十五 脅威の百分の一
衣食住は生活の基本である、というのは、この味気ない避難所においても例外ではなかったようだ。
この避難所にも、きちんと食事を準備するための場所が設けられていた。
調理台と流し台、棚は鈍く光る銀色。
用意されていた調理器具も大きい。
とにかく広く、飾り気のない造りは台所というよりも、調理場というのがふさわしいだろう。
その中で百合殿を中心に、殿と平殿の三人が手際よく我々の夕飯の準備をしてくださっている。
調理場と隣り合わせになった食堂のような場所で拙者は席に着き、女性陣の働く様を眺めていた。
本来なら拙者もあちらで仕事をする側だ。
しかし、「今日はいいから座ってて」と百合殿に半ば強引に追い出されてしまったのだからどうにもならない。
主君に働かせて、侍である自分がぼんやりと待つ状況は非常に落ち着かない気分である。
拙者と同じく、食堂の方で座って待っているのは社長と鶴城殿をはじめとするNEPA第二小隊の皆様方であった。
暇ついでに隊員の皆様を数えてみると、人数は鶴城殿、平殿を含めてちょうど十名。
その中には今日の騒ぎの時に一緒に戦った方々がいるのも見えた。
ところどころに負傷の様子が窺える彼らには、ただただ頭が下がる思いだ。
「……時代錯誤かもしれないけどさあ。エプロンつけて料理する女子っていいよね」
そして、女性の中で一人、拙者の隣で座って待っていた千振殿が、眩しいものでも見るかのように目を細めて、そんなことを呟いた。
「千振殿も女子でござろ」
「お? いいのか? 女子は料理するもの、みたいな決めつけはコンプライアンスに反しちゃうぞ? それにさあ、適材適所ってあるじゃん。私があっちに混ざってたら解釈違いだよ」
「確かに」
てきぱきと手を動かす三人の手際が見事なものだ。
あそこに千振殿が入っていけば、間違いなくふざけて調和を乱す。
この場合は動かないことが最適な選択であろう。
「この匂い、カレーかぁ。なんか学校の宿泊学習みたいだねえ」
「言われてみれば、少し似ている気もするでござるな」
神野学院では中等部でも高等部でも一年生の時に、都会から離れた宿泊施設で合宿が行われる。
中等部では山、高等部では海が近かった。
食堂に漂い始めたこの香りは、野外炊飯の時のそれとよく似ているのだ。
浮ついた気持ちで参加していたつもりはないが、あの宿泊学習は楽しかった記憶がある。
当然のように班長を務め、皆を導く殿。とにかくはしゃいで場の皆を巻き込み、打ち解けさせていた千振殿。そして、それが行き過ぎないようになだめていた厳原殿。
その彼女が今、傷つき、苦しんでいることを思い出し、また腹の底が重くなる。
平穏な毎日は、もう戻ってこないのではないか。
どうしても、そんな杞憂が拭えない。
「ごめんね、寒ちゃん」
「人には得手不得手があるものでござる。料理ができぬことくらい……」
「そっちじゃなぁい。あたしがそんなん気にすると思う?」
「全く」
「なんだとぉ!」
「どう答えれば正解なんでござるか!」
拳を振り上げて威嚇してくる千振殿。
自分で言っておいて怒り出すのだからタチが悪い。
「冗談はさておき、ほんとに怒ってないんだね。私達、嘘吐いてたのにさ」
「珍しく、神妙な顔でござるな」
「まあ、ねえ。流石の私でも、茶化せないことってあるよ」
「…………まだ、整理がついていないだけなのかもしれないでござる」
殿や、その周りの人々に対する怒りはない。これは本心だ。
自分がただの人間ではないということについても、事実として受け止められていると思う。
ただ、現実離れしすぎていてよくわからないのもまた事実であった。
「そりゃわけわかんないよねえ。いきなりお前人間じゃねえからって言われても」
「驚きはしたでござる。しかし、色々なことに合点がいった」
天涯孤独の身の上で、病の治療をしてもらっているだけではなく、大企業の令嬢の家に居候させてもらっている。
そんな身の上を当たり前のように受け入れていたことのほうが、おかしな話であったのだ。
