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75話:味噌汁を作って下さい

最終回長くなってしまったので分割しました。エピローグ的な内容でもう1話続きます。


 頭は一瞬で真っ白になった。眼の前の光景に現実感を見出せない。テレビの中で展開される俺の知らないどこかの誰かの何かを見ているような、そんな空虚さすら覚える。

 それでもこれは現実だ。鼻腔に襲い掛かるアルコール臭さがそうさせてくれた。

 床に転がっている尋常ではない缶ビールの山を蹴散らしながら彩姉に駆け寄って抱き起こす。


「彩姉! おい、彩姉!」

「…………」

「しっかりしろ! 彩姉!」


 閉じられた瞼に開く兆候は無い。まさか急性アルコール中毒か? この缶ビールの山から有り得る。最悪の事態だ。

 救急車を呼ぼうとスマホを開く。110番? 119番? 焦燥からどちらが救急車か分からなくなる。そうして自分の不甲斐無さに歯噛みした瞬間。


「んあぁ~……あぁ~りちゅりゃぁ~♪」


 彩姉が抱き着いてきた。


「あ、彩姉!? うお酒臭ぁ!?」

「えへへ~あはははは~りつりつりりつくだぁああああああんかくんかぁ~~~~~あはははうへへへ~♪」


 焦点の合わない眼がすぐそこに迫る。いや、眼だけではない。キスを求めるように尖らせられた唇付きだ。

 猛烈な酒臭さと、どこを見ているか分からない眼と、まったく力の入っていない身体。これはもう間違いない──!


「泥酔している上に寝惚けている……!」

「あはは~ちゅ~ちゅ~りつちゅ~~~~~~!」


 絡みついてくる彩姉の身体からは力を感じない。だが、女性としては大柄な百七十センチの体躯は重かった。その上形容し難い仄かな暖かみと柔らさを秘めている。特に楓からスイカ扱いされている胸の二つの山は物言わぬ凶器である。俺の胸や腹の上で縦横無尽に形を変えて張りついてくる。長くしなやかな足は俺の股の間に差し込まれ、やたらと擦りつけてくる始末だ。

 平時ならきっと耐えられなかっただろう。


「ありがとう、鼻も曲がる酒臭さ……!」


 俺はベロンベロンに酔っ払った彩姉を背負って、自分の部屋へ戻る事にした。



 ◇ ◇ ◇



 午後十時。いつもなら何かしらの料理の勉強をしている時間だが、俺はキッチンには立つ事は無くベッドに腰掛けていた。


「…………」


 横には意識を取り戻した彩姉が座っているが、微動だにしない。背筋をピンと伸ばした綺麗な姿勢を意地して、何も無い空間を見つめている。その姿はよくできた彫刻か何かである。


「…………」


 俺と彩姉の間には人一人分の空間があった。彩姉が部屋に籠もってしまう前は完全にゼロだったのに。あの頃が随分と昔のように思えた。もうあんな風には近づけないだろう。


「……落ち着いたか?」


 訊ねると、彩姉は前を向いたまま小さく肯いた。

 彼女が眼を覚ましたのは三十分ほど前だ。四時間近く眠ったお陰で酒は抜けたらしく、アルコールの匂いは消えていた。意識も明瞭なようで、俺の顔を見て絶句し、自分が俺のベッドに寝かされていた事に気づいて悲鳴を上げるくらいには正気を取り戻してくれていた。

 彩姉が落ち着くまで待った後、こうなった事情を説明すると、彼女は再び絶句。結果、今のような肩を並べて座る事態を迎えた訳だ。


「気分は?」

「……わるくない」

「喉は?」

「かわいてる」

「腹は?」

「へってる」


 なら決まりだ。


「ちょっと遅いが夕食にしよう」

「でも」

「……まだ『練習』は足りないか?」


 彩姉の頬の赤みが増す。


「……今、何時?」

「夜十時」

「……ちょっとだけ……部屋に戻ってもいい?」

「シャワーならウチのを使っても」

「そ、そっちじゃ、ない……あぁ、それも、あるかもだけど……」


 長い黒髪を指先に絡めて言葉を濁す。


「ちょっとだけ……したい事が、あるから」


 何となく見当はついた。


「じゃあ夕食は十時半にしよう。時間になったら来てくれ」

「……うん。ありがと」


 ベットから立ち上がった彩姉は足早に部屋を出て行く。

 その背中を見送った後、俺は夕食の用意を始めた。テーブルを拭き、冷蔵庫からこの時間に食べても胃に負担の少ないものを選ぶ。作っておいた肉じゃがを暖め直し、炊飯器の中身を確認した。


