65話:彩姉との夜寝
少し遅めの夕食が終わると、夜も八時を回っていた。
「もはや昼寝ではなく夜寝だな……」
「つ、つまり一緒に眠──」
「駄目だ。ほら、動かないでくれ」
肩越しにこちらを振り返ろうとする彩姉の頭を優しく両手で受け止めて前に戻す。今はブラッシングの途中で、下手に動かれるとブラシに髪が絡まって痛い思いをさせてしまう。
フィットネスクラブでは風呂とサウナで汗を洗い流してきたものの、帰ってくるまでで汗をかいてしまったので、結局また風呂に入る事になってしまった。俺はシャワーで事足りたが、彩姉の方はそうはいかない。彼女の場合は髪の手入れも考えると、一日に何度もお湯を浴びるのは億劫になるのではないか、と思ってしまう。
「髪、切らないのか?」
「……やっぱり面倒?」
細い声が飛んでくる。迂闊な質問をしてしまったと舌打ちをしたくなったが、ぐっと堪えた。そんな事をすれば、まだネガティブ思考から脱出できていない彩姉に追い撃ちをかけてしまう。
ヘアカットについて訊ねれば、俺が風呂上がりの彩姉の髪の手入れを鬱陶しく思っているのではないかと彼女に誤解されかねないと予想できるはずなのに。
「面倒なはずがない。前にも言ったぞ、彩姉の髪に触らせてもらって光栄だと」
「でも、三十分以上かかるじゃない? あんたはこの時間を完全に無駄にしてる」
「無駄なものか、ご褒美の時間だ。それに時間も少しは短縮されている。そんな事よりも尿酸値を気にしてくれ」
「そ、それとこれとは話が違う……! や、やっぱり明日から自分でやる……!」
「それ、今日まで何度も聞いた」
苦笑すると、手の下からぐぬぬと呻き声が聞こえた。同時に彩姉の身体がぷるぷると震えているのも感じる。
それからしばらく俺達は無言になる。ドライヤーで髪の乾燥を終えて、仕上げのヘアオイルを選んでもらい、丁寧に塗布してゆく。この作業が割と好きだった。漆器を仕上げているような、そんな職人の気分を味わえるからだ。
すべての作業が終わった後、彩姉は髪のひと房摘み上げて、本日のヘアケアの出来栄えを確かめる。どうやら気に入ってくれたらしく、嬉しそうに眼を細めて笑ってくれた。
「あんたが聞き入れてくれる私のワガママの幅、ちょっとよく分かんない」
「ならその都度ワガママを言ってくれ」
「ふーん大抵は聞いてくれない癖にー。聞くけど聞き入れないって卑怯じゃなーい?」
「はいはい。ほら、夜寝するぞー」
「な、なによ、夜寝って……! だ、だからそれならもういっそ一緒に──」
「寝ない」
という訳で夜寝の支度を始める。我ながら訳の分からない行動に走っている自覚はある。両親や大家さんとの約束が無ければ、彩姉には俺の部屋に泊まって行ってもらう事ができて、色々と手間が省けて楽なのに。
けれど、それだけは認められない。今この生活を許してくれた人達への裏切りになるし、一度でも認めてしまえば、後はもう俺と彩姉の半共同生活に於ける決まり事がすべてなし崩し的に崩壊してしまうのが眼に見えていたからだ。
俺の部屋には、今や彩姉の私物が溢れている。洗濯機周辺には彩姉愛用の柔軟剤や芳香剤が置かれているし、洗面台には彩姉用の歯ブラシが予備も含めて並んでいる。体重計だってそうだ。俺は持っていなかったが、彩姉が体脂肪率やBMIや筋肉量等をすべて計測できるやたら高性能な体重計を持ち込んでいる。
ちなみに、シャンプーやコンディショナー、ボディソープの類を持ってくるのは自重してもらっていた。バスルームの使用自体を遠慮してもらっているのだ。これが俺にとっての最終防衛ラインである。バスルームに彩姉の甘い匂いが漂うのは、なんかもう色々と無理だったのだ。
そう広くはない寝室も、彩姉の侵食を受けている。下着類は無いものの、着替えた服が無造作に放置されているのも珍しくない。その癖、ビールの空き缶や菓子の包装紙はちゃんと片付けているのだから、彼女の基準が読めない。
まぁ、ゴミ類を放置されると俺も小言の一つも漏らしたくなるが、冷蔵庫やキッチンを綺麗に使ってくれている。昔からそういうところはしっかりしているし、自分で出したゴミは自分で片付けろと教えてくれたのは彩姉である。それなら着替えだのマンガだの筋トレグッズだのは片付けて欲しいものだ。
「で、でも、さ」
ベッドの用意をしていると、彩姉が躊躇いがちに口火を切った。
「い、今寝ると……お、起きられる自信、無いわよ……?」
「自分の部屋のベッドの用意はしてきたか?」
「う、ん」
