最終回
限界まで開かれた窓から熱い風とセミの鳴き声が聞こえてくる。これぞ日本の命の危険に関わる猛暑というヤツだ。夏の香りがするなどと呑気に満喫できる余裕なんて一切無い。速やかに窓を閉め切ってエアコンを最大稼動させて涼を取るべきだ。
しかし生憎と秋山楓は同級生のマンション宅に涼みに来た訳ではない。掃除をしに来たのだ。
「っても掃除し甲斐の無い部屋ねー」
後ろを振り返って室内を見渡す。整理整頓の行き届いた美しい室内だ。日頃の掃除では見落としがちな細かい部分の埃を掃除機やホウキで取り除いて床を水拭きしたら、それで終わってしまうだろう。一週間前に掃除した隣の部屋なんてゴミを全部出し切るのに二日もかかったというのに。
「あ。トイレはどうなってるんだろ。そっちなら──」
「か、楓!」
裏返った声が飛んできた。家主の高浪律である。キッチンの方に視線を巡らせると、彼が頬を痙攣させて立ち尽くしていた。
「どうしたのー?」
「じ、Gが……!」
「え。マジで。殺虫剤は?」
「そこにあるっ……!」
律が震える指でベッドの脇を指差す。そこには五本くらいの超強力殺虫剤が転がっていた。
「どんだけ警戒してんのよ……ほら、律はこっち来て。担当場所チェンジチェンジ」
「しかしキッチンはいつも使っている俺がやるのが筋で」
「この部屋全体いつも使ってるじゃん。早くこっちに来る」
殺虫剤を掴んでシャカシャカと中身を攪拌させつつ、楓はキッチンへ踏み込む。足が竦んで動けなくなっている律の手を引っ張って場所を入れ替わると、彼の視線の先に蠢く夏の風物詩的黒いアレを捕捉した。我が物顔で冷蔵庫の扉に張りついている。駄目な人にはマジで駄目な光景だった。
「ここ上層階なのに出るんだねー。タワマンは上に行くといないって言うけど」
「ここは普通の五階建てマンションだ……」
「将来彩音さんと二人暮らしする時は、もうちょっと地面から離れた階層のマンションに引越した方がいいかもね」
「……いや。家賃が高くなるのは避けるべきだ」
「ならGが出ても平気になりなさい。虫が出る度に女の子頼るのはダサいぞー?」
「……努力する」
凄まじい渋面で呻く律。ちょっと意地悪し過ぎたかな、と思いつつ、楓は冷蔵庫の扉目掛けて殺虫剤を噴射した。
次の瞬間、ヤツは攻勢に出た。
「うわあああああああああああああああああああこっちに来たぁあああああああああああああああ!!!」
「りりり律だだだ抱き抱き抱き抱き抱き着いてひゃああああああああああああ!!!」
「ただいまー。マジクッソあちぃ~。キッチンペーパー買ってき──!? 楓ちゃん律に抱きつくのダメうあああGが!? ええいこの害虫め!」
◇ ◇ ◇
「はぁ……やっと終わった……」
楓は床にどかっと転がる。エアコンの冷気を吸った床材はヒンヤリしていて気持ちが良かった。
寝返りを打つと、横に同じように転がっていた彩音と眼が合う。
「今日は律の部屋の掃除に来てくれてありがとね」
「いーえ。ずっと前に約束してた事ですから。半年近く経ってようやく果たせました」
「部活、今日は休みだったの?」
「今日だけじゃなくて、夏休みが終わるまでずっと休みです。大会は先週で終わりましたから」
「……この前の、惜しかったわね」
「でも自己ベストは更新できました。やるべき事も明確になりましたし。これからもプライベート・トレーナーをお願いします」
「ええ。でも身体を休めるのも大切な練習よ? 残りの夏休みは友達と遊びにでも行ってリフレッシュしなさい」
「はーい。じゃ明日出かけません?」
「……明日はちょっと」
「あ。律とデートですか?」
「……そ、そんなとこ」
「どこ行くんです?」
「あ……あいつの、服を買いに……それから映画でも、観ようかなって話になって、る」
楓は眼鏡を外してうつ伏せになると、両手を交差させて枕を作って顔を埋める。そして横目で彩音の様子を窺った。
九歳年上の親友は眠る時のように身体を横にして背中を丸め、楓を見つめている。その眼には、小さな影が浮かんでいる。
彩音の瞳にその影を見るようになったのは、あの大会の後からだった。
もう随分時間も経ったのに。いつまで気にしているのだろう、この人は。
楓は苦笑しながら彩音の鼻を摘んでグリグリと引っ張った。
「ふがが」
「いつまであたしの事気にしてるんですか?」
鼻を解放して、その手を彩音の頬に添える。
「彩音さんの方が先に覚悟を決められたんです」
「…………」
「言い訳をして先延ばしにしちゃったあたしの戦術的失敗です」
「…………」
「それに……泳ぐ事とあいつの事……二つの好きを同時にちゃんと追いかけられる自信もちょっと無かったですし。律と友達以上の関係になって競泳ができなくなったら……あいつ、多分責任感じちゃうと思うから」
それは本音だ。
何一つ偽りの無い本音。
「だからいいんです。後悔なんてしてません」
でも。
「……して、ません……」
ああ、でも。
「して……ません、か、ら……」
秋山楓の心のすべてでは、無い。
「律が高校卒業するまで……変な事、しちゃダメですからね……?」
「ど……努力する」
「あいつが十八歳になるまで、健全な交際をお願い、します……」
「が……頑張る」
彩音が眼を背ける。その反応に不安が加速するが、これ以上言うと僻みにしか聞こえなくなると思ったので止めておいた。そもそも楓にはその手の忠告を強くする資格が無い。女子水泳部の部室に彼を連れ込んだり、ペットボトルで間接キスをしたり、邪欲に駆られるままに色々やってしまったのだから。
