70話:二つの好き
翌日。彩音は朝食の席で律に告げた。
「今日だけど、楓ちゃん学校休むって」
「……体調不良か? だが、昨日は元気そうにしていたが」
「女の子には色々あるの」
「そうか……だが、どうして彩姉にその連絡が?」
「水泳の練習の事でラインしたら教えてくれたの。律にはごめんって」
肩を落とす律に胸の奥が痛んだが、事実を言う訳にはいかない。
朝食の席はいつもと変わらない穏やかな雰囲気で終わった。彩音は律を送り出した後、残されていた家事を手早く片付ける。行き場を失った楓の弁当は、彩音の昼食になる事で無駄にならなかった。
午後十時。彩音は身形を整えて外出する。電車に乗って、約束の場所へ向かった。
◇ ◇ ◇
「おはよー」
店の一番奥にあるボックス席を覗き込むと、秋山楓がふらりと立ち上がって、深々と一礼した。
「朝からごめんなさい……」
「いいのいいの。気楽なニート生活満喫中なんだから。何か食べる?」
楓は無言のまま首を横に振った。まったく眠れていないのか、酷い顔だった。眼鏡の向こうにある眼は赤く腫れていて、目許には涙の跡がくっきりと残っている。顔色なんて真っ青だ。さらに薄着のルームウェアそのままの格好と来ている。まるで失恋した直後のような様相だった。
いくらここが彼女の家からも近いレストラン──彩音が楓と二人で買い物に出掛けた時、最後に寄った個人経営のレストランであっても些か無防備過ぎる。ここが商店街の外れで、後は静かな住宅街が広がる普通のベッドタウンであっても不埒な行動に及ぶ人間は出没するのだから。
「直接楓ちゃんの家まで行くべきだったわね。ごめん」
「い、え……ここを選んだのはあたしです。気にしないで下さい」
昨日の電話では、彩音は楓から詳しい話を聞かなかった。声の気配から冷静に事情を話せる余裕が無いと判断したからだ。直接会って話をしようと提案して、場所や時間も指定してもらって今日ここにいる。
高校生に学校を休ませてしまった事に罪悪感はあるが、どちらにしろ今の楓の精神状態では休まざるを得なかっただろう。
レストランの店長婦人がお冷を運んでくる。心配そうに顔を曇らせている彼女に、彩音は大丈夫ですと小声で答えて、アイスコーヒーとアイスティーをオーダーした。
平日の午前という事もあって、客は彩音と楓だけだった。
やがてアイスコーヒーとアイスティーが届く。コーヒーは彩音の前に、ティーは楓の前に差し出される。
「奢りよ。ここのアイスティーはアダージオって茶葉を使っててね。癖が無くて爽やかな風味があるわ。ノンカフェインだから心も落ち着くの」
「……ありがとう、ございます」
「いーえ。それで、何があったの?」
彩音はコーヒーにミルクとシュガーを入れて掻き混ぜながら訊ねた。
「私にできる事ならなんだってする」
「…………」
「だから、話したくなったら話して」
「…………」
それ以上、彩音は言葉を重ねなかった。コーヒーを味わいながら楓の言葉を待つ。
こういう時は無理に聞き出そうとしない方がいい事を、経験則から知っていた。
律がそうしてくれたのだ。
彼のように上手くできるか分からないけれど。
自分を慕ってくれている優しく格好いい女の子を何とかしてあげたい。
彩音のアイスコーヒーが半分ほど減った頃、楓は呟くように話し始めた。
律と下の名前で呼び合うようになった事。
今までそうしてこなかったのは、律への好意の肥大化を止める為だった事。
律への好きと泳ぐ事への好きが拮抗していて、律への好きが大きくなってしまうと満足に泳げなくなる事。
泳ぐ事が二の次になってしまったら、律の期待に応えられなくなって見限られてしまうかもしれない事。
そうならない為の防波堤と定めていた『下の名前で呼び合わない』というルールに、先日のフィットネスクラブの帰りの電車内での一件で耐えられなくなった事。
律と少しでも二人きりでいたくて、女子水泳部の部室で二人きりで昼食を取るという危ない橋を渡ってしまった事。
好きなのに近づけない、好きだから近づいてはいけないのが辛かった事──。
最初は忘れていた記憶を思い出すようなたどたどしい話し方だった。けれど、すぐに止まらなくなった。堰を切ったとはこの事だろうと彩音は相槌を打ちながら思う。
そして、楓はこう告げて言葉を止めた。
「どうすれば律に触れるのを我慢できるんですか?」
その声音に縋るような響きを感じた。それこそが楓が今知りたい事なのだ。それが分かれば、楓は高浪律と泳ぐ事の二つの好きを両立できると思っているのかもしれない。
だが──。
(いやそれ私の方が知りたい!!!)