「ちょっと足りないかもな」


 彩姉は健啖家というほどではないが、それでもよく食べる方だ。

 冷凍庫の中を確認すると、非常用の冷凍白米がいくつかあった。


「食べ過ぎると胃によくないが……こっちはお茶漬けにするといいな。梅干は……よし、あるな」


 あの部屋の様子からしてまともな食生活ではなかっただろうし。

 肉じゃがの加熱が終わる。味見をすると四時間前と比べてさらに旨味が増していた。作ってから時間も経ったので味がよく染み込んでくれたようだ。ニンジンもとても柔らかく仕上がっていて、箸で少し力を入れれば潰れてしまうほどである。素材本来の甘味が出ている。これならニンジン嫌いの彩姉も食べてくれるに違いない。

 夕食の準備は十時半になる前に終わってしまった。


「……そろそろか」


 ダイニングテーブルの椅子に座ってスマホを操作し、インターネットブラウザを立ち上げた。ブックマークを開いていつものweb小説投稿サイトへアクセスし、登録している作品群の更新履歴を追う。


「……『年下スウェット』」


 その最終回が──更新されていた。

 サブタイトルは『告白』。

 読もうか。

 読むまいか。

 だが、『年下スウェット』の秘密を知ってしまってから読むに読めなかった話が沢山ある。それを読まずに最終回を読むのは気が咎められた。


「どうする」


『愛衣』と『リオ』の行方は気になる。『愛衣』は自分が『リオ』に何を与えてあげられるか分からないから、それを探すまで時間が欲しいと訴えて答えを保留にした。

 その答えが最終回では出されているはずだ。

 彩姉の気持ちの代弁者である『愛衣』が『リオ』の気持ちとどう向き合うのか。


「……なら」


 俺はスマホを閉じた。


「無粋な行為だ。やめよう」


 彩姉が何を『練習』しているのか分からない。

 何故『年下スウェット』をここまで急いで終わらせようとしているのかも分からない。

 ラインで送ってきた『首を洗って待っていろ』というメッセージの意味も分からない。

 この三つの分からないを繋いだ時、もしかすれば──とてもとても身勝手で浅ましい願望だが──彩姉が俺に何かを伝えようとしてくれているのではないか、と思ってしまった。

 最終回には、その答えがあるのではないか。

 だとすれば、最終回は俺にとってある種の答え合わせとなる。

 それは、彩姉の気持ちを盗み見る行為だ。

 俺は黙って彩姉のやろうとする事を見守ると決めた。

 なら、彩姉の心の内が分かる『年下スウェット』は読むべきじゃない。少なくともその結末は知るべきではない。俺だけ一方的に彩姉の気持ちを知ってしまうのは公平ではない。

 俺はテレビをつけて、彩姉が戻ってくるのを待った。


「お、お待た、せ」


 十時半を少し回った頃、彩姉がペタペタと足音を鳴らしながらキッチンに現れた。

 髪は乾かす暇は無かったのか、しっとりと潤いを帯びて彼女の身体を包んでいる。そんな黒髪の隙間から垣間見える顔にはいくらか生気が戻っていた。身につけたルームウェアはいつものように肌の露出度が高い。本当に眼の毒なので辞めて欲しい。けれど、それを言い出せない自分の邪さに腹が立つ。


