73話:首を洗って待っていろ
意識が覚醒する。枕元で騒音を撒き散らしているスマホを掴んでアラームを解除。直後に訪れる静寂を、緩やかに現れた眠気と共に享受しようとする。
そんな俺に激を飛ばすかのような甲高い電子音が鳴った。炊飯器だ。昨日の夜にセットしておいた米が炊き上がったのだ。
「……眠い」
枕に頬を埋めたまま呻く。昨日は調子に乗って遅くまでIHクッキングヒーターを使って料理に耽ってしまったのが失敗だった。その利便性の高さに脱帽して、今まで諦めていた献立に挑戦したのが良くなかった。
「次からは、ちゃんと時間を、決めてやろう……」
スマホを覗く。時刻は午前九時過ぎ。平日なら遅刻確定だが、今日は日曜日だ。普通ならこのまま惰眠を貪っても構わないのだろうが……。
「起きるか」
身を起こして朝の支度を始める。顔を洗って歯磨きを行い、寝癖を直す。寝間着からルームウェアに着替えた後は布団をベッドの上に畳んで窓を開けた。本日は抜けるような青い空。布団を干すには絶好の晴天だ。
壁に引っ掛けていたエプロンをつけて、いざ冷蔵庫と対峙する。昨晩の調理練習の成果物が押し込められているので酷く過密状態だ。
「……明らかに作りすぎだ」
一人分だけでいいのに。一週間が経とうとしているのに未だに癖が抜けない。
溜息をつきながら鮭の切り身を引っ張り出す。下拵えをしてから専用の容器に入れて電子レンジに放り込み、タイマーをセット。暖めておいたフライパンにゴマ油を入れてハムを敷き、その上にタマゴを割る。塩とコショウをひと振りして、少量の水を注いで手早く蓋をした。
じゅうじゅうと水分が蒸発する音を聞きながらテーブルを軽く拭き、昨晩の練習の成果物を取り出してゆく。味噌汁はいつものインスタント減塩タイプを選んだ。
「そろそろインスタントを卒業するべきだろうか?」
インスタントの味噌汁は便利だが、割高なのが欠点だ。自分で作ってしまえば節約にもなる。
(だが、冷蔵庫には味噌を置いておくスペースが無い。いや、味噌は常温でもいいのか?)
そんな事を考えながらフライパンの蓋を開ける。いい具合に完成した一人前の半熟ハムエッグを皿に盛り付けていると電子レンジがアラームを鳴らした。使ったフライパンの後始末をしてレンジから容器を慎重に引っ張り出し、中身を検める。
「今日もいい具合だ」
ほどよく火の通った焼き鮭が現れた。
「今度はフライパンで焼いてみるか」
割と手軽に作れる鮭のムニエルはどうだろうか。下味を付けて小麦粉を振りかけ、オリーブオイルを引き、両面がカリッと狐色になるまで焼く。この焼く時に出た脂にバターと醤油を混ぜて専用のソースにする。
「今日の夜の練習メニューは決まりだな」
最後にキャベツをフードチョッパーで千切りにしてハムエッグの横に添える。プチトマトも忘れずに。塩とドレッシングはお好みで。マヨネーズも用意しておく。これは彩姉が──。
「……マヨネーズは不要だな」
ハムエッグにマヨネーズをかけて食べる森村彩音とは、もう一週間も会っていない。
顔も見ていないし声も聞いていない。
ラインやメールのやりとりさえしていない。
「大丈夫だろうか」
ちゃんと食事をしているだろうか。規則正しい生活をしているだろうか。髪の手入れは面倒がらずにできているだろうか。
様々な懸念が浮かんでは消える。まるで子供を心配する父親や母親の心境だ。今すぐ冷蔵庫の上に置いてある彩姉の部屋の鍵を引っ掴み、駆け込みたい衝動に駆られた。
「……彩姉も何かをしようとしている。なら、黙って見守らないと」
一週間前の、あの奇妙な宣言。「練習したいから」とはどういう事なのだろうか?