その時、玄関の方で扉が開く音がする。廊下を歩く足音が続き、ビニール袋を提げた律が現れた。
「アイスとジュースを買ってきたぞ──って、どうした、二人とも」
「エ、エアコンつけてもなかなか涼しくならないから床に転がって涼んでたの!」
「り、律もこっちに来る? ほら、あたしと彩音さんの間、空いてるよ?」
「……いや、駄目だろう……」
「べ、別にダメじゃないわよ……? 楓ちゃんもこう言ってるし? ね?」
「う、うんうんうんうん!!! ほ、ほらほら律~おいで~」
「俺は犬か」
結局律は楓と彩音の間隙に収まって、三人揃って天井を見上げながらアイスを無言で咀嚼するという不思議な時間を過ごしたのだった。
◇ ◇ ◇
日が傾きかけたところで楓は帰っていった。駅まで送ると言ったのだが──。
「あたしの事はいいの。律は彩音さんの彼氏でしょ?」
「だが……」
「いいから。あんたの優しさは嬉しいけど、優先準備を間違えちゃダメ。いい?」
「……分かった」
「じゃ、また学校でね」
「ああ」
彩音と俺は男女交際を始めた──訳ではないというか。正確にはまだしていない状態だ。
俺は未成年の男子高校生で彩音は成人女性。しかも彩音は失業中で貯金を切り崩して生活している無職である。世間的にも実情的にも交際に発展するには不安定過ぎるし、両親からもその方がいいとやんわり忠告された。
そうした事情もあって、俺と彩音の関係はこれまでの半共同生活とほとんど変化していない。
変わったと言えば、一旦お互いの家の鍵を返却した事と──無論、お互いに過ちを犯さない為だ──俺が彩音を呼ぶ時に、『姉』とつけなくなった事だろう。
最低でも俺が高校を卒業するまでは現状維持。彩音の再就職が決まればさらに変わるかもしれないが……。
「スポーツインストラクターかぁ~……やっぱこっちかなぁ~……」
ダイニングテーブルにノートPCを置いて求人サイトを検索していた彩音が悩ましげにぼやいた。
俺はそんな彼女の傍らで夕食の準備をしている。今日の献立は豚の冷しゃぶ素麵だ。
「でも給料少ないのよね……」
「どれだ?」
彩音の肩越しにノートPCの画面を覗き込む。労働環境や採用条件、給与形態等の情報がズラリと並んでいた。
「これこれ」
「……相場が分からんが……」
「時給は悪くない。随時昇給だし」
「アルバイトの随時昇給は本当にピンキリだぞ。俺が昔働いていた所はそうだった。彩音はバイトの経験は?」
「大学の時にちょろっと。でもあの頃とは色々変わってるっぽいからなぁ……」
彩音は求職活動の真っ最中だ。理由はもちろん今後の為。生活の為もあるし、俺達の関係の為でもある──そうだ。
俺としては最低でも年内は自堕落に過ごして安静にしていて欲しいところではあった。
やらなければならないという強迫観念に突き動かされてしまうと、真面目な彩音はまた潰れてしまうかもしれない。半共同生活を始める前の彩音を、俺は二度と見たくない。
その事は彩音も分かっているようで、求職活動も比較的緩やかにやっている。いきなり正社員は目指すのはハードルが高いので、社員雇用有りのアルバイトからはじめようとしていた。
「焦る事は無い。時間はいくらでもあるんだから」
安心させようと彩音の肩に手を置いて、軽く摩る。
彩音は肩越しに振り向くと、少し恨めしそうな眼で見上げてきて、俺の手に自分の手を重ねた。
「緩くはやるけど……ダラダラはしたくない」
「貯金はまだあるだろう」
「そういうのじゃない」
「じゃあどういうのだ?」
「……あんたが高校卒業した時には、ちゃんと稼いでいたい」
「…………」
「なによ、その意外そうな顔」
「いや……俺はどうしようかなぁと思って」
「どうしようって?」
「大学に行くか就職すべきか」
「大学行けるなら行っときなさい。損はしないから」
「……実は調理の専門学校への進学を考えている。あの手の資格は腐らないし潰しが効くから」
「むー……」
「何故不満そうにする……」
「家でご飯作ってて欲しい」
「…………」
「その分頑張って私が稼ぐから」
「…………」
「……なんで困った顔すんのよ」
「いや、こう……色々というか……」
昨今の社会情勢的に収入面で不安はあるが、彩音を支える為に主夫になるのは嫌ではないが……。
「気が早いかなと」
「は? 何の?」
「……同棲どころか結婚前提の話になっていないか?」
彩音は口を「は?」の形にして、ポカンとしてしまった。
何かをおかしな事を言ってしまっただろうか? いや、そんな事は無いはずだ。彩音の要望は明らかにそういう類のものだったし、今後の二人の設計をその方針で考えているからこそ就職を急いでいるとしか思えない。
嬉しい事は嬉しいが、いくらなんでも早すぎるのではないか?
「……だめ?」
彩音が、うつむき加減で俺の眼を覗き込んでくる。
「律にやりたい事があるなら、もちろんやって欲しいけど……」
萎む声に胸が締め付けられる。
「そうした気持ちもあるが、俺は俺で学びたい事もある」
「……重くてごめん。無理言った」
「無理じゃない。ただお互いに焦らずにやっていこうというだけだ」
「……うん。でも、さ」
「ん?」
「これくらいは……いいよね?」
切ない声でそう告げて。彩音は身を乗り出して俺を抱き寄せると、唇を重ねた。
終わり
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