61話:竜田揚げ定食の悪夢
フィットネスクラブには規模によって風呂やサウナが設置されている事が多いそうだ。さらに本格的な飲食店も併設されていて、カレーやラーメンといった定番から独自メニューまで用意されている場合もあるらしい。
秋山が利用しているこのフィットネスクラブの場合は──。
「と、特製竜田揚げ定食……ニンニクしょうゆを練り込んだ衣……ジュルリ……!」
「千四百五十キロカロリーだと!? フィットネスクラブ内の飲食店なのになんだあのハイカロリーの怪物は!? 狂っている! 秋山、君は今すぐこのクラブを解約すべきだ! これはマッチポンプだぞ!? 施設で客を空腹にさせ、あのカロリーの手榴弾ですべての努力を根こそぎ吹き飛ばすんだ!」
「騒がないでよ恥ずかしいでしょ!? こういう所に来る人達全員が痩せる為に来てる訳じゃないの! 現役バリバリのアスリートだって沢山来てるんだから! 身体を大きくする為にはいっぱいトレーニングして、いっぱい食べないとダメなの! 高浪、あんたの健康マニアぶりは分かるけど極端過ぎぃ!」
「脂質が必要なのは分かる! だが良質な脂質でなければならない! 現代人は飽和脂肪酸の摂取が過剰なんだ! あの竜田揚げ定食は飽和脂肪酸の結晶と言って過言ではない! 秋山、君は食べてはならない! 特に水泳選手の身体にあれは劇薬だ! 君の素晴らしいくびれが破壊されてしまう!」
「なぁ! ななななな何勢い余ってアホな事言ってんのよ制服マニア! 変態! オジサン趣味!!! 彩音さんも何とか言って下さい!」
「く、くびれなら私もあ、あるんだからぁ! そ、そりゃ楓ちゃんと比べると劣るかもだけど……で、でもダイエットして、こ、高校の制服を着られるようにな、なったら、ぜ、全然いける! 楓ちゃんにだって負けてなぁいぃ!」
「気持ちは嬉しいが過剰なダイエットは駄目だ彩姉! 健康的に体脂肪率を下げよう! それに、今の彩姉の体脂肪率は年齢と身長と体重から平均値だ! 確かに俺は胸よりくびれ派だが、不健康に痩せて欲しいとは断じて! 断じて思っちゃいない!」
「は゛う゛ぁ゛!? どぉ! どどどどどどどど! どうして! あんたが! 私の体重とか知って──」
「俺の部屋に体重計置いて行ってるだろう。時々、電源がつけっぱなしで放置されていて、それで」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
「もうぉおおおおおお~~~~~~!!! この二人はぁあああああああああ!!!」
そして俺達は、再びクラブの職員さんに怒られてしまった。
◇ ◇ ◇
「まったくもぉぉぉ~~~~……!」
『本当にすいませんでした』
フィットネスクラブのフードコートは広大だった。だが、土下座をするスペースは無かった。いや、あったところで公共の場で土下座なんてしようものなら、秋山はこのフィットネスクラブから放り出されてしまうのだが。
四人用の席の長椅子に肩を並べて座った俺と彩姉は、テーブルの向こうに座っている秋山に、ひたすら頭を下げ続けていた。
「……二人とも、顔上げて」
『いやでも』
「いいから。ほら、見られてる」
秋山の顔色を覗き見つつ顔を上げて周囲を見渡すと、遠巻きにこちらの様子を窺っている野次馬がチラホラと見えた。確かに、今後ここを利用する秋山の事を考えると、これ以上目立つような行為は慎むべきだ……。
というか。つい先日でも学校で同じような失敗をやらかしたぞ、俺。学習しろ。
「食堂のメニュー一つで大騒ぎしすぎよ。特に高浪」
「面目ない。正直、こういう所にあんなハイカロリーなメニューがあるとは思わなくて。ちなみに秋山はあれを──」
