身の周り
「────うぐぅ!」
「若様!申し訳ありません。どこかお怪我などは」
「大丈夫。ちょっと尻もちをついただけだから」
「なりません!今日の剣の稽古は終いといたしましょう」
「まったく…子龍は過保護なんだから」
自分が“阿斗”であると認識したのは、長坂坡の戦いが終わり赤壁の戦いが終わってからのことであった。それまではあの時のショックからか、意識が沈んでいたようだったのだが、孫夫人に誘拐されかけ、叔父上と子龍に再び救われたことによってそれまで眠っていた俺の意識が覚醒したようだった。誘拐事件ののち、それまでの阿斗が敬遠していた剣に興味を抱いたので、子龍が喜び、先ほどのように稽古をつけてくれている。まぁ何度も命の危機に晒されれば、自衛の術も学びたくなる。
遅くなったが、彼は趙雲。字は子龍。父である玄徳から『一身是胆』と言われた武人だ。
「若様!あぁ腕も赤くなっております・・・少しお待ちくださいませ!」
「あぁこれはっ!行っちゃった」
そう・・・子龍は、“俺しか”救えなかったことを悔やんでいるのか、とても過保護なところがある。あの時俺は、北斗と南斗という人物?の声に導かれ、この体に宿ったようだった。多分、一度仮死状態になっていたのだろう。ただ、なにがしかの理由で、この年になるまでは俺の意識が出てこなかったのだと思う。前世・・・というか俺が阿斗になる前は何をしていたのかはあまり覚えていない。確かなことは、日本の学生であったことと、俺こと阿斗がどのような人生を辿ったのかということを知っているということだけだ。それ以外のことは思い出せそうにない。ただ、北斗と南斗から言われたのは『自由に生きろ』であったので、史実とは違った生き方を満喫してもいいとは思っているのだが・・・。
「・・・なに思い耽っているの」
「うわぁ!いつからそこにいたの!?」
「・・・子龍どのがあなた剣で弾いた時から」
「最初からじゃないか」
突然話しかけてきたのは、叔父上の娘だ。叔父上に似ずとても可愛いが、俺に対する時は手厳しい「・・・そんなに厳しいとは思っていない」ナチュラルに考えを読むのはやめてくれ・・・。
「阿斗の口調は、やっぱりそっちの方がいい。丁寧な話し方はなんだか気持ちが悪い」
「そうか・・・いい加減やめるかなぁ。俺もこっちの方が話しやすいし」
「うん。その方がいい」
「で、何しに来たの?」
「別に。ただ、剣のぶつかり合う音がしたから来てみただけ」
「そっか。さすがは叔父上の娘だよ」
「・・・それ、褒めてる?」
「うん」
彼女の問いかけに答えると、そっぽを向いて稽古をしていた裏庭から室内へと戻っていってしまった。
「なんだかなぁ・・・。女の子の扱いって難しいな」
「若様ぁ!孔明殿から冷えた瓜をいただいてまいりましたぞ!ささっ先ほどの赤い部分を」
「いやっもう大丈夫だよ子龍」
「なりませぬ!若様に何かあったら、拙者夜も眠れず・・・「あぁわかったわかった!好きにして」ありがたき幸せ!」
「ややっ赤みが引いておられますな。せっかくいただいたこの瓜いかがいたしましょう」
「孔明に返してくれば?」
「その必要はありません。阿斗様」
「孔明!」「孔明殿」
彼は諸葛亮。字は孔明。言わずと知れた知恵者だ。後の丞相も今はこの地で留守を守っている。手にもつ羽扇がかっこいい・・・。彼に惚れて三国志の世界に入り込む日本男児は少なくないだろう・・・。
「せっかく冷えているのです。それに陽気もいい。一休みいたしましょう」
「それでは、拙者が切り分けますね」
「うん!」「わくわく」
「んえぇ!またいつからそこに!?」
「・・・今来たところ。まった?」
「いやっそもそも待ち合わせなんてしてないし・・・」
「やや!益徳殿の娘御ですな!ちょうどいいところに来られましたな!」
