使えるだろうと思えた。
「なにして…………って、おいおいおい、冗談だろ」
空にかざした拙者の手から、白く輝く光の柱が勢いよく伸びたのを見て、伊達の顔色が変わった。
にやけ面が消えたところからすると、何が起きているか察したらしい。
その勘の良ささえ、今は鬱陶しいばかりだが。
「報いを受けろ」
上空の雲は小さな水の粒だ。
急激に冷やされれば水の量は増え、集まり、粒の大きさが膨らむ。
重力に抗うことのできない大きさになれば、あとは落ちるだけ。
ぽつり、ぽつり、と降りだした雨は、ぽつぽつ、ぱらぱら、ぱぱぱぱぱ、と瞬く間に勢いを強めていった。
雨の量だけなら、小雨程度。
だが、この雨が全て拙者の武器になるのなら、どうか?
「こりゃあ、ぼさっとしてる暇はなさそうだな」
舌打ち交じりに言った伊達が纏った装甲から、甲高い駆動音が漏れ始める。
装甲と装甲を繋ぐ管のような部分が赤く発光しだしたその様子は、さっきも見た。
出力を上げているのだ。
あれが始まると、動きが一段と速まるのだったな。
「悪いが、とっとと本丸を叩かせてもらうぜ」
言うが早いか、伊達は拙者から視線を外して、一気に駆け出した。
自分の不利を悟って社長達のいる施設へと向かうつもりらしい。
しかし。
「逃がすと思うか?」
「!」
わざわざ走って追う必要はもうない。
伊達の進行方向に手をかざして、意識を集中させる。
ただそれだけの動作で生まれた無数の氷の刃。
地面から斜めに伸びたそれらが、伊達の行く手を一瞬で阻む。
意表を突かれたらしい伊達だったが、それでも反応して後ろに飛び退いた。
まだ、終わりじゃないからな。
「なん、っだよ! こりゃあ!」
拙者の拳を握る動作に合わせて、空気中に発生した大小まばらな氷の礫が伊達に向かって一気に収束する。
全ての方位から一瞬で迫る礫を伊達は凄まじい反射神経で躱し、装甲で弾いて対処しようと試みるが、限界はあったようだ。
凌ぎ切れなかった氷塊が容赦なくその肌を叩き、切り裂き、蹂躙していく。
「ぐっ、ああ? くっそ! ざけんなぁ! あ、っがあああ!」
一度や二度で済ませはしない。
拙者が拳を握りなおすたびに砕けた氷が再び集まって、何度も何度も伊達を襲い続ける。
繰り返せば繰り返すほど、集まる氷の量と鋭さは増していく。
礫は刃に変わり、伊達から逃げ場を奪っていく。
例えるなら、縦横無尽。いや。
「十王霧刃。逃がしはしない」
お前は、ここで終われ。伊達誠太。
「言い残すことはあるか、外道」
「舐めてんじゃねえぞ、ガキが!」
冷気と水分を集結させ、両手の内に生み出した二刀の氷刃を握って肉薄した拙者と、血にまみれ、鬼のような形相の伊達の視線が交わった。
ここからは殺し合いだ。
お互いの殺意を剝き出しにし、拙者と伊達は激突する。
拙者が振り下ろした刃を、伊達は手の甲の装甲で迎え撃つ。
金属に打ち付けられた氷の刃はそれだけで砕け散るが、構うものか。
今、この場には材料などいくらでもある。
折れたなら次の刃を作り出せばいい。
一振り、また一振りと、拙者は無尽蔵に生み出すことのできる白刃で、伊達の喉元を、胴を、頭を狙い続ける。
「えげつねえっ、こと、しやがるなあ、おい!」
「どうした? そっちは随分、口が回らなくなってきたな」
拙者が右手で振るった刃を払いのけた後、ほんの一呼吸の間、伊達の動きに隙が生まれた。
即座に突き出した左手の刃が、とうとう伊達の装甲の間に滑り込み、肩口を貫く。
「ぐ、おおおっ!」
手応えあり。
しかし、苦悶の声を漏らしながら伊達が顔を歪めたのは一瞬のこと。
すぐさま手刀で自らを刺す氷の刃を叩き折った。
そればかりか、刃の切っ先が突き刺さったままなのも構うことなく、逆にこちらを殴りつけてくる。
「がああああっ!」
獣のように咆哮しながら、伊達は全身を左右に繰り返し大きく振って次から次に拳を叩きこんできた。
凄まじい気迫。
この圧迫感だけでも、人の意識を奪いそうな勢いだ。
「スカした顔、してんじゃねえ!」
それでも倒れない拙者に業を煮やしたのか、下からこちらの腹に抉りこむようにして振り上げられた一撃。
本来なら、機械の鎧によって増強された膂力で、拙者を上空にまで吹き飛ばすことが狙いだったのだろう。
「お前……っ!」
しかし、渾身の一振りを受けても微かに揺らいだだけの拙者の足元に視線を落として、伊達の両目が見開かれた。
何度も同じ手を食ってたまるか。
自分の両足を氷で覆って、地面に縫い付けておいた。
これでもう、吹き飛ばされて距離を空けられることはない。
「終わりか」
拙者の鳩尾に埋まったままだった伊達の右腕の装甲を掴み、そのまま握り潰す。
冷気を込めて急激に温度を下げたことで脆くなっていたのだろう。
思ったよりも容易く、金属の鎧はひしゃげて、機械としての役目を果たさなくなったようだった。
「くそがああああああ!」
自棄になったように繰り出された左腕の追撃も、受け止めて、右腕と同じように装甲を砕く。
さらに続いた膝蹴りの脚も凍てつかせて動きを止めた。
それでもなお、伊達は頭突きでこちらの仮面を弾こうとしてくる。
「往生しろ。見苦しい」
伊達の太い首を正面から掴み、一度高く持ち上げ、そのまま地面に叩きつけた。
背中から大地に打ち据えられた伊達の息が詰まる不自然な呼吸音が聞こえたが、知ったことではない。
こいつは並大抵の人間より頑丈だ。
ここで念入りに潰しておこう。
手の内から伝わってくる機械の、高度な文明の、不快な気配が薄まるまで、何度も、何度も、振り上げては叩きつけ、振り上げては叩きつけを繰り返した。
「身の丈に合わない技術に手を出すから、こうなる」
気付いた時には機械に包まれたそれは、血まみれになっていた。
憐れな奴だ。
せめてこのまま、長く苦しむことなく、終わりを迎えさせてやろう。
「あ……が、は……」
拙者が掴んだ首筋から、伊達の体が徐々に薄氷に覆われ、凍てついていく。
この呻き声を聞いていると、何かを忘れているような気がしてきた。
とても大切なことだったような気もするが、なんだったか。
どうも、頭がはっきりとしない。
まあ、いいか。
細かいことは、目の前のこれを処分してから考えればいい。
そんな結論に至って、拙者が伊達を掴む腕に一際強い冷気を込めようとした時だった。
一、十と技の名前を考えました。
百も考えちゃいるんですが、出すかどうかはわかりません。