72話:告白シミュレーション開始
マンションに戻った彩音は、律の部屋ではなく、自室に籠もっていた。
いつもなら律の匂いを堪能しながらweb小説の執筆をしたり、ドラマや映画やアニメを見たり、漫画や小説を読んだり、好きなように過ごすのに。今はとてもそんな気にはなれない。
何をする訳でもなく、着替える事も無く、テーブルに上半身を横たえて何も無い空間をただ眺めている。何の生産性も無い時間の浪費に耽っている。
頭の中には、楓の言葉がループしていた。
『あたし、大会が終わったら律に告白します』
『大会が終わるまでは我慢します。だから、えっと……時間は、ちょっと空きます』
『彩音さんは──どうしますか?』
そんなの決まって──。
「……決まる訳ないでしょ……」
高浪律の事は好きだ。それは森村彩音の本心だ。あんな妄想垂れ流しweb小説まで書いておいて今更好きじゃないなんてどの口が言えるのか。学生の頃に出会った自分を無条件に慕ってくれていた男の子の事を思い返して、もし成長して可愛くなっていたらいいな~と欲望の赴くままにあんなモノを書き殴った度し難い変態だ。
「律の事は好き。好きよ。大好き。でも」
律は私生活の大半を自分との時間に割いてくれている。
いや、違う。自分が律を束縛している。
半共同生活をはじめて少し経った頃から気づいていた事だった。
自分を慕ってくれる少年が嬉しかった。可愛かった。妄想web小説が現実になってゆく事に戸惑いながら、心の底では喜ばずにはいられなかった。すべてに於いて自分を最優先してくれる律という存在が愛しくてたまらなかった。「彩姉を一人にしておけない」と言ってくれた時は、他に例えようがほどの喜びを感じた。
九歳も年下の男の子に、それもかつて自分に憧れてくれていた男の子に依存するなんて、浅ましいにもほどがある。これほど滑稽な話はそう無いだろう。
そんな風に自分を嘲笑し蔑視する度に、でもいいじゃないか、仕方ないじゃないか、ともう一人の自分が声高に言い訳をはじめるのだ。二年間も身も心もボロボロになるまで働いたのだ。それくらいのボーナスタイムはあっていいじゃないか。
頑張ったんだから。
あんなに頑張ったんだから。
甘えたっていいじゃないか。
甘えて何がいけないんだ。
甘えるのはいけない事じゃないって、今日楓に偉そうに言ったじゃないか──!
「……私と楓ちゃんじゃ全然違うでしょうが……」
森村彩音は秋山楓のように強くはないし誇り高くもない。
律が憧れてくれた森村彩音は、とっくのとうに消えて無くなってしまっている。
今ここで自堕落に穀潰しの真似事をしているのは森村彩音の搾りカスだ。彼女の悪い部分を煮詰めて凝縮したような存在だ。
そんな奴が高浪律を縛りつけている。
もう頑張れない人間が、頑張れる何かを見つけた人間の時間を無意味に消費させている。
果たしてこれほど罪深い事が他にあるだろうか?
「……私、律の側にいちゃいけないのかなぁ……」
視界が滲む。鼻の奥がツンとした。
なんで無様。なんて醜い。ああ、恥ずかしい。彼の側にいてはいけないのかもしれないと思った瞬間、いていい理由を探し始めている。甘えていい免罪符を探し始めている。
「楓ちゃん、私ダメかも」
再び楓の言葉が脳裏を過ぎる。
『あたし、大会が終わったら律に告白します』
『大会が終わるまでは我慢します。だから、えっと……時間は、ちょっと空きます』
『彩音さんは──どうしますか?』
あれは楓がくれた猶予時間だ。
即ち、彩音に告白の先手を打っていいと暗に言ってくれたのだ。
律の事が好きなのに。泳ぐ事と同じくらいに好きなのに。
「……譲ってくれた……って訳じゃない」
大会までもう少し時間的余裕があったら、今日にでも告白していたかもしれない。今は泳ぐ事に集中したいのだろう。二つの好きを一緒に追いかける事を選んだとは言っても、今この瞬間に行動に移すには時期が悪過ぎる。無邪気に泳げばいいという話でもない。楓には背負っているモノが沢山あるのだ。
たまたま状況が彩音にとって有利に働いたに過ぎない。
「……どうしよう……」
もう夕方だ。夕食の準備を始めなければならない。
気が重かった。
◇ ◇ ◇
「ごめんなさ~~~い!」
彩音は深々と律に頭を下げた。
二人の間にはダイニングテーブルがある。そしてその上には、お湯を注がれたカップラーメンと、冷蔵庫を占拠している作り置きの煮物達が保存用のタッパーに入ったままズラリと並んでいた。
