序章 最果ての分かれ道
南極で吐き出す息は、白くならない。
私がそのことを知ったのは、九歳になってすぐの頃だった。
「空気が澄み切っているかららしい」
不思議に思ってしきりに息を吐きだす私に、お父さんが言った。
「目に見えない小さなごみや、ほこりがないということだ」
私が返事をしなかったことを、理解ができなかったからだと思ったのだろう。
お父さんが、ゆっくりと言い聞かせるように付け加える。
「確かに、ここはとてもきれいですね」
「ああ。だが、同時に危険な場所でもある」
目の前は見渡す限りの銀世界だった。
白く柔らかい雪ではなく、分厚い氷で覆われた地面を見るのは生まれて初めてのこと。
踏み入るのが恐れ多いような、だけど湧き上がる好奇心を抑えられないような、こそばゆい感覚にとらわれたのを今でも覚えている。
「寒くはないか」
「大丈夫、です」
確かに肌に触れる空気は痛みを感じるほどに冷え切っていた。
だけど、ここは世界で一番寒い場所なのだから当たり前のことだとも思う。
言ってもどうにもならないことで駄々をこねるつもりはなかった。
「これでも今日は天気がいいほうなんだ。運が良かった」
話しながら半歩先を進むお父さんの手。
繋ぎたいと思った気持ちを堪えて、ぐっと握りこぶしをつくって我慢をする。
子供っぽい振る舞いは、お父さんをがっかりさせてしまうかもしれないと思ったのだ。
私が父と一緒に旅行をした経験というのは、後にも先にもこの一度きりだった。
そのたった一度の行き先は、南極大陸。
それが普通の家庭ではあり得ないことだということは、九歳の子供にとっても明らかなこと。
それでも、幼かった私にとっては父と二人で旅行をしているという事実は嬉しく感じられたものだ。
もちろん、本当に二人きりだったわけではなくて、父と私の周囲にはたくさんの大人がいたのだが。
私の中で、あれは間違いなく父と「二人の」旅行だった。
歩いて移動したのは一時間ほどだった気がする。実際はもっと短い時間だったかもしれない。
「着いたぞ。もうじき見えてくる」
お父さんがそう言った頃には、分厚い手袋の下の指先がじんわりと温かみを帯びる程度に血の巡りがよくなっていた。
「あれは…………何ですか? 洞窟?」
「違う。自然にできたものではない。じきに分かる」
私達の行く先に現れたのは、底の見えない大穴だった。
周囲に見えるものと同じ氷の地面に亀裂が入り、その隙間には暗闇が続いている。
近付くにつれて分かったが、穴の入り口は思いのほか緩やかな下り坂になっていて、奥からは低く唸るような風の音が聞こえてきた。
広くて、深い。
大型トラックを飲み込むトンネルよりも、ずっと迫力があると感じた。
「おお、本当に来たのか。こんな世界の果てまで。大したお嬢さんだ」
呆けていたら、大穴の奥から歩み出てきた人に頭を撫でられた。
お父さんよりも十か二十は歳を重ねた男の人。
白い筋が目立つ硬そうな毛を適当に切り揃えたような髪型と、伸び放題の髭。
不潔というよりも、野性的。
そんな印象を受ける老人だった。
「親父のせいで、お前も苦労をさせられるなあ」
そんなことはない。
私は全然平気だ。
「本当に、いいんだな?」
私が擁護する言葉を述べるより先に、老人の視線が父へと移った。
その口調の硬さと、眼光の鋭さに出かけた言葉が引っ込む。
子供が口を出していい空気ではないと、幼かった私は察したのだ。
「決めたことです。この子はもう、十分に賢い」
そう言って父はしゃがみ込み、私の肩を両手で掴んだ。
自分を正面から見据える二本の矢のような眼差しが、少しだけ怖かったのも覚えている。
「統真。お前に伝えておかなければならないことがある」
お父さんの口調は重く、まるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「私は、悪人だ」
普段は表情に乏しい、だからこそ分かる苦悶に満ちたお父さんの顔。
言葉の意味も、お父さんの気持ちも理解できず、私はただ息を吞んで待つことしかできなかった。
「隠し事をしているんだ。世界中の人に。とても、とても大切なことを隠している」
「…………お父さんは、いい人です。だって、私は」
「最後まで聞きなさい」
私の言葉を遮って、うつむくお父さんの指先に力が入ったのが分かった。
思えばあの時、伝えればよかったのだ。
二度と訪れない機会を逃した後悔は、今も私の中に残っている。
「私は隠し事をするために、たくさんの人を犠牲にしてきた。嘘も吐いた。私を恨む人間は数えきれないほどいるだろう。きっと、私の最期は無惨なものになる。だからそうなる前に、お前に本当のことを教えなければならない」
顔を上げたお父さんと再び目が合ったのは一瞬のことだった。
その視線が、傍らにある深淵に移る。
「私は自分が正しいと思うことをしてきたことで、悪人になり下がった。だが、ためらったことはない。後悔もしていない。私が選んだのは、犠牲を伴う道だった」
膝をつき、首を垂れる父の姿はまるで、何かに、誰かに、許しを乞うようでもあって。
幼かった私には、その時、父が何を願っていたのかが分からなかった。
「だから、統真、お前は――」
それでも私は、鮮明に覚えている。
そしてこれからも、忘れることはないだろう。
人には自分の運命を知る瞬間がある、ということを。
あの日、私は、この世界で最も美しく、強く、恐ろしい。
「それ」と出会った。
この物語に登場する『ネクストアース』という会社は、私がこれまでに書いてきたお話に度々、登場してきました。
とにかくでっかい大企業で、なんか裏がありそう。程度にしか描写してきませんでしたが、今回はその会社が物語の核となります。
これまでに私が書いてきた『シェイプオブダーク』『アルバクロス』『ナイトクロール』『ビリジャンパー』という四つのお話を繋ぐ、要のお話でもあります。
少しでも皆様を楽しませられるよう頑張りますので、よろしくお願いします。