68話:秋山楓の本音
当初想定していたより少し暗い話になってしまいました。何卒ご容赦下さい。
──高浪律を下の名前で呼ぶ。
たったそれだけの事が秋山楓にとってどれほど大変だったか。どれほど勇気が必要だったか。
自分でも驚く。中学の時から何度も何度も言おうとして、その都度言えなかった。
嫌だと言われたらどうしようと、上手くいかない未来を勝手に想像して、勝手に恐怖を覚えて、勝手に諦めた。
でも、ずっと思っていたのだ。願っていたのだ。憧れていたのだ。
『俺は君のファンだ』
『君の泳ぐ姿はとても綺麗だった』
燃えるような夕焼けに浮かぶ教室で律が紡いだ言葉は一字一句間違えずに覚えている。
秋山楓を支える要素は沢山あるけれど。森村彩音と彼女の教えや、部活の仲間達や顧問、家族、沢山いるけれど。
でも、一番大きい部分を占めているのは高浪律だった。
これまでも泳ぐ姿が綺麗だと評価してくれた人は沢山いた。自分に憧れて水泳をはじめた可愛い後輩もいた。
それなのに、高浪律の言葉と存在は楓の心を徹底的に支配してしまった。
何故だろうと何度も考えた。三年以上経った今も明確な答えは出ていないが、朧気ながら予想は出ている。
『今度は個人的に応援に行く。君の頑張る姿は素敵だ』
無理に褒めている訳ではない。
熱に侵された賞賛でもない。
それは──純粋な訴えだった。
何を考えているか分からない仏頂面だったけれど。
告げる声音はどこまでも透明だった。
余す事無く高浪律の本心を伝えてきた。
その言葉が、記録が伸び悩み、周囲に苛立ち、自分に失望していた楓をどれほど救ったか。
律に『夢中になれる事に打ち込める凄いヤツ』と認められた事がどれほどの力になったか。
いいなぁと思った。
この人にずっと見ていてもらいたいなぁと思った。
この人に認められ続けたいなぁと思った。
だから友達になった。
いや、友達からはじめた。
スランプを脱出して大会でも結果を出した後、応援してくれた事のお礼を伝えて、いつも一人の彼の側にいるようにした。
律はクラスでも少し浮いた存在だった。言動が単刀直入で言葉も選ばない。人を傷つけるような事は無かったけれど、クラスメイト達と円滑なコミュニケーションを取るのは難しかった。楓がその人格形成の由縁を知ったのは律の家族と仲良くなった後である。
それでも学業成績は良く、良く言えば誠実な性格だったので、嫌われる事は無かった。教師からの受けもいい。
でも心配だった。眼を離すとどうなってしまうか不安だった。だから彼と同じ高校に進学した。
「違う。それは嘘」
本当は自分を一番近くで見ていて欲しかっただけだ。
律を一人にしておけない事を言い訳にして、身勝手な欲望を偽ったに過ぎない。
でも仕方ないじゃないか。
好きなのだから。
飾らない透明な言葉を向けてくれる高浪律が好きで好きでどうしようもないのだから。
でも、そう思えば思うほど、楓は律が認めてくれた自分から遠ざかってゆくのが分かった。
律の事を考えてしまって、記録が落ちた。
律の事を想ってしまって、泳ぐ事に集中できなくなった。
律の事を好きになればなるほど、律が認めてくれた自分が崩れてゆく。
泳ぎは得意なのに、気づけば彼に溺れていたのだ。
このままでは律の期待に応えられない。
このままでは律に見限られる。
好きな事に──泳ぐ事に夢中になれなくなった自分は、律にとって、きっと無価値な人間になる。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ──。
「でも、今更離れられない」
好きなのに近づけない。
好きだから近づいてはいけない。
だから楓は律を下の名前で呼ぶ事を諦めた。『律を名前で呼ばない』という防波堤を作って、それを超えないようにした。超えると律が好きだという気持ちが暴れて手がつけられなくなると分かったから。
好きな人を下の名前で呼ぶ。
たったそれだけの事が秋山楓にとってどれほど大変だったか。どれほど勇気が必要だったか。
中学の時から何度も何度も言おうとして、その都度言えなかった。
自分を制御する為の防波堤があったから。言えるはずがなかった。言ってはいけなかった。
嫌だと言われたらどうしようと、上手くいかない未来を勝手に想像して、勝手に恐怖を覚えて、勝手に諦めた。
もちろん嘘だ。自分を我慢させる為の方便だ。
でも、ずっと思っていたのだ。願っていたのだ。憧れていたのだ。
それなのに──ああ、それなのにそれなのにそれなのに……!
「言っちゃった……言っちゃったよあたし……! どうしよう、どうしようどうしようどうしよう……!」
女子水泳部の更衣室に併設されたシャワー室で、楓は熱いシャワーに打たれながら呻く。向かいの壁に両手をついて懺悔を吐く。虚勢と欺瞞で造った防波堤を自ら壊してしまった。
フィットネスクラブの帰りの電車が引き金だったと思う。
突然の揺れから抱き締めて守ってくれた。そして不可抗力の末に額に唇が触れてしまった。
あの時、理性は瞬く間に融解してしまった。熱せられたフライパンに放り込まれたバターみたいにあっけなく形を失ってしまった。律の心臓が凄まじい早鐘を打っていたのも強烈な追撃となった。自分を異性として認識してくれていて、身体が触れ合った事にこれでもかと反応してくれたのだ。
嬉しくないはずがない。
楓の頭の中には、もう律の事しかない。
律と繋いだ手の温もりが忘れられない。
甲斐甲斐しく弁当を広げてくれる律の不器用な笑顔が忘れられない。
だから今日はあんな過激な行動に出てしまった。放課後以外は立入禁止になっている部室棟に忍び込んで、言葉巧みに律を騙して誘導して女子水泳部の部室で二人きりで昼食を取った。顧問や部員に知られれば大問題だ。
なんて危ない橋を渡ってしまったのだろう。迂闊どころではない。ただの色恋馬鹿の所業だ。律と名前を呼び合いながら、もう二度としないと誓った。
「それなのに、またしようと思ってる」
楓は震える手で頬に触れる。弁当を食べている時、律が触れてくれた場所だ。彼はここについていた食べ残しを取って食べてしまった。
「…………」
頬を指先でゆっくり撫でて。
その指で唇をなぞる。
「…………」
最近の『年下の幼馴染が私を好きすぎてスウェット姿でビールを買いに行けない』でも、こういうシーンがあった。『愛衣』が『リオ』の頬についていた食べ残しを指で拭って、それを艶やかな仕草で舐めて舌の上で堪能する官能色の強い展開だった。反響が強く、今後もその路線で話を書いていくような事を活動報告で言っていた。
あの話の元ネタは実生活で律にされた事だろう。今日の律の反応からしてそうに決まっている。
羨ましかった。
同時に凄いと思った。
だって、そんな無防備極まりない事をされても、二人の関係はずっと維持されているのだから。
お互いに好き合っているのに。
異性として意識しているのに。
どうしているのだろう。
どうやって好きな人に──律に触れたいという甘美な誘惑に勝てているのだろう。
知りたかった。
お読みいただきありがとうございます。