監視のために抱え込まれていたと言われた方が、まだ納得できる。
「それに、皆の嘘に悪意がなかったことは、拙者が一番よく知っているでござる。たとえ偽りの上に成り立ったものであっても、殿と共に過ごした日々は幸せでありました」
「寒ちゃあん、いい子に育ったねえ……わだじ、うれじいよおおおおおお」
目を潤ませた千振殿が仮面ごと拙者の頭を抱きかかえてくる。
鬱陶しいのですぐに振り払って、拙者は改めて目の前の才女に尋ねてみることにした。
「千振殿は、その、拙者の体のことをよく知っているのでござるよな?」
「うん、そだね。今、寒ちゃんの体のことに一番詳しいのは私だと思うよ」
目を潤ませていたのは泣き真似だったらしい。
千振殿の表情はすぐに素に戻った。
「もしよければ、教えてもらえぬだろうか。拙者の力のことを」
「なるほど……んー、そうねえ……完璧にってわけにはいかないけど、それでもいい?」
「勿論でござる」
腕を組んで眉間に皺を寄せていた千振殿は、拙者が首を縦に振ったのを見て、まず二本指を立てた手をこちらに向けてきた。
「最初に言っとくと、私は寒ちゃんの体を調べる研究者としては二人目なのね。一人目がどっかに消えたから、代わりに雇われた天才美少女科学者ってわけ」
「その、一人目はどこに?」
拙者の記憶では、ネクストアース社であれやこれやされている時に傍らにいたのはずっと千振殿だった。
一人目、と言われてもまるで覚えがない。
「わっかんね。それは私の管轄外。だって、いなくなってから雇われたんだし」
それもそうだ。
お手上げの素振りを見せた千振殿は、食堂の一角で目を閉じ、腕を組んで座っている社長にちらりと視線を向けた。
あの人なら何か知っているのかもしれないが、答えてくれる望みは薄そうだ。
ひとまず千振殿の前任の話は置いておくとしよう。
「寒ちゃんの基本的な能力、というか体質なんだけど、まずは有り得ないぐらい頑丈な体よね。私もなんとか傷つけられないかなーって色々試してみたけど、無理だったのよ」
「そんなに堅いのでござるか」
「堅いっていうのとは、ちょっと違うよね。ほら、こんな感じ」
言いながら、拙者の頬の肉を指先でつまむ千振殿。
拙者の肌は、他の人と同じく、つまめば伸びる。
指先で押せば筋肉には凹みが生まれるし、金属のように硬質なわけではない。
ただ、傷つかず、痛みは感じないのだが。
「強い衝撃は吸収される。切断しようとすると、硬質化する。熱すれば冷たくなるし、冷やせば熱くなる。関節とかも一定以上には開かないしね。とにかくあまのじゃくなのよ、寒ちゃんの体は」
「ちょっと待てい。今、言ったことは全部試したってことでござるか」
「ごめーんね」
絶対に申し訳ないと思っとらんぞ、こいつ。
これまで五体満足だったからいいようなものの。
何かの拍子にどこかを失っていてもおかしくはなかったのではないか、これ。
「まあいいでござる……それで、あの冷気を生み出す力の方は?」
「冷気を生み出すって言い方は、正しくないね。あれはね、任意の範囲から急速に熱エネルギーを奪い取ってるんだよ」
「ええっと、つまり、どういうことでござるか?」
「んとね、ちょっと、手、出して」
言われるがままに差し出した拙者の手の平に、自分の手の平を重ねる千振殿。
「どんな感じがする?」
「いや、ただ、触れているな、としか」
「私はね、冷たいなって感じる。寒ちゃんはいつでもどこでも、全身冷たいのよ。触れると、熱を奪われちゃうから」
「そうなのでござるか?」
そんなこと気にしたこともなかった。
学校で事情を知らぬ者達に指摘されたこともなかったから、大した影響のないものではあるのだろうが。
「そして、この熱を吸収する能力の強さを抑えてるのが、頭のそれ。いわゆる制御装置なのね。今日、寒ちゃんは抑え込んでる力のうち、一パーセントだけ解放したんだよ」
「たったの、一分でござるか?」
「そー。百分の一であれだけのことができるわけ。全開にしたらどうなるか、わかる?」
