66話:夢中になれるモノ
それから、俺と彩姉の生活は少しずつ変わり始めた。
「彩姉、昼飯は」
「冷蔵庫の作り置きで適当に済ますわ。食材で足りないのはある?」
「野菜類が底をついてきた。余裕があったら買い物に行ってくれると助かる」
「余裕しかないから行ってきてあげる。あーそうだ、血液検査問題無かったわよー」
「良かった。なら揚げ物も大丈夫だな」
朝食担当は俺だ。秋山の弁当と一緒に作る。時々、彩姉が新しく導入したIHクッキングヒーターの試運転やフライパンや鍋を使ったレシピ開発の為に一、二品作って、朝食の席に彩りを増やす。
昼食はそれぞれの場所で済ませ、一日の締めである夕食は彩姉の担当だ。
「厚揚げの煮物、どう?」
「ああ、イケる。腕を上げたな、彩姉」
「えへへ。お陰様で大体の煮物は調味料の量も含めて作り方を理解したわ。ホントにめんつゆって万能なのね」
「ああ。特にカツオダシはいい」
「私、昆布派」
お互いの味の拘りを知る事もできた。
半共同生活を始めた頃は、彩姉と料理の話ができるようになるなんて思ってもいなかった。自分の部屋で特訓を積んでいるらしく、俺の部屋には無い調理器具を持ち込むようになって来た。フードチョッパー──みじん切り器が代表格だ。これがあるとスーパーでキャベツの千切りを買わずに済むのがいい。正直とても欲しい。
「欲しいなら置いとくわよ?」
「駄目だ。それは彩姉のものだろう。私物の境界線が分からなくなると、この手の共同生活は崩壊するんじゃなかったか?」
「むぅ~……ならご両親に相談したら? 高いものじゃないし、買ってくれるかもよ?」
独り暮らしだった頃は──今も形式上は独り暮らしなのだが──カット野菜で済んでいたが、今は三人分の食事を作っているようなものなので、こうした調理を円滑に進める為の道具類には強い魅力を感じずにはいられなかった。
とりあえず彩姉の助言に従って母親に電話をしたところ、使っていないキッチン用品一式を送ってもらう事になったのだが……。
「……チョッパーが入っている……しかも新品じゃないか。使っていない道具じゃなかったのか?」
数日後、届いた巨大なダンボールを開けたら、真新しい箱に収められた未使用のフードチョッパーが二つ出てきた。一つは手巻き式で、一つは電動式。恐らく最新モデルだ。
彩姉とダンボールを挟むように床に座って、中身を検めてゆく。
「電子レンジ専用炊飯器に魚焼用レンジクック、シリコン小分け保存カップ、IH用鍋一式……うわレンジテーブルまである! これで物の置き場が増えるわ!」
「道理で重くてデカい訳だ。クッキングペーパーや台拭きの予備なんかも入っているな……」
「この手の消耗品っていくらあっても足りないのよね。さすがあんたのお母さん。お、包丁の研ぎ器まである」
「何故こんなに沢山……」
とても助かるが、この手厚すぎる支援物資には素直に戸窓った。
そんな風に眼を白黒させていると、早速研ぎ器で包丁を研ぎ始めた彩姉が聞いてきた。
「お母さんになんて言ったの?」
「本格的に料理を始めたいから、使っていないキッチン用品や調理器具があったら貰えないかと」
「あんた、今までそういうの言った事あった?」
「……そういうの、とは?」
「何かを始めたいって」
フードチョッパーを手に子供の頃を思い返す。両親と一緒に暮らしていた頃やじいさんの家で過ごした時、じいさんが亡くなって、それ以降の事……。
そうして気づく。
「特には……無い、かな」
「だからよ。ご両親は、あんたにそういう事を言ってもらえて嬉しかったんだと思う」
「料理をはじめた事は前から伝えていたぞ?」
「気が向いたから、みたいなニュアンスで言ってたんじゃないの?」
どうだっただろうか。親父からかかってくる電話で同級生──秋山からコンビニ飯は健康に悪いから、簡単でいいから自炊をしろと言われたので電子レンジを使った雑な料理を始めた……そんな風に言っていた記憶はある。
少なくとも、今のように明確な意志を持って『何かをはじめる』事を親に告げてはいなかったはずだ。
