あいり♡時限式
バレンタインの夜、玄関のチャイムが鳴った。その時、俺はテレビを見ていた。里帰り中の姉さんが、ソファで雑誌を読んでいる。
対応に出た母さんが、嬉しそうに戻ってきた。
「優斗にお客様よ。あいりちゃんって子」
「え……」
あいり。
名前を聞いて息を飲む。急いで玄関へ向かった。
「こんばんは」
霧砂奇あいりが立っていた。睫毛が長く、黒目がちな双眸は小鹿のようだ。あいりが、持っていた紙袋へ右手を入れる。
「ごめんね、こんな時間に。今日のうちに済ませたくて。愛してるよ、ゆーくん」
そう言って、あいりは包丁を取り出した。彼女の目から涙が溢れる。
あいりと付き合ったのは、三ヶ月前。彼女は異常に嫉妬深く、身内以外の女性とは、口をきくことさえ許さなかった。
俺と雑談した松田先生は、通り魔にバットで殴られた。肩の糸屑を取ってくれた関さんは、植木鉢が落ちてきて怪我をした。
あいりがやった証拠はない。だが、彼女の言葉を聞いてしまった。
『ゆーくんに近付く害虫は、あいりが潰さなきゃ』
正直、限界だった。今朝、学校で別れを告げたばかりだ。
「こんなに好きでも、今のあいりじゃダメなんだよね。だったら、あいりも、今のあいりは要らないや。じゃあね、ゆーくん」
彼女は包丁を自分の体へ突き立てた。幾度も幾度も。駆けつけた母さんと姉さんが、悲鳴を上げる。あいりの華奢な体が倒れこんだ。
「……らず……から」
「え?」
「……じゅう、ろく……たら……しよ……」
か細い声で呟くと、霧砂奇あいりは事切れた。
あれから十六年。事件の後、他人が怖くなった俺は、立ち直るまで時間を要した。優しい女性と出会い、今ではなんとか人並みの暮らしが出来ている。
「いってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
身重の妻へ手を伸ばす。そっと触れると、赤ん坊が腹を蹴った。性別は聞いていない。産まれた時の楽しみにとってある。
「叔父さん、いってらっしゃい」
妻の背後から、ひょこりと少女が顔を出した。姉の娘、姪の理世だ。休日になると、よく手伝いに来てくれる。
「今日は掃除を頑張るつもり。ピカピカにするからね」
「ははは、頼もしいな」
「理世ちゃん、ありがとう」
理世が慌てて首を横に振る。
「気にしないで。下心がありまして、感謝されると罪悪感がぁ……」
「下心? ああ、理世ちゃんの誕生日だものね」
「プレゼント、期待してまーす!」
二人に手を振り、会社へ向かう。帰宅したら姉夫婦の元へ、理世を送って行く予定だった。
プレゼントの箱がゴトリと落ちる。目の前の光景が信じられない。
「お帰り、ゆーくん」
血だまりに妻が倒れている。理世が赤く濡れた包丁をぶら下げていた。
「理世……」
「違うよ。あいりだよ、霧砂奇あいり。ゆーくんの愛する彼女だよ! あはっ」
あり得ないと即座に否定した。だが、あいりしか知らないことを、姪が次々と口にする。
「松田と関を潰してあげたよね。忘れちゃった?」
「だ、だけど、お前は理世で……」
「このコに転生して、あいりはずっと眠ってたの。産まれた時間がきて、さっき目が覚めたんだ」
「じゃあ、理世の人格は?」
「消しちゃった。害虫駆除で忙しいのに、やめてとか、嫌だとか、泣き喚いてうるさいんだもん」
そんな筈が無い。亡くなった者は戻らない。そう否定したいのに、死に際にあいりが残した言葉が脳裏を過る
『必ず戻ってくるから。十六歳になったら結婚しよう』
あいりは、女の子に転生しようと強く願って死んだという。十六歳になったら、新しいあいりとして、俺の元へ戻ると誓って。
「あーあ、叔父と姪じゃ結婚できないね。運次第だから仕方ないけど、残念だな」
「運?」
「そ。一番近くにいる女の子の胎児に急いで入らないと、どこかへ引っ張られるの。ゆーくんを残して、天国なんか行けないよ」
ため息をついた彼女が、足元の妻を見下ろす。
「今度は大丈夫かなあ? これには入りたくないけど、どっちだろ?」
「何を言ってんだよっ、お前はっ!!」
怒鳴る俺に怯むことなく、あいりは首筋へ包丁をあてがった。
「愛してるよ、ゆーくん。十六歳になったら必ず戻るね」
刃が動脈を傷つける。滑稽な冗談のように、勢いよく鮮血が飛び散った。あいりが床の上へくずおれる。
「うあ、ああアアァッ!」
叫びながら、妻に駆け寄った。抱き起こした体は、まだ温かい。もっと早く帰宅していれば守れただろうか。
気が狂う寸前に、弱々しい産声が聞こえた。
「あっ……」
俺たちの大切な赤ん坊が泣いている。
事情聴取の警官は、同じ質問を執拗に繰り返した。嘘が無いかの確認作業だ。
「貴方が帰宅すると、奥様と理世さんが倒れていたんですね?」
「はい。それで、すぐに電話を」
返答する一方で、違うことを考えていた。
赤ん坊は病院で診てくれている。子供の性別を確認せず、ブランケットに包んで救急車を呼んでしまった。
あの子は男か? それとも女か?
警官に尋ねたら、すぐ教えてくれるだろう。だけど、俺はまだ問いかける勇気を持てずにいる。