67話:近づく二人
自炊をはじめたきっかけは改めて思い出す必要も無い。
家庭の事情で独り暮らしをはじめた直後、秋山から「コンビニ食は不健康だ」と小言を貰った俺は、ネットで色々と調べて電子レンジを使った簡単な煮物を作ってみた。カットされたカボチャにめんつゆとみりんと砂糖を入れただけのものだったが、存外よくできてしまった。
想像以上の手軽さで美味い煮物が作れてしまった成功体験は、とても大きかった。
趣味らしい趣味の無く、いつも時間を持て余していた俺にとって、料理は確かに夢中になれるものなのかもしれない。でも、秋山の競泳のような崇高なモノとも思えない。彩姉のweb小説執筆のように沢山の人達を楽しませるモノでもない。
でも、料理をするのは好きだと思う。
彩姉や秋山が俺が作った料理を美味そうに食べる瞬間が好きだと思う。満たされると思う。
次はこういう料理が食べたいと言われると、身体の奥から不思議な活力が溢れてくる。やってやろう、作ってみせよう、美味いと唸らせてやろうと、強い高揚感と共に思う。
崇高なモノでもないし、不特定多数の沢山の人達を楽しませるモノでもない。
けれど、身近にいる大切な人達が喜んでくれるのなら──。
「料理はいいな」
「ん? 何か言った?」
横を歩いていた秋山がこちらを見てくる。
「……秋山。男子高校生の趣味が料理って気持ち悪いか?」
「全然。料理男子って結構モテるし、いいと思うけど?」
即答だった。そうか、俺のような男は料理男子というか。
「どうしたの、突然」
「いや、なんでもない。さぁ、昼食を食べられる場所を探そう」
時刻は昼休み。俺達は弁当を広げられる場所を探して、喧騒渦巻く校舎を歩き回っていた。
これまでは学食のテーブルを使わせてもらっていたのだが、最近は同級生や上級生、教師の方々から妙な注目を集めるようになって、落ち着いて昼食を楽しめなくなっていた。
そこで校舎の中庭に場所を移そうとしたのだが、今日は先客が多くベンチが埋まっていて、こうして当てもなく校舎の中を闊歩していた訳だ。
「このままでは昼休みの時間も無くなるな。どうする?」
訊ねると、彼女は細い顎に人差し指を添えて思案する。
やがて溜息をつくと、少し困ったような顔を俺に向けた。
「部室棟に行こっか」
「運動部のか? 今の時間は閉鎖されているだろう?」
「抜け道があるの。ほら、行こ」
秋山に制服の裾を引っ張られる。俺は手に提げた弁当鞄を腹の辺りで抱えると、彼女と連れ立って部室棟へ向かった。
部室棟は運動部用と文化部用の二棟ある。二階建てのしっかりとした建物で、近年になって増改築されたらしく、壁や天井には汚れもなく、棟全体に真新しさが漂っている。普段は放課後──今の時期は特例として早朝も──のみ解放されていて、授業中は閉鎖されてしまっている。
連絡通路を小走りで駆け抜けて校舎から運動部の部室棟へ。壁沿いの廊下を進むと防火扉があった。
「まさか、ここが抜け道なのか?」
「うん。ここを閉じるといざって時に困るからって」
「防犯面で大いに不安が残るぞ。女子運動部の部室は大丈夫なのか?」
「へーきへーき。部室には別で鍵がかかってるから」
なるべく音を立てないように重い防火扉を開けて部室棟の中へ侵入を果たす。
締め切られているせいか、外の雑音が一気に遠のいた。誰かの笑い声やかけ声、何かを蹴る音、そうしたあって当然だった喧騒が遮断される。
「なんだか悪い事してる気分だね」
軽くステップを踏みながら、秋山が静かな廊下を歩いてゆく。
部室棟は大きな施設だ。しかし、誰もいない。物音も無いし気配も無い。
そんな中を、どこか嬉しそうに眼を細めて闊歩する秋山の姿は、不思議と現実感が無かった。
「悪い事をしているんだ。見つかると大目玉だぞ?」
「顧問の先生からは、休み時間に部室を使ってもいいけどサボるのは無しだぞーって言われるー」
「おい顧問」
いいのか、そんなゆるゆるで。
「安心して。何かあった時はあたしが誘ったって言うから」
「そうはいかない。君は水泳部の大切な次期エースだ。俺に無理を言われたと言っておけ」
秋山が振り返って俺を見る。彼女は怒ったように眼を眇めると、早足で歩み寄ってきて、俺の眼前で止まった。
けれど、顔は伏せている。
「ばーか」
文句と一緒に手が伸びて。今度は、俺の手を握った。
