62話:帰りの電車
俺達がフィットネスクラブを出たのは午後六時を回った頃だった。
昼食を挟んだ後の練習では俺も散々泳がされた。彩姉の提案で、秋山と肩を並べてひたすら泳ぐ事に没頭した。小学生の頃に彩姉に叩き込まれた水泳の技術はそこまで錆付いてはいなかったものの、現役女子高生スイマーの秋山とは比較にもならない。競い合わせるように泳がせる意味が分からなかったが、彩姉曰く、秋山に刺激になっていいらしい。
という訳で半日泳ぎ続けた訳だ。これは明日は間違いなく筋肉痛だろう……。
「あのクラブ、ホントに良かったわね。プールの後に温泉とサウナなんて最高よ。マジでビール飲みたかった」
彩姉がう~んと背伸びをしながらぼやいた。練習が終わった後、帰る前にクラブ内に併設されている温泉とサウナを利用したのだ。これが疲労感を心地良いものに変えてくれる極上のものだった。
「彩音さんもここのクラブ加入しませんか? 一番安いコースでも温泉&サウナは使えますよ? 今ならビールの割引券付きです」
「マジで!?」
「秋山、その勧誘は許可できない。彩姉は酒は好きだが、同時に弱いんだ。しかも絡み酒と来ている。とても公共の場で飲ませる事はできない……いや、あれだけ君や施設に迷惑をかけておいてそんな事を言う資格は俺には無いのだが……」
「確かに……いや、ホントに……ごめんなさい……」
「あ、あたしもごめんなさい……」
「とりあえず楓ちゃん、ちょっと考えさせてもらっていい?」
「あ、はい。前向きにお願いしますっ」
そんなやりとりを交わしながら、俺達はクラブから駅に続く連絡通路を歩いてゆく。
始まる前はどうなるものやらと危惧していたが、終わってみると、これ以上ないほど充実した一日だった。身体を動かす事とはここまで気持ちのいいものだったのか、と感動すら覚えたほどだ。
だが、それ以上に秋山の表情だ。
「楓ちゃん、今日でだいぶ調子も戻ったんじゃない?」
「えへへ、彩音さんのお陰です。ホントにありがとうございました」
今日は一日泳ぎっぱなしだったというのに、その顔に疲労感は一切無い。それこそ憑き物が落ちたかのような充実ぶりだ。
「べ、別にそんな大した事言ってないわよ、うん。だから、その。そういうキラキラした眼を向けてくるのやめて欲しいんだけど……」
「今日から彩姉は名実共に秋山の先生になったんだ。尊敬の眼差しを向けられるのは当然だろう?」
「そうですそうです当然です! ね、先生!」
「痒い痒いやめてホントそういうのやめて! フォームを適正にしただけじゃない! こんなの普通顧問が指摘しなきゃダメな次元の話よ!?」
「もしかして初歩的な問題だったのか?」
「割とね。高校生になると身体もほぼほぼ出来上がるから、フォームを矯正するにはいい時期なのよ。もちろん個人差があるけど。体格が変わっても関係無くそのままって子も少なくないわ」
だが、秋山はそうではなかった。水泳部では支柱的な役割を求められているようだから、その重圧が記録の足踏みを強いていた可能性もあるかもしれない。
「ウチの水泳部の顧問の先生、すごく良い人なんですけど。実は文化部の顧問も掛け持ちしてて」
「……校舎に垂れ幕を出されるほど強く応援されている運動部の顧問が掛け持ちとは」
教育機関の教職員は劣悪な労働環境に晒されていて、常に人材不足とネットの記事で読んだ事がある。まさか秋山がその影響を受けているとは思わなかった。
「まぁそれなら仕方ないかぁ」
彩姉が欠伸を噛み殺しながらぼやいた。
「……いいのか?」
「楓ちゃんのこれからの事を考えると全然良くない。でも、何も知らない部外者があーだこーだ言うのも違うでしょ? 部活の顧問って特別手当も出ない上に土日出勤まで強制させられてプライベート完全崩壊って有名だし」
