69話:SOS
彩音と律の夕食後の時間の過ごし方は、半共同生活がはじまってからほとんど変わっていない。
ソファに腰掛けて海外ドラマを見る事。変わったと言えば二人の距離だけだ。拳一つ分あった空間はいつからか肩口が触れ合うほどになって、今ではもう完全にくっついている。彩音から仕掛けた事だ。最初は嫌がられたらどうしようと脅えていたけれど。律は何も言わずに受け入れてくれた。
(つ、次は律の股の間に座ってみようかな。えへへ)
彩音はさらなる飛躍を試みようとするものの、さすがに今度はハードルが高いと足踏みをしている。
だから執筆中のweb小説『年下スウェット年下の幼馴染が私を好きすぎてスウェット姿でビールを買いに行けない』で、この邪欲に彩られた妄想を炸裂させた。いや、シミュレーションというべきか。律の行動パターンを思索し、その反応を『リオ』にさせるのだ。そして自らの分身である『愛衣』を動かす。
(シミュレーション結果は問題無し。よし、今なら……!)
そう思って今日の夕食後の時間を迎えたのだけれど。
「りつー」
ソファに座ったまま、彩音は肩越しにキッチンを見やった。そこには、愛用のエプロンを引っ掛けたまま、真剣な眼差しでスマホを操作している律の姿がある。また、シンクの周りには沢山の食材や調理用品が広げられていて、とても夕食を終えた後とは思えない。
夕食を食べている時からこんな様子である。彩音の夕食を食べている時もどこか上の空で、声をかけても反応が頗る鈍かった。食べ終わった後は律が片付けを買って出てくれたので、彩音はその場を彼に任せて風呂に入る為に自室に戻り、寝る用意を整えて再び律の部屋を訪れた。そしたらこんな状態だったのだ。
「…………」
しかも呼んでも返事が無い。スマホの画面に集中していて、外からの雑音が聞こえないようだった。
楓の弁当の献立で悩んでいるのか、という訳でもない。彼女の明日の弁当の用意は終わっているのだ。
「り、りつー」
やはり反応は無い。仕方なく彩音はソファを離れて律に歩み寄ろうとする。
その時、律が思い出したように動き始めた。スマホを冷蔵庫の上に置くと、肉や野菜に包丁を入れ、IHクッキングヒーターの上にフライパンを置いてゴマ油を引き、手早く食材や調味料を投入してゆく。たちまちの内に芳しい香りが室内を満たした。
こんな時間に本格的な料理をはじめてどうするのか? と彩音は聞こうとして。
けれど、言えなかった。
「…………」
決して広くはないキッチンを慌しく動き回る。
そんな律の横顔は真剣だった。
そして夢中だった。
無視されてしまっている事への戸惑いも、自分との緩やかな時間を蔑ろにされてしまっている寂しさも、綺麗に吹き飛ばされてしまった。
(……惚れた弱味かな……)
でも贔屓目無しで胸キュンする。ちょっと前に『料理男子』なんて言葉がそれとなく流行した。イケメン芸能人や俳優達が慣れた様子で料理をする場面がテレビや動画サイトを賑わせていた。料理が得意な男子はそれ以外の家事もできて、男がバリバリに料理をするギャップが良いとか、そういう理由だ。
当時はブラック企業の激務に精神をすり減らしはじめていた頃だったので、何をバカな、と斜に構えて笑ってしまったが、独占欲を滅多刺しにしてくる九歳年下の少年が立派な料理男子となってしまった現在はまったく笑えない。
一部では可愛げがないとか料理にうるさそうだとか自分が面倒を見てあげられないとか色々言われているが、お前達はこの尊さと出会っていないだけだ、と厳しく糾弾したい。
好意を寄せる男がエプロンをつけてキッチンに立ち、引き締まった表情で油断無くフライパンを動かす姿の尊みを分からないなんて、人生の九割無駄にしていると訴えたい。
「よし……うまくできた……っ」
額の汗を肘で拭って、律が笑った。
それはもう無防備で無邪気で屈託が無い──歳相応の、彼が普段まず絶対に見せない類の笑顔だった。
「ふひ」