「お茶とミネラルウォーター、どちらがいい?」

「じ……じゃあお茶で」

「…………」

「な、なに?」

「いや。彩姉がはじめてウチに来た時にも似たような会話をしたなぁと」

「あ……そういえばそうね」


 麦茶を注いだグラスを彩姉に渡す。


「ありがと……晩ご飯の、献立は?」

「肉じゃがにサトイモの煮っ転がし、ゴマきゅうりと豆腐の味噌汁。味噌汁もインスタントは卒業した」

「え。マ、マジで?」

「マジ。味噌汁は沸騰させてはいけない理由も身を持って知ったよ。旨味成分が分解されて風味と香りが飛び、栄養素すら薄くなってしまうんだ」

「……あんた、主夫度上がった?」

「料理だけだ。掃除も洗濯も人並みだろう」


 味噌汁をよそった茶碗を彩姉に差し出す。彼女は茶碗を受け取ると、豆腐とワカメが浮かぶ茶色の水面を興味深そうに観察した。くんくんと鼻を鳴らして匂いも確かめる。


「すごい、ちゃんとできてる……」

「凝れば底無し沼のようなものだが、本当に簡単だぞ?」

「料理ができる人ってみんなそう言う」


 苦笑しながら彩姉が両手を合わせて、いただきます、と奇麗な一礼をした。


「……ホント、はじめてこの部屋に来た時と同じね」

「随分昔な気がする」

「そうね。でも、あの時の肉じゃがの味、ずぅ~っと忘れられないと思うわ」

「なら比較ができるな」

「比較?」

「俺の料理の腕が上がった事が分かるはずだ」

「……なら、確かめさせてもらおうかな……?」


 彩姉が箸で出汁の染み込んだ茶色のジャガイモを摘まみ、口に入れて咀嚼する。

 ゆっくりと。じっくりと。


「…………」

「どうだ?」


 返事は無い。ただ二口、三口と箸を進めてゆく。喋る事が勿体無いと言わんばかりに肉じゃがや白米を口に詰め込んでゆく。


「のりの佃煮、いるか?」

「いる!」

「分かった。でもゆっくり噛んで食べてくれ。ご飯もおかずも、まだまだあるから」

「うん!」


 満面の笑みで彩姉が肯く。その頬には沢山の食べ残しや肉じゃがの汁がついている。食べ盛りの小学生男子だってもう少し落ち着いて食べるだろう。


「そんなに腹が減っていたのか?」

「三日くらいビールとツマミだけで生きてた!」

「倒れるぞ……空腹は最高の調味料と言うらしいが、なるほど」

「なに拗ねてんのよ」


 ずばっと彩姉が箸で指してくる。


「この肉じゃがが美味しすぎるの」

「……そう言ってくれるのは嬉しいが、箸で人を指さないように。お行儀が悪い」

「お父さんめ。もぐもぐ……ニンジンがこんなに甘いなんて……知らなかったわ」

「今日のは特に素材の良さを活かせたと思う」

「グリーンピースの苦味が活きてるって卑怯よ、もぐもぐ……! それに味噌汁も! 美味しい! なんかこう、料亭の味みたい!」

「彩姉、料亭なんて場所で食事した事無いだろう……ネットで市販の出汁パックと昆布水の組み合わせを知って試してみたんだが、思った以上に上手くいった。気に入ってくれて良かった」

「……味噌汁って他にどんな具材を入れるといいの?」

「大根、ニンジン、キャベツ、レタス、ジャガイモ、モヤシ、タマネギ、トマト……およそ合わない食材が無いほどだ。まぁトマトは難易度が高そうだが、そうだな……大根とニンジンは簡単な下茹でで旨味がぐっと増すらしいから、今度はそっちを作ってみようと思う」

「明日作って」


 味噌汁を啜って、彩姉が言った。


「……構わないが、練習はもういいのか?」


 彩姉は何も答えない。静かに味噌汁を飲み干して、カラになった茶碗をそっとテーブルに戻す。

 そして、俺を直視した。瞳を揺らす事無く。射抜くように強く。テーブルの上に置かれた彼女の手は、何かを求めるようにそわそわと動いていて落ち着かない。

 でも、少し離れた所にある俺の手に少しずつ近づいている。

 その所作は獲物を隙を窺う虎視眈々したものではなく、己の中にある恐怖心に抗っているような、そんなおずおずとしたものだった。

 そんな戦々恐々とした情緒は、手から彩姉の全身に伝播する。食事で汚れた唇は小刻みに震え始め、顔色も急激に悪化してゆく。踏切の前で出会ったあの日のような顔付きになってゆく。