「なら、彩姉が眠った後に俺が運ぶ」
「……で、でも、あんた、私の部屋に入れないんじゃ」
「半共同生活をはじめて特に何も起こっていないから、という事で部屋に立ち入るくらいは許された」
彩姉の身に何かあった時、彼女の部屋に入れないのは困る──そう言って両親と大家さんを説得したのだ。
無論、許可を得たからと言って悪用するつもりは無い。両親も大家さんも、俺と彩姉を信頼して許してくれたのだ。それだけ未成年の俺と成人の彩姉の共同生活はデリケートな事案だという訳だ。
ともあれ、『彩姉の身に何かある』という展開は、今の彼女の様子からすると、ほぼ無いだろうと確信している。
「だから、彩姉は何も気にせず眠ってくれて構わない」
ベッドの準備が整ったので後ろを振り返る。
そこには、顔を薄っすらと上気させた彩姉が立っていた。口は半開きになって、僅かに震えている。眼の端には何故か涙が浮かび、手の置き場に困った様子で両手を胸元に引き寄せていた。
その姿は、電車内の秋山と重なる。
「彩姉?」
名前を呼ぶと、彼女はビクンと肩を震わせる。何やらブツブツと呟いた後、突然両頬を手で叩いた。訳が分からない。本当にどうした? そんな風に眼を瞬かせていると、彩姉がズカズカと歩み寄ってきて、深々とお辞儀をした。
「よろしくおねがいます」
「何をよろしくするかは分からないが、ほら」
手を握ってベッドに連れてゆく。触れて分かったが、彩姉の身体はガチガチに強張っていた。顔なんて表情が抜け落ちてしまっている。これは眠気も飛んでいるのではないかと心配しながらベッドの縁に座らせた。
「…………」
ベッドに腰掛けた彩姉は、油の切れた機械のように不自由に身体を動かして横になる。視線は一直線に天井を見つめて離さない。そして手は重ねてヘソの上。棺桶に入る遺体か何かに見えた。何もそこまで緊張する事は無いだろう……。
「……すまん。今更だが、髪はそのままで大丈夫か?」
彩姉ほど髪が長いと、眠る時は結っておかなければ寝相を打つ度に髪を踏んでしまって痛いはずだ。時々、朝ウチに来る時に髪を緩く三つ網にしている時がある。
「だいじょうぶ」
「手で踏まないように気をつける」
「ん」
彩姉の隣で横になって、リモコンで明かりを蛍光灯に切り替える。明るかったLED照明が薄暗い橙色に変わって、視界が一気に悪くなった。そのせいか、彩姉の息遣いが明確に聞こえた。すぐそこに彼女がいて、同じ枕に頭を預けている事を実感する。眠気は綺麗に飛んでしまった。
「……これ、さ」
天井に向かって、彩姉が言った。
「ん?」
「先に律が眠っちゃったら……どうなるの?」
「それはない。眠くないから」
メチャクチャ眼が冴えている。眠ってしまった彩姉を彼女の部屋に運んだ後、眠る自信が無い。
「……緊張して?」
「ああ」
「心臓、ばくばく言ってる?」
「言ってる」
「楓ちゃんに抱きつかれた時と比べて、どれくらい?」
「……同じくらい」
彩姉が寝返りを打つ。
布と布が擦れる音。
静かで、でもどこか熱い吐息。
暖かくて柔らかい何かが少しずつ近づいてくる気配。
顔を横にすると、すぐそこに彩姉がいた。濡れた双眸が、じぃ、っと見つめてくる。
彩姉が動く。百七十センチの身体をできる限り小さくして、俺の懐に潜り込んできた。逃げないように俺の寝間着の襟に指を絡め、胸元に顔を押しつけてくる。
「かえってくるときさ」
「ん?」
務めて平静を装って声を上げる。
「かえでちゃんのこと、いいなぁっておもっちゃった」
「…………」
「だからいま、しあわせ」
本当に幸せそうな声だった。彩姉はさらに身体を擦りつけてくる。甘い香りが鼻腔を麻痺させて理性を撲殺しようと襲いかかってきた。
けれど俺に逃げ場なんてあるはずもなくて。
何故俺はこの前一緒に寝ようなんて言ってしまったのかと、自分の発言を呪いながら、彩姉が寝息を立てるのを待つしかなかった。
お読みいただきありがとうございます。フィットネスクラブ編ですが、このお話で終了です。次から完結編です。
迷走してしまいあまり中身のある話ができずに申し訳ございません。ここからはアクセルを吹かせて話を転がしてゆきますので、応援していただけますととても嬉しく存じます。
最低限プロットで必要な部分は踏んでいたのですが、皆さんがお楽しみいただけているのか壮絶に不安というか、分からないところがありまして…。
とにもかくにもしっかり完結させるつもりですので、何卒宜しくお願い致します。




