蛍の冒険
「これはこれは諸葛殿に月英様。ご足労いただきありがとうございます」
「御無沙汰しておりました。楊様。」
「こちらこそ、新しい書が入ったとの知らせをありがとう存じます」
「なんのなんの!諸葛殿のお目にかなうかどうか。・・・はて。そちらの娘様は」
「知り合いの娘を預かっているのです」
「蛍です」
「蛍さん。宜しくお願いしますね」
「(コク)」
孔明と月英に連れられた蛍は、楊氏が営む書店を訪れていた。あまり人付き合いが得意ではない彼女は、連れられてきた商家を見渡した。壁に設けられた棚には、所狭しと書が置いてあった。書と一口に言っても竹簡が多い。先般の戦火により多くが盗難に遭い、または焼失してしまったからだ。それでも楊氏は、自身が持つ財力と商圏、人材によって有力者の持つ書を写本したり、盗難に遭った書を買い戻したりと散り散りになってしまった荊州の書を集めていた。
懇意にしている黄承彦の婿である孔明がこの街に戻っている。人伝に耳にした楊氏は、自身が納得いく量の書が集まったため、こうして孔明を招待したのであった。
「こちらが───」
「ほう───」
「そして───これが───」
「なんと!して───」
「すごいね。なんか楽しそう」
「孔明様は、この荊州に戦火がもたらされたことを大変悔やんでおいででしたから」
「そうなんだ」
「ええ。でも今は、こうして荊州に戻り、復興にご尽力されています。その結果がこうして目に見える形で現れたので、あのような表情をなさっておいでなのかもしれません」
蛍と月英の目線の先には、満面の笑みで楊氏の話を聞いたり、子どものように輝いた眼をして、書の説明を受ける孔明の姿があった。二重の意味で嬉しい。そんな様子が見て取れるのであった。
「孔明様!蛍さんとしばらくその辺りを散策してきますね」
「はい。破落戸には気を付けてくださいね。・・・楊さん。こちらは・・・」
「・・・行きましょうか」
「うん。夢中だもんね」
一応、孔明には断りを入れて、店を出た二人。楊氏の商家は、大きな道に面しており人通りも多い。まず注意するべきは、破落戸ではなく誘拐の類だろう。子連れの女性。狙われる可能性は高い。しかしそこは孔明。少し離れた位置に護衛を配しているため、その心配はほとんどない。むしろ注意するのは・・・。
「おっとごめんよ」
「いえ。こちらこそ」
「・・・月英さん。今の男・・・」
「スリですわね。でも大丈夫。今盗らせたのは・・・あれっ!?」
「どうしたの?」
「盗られても良い財布と、お金の入った財布を入れ替えるのを忘れていました・・・」
「それじゃぁ!」
「追いかけましょう!」
備えあれば憂いなし。と準備をしていたことが裏目に出てしまったようだ。二人は慌てて先ほどすれ違った男を探しに走った。遠巻きに護衛していた兵たちも慌てて男を探し始める。雑踏の中で一人の人物を探し出すことのなんと困難なことか・・・。
「・・・!いたっ!そこのおじさん!」
「ん?!!!」
「まてっ!」
「あっ!蛍さん!」
子どもと大人。雑踏の中を駆け抜けるのに早いのはやはり子ども。ほどなくして蛍は、スリをした男に追いついた。
「お財布を・・・返して!」
「おっと嬢ちゃん!いったい何のことかな?」
「とぼけないで!お財布を盗んだのこの目で見たんだから!」
「おいおいおい!言いがかりはよしてくれよ」
「左の袖奥に有る!早く返してっ!」
「いってぇ!子どもだと思って優しくしてやりゃぁつけあがりやがって!」
「きゃぁ!・・・っと」
蛍は、男に飛びつき咄嗟に出された右腕に噛みつくも、振り投げられてしまう。しかし、日ごろから鍛錬を欠かさなかったため、受け身をとってひらりと着地する。
「ったく。こんなことはしたくはなかったが・・・覚悟はできてるんだろうな」
男が懐から出したのは、小剣であった。さすがに命のやり取りを経験したことがなかったために身体を硬直させてしまう蛍。