「彩姉」


 彼女の手の甲に触れて包み込む。強張って汗ばんでいた手を時間をかけて解きほぐして、掌を開けさせた。

 天井を向いたその掌を、しっかりと握る。


「俺は森村彩音が好きだ」


 彩姉が息を呑む。面妖だった表情が紅潮する。そして口を開く。でも声は出ない。口の形から、「でも」と彼女が言おうとしている事が分かる。

 だから俺は言葉を重ねる。


「家族や友達や、そういう意味じゃない。異性として彩姉が好きだ」

「…………」

「小さかった時から。田舎にいた時から。じいさんの家にいた時から」

「…………」

「元気で明るくて、大人っぽいのに子供で、長い黒髪が綺麗で……そんな彩姉が好きだった」

「…………」

「何も無かった俺に中身をくれた彩姉が好きだ。将来彩姉よりデカくなって熊から守ると言ったが、今だってそう思ってる」

「…………」

「俺は……彩姉──彩音と今の生活を続けたい。いつか……もっと近づきたい」

「…………」

「彩姉は……俺を、どう思っている?」


 平衡感覚が失われるほどの破滅的緊張。想いを伝えるとはこれほど辛く苦しいものだったのかと絶望する。

 でも後悔は無かった。今まで想っていても口に出せなかった胸の内を告げられたのだから。爽快感すらあった。いや、言い足りない。もっともっと言葉を紡ぎたい。web小説『年下スウェット』で彩音が発露してくれた感情はこんなものではない。

 だから彩音。続けて君への思慕の想いを繋げさせて欲しい。そうする事を許して欲しい。


「……律」


 どれくらい待ったか。彩音が呟くように俺の名を呼んだ。


「ああ」

「毎朝、私に味噌汁を作って」

「は?」


 恐ろしく間の抜けた声が出てしまった。

 彩音は今まで見た如何なる赤面顔よりも赤く赤く顔のすべてを真っ赤にして。


「毎朝! 私に! 私好みの! 味噌汁を! 作って! 下さいって! 言って──!!!」


 手を振り解いて席を立つ。乱暴に立ち上がったせいで椅子が倒れて床を打った。そのままズカズカとテーブルを横切ってこちらに来る。意味の分からない言動とその身に纏う剣呑な雰囲気にただ事ではない。俺は椅子から立ち上がって彩音を落ち着かせようと一歩彼女へ踏み出そうとした瞬間。


「──んのよっ!!!!!」


 彩音がそっと身体を引き寄せてきた。首の裏に両手を回して、力いっぱい俺の身体を抱き締めてくる。


「あ……彩音?」


 抱き締められて気づいた。彩音の身体が小刻みに震えている事に。


「わ、分かってよ……! 今ので分かりなさいよ!」

「今のでって……毎朝彩音に味噌汁を作れって事、か?」

「そ、そう! 分かるでしょ!? これが私の……あ、あんたの、こ、告白の、答えよ!!!」

「分からん」

「なんで!?」

「いや、そんな鬼気迫る顔で言われなくても味噌汁くらい作る……」

「だ、だからそうじゃなくて……! 期間限定じゃなくて……!」

「彩音は、俺が好きなのか? 嫌いなのか?」

「すっ……す、すすすすすすすす……すきれふぅっ──!」

「それは家族とか友達とか、そういう意味で?」

「ちっ……ちがいま、しゅっ……!」

「なら……俺がさっき言った意味の好きと、同じ?」


 身体を離して。視界に彩音の顔を映して。精一杯優しい声で、そう訊ねた。

 彩音が顔を背けようとする。ここまで来てそれは無いだろうと思って、意地悪な気がしたが、その頭を左右からそっと包んでその場に固定した。「ふぇ──」と間抜けな声が漏れて、切れ長の眼の端に涙が一気に溜まる。


「答えてくれ、彩音」

「──お」

「お?」

「お、同じ意味で……律が、好き、で、すっ……!」


昨日で終わる予定だったのですが、色々あって終われませんでした…。最終話はもう書き終えているので、18時くらいにアップします。

最後までお付き合いいただけますと幸いです。

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― 新着の感想 ―
[一言] わかっていたことではあるが、楓さんェ・・・ まてよ、律が分裂する以外にも彩姉と楓さんが融合するという手も(白目)
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