「食にどん欲なところは父親譲りですね」
「むぅ。孔明さま。女性に向かって失礼・・・」
「これはこれは・・・失礼いたしました。では、みなで食べると致しましょうか」
「ははは・・・まっ。みんなで食べたほうが何でも美味しいしね」
「ですな!早速切り分けますね」
「孔明」
「はい。なんでしょう阿斗様」
「この後少し街の方を見に行きたいのだけれど」
「それは・・・」
「若様!でしたら拙者がお供に!」
「うぅん・・・子龍についてきてもらうと、街のみんなが畏まっちゃうから」
「しかし・・・護衛もなしに街へ繰り出すのは、些か危険かと」
「でも、この江陵の街の様子が気になるんだよね」
「・・・わかりました」
「じゃぁ!」
「ですが、護衛はつけさせていただきます。子龍殿」
「ハッ!」
「庶民の服に着替えて、阿斗様の護衛をお願いできますか」
「承知!」
「阿斗様も庶民の子ども服にお着替えになり、街へ」
「わかったよ」
「なるべく騒ぎになりませぬよう」
「うん。まぁ孔明と子龍と叔父上が詰めてる街なんだから、そうそう物騒なことは起きないでしょう」
「・・・そうですね」
「それじゃぁ着替えてくるねって・・・どこで着替えれば?」
「我妻のところに顔をお出しください。さすれば服を見繕ってくれるはずですので」
「わかった!」
「───子龍殿。お願いいたします」
「承知!私も着替え次第、黄夫人の元へと参り若様と街へ」
「ええ。少なくはなりましたが、不逞の輩がいないとも限りませんので」
「はい。では失礼」
「はぁ・・・阿斗様もお変わりなられた。あのように活発な方ではなかったのに。ふむ・・・ところで、貴女はなにをするおつもりで」
「ギクッ・・・孔明さま。私も阿斗と一緒に街に行こうかと・・・」
「様をつけてください。様を。・・・まったく。貴女は私と一緒に来るのです」
「むぅ・・・」
「・・・なんですその不満そうな顔は」
「別に・・・」
「はぁ・・・わかりました。お二人が出られた後に我妻の元に行きなさい。私と一緒に行きましょう」
「・・・やった」
「ですが、手伝いはしていただきます。少し、買いたいものがありますので」
「むぅ・・・女性の扱い方がなってない」
「何を言うのです。男児に変装せねばいらぬ諍いを招くことになります。貴女の身の安全を最大限考慮した上でのことです。不満があれば一緒にはいきませんよ」
「・・・わかった」
「よろしい。では後ほど」
「うわぁ・・・!やっぱりいつ来ても凄いな!」
「あら?阿斗様。よくお越しくださいました。夫なら先ほど裏庭の方に」
「うん。孔明とは会って話をしてたよ。そうだ!瓜、ごちそう様」
「はい。お粗末様でした。それで、御用件は」
「そうだった。庶民の男児の服を一着貸してほしいんだ。子龍と一緒に街をめぐるから」
「あら。それでしたら・・・」
彼女は黄夫人。孔明のお嫁さんだ。『孔明の嫁取り真似するな』なんて言われてるけれど、そうは思わない。彼女、めっちゃ美人。それでいて頭もいい。部屋のあちこちにあるミニチュア工作物。なんとこれ全て彼女が考えたものであるから驚きだ。孔明と一緒に新しい運搬道具も考案中とのこと。そこかしこに木材や工具があるのに部屋は綺麗・・・。すごい人だよ本当に。
「ありましたわ。これなら阿斗様の身長にも合うかと」
「ありがとう!」
「お召替えは・・・」
「大丈夫!自分でできるから」
「そうしましたら、奥の部屋をお使いください」
「うん。ありがとう」
さすが。背丈にぴったりだ。俺の顔はあまり知られてはいないし、街を歩くのに支障はない。問題は・・・子龍なんだよなぁ。顔が売れすぎているから・・・絶対に目立つ。
「部屋、貸してくれてありがとう」
「いえいえ。またいつでもいらしてください」
「うん!」