「え。ホントですか……?」
さっ、と秋山が顔を青くする。さすが彩姉、伊達に元ブラック企業で二年も働いていない。その手の情報には詳しい。
「場所にもよるから全部が全部そうじゃないでしょうけど。だから、なんというか」
「……彩音さん?」
「か、楓ちゃんの競泳選手としてのこれからは……私が……多少なりとも? 見てあげる、わ」
「えへへ~♪ 彩音先生~~~♪」
「て、手ぇ握らないで恥ずかしい……! ほ、ほら、早く帰るわよ、もう……!」
そんな事を言いながら、彩姉は秋山の手を離す事無く、足早に駅へと向かって行ったのだった。
◇ ◇ ◇
改札を通ってプラットフォームへ。少し待つと帰りの電車が滑り込んできた。
「うわ。結構混んでる」
電車のドアが開くと同時に溢れた利用客の多さに彩姉が呻く。
客の降車が終わった後、俺達は他の乗車客と一緒に電車に乗り込んだ。吐き出された分と同じ人数が戻ったので、車内はなかなかの乗車率だった。座席も空いていなかったが、乗り込んだ扉の隅を確保できたのは不幸中の幸いと言える。
「う~せっかく温泉で汗流したのに~」
「二十分の我慢だ」
「つらーい」
胡乱な眼をして不愉快そうな声を上げる彩姉。
「帰りに例のプリンを買おう」
「今週もう食べたー」
「今日は彩姉も沢山動いたんだ。それくらいのご褒美があってもいいだろう?」
「ん~……律がそう言うなら食べちゃおうかな。でも、また体重が戻っちゃったらどうしようかなぁ」
にししと悪戯っぽく笑う。ふん、上等ではないか。
「減らす運動は付き合う。あのクラブにも一緒に加入するさ。彩姉と一緒に通うのなら悪くない場所だ」
「だ、だからそれは考えさせてって……!」
「えー入りましょーよーせんせいー」
秋山がここぞとばかりに彩姉の腕にしがみつく。ナイスだ秋山。
「だから先生呼びは勘弁してってば……! と、というか楓ちゃん」
「? なんですか?」
彩姉が秋山の肩を抱いて何事かを耳打ちする。やや間を置いて、秋山の頬にさっと朱色が差した。その変化に目敏く気付いた彩姉が口辺を意地の悪い笑みで歪める。
また連絡通路でやったような騒動を起こす気ではないだろうか。こんな場所であんな馬鹿騒ぎをやろうものなら絶対に誰かがスマホで動画を撮ってSNSにアップしてデジタルタトゥー化するぞ。勘弁してくれ。
警戒していると、彩姉が声を潜ませながら手招きをしてきた。
「りつりつー」
「……なんだ?」
「何あからさまに嫌そうな顔してんの。別に何もしないわよ」
話題を打ち切った彩姉が、秋山の両肩を優しく抱いて、ずいっと俺の前に差し出してきた。狭い車内という事もあって、俺と秋山の間に隙間はほとんど無い。それこそ肌が触れ合うか否かというくらいの距離だ。
眼鏡の奥にある秋山の双眸が右往左往しているのが分かった。手は置き場に困った様子で胸元に重ねられ、肩を小さく丸めてしまう。そしてその表情には、何やら思いつめた情緒が浮かんでいた。
「どうした?」
「え……っと」
「弁当の献立の注文ならいくらでも聞くぞ?」
「そ、そうじゃ、なくて」
「俺の泳ぎがヘタクソだったのは勘弁してくれ。まともに泳いだのは本当に久しぶりだったんだ」
「な、なら充分だと、思う、よ? あぁ、そっちでも、なくて」
「では一体な──」
その時、電車が派手に揺れた。
「きゃっ……!?」
車内の全員が予期せぬ揺れにタタラを踏む中、秋山は側にいた客に肩からぶつかって、思い切りバランスを崩してしまった。
咄嗟に身体が動いた。右手で秋山の肩を掴み、こちら側へ引き寄せる。そのまま彼女を扉の方へ押し込み、正面から覆いかぶさった。