自分の声とは思えない気持ちの悪い声が漏れた。うわ超引くわ。でも大丈夫。今の律には聞こえない。
「……彩姉?」
「なんでこういう時に限って聞こえんのよ!?」
「……もしかして、ずっと声をかけてくれていたのか?」
「そ、そうよ。だって……全然こっちに来てくれない、から」
律はしばらく眼を白黒させた後、慌てた様子で時計を見た。
時刻は二十二時半。もう三十分もすればホットミルクの時間だ。
律の顔色が変わる。
「すまない……!」
「べ、別にいいわよ。気にしてない。でも、どうしてこんな時間にそんなに気合入れて料理なんてしてたの?」
「ああ……まだフライパンを使った調理は慣れていないから練習をしていたんだ。すぐに片付けるから少し待っていてくれ」
バタバタと汚れたフライパンやボウル等をシンクに突っ込む律。こんな慌てた彼を見るのもはじめてだった。
そんな九歳年下の少年の事を、彩音は凄く可愛いと思う。
同時に、今まで彼の時間を徹底して独占してきた事実を改めて実感する。
彩姉を独りにしておけないとか、彩姉の世話をしたいとか、友達を作るよりも彩姉と一緒にいたいとか、こっちの理性をズタズタに引き裂く発言をバンバンしていてくれたけれど。
それらは、彼の時間をすべて自分が奪ってしまってもいいという免罪符にはならない。
いや、してはならないのだ。
だって、彼は変わってきたのだから。
「ううん、大丈夫。今日は帰るわ」
「しかし……」
「そんなションボリ顔しないで。怒ってる訳じゃないから」
少し──いや、とても寂しいけれど。
怒るなんてとんでもないと思う。律の自由な時間を奪っていたのは自分なのだから。
今までこうして夢中になるモノが無くて空いていた彼の時間に、自分が都合良く納まっていたに過ぎない。
その事に罪悪感を覚えて続けてもいたけれど、でも、律が受け入れてくれているから構わないと思って甘え続けた。
一方で、律にはこうなって欲しいともずっと思っていた。今日とは少しだけ違う明日を迎えて欲しくて、ささやかだけれど行動していた。
だから、これは喜ばしい事だ。
「じゃあ、また明日ね。おやすみ、律」
「……ああ、おやすみ、彩姉」
黒髪を翻して彩音は律の部屋を後にする。悲しそうにしている律に胸が軋んだ。
自室に戻ってベッドに倒れ込む。このまま寝てしまおうかとも思うが、まだいつもの就寝時間には遠い。それに、今部屋を暗くしてベッドに潜り込むと、寂しくて駄目な事ばかり考えてしまいそうだった。
「ちょっと書くか」
ソファに座って、向かいのテーブルに置かれていたノートPCを膝上に置く。スリープモードを解除すると、画面に途中まで書いた原稿が表示された。内容はもちろん『年下スウェット』である。
更新を再開したのにスランプに陥って書けなくなる時もあったけれど、今は緩やかな更新速度を維持している。特に主人公のOL『愛衣』が同居人の年下の少年『リオ』に攻勢に出た以降は作品全体の空気感も変わって、読者の反応が良くなった。妙に過激な描写も増えているので嫌がる読者もいるのだけれど。
「まぁ……うん。いいよね、ちょっとくらいなら……?」
でも感想で「欲求不満なんですか?」と火の玉ストレートを投げ込まれた時は本当に困った。ああそうだよあんたも好きなヤツと半共同生活なんて生殺しみたいな展開に陥ったら分かるよと真顔で言いたかった。
「妄想小説もいよいよ極まってきてるわね……」
律や楓が楽しんでくれているし、今の自分を取り巻く環境的に永遠に書ける気さえする。
「……気がつくと余裕も出てきたなぁ、私」
律に優先順位を下げられてしまっても喜べるくらいに心にゆとりはある。数ヶ月前はあれほど世界がモノクロに見えたというのに。すべては律と楓のお陰だ。
「……『年下スウェット』の執筆じゃなくて別の事するか」
原稿をクラウドに保存すると、彩音は別のテキストファイルを広げた。