時刻は午後六時半。今日の夕食は何とも寂しい様相を呈している。彩音が懊悩に苦しんだ末に寝落ちしてしまった結果だった。
「いや、俺も帰るのが遅れた。もっと早く戻っていたら何か作れた。彩姉のせいじゃない」
律が帰ってきたのは午後六時過ぎ。いつもより二時間近く遅い帰宅だ。
「そんなの関係無いわよ。あんただって寄り道したい時だってあるでしょ? 最近は私が晩ご飯の当番を買って出てた訳だし……ホント、ごめん……明日からちゃんと作るから」
「いや。明日からは夕食も俺が作る。しばらく……少なくとも大会が終わるまでは楓の弁当を作らなくてよくなったから。時間的な余裕もできる」
「え……?」
「週末のフィットネスクラブも、俺は行かない。すまないが、彩姉一人で行ってくれ」
何でも無いように説明しながら、律はタッパーの蓋を開けてゆく。
「……ねぇ、律。それって、その」
「今日帰りに楓と会ってそう言われた。嫌われてしまったのかと思ったが、どうもそうする事が今の楓には必要らしい。願掛けみたいなものなのかもしれないから大人しく従う事にした」
カップ麺に向かって「いただきます」をして食事を始める律。
彼の様子におかしな点は無い。
だからこそ彩音は違和感を覚えてしまう。
「……無理しちゃって」
楓も律も無理をしている。
楓は彼に胸を張って告白をする為に、今は律と距離を作って、泳ぐ事に集中する。
律は楓の力になってやれない事にもどかしさを覚えながら、楓の願いを聞き入れる。
なんて一生懸命で不器用な子達だろう。
「無理なんてしていないぞ。別に楓と話せない事に寂しさは感じない」
「……強がるならもう少し普通に話しなさい」
「強がってなどいない」
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」
ムキになる律が新鮮で面白くて愛しい。本当に尊い。よし、明日の『年下スウェット』のネタは決まりだ。
彩音は律を倣って「いただきます」をすると、カップ麺を啜る。半共同生活開始以来の即席麺はメチャクチャ美味しかった。この手の食べ物はたまに食べると本当に美味い。
「でも、だったら余計に私が晩ご飯を作るわ」
「? どうしてだ?」
「楓ちゃんの弁当は大会後にまた作らないといけないんでしょ? だったら夜の料理の練習をちゃんと続けて腕を磨かないと。ビックリさせてあげなさいよ?」
「…………」
律の麺を啜る手が止まる。
「いや、いい」
硬い声でそう言った。
「いいって……」
「確かに楓の為にも料理の練習はすべきだ。だが、練習をしていると彩姉を一人にしてしまう」
「…………」
「昨日、彩姉が待っていてくれた事に気づかなかった。いつもの彩姉との時間を過ごせなかった。あれは駄目だ」
ああ、と。奇妙な納得感と共に、彩音は理解する。
「……ね、律」
「ん?」
「私ね……律を、縛っちゃってるんだ」
「……なに?」
「律の時間を盗っちゃってる。ホントはしたい事を私の為に放り出させちゃってる」
「そんな事は無い」
「ううん、そんな事ある。今あんたが言った言葉が、その証拠」
「…………」
「でもね。縛ってるのは私だけじゃなかった」
「…………」
「律も、私を縛ってる。自分に……私を縛ろうとしてる」
「俺は」
彩音の言葉を断つように、律が口を開く。その眼は彩音を直視して離さない。でも、少しだけ震えている。そして彼の頬には薄い赤が浮かんでいる。
「俺は……今の、この生活を始めた頃は……別の理由があったが……」
「……うん」
「今は……楽しい。心から今の生活を楽しんでいる」
「…………うん」
「楽しいから、彩姉と一緒にいたいと……思う」
最後の「思う」で、律は耐え切れなくなって顔を背けた。横髪の隙間から覗いている耳が茹でたタコみたいに真っ赤に染まっている。
なんだろう、この反応は。
なんだろう、この初々しい仕草は。
これは──。
(え……え? え? え?)
もしかして。
いや、もしかしなくても。
(律も……私の事好きとか?)
今まで律が親身になって側に寄り添ってくれたのは、彼が馬鹿みたいに義理堅い性格だからだと思っていた。
だってそんな理由でもなければ森村彩音の残骸の搾りカスみたいな自分にここまで尽くしてくれる意味が分からない。
無償の親切なんて存在しない。あったとしてもそれはすぐに破綻する。
でも、律が自分の事を家族や幼馴染以上の存在だと──異性として好意を持ってくれていたとすれば──!
