十三 跳ねる緑の男
「単刀直入に言うぞ。寒太郎、お前はただの人間じゃない」
「!」
避難施設の外にあるだだっ広い演習場に出るなり、双葉先生はそう言った。
その言葉に息を呑んだのは、拙者ではない。
殿だ。
大きく目を見開いた殿の表情から、双葉先生がいきなり核心めいたことを口走ったのだということがわかる。
それがきっと言いにくいことだった、ということもだ。
「先生のおっしゃっている意味が、拙者にはよく理解できないでござる」
「嘘つけ。薄々、気が付いてただろうよ。頭のごっつい機械、ちょっと丈夫じゃ片付かない体。お前さ、痛いって感じたことないんじゃないか?」
「それは……」
体育の授業でも始めるかのように屈伸運動をしながらの双葉先生の指摘に、拙者は何も言い返すことができなかった。
その通りだ。
自分が普通ではないことは知っていたのだ。
鶴城殿や平殿との演習中に撃たれても、腹の真下で爆弾が炸裂しても、拙者は平気だった。
すごい衝撃なのは分かるのだ。
だが、それだけだ。
拙者はそもそも、痛い、ということがどのようなものなのかわからない。
「極めつけは今日だよ。お前、自分に何ができたか思い出してみろ」
吾妻との戦いの最中、並々ならぬ力が湧き上がってくることを感じながら、拙者は戸惑わなかった。
できる、と信じて疑わず、跳ね上がった身体能力を生かし、最後には手から冷気を放ち吾妻を氷漬けにするような真似をしたのだ。
あれはまるで、身体がそうすることを知っていたかのような感覚だった。
「先生は、拙者が何なのか知っているのでござるか」
「ああ、知ってる。俺だけじゃない。お前の周りの人達はみんな、知ってたよ」
「…………殿」
「ごめん。先生の、言う通りだ」
拙者から目を反らして言う殿の顔は、苦しげだった。
そんな顔をしないでほしい。
責めるつもりは毛頭ないのだ。
隠し事があろうが何だろうが、殿がそうすべきだと思っていたことなら、拙者はそれでいいのだから。
「よーし、お待たせ。悪いな。年取るとさ、ちょっと体を動かすのにも準備がいるんだわ」
大きく腕を伸ばして深呼吸をした後、双葉先生はかけていた黒縁眼鏡を外して、背広の内ポケットにしまう。
かと思えば上着を脱いで、その辺に放り捨てた。
「ええっと、それで、何をするつもりでござろうか」
「だから、本当のことが知りたいんだろ? お前が何なのか、身をもって教えるのに俺ほど適任な奴もいないかもしれないな。ほら、ちょっと危ないからこっちこい。そう。もうちょい離れて。うん、まあこんなもんか」
演習場の真ん中まで移動して手招きする双葉先生に言われるがまま、拙者は十歩ほど離れた位置に立って向かい合う。
声を張らねば何を言っているのかも聞き取りにくいような距離だ。
「聞こえるかぁ、寒太郎! 実はさあ」
「はーい、なんでござろうかぁ」
「俺も、ただの人間じゃないんだわ」
唐突に。
かろうじて表情がわかるかどうかといった距離にあった双葉先生の顔が、目の前に現れた。
こっちに話しかけていた声を追い抜いたのでは、と錯覚するようなこの速度。
「は?」
阿呆のように口を開いた時には、腹で凄まじい衝撃が爆ぜていた。
なすすべもなく後ろに弾き飛ばされた拙者の視界は、二転三転する。
体は何度も跳ね、最後は背中で地面を滑って、ようやく止まった。
ちょっと待ってくれ。
「い、今のは一体……」
いきなりのことで何が起きたのか全くわからなかった。
だが、おそらくは双葉先生がやったのでござろう。
蹴られた、ようにも感じたが。駄目だ。理解が追いつかない。
「おいおいおい、すげえな。本当にノーダメージなのかよ」
「先生! 説明もなしにいきなり何をっ、するので、ござ……え?」
文句の一つも言ってやろうと身を起こし、双葉先生を睨みつけた拙者は、言いかけた言葉を吞み込むことになった。
なんだあの姿は。
遠目でもわかる、異常さ。
見間違い?
それとも拙者の頭の機械が今の衝撃で壊れてしまったのか?