楓の今後の指導についてまとめたテキストだ。楓が目標タイムをクリアする為にこなすべき練習や注意点が列挙されている他、彼女の競泳選手としての長所と短所も端的に記されている。
それらを推敲しつつ、動画サイトを巡って競泳の指導者や現役選手達の解説動画を虱潰しにチェックする。
「体力強化の優先度は上げるべきねー……持久力を伸ばすトレーニングをさせた方がいいか」
楓の泳ぐセンスは抜群だが、無意識にそのセンスに依存している節もある。それを矯正する一つの手段として地道なトレーニングは悪くない。横に律をつけて一緒にやってもられば効果も高まるはずだ。露骨なまでに『鼻先にニンジン』ではあるが、彼の運動不足解消にも繋がって一石二鳥で──。
「……何するにしても律がいるなぁ……」
今更すぎる。本当に今更すぎる。
でも事実なのだから仕方が無い。
「…………」
彩音はソファの背もたれに背中を預け、天井を向く。
高浪律は、自分をどう思ってくれているのだろうか。
今日まで一緒にいてくれたのだ。少なくとも嫌ってはいないはず。というかこれまでの行動や言動からして。むしろ好意的であると推察できるだろう。
「でも……楓ちゃんがいるし……」
誰がどう見てもあの子の方が人としての魅力に溢れている。素直で明るくて活動的で、ころころと変わる表情は本当に愛くるしい。現役高校生スイマーの身体は無駄無く鍛えられていて、格好良さと色気を兼ね揃えている。そして自分を高める事にストイックだ。
可愛くて気が利いて、何かあった時は後ろからそっと背中を押してくれる。彩音にとって、楓とはそんなパーフェクト女子高生だ。極めつけとして律と同い年。ここが彩音との決定的な違いだ。
恋愛に歳の差は関係無いと言うが、今時点の彩音と律では問題しかない。成人女性と未成年の男子高校生である。こうして半共同生活を営んでいる事も諸々の理解を得られなければ絶対にできなかった事だ。
自分と比較するのも馬鹿馬鹿しい戦力差だ。しかもこの差を埋める手段が見当たらない。
「ラスボスすぎる……」
強い意志を秘めた尊敬に値する可愛い後輩。そんな彼女から教えを請われ、頼られている事が今もこそばゆい。
でも、その信頼を裏切る真似をするつもりはなかった。やれる範囲で楓をサポートしなければと思う。
彩音は、楓に危うさを覚えていたからだ。
「無理してなきゃいいけど……」
楓は強い意志で自らを奮い立たせ、御する事ができる素晴らしい少女だ。
しかし裏返せば、自分を過度に追い詰める傾向があると言える。中学の時と今と二度の不振を経験しているが、いずれも精神的な不調に起因している。
真面目とは長所ではなく短所だと、彩音は確信を持って断言できる。正確には、長所と思っていると短所になるのだ。その事を知らない人は、真綿で緩慢に自分の首を絞めている事に気づかない。
それを彩音は二年働いた黒い職場で学んだつもりだ。自分と楓が同じなんて傲慢な判断はしないが、さりとてまったく違うとも思っていない。
「メンタル面も考えないとなぁ……」
数カ月前に電車に飛び込みかけた自分がおこがましいにもほどがある、と彩音は思うけれど。
スポーツ選手にとって精神面のケアは、技術の習得や身体のトレーニング以上に重要な事だ。
「うし。その手の本でも何冊か買ってとくか」
その時、ベッドに置き去りにしていたスマホが震えた。メールやSNSの通知かと思ったが、バイブレーションは途切れない。
「電話?」
ノートPCをテーブルに戻して、急いでスマホを掴む。画面に表示されている発信者名は、秋山楓。
こんな時間になんだろう、と思いながら通話をタップしてスマホを耳に添える。
「はい、もしもし?」
『あや、ね、さん』
掠れた声が聞こえた。一瞬誰か分からなかった。
「……楓ちゃん? どうしたの?」
『たすけて、あやねさん』
お読みいただきありがとうございます。何事も無ければ後6話で終わります。1話辺りの文字数が膨らみ始めたのでボリュームはありそうな気配がしますが…。