「(やられる!)」
そう思ったその時。
「おいおめぇ・・・。子どもに手をだそうたぁ・・・命が惜しくねぇみてぇだな」
「あんだよ!引っ込んでろ・・・ひっ」
「ちっ父上!」
「あん?おっおい!なんでおめぇがこんなところに!?」
「父上!そいつ月英さんの財布をすったの!」
「んっだとぉ!俺の娘に手を出した挙句、人様から盗みだと!?」
「ひいぃぃ・・・」
蛍の前に現れた偉丈夫。窮地を救ったのは、実の父である張飛。字は益徳。であった。少しばかり酒が入っていたようであるが、騒動の渦中に子どもがいたこと。そして、それが実の娘であったことから、完全に酔いが醒め今は、スリの男を追い詰めていた。
「やいやいやい!おめぇよぉ。人さまから財布を盗ってその金で飯や酒を得て何が嬉しいんだ?その悪行。たとえお天道様が許しても、この燕人張飛が赦さねぇ!」
「ひいぃぃ・・・」
哀れスリの男は、張飛の気迫に飲み込まれ気絶してしまった。
「んだよ・・・。おう怪我は・・・おい!足から血が」
「こんなの擦り傷だよ」
「いやっ擦り傷だろうが血が出てる!急いで手当しねぇと」
「大丈夫だよ・・・この位の怪我」
「いんやっ駄目だ!」
指の先にも満たない擦り傷から少しだけ血がにじみ出ていた。傷が小さいため、出血量はごく少量。水で洗い流せば傷もわからなくなる程度のではあるが、いざ娘のことになると大げさな行動力を示す。そんな父に対しありがたみを感じるとともに、恥ずかしい気持ちになる蛍であった。
「はぁはぁはぁ・・・蛍さん御無事でしたか」
「月英さん!」
「ん?おお。軍師の嫁さんじゃねぇか。蛍?誰だそいつは」
「私だよ父上」
「おめぇはいつから名前を変えたんだよ・・・」
「申し訳ありません益徳殿。私が仮の名として呼んでおりました。しかし街に連れ出したばかりに危険な目に遭わせてしまい・・・」
「あっあぁ。すっ飛んできた兵から話は聞いてるよ。こっちこそ俺の娘が我侭を言ったようで申し訳ねぇ。なんか釈然としねぇが、軍師にも謝んねぇとな」
「ご迷惑とご心配を・・・」
「いいっていいって。こうして俺が助けに入ったんだから」
「父上。格好良かった」
「おっ!そうか?そいつは嬉しいな!・・・ってそんなこと言っても今日は、母上からのお説教だからな」
「ちっ」
「一丁前に舌打ちなんかしやがって!」
「痛い痛い!頭のなで方が乱暴。せっかく月英さんが整えてくれた髪が崩れちゃった」
「心配かけた罰だ。そのぐらい甘んじて受けろ」
「むぅ・・・」
父と娘のやり取りを見て、なんだか微笑ましい気持ちになると同時に、自分と孔明との間に若し子どもを授かったなら。想像して身体をくねらせる月英であった。
「そんで?目的の阿斗様は見つかったのか?」
「む?何故それを?」
「おっ!図星か。カマかけたんだがな。そうか。阿斗様を追って街に出たのか」
「むぅぅ!」
「まっいいさ。俺も酔いが醒めちまったし・・・嫁さんよ、軍師もそのうち合流するんだろ?」
「はい。もう少ししたら、楊氏の商家に戻って孔明様と合流する予定です」
「よしっ!俺も着いていってやるよ。さっきみたいなのが起きても大変だからな」
「ありがとうございます。益徳殿」
「父上。ありがとう」
「良いってことよ!」
気絶したままの男を縛り、その場に転がして二人とともに歩き始めた張飛。あわれな男は、報告を聞いて駆け付けた衛士によって牢へと連れていかれたのであった。
その後三人は、大量の竹簡と土産として持たされた帛を持った孔明と合流。一部始終を耳にしていた彼は、張飛に対し丁重に感謝の弁を述べ、三人を伴って城へと戻っていった。阿斗には会うことができなかった。少し怖かったけど、楽しい時間を過ごすことができた蛍も笑顔で城に戻った。しかし母からは、こんこんとお説教を受けたのは言うまでもなかった。