楓といい彩姉といい、一体何がしたいのだろうか。この一週間、その事ばかり考えて戸惑い続けているけれど──。
「俺は俺でやる事がある」
焼き鮭を口に運び、じっくりと咀嚼する。施した下拵えの成果はバッチリだ。
次にハムエッグを箸を入れる。ゴマ油の風味と塩とコショウの効きが絶妙だ。黄身の半熟も良い具合と言える。
朝食の定番中の定番である二大料理。手間もかからないが、それ故に奥が深い。素材の良さを活かそうとするのなら、入念な下準備と調理のコツが必要なのだ。今朝のデキで、そうしたコツを習得したと確信する。
「確かに楽しいな、料理は」
そして、彩姉や楓が美味いと言ってくれる料理を作る事が楽しい。
もっと腕を腕を磨かなければならない。もっと作れる料理の数を増やさなければならない。
なら、今日という日曜の使い方は決まっている。
「冷蔵庫の中がいっぱいだから、包丁の使い方でも学ぶか」
実家に戻って母親に師事するのも悪くない。距離的には日帰りできる。
彩姉を一人にしてしまうのは心配なので、ラインで連絡だけは入れておこう。
「よし。では善は急げだ」
ついでに冷蔵庫の中身を何品か持って行こう。正直、俺一人では処理し切れない。
手早く用意を済ませ、彩姉にラインで一日家を空ける事を伝えてマンションを出て。切符を買って電車に乗った。二時間もすれば実家のある家に着く。その間は親にメールで帰省を伝えて、最近なかなか読めていないweb小説の最新話を読んで過ごすとしよう。
「『年下スウェット』はっと」
彩姉の意図不明な宣言の後から、『年下スウェット』の更新は加速した。一日に二、三話は掲載されている。
作者であるYANEAさん──彩姉曰く、完結を目指して一気に執筆しているそうだ。
最近の『年下スウェット』は堅実な更新ペースと内容を維持していた。『愛衣』と『リオ』の関係値が変わってから尊みシチュエーションのバリエーションが豊かになって、距離を縮めてゆく二人の過激な描写に胸が弾んだ。若干変態チックではあるが、壁を殴る衝動を抑えるのに苦労している。
完結してしまえば、胸を締めつけるこの尊さを、もう味わえなくなる。活動報告で『近い内に終わります』という一文を見た時、強烈な空虚さを覚えずにはいられなかった。
(だが、これは彩姉にとって歓迎すべき事だ)
web小説を終わらせても大丈夫──彼女はそう判断した。
まだ少し不安なところもあるけれど、もう彩姉は問題は無い。
きっと自分の足で立てる。
(実家に戻ったら、半共同生活の終わりについても相談するべきか)
彩姉とはもっともっと一緒の時間を過ごしたかったけれど、そんな俺のワガママを押し付ける訳にはいかない。
だが、一つ気になる事がある。彩姉が『年下スウェット』の完結宣言と共に活動報告に不思議な事を書いていた。
(『愛衣』に『リオ』を縛りつけておくのは辛いので解放してあげないと、か……)
彩姉は俺達がお互いに自分達を束縛し合っていると言っていた。
その事については──否定したいができない。それは半共同生活をしているから、という事ではない。
俺も彩姉もお互いの生活リズムに合わせているだけではなく、それぞれの時間のほとんどを相手に捧げていた。その行動が極端であると理解はしていたが、俺自身は鬱陶しさや圧迫感を覚える事は無かった。
彩姉もそうだと思う。そうであって欲しいと願う。
それはそれとして──。
(『愛衣』や『リオ』も俺達のようにそれぞれをお互いに縛り付けていたという事なのだろうか? 確かに『年下スウェット』は俺と彩姉の関係と似ているところがあるが……)
だからなのか。『愛衣』と『リオ』の二人がどんな結末を迎えるのか、気になって仕方が無かった。
◇ ◇ ◇
「……つらあい」
彩音の口から、いつぞやの活動報告の誤字が口からこぼれる。
部屋は酷い有様だった。缶ビールのカラが無造作に転がっている他、ペットボトルやカップ麺やレトルト食品のゴミや、パンパンになったビニール袋が散乱している。さらにカーテンが閉め切られている上、照明も落とされているので、日曜の昼下がりなのに室内は薄暗い。まさに典型的な引き篭もりの部屋である。
そんな部屋の主はというと、ベッドにうつ伏せになって、枕元に置かれたノートPCのディスプレイを憮然と睨んでいた。
昨日の土曜日は楓とフィットネスクラブに行く予定になっていたが、楓から部活が休めなくなったと連絡があってキャンセルになってしまったのも痛かった。気分転換すらできなかったのだ。
「りつ~~~りぃつぅ~~~~りつりつりつりりつ~~~~~~~~」
これは深刻な高浪律成分の不足である。なにせもう一週間も会っていない。顔も見ていないし声も聞いていない。スマホを見ればSDカードに保存されている彼の写真や動画で律成分を補給できるが、それは我慢する。