「今度実家に帰ったら、美味しい料理を作ってあげなさい」
彩姉は俺の髪をくしゃりと撫でると、届いた消耗品達を片付けてゆく。
俺はそんな彩姉の様子を見守りながら、父と母に手料理を振舞う自分を想像してみた。
「……これは、なんというか。恥ずかしいな」
次に帰省するのは夏だ。それまでにIHヒーターを使った料理も人並みにはできるようになっておこう。そう、その時は──。
「彩姉も一緒に実家に来ないか?」
クッキングペーパーを戸棚に入れようとしていた彩姉の手元が狂った。何も無い所で足を滑らせて、シンクに顔を突っ込みそうになる。なんだ、その反応は。
「な、ななな、なんで私まで!?」
「半共同生活をする時、挨拶に行きたいと言っていたじゃないか。母さんもしきりに会いたいと言っていた」
「そりゃ確かに言ったし、そうするのが筋ってモンだけど……!」
「夏休みのお盆に戻るつもりだが、彩姉を一人置いて行くのは気が咎める……というか心配だ」
「だ、大丈夫よ。別にあんたが二、三日いなくても平気だもん。料理の腕だってメキメキ上達中ですし?」
「二週間は帰るぞ?」
「は?」
「最低でも二週間は帰省する。親父達からそれくらいは戻って来いと言われているんだ」
説明している間、彩姉には顕著な反応が見られた。顔から表情が綺麗に抜け落ちて漂白されていったのだ。親に置き去りにされた子供と言えばいいだろうか。
そんなに俺がいなくなる事が嫌なのか。確かに一日三食食事を作るのは面倒だが……。
「……まぁ、未成年の独り暮らしだもんね。ご両親も戻れる時は戻って欲しいに決まってるか……」
「……彩姉、やはり一緒に実家に来ないか?」
「え゛」
「彩姉を二週間も一人にするのは色々な面で心配だ。それに、二週間も彩姉と会えなくなるのは嫌だ」
子供のワガママなのは理解している。
けれど、これが俺の本音だった。
「どうだろうか?」
「い……いく」
彩姉が俺の真横にチョコンと正座をする。綺麗に揃えた両膝の上に両手を置いて、肩に力を漲らせ、緊張した面持ちで俺を直視してくる。俺もなんとはなしに正座をして、彼女に向き直った。
「わたしも、いく。ちゃんとご挨拶とお礼をしたい、から」
「ありがとう。親父や母さんも喜ぶ」
「う、うん。でも楓ちゃんはどうするの……? 夏は大会の季節よ……?」
「あ……確かにそうだ。去年もずっと大会で忙しそうにしていた……」
となると、二週間帰省する事自体に無理があるだろう。
「秋山に大会の予定を聞いて帰省のタイミングとブッキングしないように調整する」
「調整してもどうにもならない時は?」
「帰省期間を縮める」
去年は自由気ままに戻っていたというのに。今年の夏休みは想像を絶する忙しさになりそうだ。でも嫌ではない。それどころかパズルの空白が埋まってゆく心地良さが覚える。この不思議な感覚は一体なんだろう?
「楽しそうね」
「そうか?」
「ええ、今のあんたを見たら、ご両親も喜んでくれると思う」
「……何故だ?」
素直に疑問符を打った。今の俺に親父達を喜ばせる要素なんて何も無いはずだ。成績が伸びた訳でもない。独り暮らしをはじめて多少の生活の知恵が身についただけだ。
「楓ちゃんの部活の応援っていう帰省以上に大切な用事ができたから」
「……秋山の応援は中学の時から行っているから、親父達も知っているぞ?」
「その頃とは全然違うわ。大会会場に行って声を張り上げる応援じゃなくて、あの子の体調を考えたお弁当を作って心身共に支えてる。その為に料理の腕を磨いてる。ううん、夢中になってる──」
彩姉が、そっと俺の手を握ってくる。
「律、気づいてる? 今のあんた、夢中になれる事を見つけたのよ?」
「……それは……秋山を応援する事、か?」
「だったら中学の時からやってるでしょ?」
なら。
「秋山や……彩姉が美味いと言ってくれる料理を作る事……か?」
「……さぁ、どうでしょうね」
はぐらかしながら彩姉が笑った。
お読みいただきありがとうございます。という訳で最終章です。