彩音は律に直接触れるのは極力避けている──自分をまったく信用していないので、何かの過ちに繋がる迂闊な真似は自重していた。最近の夜寝事件は極めて危険だったが、睡魔のお陰で一命を取り留めている──ので、邪欲を殴り倒せる方法があるのなら、むしろ知りたかった。
だが、そんな情けなさ過ぎる現実を今の楓に伝えられるはずもない。彼女の助けを請うような眼差しは本気だ。
とにかく答えに窮する顔をしてはならない。彩音は自らを戒めながら、何食わぬ顔でコーヒーを啜った。
「……楓ちゃんが求めてる答えじゃないかもしれないけど、いい?」
そう訊ねると、楓は強く肯いてくれた。
彩音は頭の中で慎重に言葉を組むと、ゆっくりと話し始める。
「甘えるのは、いけない事じゃないわ」
昨日、彩音が楓に感じていた危うさは現実のものとなっている。
真面目故に自らを過度に追い詰めて、逃げ場を無くしてしまっている。
そしてその事に気づけないまま、さらに自分を追い込もうとしている。
ならば、真逆の事を伝えるしかない。
「私は楓ちゃんの事を尊敬してる。楓ちゃんは高校一年とは思えないくらいしっかりしてる。ううん、しっかりし過ぎてる。楓ちゃん、今まで二回も大きなスランプを経験してるよね?」
律と出会う前と、皆でフィットネスクラブに行く前。
「スランプの脱出方法って人それぞれだし、深さにもよるから一概には言えないけれど……二回共、楓ちゃんは周りに助けを求められなかった。自分一人で解決しないといけないって思っちゃった」
特に中学の時は顕著だったと言える。精神的にも肉体的にも様々な変化が起こって多感になる時期だから、色々と難しいモノを抱えてしまうのは分かるが、楓の場合は潰れかけたのだ。
「ガムシャラに頑張ってる時や上手くできない自分に腹が立つ時って、何が何だか分からなくなっちゃうよね。私がそうだった。ホントに笑っちゃうくらい極端な方向に走っちゃった。楓ちゃんも知っての通り、最悪な事をやらかしたでしょ?」
苦しむ楓に周囲の大人達が手を差し伸べてやらなければならなかったのは腹立たしいが、なまじ楓が『良い子』だった事が不幸だったのかもしれない。彼女のアラートは小さくて、ちゃんと拾えなかった可能性が高い。
「楓ちゃんは自分は意思が弱いから律に甘えたら溺れて戻ってこられないって言うけれど、そんな事無い。そんな風に自分を苦しめて無理矢理自分を奮い立たせるなんて辛いわ。大丈夫よ、そんなに自分を追い詰める必要なんて無い」
泳ぐ事が好き。律の事も好き。
そして律は泳ぐ事に夢中な楓が好き。
だから、二つの『好き』を天秤には載せられない。
それが楓を苦しめている。
「楓ちゃんの真面目なところはホントに素敵よ。でも、真面目って短所にもなるの。どんな事でも自分のせいにしちゃって、自分がやらなくちゃって思って、自分を追い詰めてしまう。律との事も、仮に解決できたとしても、今のままじゃいつかまた大きな不振にぶつかって苦しむと思う」
かつての彩音がそうだった。会社で仕事を期限内に過不足無く処理していたら、任される仕事の幅と量が際限無く増えていった。社内に「できません」と言えない雰囲気が漂っていたのは事実だが、彩音自身も「できません」と言わなかった。アラートを鳴らせなかったのだ。助けを求める選択肢すら無かった。
だって、それは自分がやらなければならない事なのだから。文句はあってもやらなければならない。それが仕事だし、自分で選んだ事だ。ただ粛々と処理するしかない。
この「できません」が言えなかった結果、仕事は彩音の処理能力を大きく超えて蓄積し、それでも帳尻を合わせる為に会社に泊まり込み、体力も精神も磨り潰し続けた。
結果、二年で破裂した。
「律の事、もっと信じていいんじゃない?」
「え……」
「あいつが楓ちゃんを好いたのは、泳ぐ姿が綺麗だったからとか、そういうのだけじゃない。楓ちゃんが、一つの事にひたむきに頑張る素敵な女の子だったから」
「そ……そんな、事は……他にも、そういう子は沢山……!」
「いたのかもしれない。でも、楓ちゃんは弱いところも律に見せた。ただ綺麗なだけじゃなくて、折れてしまいそうな弱いところも見せた」
見惚れてしまうほどの綺麗に泳ぐ楓と、誰もいない放課後の教室に何とする訳でもなく残って茫然としていた楓に、律は大きな衝撃と強い危機感を覚えたはずだ。
だから拙くても思うままの言葉をかけて、楓を応援しようとした。
「憧れちゃうくらい格好良いいのに、でも危うい。放っておけなかったんだと思う。そうじゃないと今みたいに甲斐甲斐しく弁当なんて作れないでしょ?」
「…………」
「断言してもいい。あいつは楓ちゃんが競泳を辞めても何も変わらない」
──かつての森村彩音の残骸に過ぎない自分にさえ、強い信頼を寄せて世話を焼いてくれているのだから。
「だから甘えてもいい。泳ぐ事とあいつの事と、二つ同時に大好きになっていい。律の事で頭がいっぱいになってる時は、あいつの成分が足りてないだけ。そんな時は律に存分に甘えて、ストレスを解消すればいいのよ。人間、どんなに好きな事でもずっと続けられないんだから」