せっかく血反吐を吐く思いをしてまで覚悟を整えているのだ。少しでも律成分を得てしまったら、そこから貪欲に彼を求めてしまう恐れがある。そうならないようスマホは電源を落としてクローゼットの中に封印した。
今は一刻も早く『年下スウェット』を完結させる。『愛衣』に『リオ』へ告白をさせて、シミュレーションを完了させなければならない。律に告白する覚悟を固めなければならない。
「『愛衣』も~……『リオ』も~……お互いに束縛しまくりじゃん、ホントに……」
特に律と半共同生活をはじめて、更新を再開して以降の『愛衣』と『リオ』は共依存みたいな関係を築いてしまっている。これは彩音の律への依存度を表していると言えるだろう。
「はぁ……しにたい」
完結させる為に二人のキャラを見直しているのだが、自己投影度の高さを思い知らされて嫌気が差す。
それでも完結させないと。事情はあるにしろ、作者として『愛衣』と『リオ』の物語に終止符を打つ義務がある。
「とにかく……今日は話書くのやめて、オチのプロット考えよっと……」
六時間後。
「んがああああああああああああ何も出ないぃいいいいいいいいいい!!!」
暗闇に包まれた部屋で頭を抱えてのたうち回る彩音。この六時間のまともな記憶が無かった。気がついたら日が落ちていたのだ。しかし、プロットを書くべきアウトライン・プロセッサは白紙のままである。一文字も書かれていない。これは酷い。
「ず、ずっと動画サイトをハシゴしてた……!」
もうダメだ。今日はもう何もできない。そんな気力は無い。PCの前にいてもぐだぐだと時間を浪費するばかりで何一つ生産できないに決まっている。アニメを見るか動画サイトで犬や猫の動画を見て終わりだ。
とにかく集中力が出ないのだ。
「ガ、ガス欠ってこんなに辛いものだったの……!」
すべては律成分の不足である。少しでも摂取できれば再起できるかもしれないが、同時に血肉を欲するゾンビよろしく律を求めて止まらなくなってしまう可能性がある。
「……賭けか」
ゴクリを唾を飲み、彩音はベッドから降りる。すると転がっていたペットボトルを踏んで盛大にすっ転んでしまった。口汚く毒づきながら部屋の照明をつけて立ち上がり、足の踏み場の少ない部屋を横断。クローゼットに歩み寄って扉を開放する。
服やバッグや読まないマンガ等が乱雑に押し込まれているその中に捜し求めたモノ──スマホがあった。
「ちょっとだけ。ちょっとだけだから」
口辺が勝手に歪むのを自覚しながらスマホを手にとって電源を入れる。パスワードを入力するとホーム画面が表示された。急く気持ちを抑えつつ画像や動画フォルダにアクセスしようとする。
「……?」
ラインに一件メッセージが来ていた。送信者は高浪律。メッセージの送信時間は午前中。
「み、未読スルーしちゃってたぁ……!? ち、違うの律! 私避けた訳じゃ──!」
返事を書くべくディスプレイに指を走らせる。自分でもドン引きする速度のフリック入力。摩擦で指先が痛くなった。謝罪と返事が遅れた理由を端的にまとめて書き終えて、後は送信するだけになるが。
「……律のメッセージまだ読んでない」
自分のテンパり具合に絶望した。アホ過ぎる。それでいいのか二十五歳。
頭を軽く壁にぶつけて自分を落ち着かせた彩音は、改めて律からのメッセージに視線を走らせた。
『実家に行って母さんから包丁の使い方を教わってくる。もし腹が減っていてどうしようもなくなっていて気が向いたら、俺の部屋の冷蔵庫のモノを適当に食べてくれ。夜の九時過ぎには戻る』
「……お母さんに、包丁の使い方を、教わる……」
正直、男子高校生がせっかくの日曜にやる事では無いと思ってしまった。
同時に、高浪律らしいと感じてしまった。
律に会いたい衝動が急激に膨張する。今すぐ抱き締めて頭を撫で回したい。
たかが料理かもしれない。けれど、やりたい事に対して自発的に動く事ができたのだ。
田舎にいた頃、他人の顔色を窺うばかりで自分からは何もできなかった律がだ。
「……うし」
書いていたメッセージを消して、別の文面を書き殴って送信。スマホの電源を落としてクローゼットの中に放り込んで扉を閉めた。
「私も頑張る」
律成分は不足したままだけれど、やってみせよう──!
◇ ◇ ◇
『首を洗って待っていろ』
彩姉から送られてきたのは、そんなメッセージだった。
「どうしたの、律」
「いや、なんでもない。じゃあ俺は帰るよ」
「いーえ。でも、彩音ちゃん大丈夫なの? 話を聞く限りじゃ根詰めてるようだけど」
「……ああ、大丈夫だと思う」
「そう。今度来る時は彩音ちゃんも連れて来てね?」
「ああ。そうするよ、母さん」
母さんに手を振って、俺は遅い家路につく。
彩姉、そちらこそ首を洗って待っていろ。フードチョッパーに頼らない包丁捌きを見せてやる──。
お読みいただきありがとうございます。




