71話:決意表明
帰りのホームルームが終わる。遊びに向かう者達は我先に、部活に向かう者達は億劫そうに、それぞれの足取りで教室を出てゆく。
「……俺も帰るか」
味気無い一日だった。楓がいないだけでここまで学校とはつまらなくなってしまうものなのか。手応えを感じないものなのか。
「……美味いと言って欲しかったな」
今日の弁当は渾身のデキだった。食べて美味いと笑って欲しかった。
酷いワガママだと自嘲の笑みがこぼれる。楓は体調不良で休んで休んでしまったというのに。何を自分の事だけ考えているのか。
「見舞いに行くか」
楓の家は知っている。学校から遠くもない。何か差し入れを買って行くとしよう。
でも、こんな時は何を渡せばいいのだろうか。
頭に浮かぶ沢山の候補の中からベストのモノを考えつつ教室を出ようとした時、ポケットの中でスマホが震えた。
確認すると、ラインのメッセージの受信通知だった。
『校門の前にいるから来て下さい』
発信者は秋山楓だった。
意味が分からなかった。
今日は体調を崩して学校を休んだというのに。一体どうして?
「どういう事だ……?」
意味を聞こうとしたが、すぐ近くに来ているのなら直接会った方が早いだろう。
昇降口へと急ぎ、靴を履き替えて外に出た。
遠くから聞こえてくる吹奏楽部の演奏に背を向けて走る。
そのまま校門を飛び出して首を巡らせると。
「こっち」
ガードレールにお尻を乗せた制服姿の楓が手招きをしていた。駆け寄ると、居住まいを正すようにガードレールから離れてこちらに向き直る。
少し傾いた西日に浮かぶ楓の顔は、昨日までと少し違っていた。自然体ではないのだ。どこか緊張していて落ち着かない。定まらない視線を何とか俺に向けようとする気配が漂っている。親に嘘を見抜かれた子供というべきか。とにかく不可解な態度だが、顔色が良かった事に安堵する。
「身体は大丈夫なのか?」
「……うん。半日寝てたら良くなった」
「ならいいが出歩くのはまずいぞ。しかも学校に来るなんて」
「……部活の先輩達に見つかると後々面倒かも」
「ならどうして来たんだ?」
「律に……会って、話したい事があったから」
楓の頬に赤みが差す。それは西日に照らされた赤ではない。
「病み上がりに無理をしてはいけない。言ってくれれば家まで行ったぞ?」
「それは……遠慮しとく。うちの親が勘違いしちゃいそうだもん」
「……とにかくここを離れよう。先生方の眼も無い訳じゃない」
小さく肯く楓と連れ立って歩き始める。
運動場をなぞるように敷かれた緩やかな坂を、ゆったりとした歩調で進んでゆく。途中でカキンと金属バットがボールを打つ甲高い音が聞こえた。続いて野球部員達の歓声が鼓膜を震わせた。
楓の方を見る。彼女は俺のすぐ側を歩いていた。
手の甲が何度も触れ合うほどの近くを。
心臓が強く跳ねるのが分かった。
それが不思議と気恥ずかしくて、俺は口火を切る。
「話とは?」
坂を下り終える。その先にあるのは住宅街の合間を縫うように走る細い道。
「……いつもお弁当、ありがと」
呟くように楓が言った。
何かと思えば、そんな事か。
「俺がしたいからしている事だ。気にしないでくれ」
「うん……でも、ね」
手が握られる。
楓が俺の手を握ったのだ。
驚いて彼女を見る。
楓は前だけを見ている。
歩幅が徐々に小さくなってゆく。
「楓?」
「大会まで、お弁当はいらない」
「…………」
「律とも、話さない」
信頼している友達から予告無しに顔面を引っ叩かれたような衝撃だった。
「……俺は、何か君に嫌われる事をしたか?」
「違う……っ」
楓の手に力が籠もる。痛みすら感じるほど強く手を握られる。
強く、とても強く。
「律が嫌いになったとか、お弁当が嫌になったとか、そういうのじゃない」
「なら、昨日の部室の無断使用がバレて問題になったか?」
「それも違う。バレてないし、もうしない」
「なら」
住宅街を抜けて商店街に出る。駅まで一直線に伸びる小さな商店街だ。
さらに楓の足は遅くなった。