秋山が俺を見る。俺を罵倒した直後なのに、その顔は楽しそうに綻んでいた。
「そっちはそっちで問題起こっちゃうんだから」
「何故だ? 俺に脅かされたと言っておけば済む話だろう?」
「あんたの立場が悪くなるでしょーが。もういい、バレた時は一緒に怒られよ?」
「だが」
「だがもしかしもなーい」
秋山が踵を返して、俺の手を引いて歩き始める。その物腰はやたらとご機嫌で軽やかだった。
しばらく廊下を進むと、女子水泳部と表札を提げた部室が見えた。秋山が俺から手を離して部室の扉に駆け寄って、スカートのポケットから引っ張り出した鍵で開錠する。
「どうして君が鍵なんて持っているんだ?」
「当番だから」
「職権濫用」
「ゆっくり静かにお昼ゴハンを食べる事で疲労は回復します。その為に昼休みだけ部室を使うの」
「言い訳にならないだろう……」
「かもね。でも今日くらいはいいでしょ?」
秋山が再び手を繋いでくる。触れた彼女の手は、少し汗ばんでいた。でも嫌な感じはまったくしない。むしろ光栄にすら感じる。少し迷った末に軽く握り返すと、驚いた様子で振り向かれた。嫌だっただろうか、と思って力を緩めると、今度はションボリと肩を落とされた。
この反応、なんだか彩姉と似ているぞ。彩姉をシベリアンハスキーのような大型犬に例えるなら、秋山はなんだろうか。屈託が無くて落ち着きがあってしっかり者で、言うべき事はちゃんと言う……秋田犬辺りだろうか?
そんな詮無き事を考えていると、秋山に手を引っ張られて女子水泳部の部室に足を踏み入れた。
「……本当に今更だが、ここに俺が入るのも問題は無いか?」
なにせ女子運動部の部室だ。他の部員に知られれば確実に俺の評判は地に落ちる。いや、元々評判らしい評判なんて無いだろうが、これから卒業までの三年間を変質者を見る眼を向けられるのは辛い。
と思いながら部室を見渡すと。
「ここは更衣室の類じゃないから安心して」
教室の半分くらいの大きさだろうか。大型のホワイトボードやミニデスク付きの椅子が雑然と置かれていた。部屋の奥には四十インチほどのテレビが鎮座していて、壁沿いには白い綺麗なロッカーが並んでいる。
部室というよりも会議室然とした空間だった。
「更衣室はプールにあるの。シャワールームもついてるからね。ここは私物置き場。他にはミーティングとか集会とかやるかな?」
「そうか」
「ふふ。何を期待してた?」
「さぁ、昼食にしよう。この小さな机がついている椅子は都合がいいぞ」
「高浪ーあたしの方見なさーい」
俺はノーコメントを貫くしなかった。下手な事を言えば、秋山から彩姉に伝わってしまって、家でも同じネタでひたすらいじられてしまう。
俺と秋山は適当な椅子を引っ張ってきて向かい合わせると、ミニデスクの上に鞄から弁当を広げた。
「あ、そぼろ丼だ。やったっ」
大きめの弁当箱の中身を埋め尽くす黄色と茶のコントラスト。甘辛いタレが染み込んだ挽肉とタマゴと白米のゴールデントリオ──そぼろ丼だ。
「君の好物だろう? そして主菜は彩姉手製の鶏胸肉とジャガイモの甘辛焼きだ」
「ついにフライパンを使ったおかずだね。うん、とっても美味しそう。彩音さんの宣言通り!」
「彩姉の宣言?」
「今朝、今日のお弁当は楽しみにしておきなさいってラインで送ってきたの」
「……彩姉が、君に?」
とても意外だった。昔の彩姉なら何でもない事だっただろう。でも──。
「彩音さん、もう大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか、とは、今更俺と秋山の間で確認し合う必要も無かった。
「……かもしれないな。この前のフィットネスクラブでもそう感じた」
「というと?」
「君を褒めてその気にさせて、なかなかに無茶な練習を課していただろう?」
「別にそんなに無茶って訳じゃなかったけど……あの日一日で泳いだ距離は結構凄かったかな……?」
「飴と鞭だよ。昔、俺にもああやって色々な事をやらせていた。それができるようになってきたという事は──」
もう俺が余計なお節介を焼く必要は無いのかもしれない。
彩姉はもう一人でも問題無く暮らせてゆける。
失ってしまった自信は、その原型を取り戻したと思う。
まだ少し不安なところもあるけれど。
でも、いつまでも誰かが手を引いていてはいけない。補助輪は外さないといけない。