拙者の腕の一振りで、吾妻の機械鎧は氷漬けになった。
生身で受けていれば、絶命していてもおかしくはなかったであろう。
あの百倍のことが起きれば、どうなるか。
大惨事と称してもおかしくないことは、拙者にも容易に想像ができた。
「私としては、十パーセント以上の力を解放しちゃうのはおすすめしない。危ないから」
「……具体的には、どのようなことが?」
「少なくとも、ネクストアース社の手には負えなくなるだろね」
それほどまでに、なのか。NEPAだけではなく、おそらく会社全体を指す千振殿の言葉に、拙者は息を呑む。
これが千振殿の脅しに過ぎないのであればいいのだが。
「寒ちゃんが吸収した熱エネルギーは、たぶん、その頑丈な体を維持することなんかに使われてると思うよ。当然、吸い取る量を増やせば、リソースが増えるから身体能力も上がるはず。ただ、無尽蔵に吸い取られてるエネルギーをどこに蓄積してんのかは、私にもまだわかってないんだよなあ」
千振殿の言う通り、力を解放した時には急激に体が軽くなった。
単純に考えて、あれが百倍になるとするなら、凄まじい話だ。
それこそ、ついうっかりで人が死ぬ。
下手をすれば、一人二人などという単位ではなく。
「そんなわけで、用法容量を守って正しく使ってね、寒ちゃん」
「……肝に、銘じておくでござる」
そう。使うのならば、正しく、だ。
もし次の危機が訪れるのだとしたら、今度こそ、拙者は皆を守り切らねばならない。
自分だけではない。
誰一人傷つけず、終わらせるのだ。
「そうしてくれると安心かな。頼むぜ、サムラーイ」
えらく舌を巻いた言い方で千振殿がおどけてみせた時。
「はいはーい、みんなー、できましたよー」
どうやら完成したらしいカレーの大鍋を両手に抱えた百合殿が、食堂に現れた。
その後ろには巨大な炊飯器を抱えた平殿と、配膳用のしゃもじとお玉をもった殿が続く。
「お皿はあっちですよー、並んで、並んで―。ほおら、優人くんも! 自分の分は自分でもらいにきてちょうだい!」
優人くん? と、その場にいた全員が怪訝な表情を浮かべ、それが社長のことを指すのだと理解した者から顔つきを強張らせていく。
大丈夫か、これ。どうなるんだ、ここから。
「ああ。そうだな」
あれ? 大丈夫そうだぞ。
驚くべきことに社長は特に気を悪くした様子も見せず、皿を持ってカレーをよそう列の最後尾へと回った。
不運にも社長の前になってしまった隊員が順番を譲ろうとしたのも断って、黙って並んでいる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
そのまま自分の前に来た社長に満面の笑みでカレーを大盛りでつぐ百合殿。
社長は茶色い山のようになった皿を抱えて、元々自分の座っていた席へと戻る。
一同が固唾を飲んで見守る中、百合殿は当然のように自分の分の皿を持って社長の正面の席に収まった。
あの人は、無敵なのでござるか、本当に。
「ねえ、味はどう? おいしい?」
合掌した後、一口目を匙で運んだ社長に、百合殿がにこにこしながら尋ねて。
「……うまいな」
「よかったあ!」
社長の感想に、その表情がぱあっと明るくなる。いや元から明るかったのだが。
「野菜はね、統真ちゃんが切ったのよ。とっても手際よかったんだから」
「ああ。見ていた」
…………あれ、社長、嘘吐いた?
彼がむっつりと黙り込んで目を閉じていたことを知っている皆の中に、そのことを指摘できる勇気をもった人はいなかったらしい。
「ねえ、私ら、何を見せられてんの?」
それでも、そこそこ大きな声で言った千振殿の言葉は全員の思いの代弁となった。
「ごめん。見てないふりをしてくれないか」
ほのかに頬を赤らめながら、殿は自分の父と母から必死に目を背けている。
「……心得た」
そう答えた拙者の言葉もまた、皆の思いの代弁となったのではないかと思うのだ。
親同士が仲良さげにしている様子って、なぜあんなに人様に見られると恥ずかしいのでしょうね。