「これからのあたしに……必要な、事だから」
「……俺と話さない事が?」
楓が肯く。浅く。微かに。でも強く。
「それで……大会が終わったら、伝えたい事があるの」
「…………」
「ワガママを言ってるのは、分かってる。でも……お願い」
楓の声は震えている。顔は伏せられていて、その表情を窺い知る事はできない。
けれど、繋がれた言葉で分かる。握られた手で分かる。緩やかな足で分かる。
これから大会が終わるまで俺と言葉を交わさないという行為が、楓にとって必要不可欠である事が。
だったら俺の返事は決まっている。迷う道理は無い。
「分かった。大会が終わるまで、君の言われた通りにする」
「……ごめん」
「謝る必要なんて無い。楓が必要だと思ったんだろう? 俺は君の力になりたい。だったら言われた通りにするさ」
もちろん寂しさはある。今日のような物足りない日々がしばらく続くと思うと気が重くなる。
でも、その程度の事なのだ。それで楓が求めるモノが手に入るのなら安いものだろう。
楓が俺を見た。
泣くのを必死に耐えているクシャクシャな顔だった。
どうしてそんな顔をするのか。
言葉を交わさないと告げた楓──その真意の見当さえつかない俺には分からない。
楓が何かを言おうと唇を動かす。でも震えるばかりで何も言わない。いや、言えない。
何とかしてやらねば。でも何をすればいい? 人の機微に疎い俺が何をしてやれる? ただただ混乱が加速するばかりで満足な考えが浮かばない。
不意に視界の端にジュースの自動販売機が映った。
「楓、喉は渇いていないか?」
「え……」
「乾いているだろう。額の汗が凄いぞ。一本奢る」
有無を言わさずに彼女の手を引っ張って自販機に駆け寄る。小銭を入れて五百ミリリットルのスポーツドリンクを買った。取り出し口から引っ張り出してキャップを開け、茫然とする楓に差し出す。
「ほら」
「…………」
「遠慮しないでくれ。今日は気温も高い。水分補給は大切だ」
「……律も」
「ん?」
「律も、汗凄い」
脂汗だ。
「律が先に飲んで」
「しかし」
「律が飲んでくれたら、あたしも飲む」
何だその不思議な交換条件は。
「……ではお先に」
飲み口を咥えて一気に流し込む。甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。自分でも気づかなかったが相当に喉が渇いていたらしく、ペットボトルの容器の半分ほどを一気に嚥下してしまう。
軽くなってしまったペットボトルを楓に差し出そうとして、不意に気づく。
「……新しいの、買い直す」
このスポーツドリンクを楓に飲ませる訳にはいかない。何故なら俺が──。
「それでいい」
「いや」
「それがいい」
「……だが」
「はやく」
一度離した手を、楓が再び握る。そして引っ張る。
俺は言われるままにペットボトルを楓に手渡した。
「…………」
半分になったスポーツドリンクに眼を細めると、楓はゆっくりと口を開けた。桜色の薄い唇が飲み口を咥え、中身を少しずつ飲んでゆく。細い首筋に汗が流れ、飲料を嚥下する度に喉がゴクリと揺れた。その様は恐ろしいほどに生々しく、俺はペットボトルがカラになるまで楓から眼が離せなかった。
スポーツドリンクを飲み干した楓が、ちゅぽん、と音を鳴らして口からペットボトルを放して俺を見た。仄かな熱を帯びた双眸が俺を直視して離さない。
「ごちそうさまでした」
「……じゃあ帰るか」
「うん。駅まで送る」
「しかし」
「いいから。送る」
「……分かった」
駅前にはまだ多くの学生達が屯している時間だ。今日休んだ楓を連れてゆくのは適切じゃない。ここは強く帰宅を促すところだろう。
けれどできなかった。
楓の手を離す事ができなかった。
俺達は歩き慣れた商店街を進み始める。
味わうように。
名残惜しむように。
少しでも──手を繋ぐこの時間が長くなるように。
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