高校生が大人に対して下す判断ではない。とんでもなく傲慢な話だ。
分かっている。そんな事は今更考えるまでもなく理解している。俺のやった事を彩姉が知れば、彼女はきっと激怒するだろう。余計なお世話だと吐き捨てるかもしれない。もしかしたら彼女の心に傷をつけてしまうかもしれない。
それでも、俺は昔の彩姉に戻って欲しかった。ちょっと意地悪で口が悪く、けれど屈託無く明るく、俺に中身を与えてくれた森村彩音に。
そう遠くない内に、彩姉との半共同生活も終わるかもしれない。
それはとても良い事だ。良い事なのに、胸の奥には形容し難い疼痛が渦を巻いていた。
俺自身が望んだ事なのに。一体何に対して苦しさを覚えるというのか。
訳の分からない痛みと感情から眼を背けるように、俺は秋山に声をかける。
「味の感想は後で彩姉に伝えてやってくれ。自信作に辿り着くまで失敗を重ねたんだ」
「うん、もちろん。じゃあいただきま~す」
秋山が甘辛いタレを纏った鶏胸肉を箸で摘み、口に運ぶ。そしてゆっくりと咀嚼。
「ん、美味し! 冷めててもこの味は凄い! そしてゴハンが進む!」
「そぼろ丼用のスプーンを持ってきた、使ってくれ」
「は~い」
秋山が弁当箱を掴んで口元まで運ぶと、スプーンでそぼろ丼をかき込み始める。惚れ惚れしてしまうほどの豪快な食べっぷりだった。育ち盛りの男子中学生もかくやという食欲で弁当を胃袋に収めてゆくその様は、理知的な眼鏡をかけた線が細い女子とはとても思えない。
というか。今までこんな食べ方をする秋山は見た事が無かった。
俺の視線を感じたのか、秋山がピタリと動きを止めた。頬や唇に散らばってしまった米粒やそぼろを一つずつ指で綺麗に取って口に入れて、汚れた手をウェットティッシュで拭い、何食わぬ顔でパックのお茶を啜る。
「……今のは、忘れて」
首まで真っ赤にして、呟くように言った。
「もしかして、いつもは我慢してたのか?」
「……今日は、その。特に……お腹、空いちゃってて、さ。それに……今日の、お弁当。ホントに……美味しかった、から。そぼろ丼、ホントに……美味しかった、です」
「ありがとう、冥利に尽きるよ。俺の分も食べるか?」
「い、いい。もうお腹いっぱいで、食べられない」
「そうか。なら」
腰を浮かせた俺は秋山に身を乗り出す。
そして彼女の顔に手を伸ばした。
「え──!?」
日に焼けた頬に残っていた米粒を指で摘んで。
「これは俺が食べておく」
口に放り込む。
その様子を、秋山はポカンと口を半開きにして見守っていて。
「─────」
完全に固まった。
「副菜にピーマンとチクワのきんぴらを作ってきた。こっちも食べてくれ」
「…………」
秋山は何も答えない。浅くうつむいてプルプルと小刻みに震えている。
「秋山?」
名前を呼ぶと、彼女はこちらを向いた。何かに耐えるように唇を噛み締めながら。
「……で」
「……なに?」
「かえ、で」
「え?」
「楓」
呪詛でも吐くような勢いで、彼女は自らの名を繰り返す。意図が分からずに眼を白黒させてしまう。
すると、秋山が視線を横に背けた。眼鏡の位置を戻し、横髪を掻き分け、酷く落ち着かない様子になる。
「そういう事、するなら……名前で、呼んでよ」
「……そ、そういう事とは?」
「か、顔にくっついた食べ残しとか、取って、食べちゃう、とか……そ、それ、彩音さんにもやってるんで、しょ?」
「……まぁ」
彩姉はああ見えて子供っぽいところがあるので、よく口元を汚すのだ。だから気づいた時にはやっている。たまに明らかにそれ自分でつけていないか? と戸惑ってしまう量の食べ残しを頬につけている時もあるが。
「『年下スウェット』で、何度も見たもん。最近は『リオ君』にやり返してるし」
「……彩姉にやった事を君にもしたから、君を名前で呼ぶ……というのは関連付けがよく分からないんだが」
「彩音さんは、名前で呼んでる」
「それは付き合いが長いから」
「あたしとも、長いじゃん。今年で、四年目」
「……確かにそうだな」
「なら……いいで、しょ?」
「いい……のか?」
「う、ん。いい、よ?」
こちらの顔色を窺う目と声に、俺は軽い緊張を覚えながら。
「楓」
彼女の名を呼ぶと。
「……うん、律」
秋山──楓も、俺を名前で呼んだ。
ちょっと長めなお話になりました。お読みいただきありがとうございます。
何事も無ければ75話辺りで完結予定です。