(今までの行動全部納得──できない事も結構ある!)
マンションへの引越しの当日、律は確かにこう言っていた。
『だが、それでも彩姉の事が大好きだ』
どうせ家族的な意味の好意だと思っていた。その時の律の反応は何だかちょっと予想と違っていたけれど。
(あれってつもり──そういうコトだった……!?)
でもそれから律は手を出してこなかった。律は彩音がどれほど無防備な事をしても、決して邪な行為に及ばなかった。男子高校生とは思えない驚異的自制心である。伊達に枯れていると言われていない。
(こ、これはあれよね。私を犯罪者にしない為に、が、頑張って我慢してくれたって可能性もあるわよね!? というかそんな事も言ってたし! 言ってた気がするし!!!)
これは決定だ。もう間違いない。
高浪律は森村彩音に異性としての好意を抱いてくれている──!!!
(もしかして……これこのままイケちゃう?)
無論、告白である。
なにせ時間が無い。
大会が終わったら、楓は律に告白をする。
その結果がどうなるのか分からない。
律が楓に友達以上の感情を持っているのかが分からない。
でも、今日までの二人の関係を見ていると、最大限に甘く見ても友達以上恋人未満である。
もしも律が自分に好意を抱いてくれていたとしても──。
(楓ちゃんに強く迫られたら……!)
楓の方に転がってしまう可能性は決してゼロではない。
いや、ゼロどころかむしろ高いのではないか。あんな良い子に告白されて断る奴は地球の生物ではない。彩音が楓に勝っている点と言えば身長と胸のサイズくらいのものだ。
そもそも『高浪律は森村彩音に異性として好意を抱いている』なんてのは彩音の希望的観測による都合の良い結論に過ぎない。ただの親愛の情でこうして一緒に過ごしてくれた可能性だってある。
疑心暗鬼。自己への猜疑心。彩音が世界で最も信用していないのは自分自身である。自分の解釈や考えは新興宗教の与太話以上に信じていない。
でも──ああ、でも──!
「り──りつぅ!!!」
朝のニワトリみたいな声が出た。
「な、なんだ?」
「わたひ! しばらくぅ! いえにこもりゅ!!!」
「……なに?」
「りつとあわないっ!!!」
「……な、何故だ?」
「れんしゅう、したいからぁ!!!」
「……え。何を?」
「じゃあ!!! そういうことだからぁ!!! りょうりのれんしゅうがんばれ!!!」
椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がる彩音は、油の切れたロボットみたいな奇妙な動きで、しかし、迅速に律の部屋を出た。そのまま隣の部屋に戻って鍵をかけた上に普段は使わないチェーンロックを引っ掛ける。
そう。これは彩音の決意表明なのだ。
「練習……練習、練習練習練習……!」
ノートPCに飛びついてスリープを解除。同時に『年下スウェット』の続きを書き始める。
彩音の言う練習とは、無論、律への告白の練習である。
だが、ただの練習ではない。
「さぁ『愛衣』……! 『リオ』に告白するのよ!!!」
自分の娘と息子と言えるであろう存在を用いて、告白をシミュレーションするのだ。
こんな事をしても無駄なのは分かっている。自分でも馬鹿な真似をしている自覚はある。今さっき律に一言「好きだ」と伝えていたら、自分達は歳の離れた幼馴染以上の関係になれていた──可能性はある。
この「かもしれない」が怖いのだ。
もし駄目だったらと思うと頭が真っ白になって何も考えられなくなるのだ。
律がどんな答えを出してもいいように覚悟を決めさせて欲しかった。心の準備をさせて欲しかった。
「その為の『年下スウェット』……その為の『愛衣』と『リオ』!」
覚悟が固まるまで律とは会わない。自分を抑えられないから。
「『愛衣』、『リオ』、こんなクソバカな親でホントにごめぇん……!」
でもあんた達ももうくっつくべきなのよ、この両片思いめ!
「それって私と律の事だったって事じゃん!!! いやそうかもしれないって可能性の話で──!」
いや、そうだ。そうに決まっている。
森村彩音と高浪律は両片思いだった。そうだ。そうだそうだ。だから『愛衣』と『リオ』でシミュレーションは捗るはずだ!
「と、『年下スウェット』を終わらせる……!」
このweb小説を完結させたら告白しよう。
さぁ、楓ちゃん。競争だ。
お読みいただきありがとうございます。