今度は肌が触れ合うか否かなんて距離感ではなかった。秋山の縁無し眼鏡が俺の顎にぶつかって外れそうになる。さらに電車の揺れが続いて、俺は扉側につんのめるような姿勢になってしまった。必死に両手に力を込めて、自分の身体と扉の間に人一人分の空間を確保するものの、唇が秋山の額を掠ってしまう。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!」
「す、すまん……」
思い切り上半身をそらす。背骨が一斉に軋むが知った事ではない。不可抗力であったとしても、俺は今秋山に一生もののトラウマになるかもしれない非道を働いたのだ。いやもう背骨なんて砕け散ってしまえ。
「ウェットティッシュがある。それで拭いて──」
「な、なに? なんの、こと?」
「今君の額に俺の──」
「そ……それより、も、っ……!」
秋山の声が裏返る。胸元に所在無さげに置かれていた手がぷるぷると震えながら、俺のシャツを摘んだ。
彼女の様子を窺おうと眼を動かすと、秋山の上目遣いの瞳と視線が合う。その目許には今にも泣き出してしまいそうな気配があるけれど。それは、男の俺に言い寄られるような格好になっている恐怖に因るものではない──と感じた。
「き、今日、あ、あた、あたし……どう、だっ、た……?」
俺の服を掴む秋山の手に力がこもる。顎を上げて、首をそらして、何かを訴えるような眼で、秋山が言葉を紡ぐ。
「ちゃんと、みてくれてた……?」
──そういえば、と。今日一日が濃密過ぎたので頭から飛んでしまっていたけれど、秋山とは約束をしていたのだ。
「ちゃんと、およげて、た……?」
秋山楓を褒める、と。
「…………」
どんな言葉がいいだろうと考えて。自分の絶望的な口下手さを思い出して軽く絶望する。きっと彩姉なら、この瞬間に秋山が望む言葉をかけてやれるのだろう。
「……たかなみ」
駄目だ、気の利いた言葉が浮かばない。ベタな事しか言えなさそうだ。
でも、ちゃんと伝えたいと思う。
俺は秋山楓のファンなのだから。
「ちゃんと見ていた」
「……ほんとに?」
「横を泳いで競争しただろう? ハンデまで貰ったのにボロ負けしたじゃないか。君の泳ぎは今日で見違えるほど良くなった」
「ほんとに?」
「嘘を言ってどうする。彩姉も絶賛していた。今の君なら次の大会は何の心配も無い。必ず応援に行くから。それまで練習を頑張ろう。毎日の部活は辛いだろうが、秋山なら大丈夫だ。俺が保障する」
秋山がうつむく。俺の面白味の無い賞賛に呆れているのだろうか。無理も無い。素人が歯の浮く美辞麗句を並べたところで、秋山が感じている恐るべきプレッシャーを軽くしてやる事はできない。
そんな風に自己嫌悪を覚えた時だった。
「…………」
秋山が俺の腰に手を回して、静かに身体を引き寄せてくる。
元々近かった俺達の距離は完全にゼロになった。いや、秋山に抱き締められるような形になってしまった以上、マイナスと言っても過言ではない。
眼下に秋山のつむじが見えた。シャンプーだの何だの色々な香りと汗の匂いが鼻腔をくすぐってくる。
「……秋山?」
「……あんたのしんぞう、すごくうごいてる」
知っている。喉だってカラカラで、眼の奥がチカチカした。
「あたしでも、こんなふうになるんだね」
「何がだ?」
「これは、うん。あやねさんがおぼれるわけだぁ」
「だから何がだ?」
「おしえてあげない」
俺達は降りる駅まで、ずっとそうしていた。
お読みいただきありがとうございます。キャラクターの転がし方が雑になってしまったーを猛省中です。ホントいかんですね…注意いただける環境にいる事に感謝を。
シチュエーション特化でどうかなぁと短編を書いてみました。
https://ncode.syosetu.com/n7664gk/
「同級生男子を典型的ラブコメ手法で赤面させようとしたら逆に赤面させられて悶えてしまうギャルの話」
よろしければ読んでいただけると嬉しく思います。