「その、姿はなんなのでござるか」
「おー、驚いただろ? どうだ? お前よりかなりわかりやすく人間じゃないもんな」
いつものようにあっけらかんとした口調で言った双葉先生。
その肌の色が、緑に変わっていた。
比喩ではない。深く、濃い緑色の肌。顔も、首も、腕は指先まで全て緑だ。
それだけではない。
両目は毒々しい黄色に変わり、瞳は横長に裂けるような形になっている。
相撲の蹲踞のような姿勢で腰を落として構えている先生の姿は、例えるなら、そう。
蛙人間。
そう呼ぶのが相応しいと感じた。
突如として異形と化した双葉先生に視線が釘付けになったのは束の間のこと。
「昔々のことだよ」
昔々、までは少し離れた位置から。の、で再び双葉先生の姿は拙者の視界から消えた。
そして、ことだよ、が聞こえた時にはもう目の前に。
「うおおっ?」
下から蹴り上げてきた双葉先生の脚を、拙者はどうにか両腕を交差させて防ぐ。
今度はさっきよりもやや衝撃が軽く感じた。
そこで拙者は気が付く。
吾妻の時と同じだ。
力が湧き上がってくる。
目の前の脅威に立ち向かうため、拙者の意識とは関係なく引き上げられたのだ。
あれは偶然や、一度きりのことではなかった。
それどころか、危機を前にすれば当たり前のように発揮されるものらしい。
「ネクストアースって会社には、人間をもっと優れた存在に進化させようって研究をしていた科学者がいたんだよ」
咄嗟に力を解放した拙者に攻撃を受け止められても動揺は見せず、双葉先生は淡々とした口調で続ける。
「その人が作った薬の影響で、俺はこうなった」
「まさか、人体実験でござるか?」
「そうとも言うのかもな。まあ、その研究をしてた人はとっくにこの世にはいないんだが」
言いながら、再び先生は後ろに跳ねて、目で追うのがやっとの速度で拙者から距離を取る。
間違いない。
速度も、力も、今日相手をした吾妻よりずっと上だ。
「十五年ちょっと前になるのかなあ? なんかいろいろ変わりだしたのは」
離れた位置で一度、しゃがみ込んだ双葉先生が何かを思い出すように天を仰ぐ。
「俺がこんな感じになった直後くらいから、ネクストアースの周りで大きな事件が起きだしたんだよ」
「大きな事件、で、ござるか?」
「ああ。たくさんの人が巻き込まれて、傷つけられたり、怖い思いをしたりとか、そういうやつだ。俺も実際、何度か当事者になった」
ちょうど、今日の神野学院での事件のようなものだったのかもしれない。
そう語る双葉先生の表情は異形であってもわかるほどに、苦々しいものだった。
「その原因、なんだと思うよ?」
咄嗟に答えられなかった拙者の返事を待たず、双葉先生が動きだす。
落ち着け。
ちゃんと、目を凝らして、動きを追え。
双葉先生の姿が一度消えるように見えるのは、一直線にこちらに向かってくるのではなく、敢えて稲妻のように不規則な軌道で方向を変え、跳ねながら突っ込んできているからだ。
右、左、右右左、左。
ここだ、次で、来る!
「ぐ、う、ぉお!」
今度は待ち構えて、受け止めることができた。
しかし、なんという威力の蹴りかだ!
無理矢理体を仰け反らせられ、反撃に出ることはできない。
その場で踏ん張ることで精いっぱいではないか。
「原因はな、度を越した科学の力だったんだ、よっと!」
「おわ、ちょっ、だあっ!」
言いながら二度、三度と空中で体を捻りながら双葉先生は連続で蹴りを放ってくる。
なんとか捌こうと試みるが、こんな動きをする相手との肉弾戦などやったことがない。
肩と首筋に一撃ずつ回し蹴りをもらって、拙者は地面に叩きつけられてしまった。
双葉先生の言っていることが聞き取れているのは、それでも拙者が痛みを感じていないからだろう。
対応こそできていないが、この猛攻を受けても拙者の体は平気らしい。
そして、双葉先生に言われて初めて気付いた。
これだけの身体能力にも関わらず、双葉先生からは感じないのだ。
あの不愉快な機械の気配を。
吾妻の鎧と違い、これは純粋に双葉先生の生き物としての力だからなのか。
「進んだ技術は、使い方を間違ったら害にもなる。今日だってそうだったろ」
倒れた拙者が立ち上がるまで、双葉先生は何もしてこなかった。
「厳原には、悪いことをしたよ。すまなかった」
「なぜ、先生が謝るのでござるか」
「あの子はこっち側じゃなかったのに、守ってやれなかったからだよ!」
悔し気に言いながら放たれた双葉先生の蹴りは、今までより一際鋭く重いものだった。
腕を交差させ、両足を踏ん張っても、今度は堪え切れない。
拙者はまた、後ろに吹き飛ばされて転がる羽目になった。
「…………言ってることと、やってることが嚙み合ってないのでは? 拙者も一応、生徒なのでござるが」
「かもな」
今のは、勢い余って、といった感じだった。
厳原殿のことを想う双葉先生の気持ちが、それだけ本物であるということか。
姿は異形になってしまっても、この人は拙者がよく知る人物なのだという実感が湧いてきて、安心する。
「お前にも、わかってきたろ。俺が思いっきり、体を動かしたくなった理由」
「まあ、なんとなくは。否定はせんでござるよ」
守ることができなかったものがあるというのは拙者も同じ。
自分の不甲斐なさが腹立たしいというところも同じ、ということでいいのでござろうか。
「話を戻すけどさ。ネクストアースは俺達みたいに一歩間違ったら危ないことしでかす連中から、世間のみんなを守ってきたってわけ。陰ながら、こっそりと、バレないようにな」
確かに、今の拙者が危険な存在であるということは理解できる。
進みすぎた技術が人に害を与えることも。
誰かが管理せねばという理屈も、分かるのだ。
「先生は、人体実験の結果、そうなったとおっしゃったでござるな。では、拙者も……」
「いんや。お前と俺のルーツは別なんだとさ。ただ、ネクストアースの息のかかった研究に関わる存在で、手元に置いて管理しなきゃいけないってところは同じらしい」
「そうで、ござるか。事情は大体把握できました」
だが、ひとつだけ。
どうしても解せないことがある。
「どうして、そのことを教えてくれなかったのでござるか」
誰に問うた言葉だったのかは、自分でもわからなかった。
しかし、何も知らなかったことへの苛立ちが湧いてきているのは、隠しようのない事実だ。
「お前には、普通であって欲しかったんじゃないか? きっと」
「!」
ぽつり、と告げられたその言葉に、拙者は思い出す。
昨晩、殿が言っていたこと。
今がずっと続けば。そんな平穏を願う言葉。
そこに、異能の力をもつ拙者が含まれていたのだとしたら?