「御免。若様、お支度は出来ましたでしょうか」
「あっ子龍・・・?」
「なにか変なものでも?」
「いやっ子龍が付け髭をしているから驚いちゃって」
「あぁ。これは、孔明殿いわく若様が「お忍びで行くことを望んでいるから」といって変装用に拵えてくれたものです」
「ハの字の髭って・・・ちょっと意外かも。でも似合っているからよし!じゃっ行こうか!」
「はい!お供いたします。夫人、失礼仕った」
「いえいえ。行ってらっしゃいませ」
「・・・行った?」
「はい。もう素直に一緒に行きたいと言えばよろしいのに」
「だって・・・」
「迎えに来ましたよ」
「孔明様。お連れになるのね」
「ええ。どうしても私の手伝いをしたいというのでね」
「そんなことは言ってない・・・」
「ふふふ。そうだわ!」
「どうかしましたか?」
「うふふ。ちょっとだけ待っていてくださいな」
「「?」」
「いやぁ・・・さすが目抜き通り!賑やかだね!」
今俺が子龍とともに歩いているのは、江陵の市だ。この街は江水と夏水が混じる交通の要衝であるとともに、荊州南部の州治であり南郡の郡治でもある。そう・・・物資と人であふれる大都市なのだ。
「若・・・いえ。福。拙・・・私の手を離さぬよう」
「うん!」
見渡す限り人、人、人。物の売り買いも活発で、商品を説明する声や値切る声など様々な声で溢れている。
「あっ!あの焼き魚食べたい!」
「・・・ですが・・・」
「だめ?」
「くっ・・・そのような顔をされてしまいますと・・・。わかりました。────店主」
「はいよっらっしゃい!」
「この良く焼けた魚を2つくれないか」
「おぉ!お目が高い!うちの焼き魚はうまいぞぉ!そうだ息子さん分のは俺からのおごりだ!人込みで大変だろう坊主!お父さんの言うことをよく聞くんだぞ!」
「あっいや・・・店主この方は「はい!」・・・」
「いい返事だ!息子から目を離しちゃいけねぇぜ!」
「あっいやっだから・・・」
「ほいっお釣りな!」
「すみませぇん!」
「ほら、早くどかないと邪魔になっちゃうよ父上」
「あとさ・・・いや。向こうに行こうか」
「はい!」
「久方ぶりですわね孔明様」
「そうですね。こうして一緒に街を出歩くのはいつぶりでしょうか」
「・・・阿斗はどこ・・・?」
「こら蛍。ここでその名前を出してはいけませんよ」
「だって・・・」
「蛍。私と手を繋ぎましょうか。大丈夫。お母上には話を通してありますから。それに、街に出るのは今日が初めてでしょう?少しぐらい羽目を外しても問題はありません。それに・・・孔明様のお手伝いは、私がしますから。ね?」
「・・・ありがとうございます」
「私は恋する貴女の味方ですよ」
「・・・そんなんじゃ・・・」
「なにを2人で話しているのです?」
「いえ。殿方には内緒ですよ」
「そう・・・ですか。話は変わりますが、少々寄りたいところが・・・」
「あら。一体どちらに?」
「最近、新しい書が入荷したと書店の店主から連絡がありまして」
「まぁ!」
「義父上のお知り合いとのことで、優先的にお話をくれたようなのです」
「それはそれは。是非行かないと」
「蛍には少し詰まらないかもしれませんが、付き合ってくださいね」
「・・・はい」
「ふふ。頃合いをみて私たち2人で店を抜け出しましょう。大丈夫。そこの主人に伝えれば、人を出してくれますから」
「・・・!」
北でも西でも東でも・・・戦乱の続く場所に挟まれていても、街は平和そのもの。定期的に衛兵が巡回し、犯罪に目を光らせている。それでも裏路地などの狭い場所には目は行き届かない。どんな街にもそのような場所はあるものだ。それでも、目立った犯罪が行われないのは、この江陵がしっかりと治められている証左であろう。衣食足りて礼節を知る。文字通りの暮らしを体現しているのだが・・・。