「……それは……彩音さんの、体験談ですか……?」
「え?」
「律の事で頭がいっぱいになった時は、律の成分? が無くなっててストレスを感じてるから甘えて解消するって、話」
「…………」
顔の表面が熱くなる。いつもならここは誤魔化してしまう瞬間だ。
「ええ、そうよ」
でも、これだけつまびらかにしてくれた楓に対して自分の気持ちをはぐらかすのは卑怯な気がした。
「……彩音さんが……律の事、好きですか?」
だから、こんなストレートな質問にも。
「……うん。好きね」
はにかみながら、答える事だってできる。
「でも歳の差もあるし」
「……芸能人の結婚とか見てると、気にしなくていいと思いますけど」
「そ、それはほら。どっちも成人してるでしょ? 律と私の場合はそうはいかないじゃない? それに、なんというか……私の場合は、あいつを縛りつけるというか」
「え……そ、そういうのはダメですよ? 彩音さん捕まります」
「ひ、比喩よ比喩。あいつの時間を私が独り占めしちゃうというか……! そ、そういう意味だから。断じて直接的にそういう危ないコトしてる訳じゃないし、しようとも思ってない……っ!」
そんな特殊性癖的恋愛観は持ち合わせていない。
まぁ、妄想癖を拗らせている自覚はあるけれど。
「あたしも……律の事、好きです」
そう言って、楓が笑う。
酷くぎこちないものだったけれど、確かに笑ってくれた。
「知ってる。私にとってラスボス」
「……あたしにとっても、彩音さんはラスボスです」
どうやらお互いにそういう意味でも意識し合っていたらしい。
「光栄ね。でも、楓ちゃんの事は大好きよ?」
「あたしもですよ。彩音さんの事、大好きです」
「……ありがと」
「……泳ぐ事も、律の事も、彩音さんの事も……同じくらい……好きです」
そして楓はうつむく。肩を揺らして身じろぎをする。
「……二つの好きなコト、一緒に、追いかけてみます。どちらかが足りなくなった時は、どちらかに集中して……甘えてみます」
「ええ。律なら、楓ちゃんがお願いしたらいくらでも甘えさせてくれるわ」
「それは、その……電車の時、みたいな?」
「……そ……そうね。でも、ブレーキはちゃんと踏みなさい……」
あの時、二人を間近で見守っていた彩音は内心ヒヤヒヤのハラハラだったのだ。メチャクチャ羨ましかったし。彩音には楓のようにああして素直に甘えられる度胸も自信も無かった。昼寝ならぬ夜寝の件は売り言葉に買い言葉の末に決まってしまったものだったのだ。
「……努力、します」
「……ホントに?」
「ホ、ホントに」
楓が自信が無さそうに頬を掻く。これはもう凄まじく不安だ。楓には勢い余って行くところまで行ってしまうところがあるので、律に甘えた結果、最後まで突き抜けてしまうかもしれない。
敵に塩を送ったつもりは無いけれど。
さりとてこれは、ちょっと拙いのでは──?
「……彩音さん、もうすっかり元気ですね」
「え?」
「律も前に言ってたんですよ。彩姉はもう大丈夫だろうって」
「……自信は無いけど……まぁ、前は向けたかなって思うわ」
九歳も年下の少年少女になんて心配をさせていたのかと情けなくなる。
でも、それも過去の事だ。
今は多分──いや、きっと違う。
「良かった。ホントに……良かったです」
「ごめんね。沢山迷惑かけちゃった」
「いえ、とんでもないです。あたしもこうしてご迷惑とご心配をかけちゃったし」
「……じゃあ、おあいこかな?」
「……はい。おあいこです」
その後、二人は温くなってしまったアイスコーヒーとアイスティーを飲み干して店を出た。心配そうにしていた店長婦人も、楓の笑顔を見て笑って送り出してくれた。
「家まで送ってくわ。その格好じゃ危ない」
「あ、いえ。走ればすぐ近くなので。今日学校サボっちゃいましたし。急いで帰ります」
「ん、分かった。明日からまた元気に学校に行って、律を安心させてあげて」
「…………」
楓は何も答えない。眩しいモノを見るかのように眼を細めて、彩音を見つめている。
「……楓ちゃん?」
思わず後ろを振り返る。けれど、そこにあるのは馴染みのレストランだけだ。他には何も無い。
楓に向き直ると、彼女は勢いよく頭を下げて、綺麗なお辞儀をした。
「今日は、本当にありがとうございました」
「そ、そんな改まらないでよ。たまには年上らしい事もしないと決まりが悪いでしょ?」
「……彩音さん」
「ん?」
「あたし、大会が終わったら律に告白します」
穿いていたホットパンツの裾を握り締めて、楓が宣言する。
「大会が終わるまでは我慢します。だから、えっと……時間は、ちょっと空きます」
「……そうね。楓ちゃんが出る大会までは、まだ少し時間があるものね」
「はい。彩音さんは──どうしますか?」
──その言葉は残響となって彩音の身体の中を漂い、消える事は無かった。
お読みいただきありがとうございます。多分残り5話です。