「あったみたいだな。心当たり」
にこり、と双葉先生はこちらに笑いかけてくる。
肌の色は緑色でも、そうしているといつもの先生とまるで変わらない気がしてくるから、不思議なものだ。
「今のが俺の話の一番大事なところ。細かい事情は、まあ、八須にでも聞くといい」
そこも大事なところだろうに。
双葉先生はざっくりと説明を省いてしまった。
よくよく思い返してみれば、確かに、双葉先生は自分のことやネクストアースのことこそ教えてくれたが、拙者が何者なのかには触れていない。
知らないのか。それとも、語るのが面倒になったのか。
違う。
何者なのかは教えてくれていたのだ。
どんな事情であれ、見失ってはいけないことがある。
先生はそれを伝えてくれていた。
「さて、一方的に蹴られまくって楽しくなかったろ。今度はそっちの番だ」
「……怪我しても、知らないでござるよ」
「はは、思いっきりどーぞ」
肩を揺らして笑う双葉先生に奇妙な安心感を覚えつつ、拙者は今の自分の全力を振るってみようと思い立った。
知らなければならない。
今度は守るために。後悔しないために。
正しい時に、必要な力を使うために。
拙者が姿勢を落とし、右腕を左の腰に当てたのを見た双葉先生の姿が消える。
そのまま後ろ、右、左、前と目まぐるしい動きで跳ね回る先生。
大丈夫だ。落ち着け。
先生はこちらに来る。どれだけ動き回ろうと、蹴りを放つためには近づかねばならない。
だったら、その瞬間に、拙者の間合いで斬るだけだ。
そう、今!
「一凍両断」
拙者は本気だった。
最善の位置、最善の動きで、冷気を纏う白刃と化した腕を振るった。
だが。
「あっぶね」
先生は拙者の太刀筋を初めから知っていたかのように、体を反らせてそれを躱した。
しまった、と思った時にはもう遅い。
ばしん、と足元を払われ、拙者は無様にすっころぶ。
次の瞬間に見えたのは、先生の靴の裏だった。
「この辺にしとくかね」
「…………なんで今のが避けられるのでござるか」
「技の名前とか言わなかったら、当たってたかもな」
拙者の頭の右側の地面を踏み抜いた姿勢のまま、双葉先生は軽口を叩いて茶化してくる。
悔しいが、完敗だ。
どうやら先生の方が一枚も二枚も上手らしい。
「そもそも、なんで拙者達はこんなことをしていたのでござるか。話だけでも良かったでしょうに」
「口で言っても、信じられない話だったでしょうが」
拙者の手を引き、立ち上がらせた時にはもう双葉先生の肌の色は元通りになっていた。
こうして見ると、なんの変哲もない不精な男性に過ぎない。
「話を振り出しに戻そうか」
放り出した背広を拾いに行って、いつもの黒縁眼鏡をかけながら先生は言う。
「俺も、お前も、立派な化け物だ。そこは否定できない事実」
「………………そうで、ござるな」
双葉先生が見ていたのは、たった今のやり取りで演習場に生まれた戦いの後だった。
自らの脚で踏み抜き、大きく抉って窪ませた地面を眺めながら先生は言う。
「それでも俺はわりと幸せに生きてるからさ。お前も、ごちゃごちゃ心配せずに、ほんとの自分を受け入れろ」
そして、ぽん、と軽く頭の仮面をはたかれる。
なるほど。確かに。
その言葉には説得力があると、拙者は感心させられたのであった。
ネクストアースはスゴロクンの活躍によって、一度危機から救われている、という設定です。
大体何があったのかは頭の中にあるのですが、流石に物語の形にまで落とし込むことはできていません。