64話:尿酸値の恐怖
スーパーの惣菜コーナーは脂質の宝庫だ。だが、その手軽さは折り紙付きである。
値引きシールが貼られた物をいくつか見繕い、一緒に買ったおにぎりで夕食を済ませようとしたのだが──。
「脂っこい。なんだこのギトギトのサバカツは」
皿に取り分ける為に包丁を入れた瞬間、ぐにゅっと衣がひしゃげた。揚げたてではないのでサクサク感なんて期待していなかったが、だからといってぐにゅっはないだろう、ぐにゅっは。油分を吸った包丁が照明を弾いてギラギラと鈍く輝く。そこにサバ本来の良質な脂身の気配は無い。
「このジャンクフードに片足突っ込んだのがいいんじゃない。あーこういうの何かひさびさー」
テーブルに買ってきた惣菜を並べていた彩姉が横合いから手を伸ばしてきた。一口サイズに切り揃えたサバのカツをひと摘みして口に放り込み、じっくりと咀嚼する。
「ん~この大半が油って感じ久しぶり。サバもなかなかイケるわね」
「衣は全部削ぐ」
使い捨てのポリエチレン手袋を着用し、小型の包丁を得物を構えてサバの身からグチョグチョ衣の切除手術を開始する。たまには健康度外視の食事も取るべきだ思っているが、このサバカツは許容範囲を逸脱している。
「それお寿司食べに行ってネタだけ食べてシャリ全部残すようなモンじゃない! あんたはたまにはジャンクフードも貪り食べるって言ってたでしょ!?」
「普通の揚げ物なら構わないが、これは胃がもたれるレベルじゃない。これ一枚で脂質いくつになるか、想像するだけで恐ろしい」
「あ。容器に書いてある。え~っと……一尾辺り七十グラム?」
「論外だ。二度と買わない」
削ぎ落としたギトギト衣を三角コーナーに放り込む。作ってくれた人に対する罪悪感で死にたくなったが、その七十グラムの六割以上は飽和脂肪酸だ。一定は必要だが、現代社会の人間は過剰摂取の栄養素なのだ。
「この健康オタクめ! 年一の健康診断でE判定貰ったオジサンじゃないんだから少しは大目に見ろ!」
「彩姉、すぐにでも健康診断を受けてくれ! 尿酸値は基準値内か!? 俺に隠れて密かにビールを飲んでいるのは知っているぞ! ビールと言えばプリン体! プリン体と言えば尿酸値! 尿酸値と言えば通風!」
「十六歳の高校生の口から出る言葉じゃないし尿酸値尿酸値連呼しないでくれる!?」
顔を真っ赤にして怒鳴られた。
尿酸値。確かに気恥ずかしさを覚える言葉だが、決して無視していいパラメータではない。尿酸値とは食生活の影響が最も強く出る上、心的ストレスによっても上昇する。体質による個人差が非常に激しいが、無視すれば様々な基礎疾患に繋がる数値なのだ。
「最後に測ったのいつだ!?」
「……きょ、去年。会社の、健康診断で」
「え。あの会社にそんな福利厚生が?」
「やらないと国から怒られるから渋々って感じだったけど……」
なら従業員の労働環境も改善すべきだっただろう。やっている事が中途半端すぎるぞ……。
「数字は?」
「……七ちょっと」
「基準値オーバーだ! くそ、俺はなんて見落としをしていたんだ……! 彩姉の尿酸値に気づけなかったとは……!」
「だ、だから尿酸値連呼しないの! それに去年の話! り、律と暮らし始めてからすっかり健康体よ? ストレスも無くなったし、た、多分もう改善されたと、お、思う」
「週明けに病院で血液検査を受けてくれ。じゃないとプリンもビールも当面禁止」
過剰な反応なのは分かっているが、人間は身体が資本だ。怪我や病気が一番怖い。
「俺のじいさんが病死だったのは彩姉も知っているだろう。身体は大切にしてくれ、彩姉」
「う~……行かないとダメ?」
不満そうに自慢の艶やかな黒髪を指先にくるくると絡める彩姉。
喜んで病院に行く人間なんていないだろうが、はてこの渋い反応はというと──。
「まさか、その歳で未だに注射嫌いなのか?」
「注射が好きな人間なんてドMよ、ドM」
唇を尖らせる彩姉を前に、俺は溜息をつく。彩姉はその昔、インフルエンザの予防注射でヘタクソな看護師に五、六回も刺されたらしく、大注射が嫌いだった。
気持ちは分かるが、会社を辞めて定期の健康診断を受けられなくなっている以上、健康状態が不明瞭なのは看過できない。尿酸値が基準値を超えてしまっていたというならなおさらだ。
となれば、ここは少々卑怯な気もするが、こちらもカードを切らせてもらおう。
「一緒に昼寝をするから」
彩姉が静かに眼を見開く。ゴクリと唾を飲み込む音が微かに聞こえた。
「も、元々、するはず、だったでしょ……? い、今更そういうの言ったって……!」
「……明日にしようとしていたのを、今日にしよう、と言っている……」
週末に一緒に昼寝をする──彩姉とは、そういう約束を交わしていたが、秋山との水泳の件で日曜にしていた。
それを前倒しにする。正直交換条件になるか定かではなかったが、彩姉がやたらと期待してくれていたのは知っていたし、楽しみにしてくれていたのも分かっている。
だが、昼寝にほのかな期待を持っていたのは俺もなので、この条件は俺が一方的に得をする非常に卑怯な内容だ。そんな事は彩姉も承知しているはずだから、簡単には首を縦には振ら──。
「行く。明日行く」
真顔で即答された。瞬きを忘れた眼に射抜かれる。ぶっちゃけちょっと怖い。
「いや、明日は日曜だぞ? 病院は」
「土日やってる所知ってる」
「だが、血液検査って場所によっては結果が出るまで時間が」
「尿酸値だけなら早いのよ。健康体だって分かったら後腐れなくずっと一緒に昼寝できるでしょ?」
言葉だけ聞いているととんでもなく頭が悪く思えてきたぞ……そういう条件を提示したのは俺の方だが……。
「……分かった。じゃあ」
「早くゴハン食べましょ食べ終わったらお風呂入ってくるからちょっと待っててあーヘアケアもお願いしていい? 今日私も結構泳いだから髪の痛みが心配なの。ね? ね?」
「……分かった」
元より断るつもりはなかったものの、身を乗り出してズイズイと迫ってくる彩姉に、一抹の恐怖を覚えてしまったのだった。
お読みいただきありがとうございます。
ちなみにトウフの尿酸値はマックス9でした。ビール全く飲まないんですけどね。ガチめにヤバイ数値でしたが、食生活の改善だけでギリ基準値の7まで下がりました。現在最低二日に一回まともな運動をする事でさらに下げようとしています。現代人は二十代でも上がりやすいそうなので、年齢にかかわらず食生活にはご注意を…。