「……い、一回だけ食べた」
そう答える秋山の声は震えていた。まるで重い罪を自白する犯人のようだった。あれがどれほど危険な代物か、アスリートたる彼女は理解してくれていたようだ。
しかし、あの食欲を問答無用で殴り倒してくるニンニク醤油の香りは卑怯だ。この食堂の責任者には慈悲は無いのか。確かに身体を肥大化させる為に高カロリーの食事を取る者もいるだろう。ここは家族連れも多いようだし、脂っこいメニューが求められる理屈も分かる。
だがしかし。しかしだ。低カロリーで低脂質で高タンパクな食事を強いられる人間に、竜田揚げ定食はあまりに無慈悲だ。
「で、でも、その時は一日トレーニングマシンでずっと身体鍛えてたから大丈夫! あのカロリーは全部筋肉になってくれたはず……!」
「なんだそのカロリーは熱に弱いから揚げ物はすべてゼロカロリーだみたいな理論」
「やぁ~めぇ~てぇ~! 一応それっぽい理屈で誘惑に負けた事を正当化してるんだからそれ以上言わないで~……!」
ストイックな秋山すら飲み込んでしまうとは。特製竜田揚げ定食、恐ろしいヤツだ。ぶっちゃけ食べてみたい。
食欲を無限にくすぐってくる香ばしいニンニク醤油にスンスンと鼻を鳴らしていると、ぐぅぅぅ~~──と凄まじい腹の虫の鳴き声が聞こえた。
鳴らしたのは他の誰でもない──。
「ご、ごめんっ……!」
俺の横に座っていた彩姉の腹だった。
「秋山の指導をしていただけで泳いでいないだろう……?」
「だ、だって、あの竜田揚げ定食がぁっ……ふあぁ……!」
彩姉の口の端からは涎が垂れそうだった。くそ、何故か無性に腹が立ってきたぞ。何が竜田揚げ定食だ、このマッチポンプめ。
俺は足元に置いていた鞄を引っ張り出すと、膝の上に置いて、中身をテーブルの上へ広げた。事態を見守っていた秋山は眼前の光景に息を飲む。その反応が、正直とても嬉しかった。
「……これ……全部、高浪が……?」
「ああ。昨日の夜から作っておいた物もあるがな」
三つの弁当箱で構成された、俺特製の昼食達。重箱とまではいかないが、大容量の弁当箱にそれぞれ主食と主菜と副菜を詰め込んできた。
「おにぎりはポピュラーに梅干と、サバの水煮の炊き込みゴハンを用意した。主菜は豚の冷しゃぶや鶏のササミを入れた肉じゃが。副菜はブロッコリーとツナのサラダやホウレンソウとしめじのお浸し。ドレッシングはもちろんノンオイルを持って来ている。後はいつもの煮物系だ。秋山はワカメは大丈夫だったか?」
「あ、う、うん。好きな方だけど」
「良かった。スポーツの後は味の濃いモノが欲しくなるだろう? 塩分濃いめの味噌汁がある」
「味噌汁まで作ってきたの……?」
「まさか。残念だがインスタントだ。しかし、インスタントの味噌汁はかなり美味い。種類も豊富ときている。彩姉、鞄の中の水筒を取ってくれるか」
「はいはい。楓ちゃん、おにぎりどっちがいい? ちなみに梅干は私が作ったんだけど」
「じ、じゃあ梅干の方下さい」
「へへーん♪」
「……サバの水煮の炊き込みゴハンは美味い上に簡単だぞ。炊飯器に水煮の缶詰を煮汁ごと入れて、そこに料理酒とめんつゆを大さじ二杯入れて炊くだけで完成する。何度か試しに作って失敗した事も無い」
彩姉と二人でテキパキと作ってきた弁当箱を広げてゆく。
秋山は、そんな俺達を眼を瞬かせながら見守っていた。彩姉から暖かな味噌汁を渡されて、水分を吸って茶色い水面に浮かぶワカメや小さな豆腐と俺の間で視線を彷徨わせる。
「どうした?」
「これ……用意するの、大変じゃなかった?」
なんだ、そんな事か。
「いつもより早めに起きたよ」
「だよね……ごめんね。なんか、気を遣わせちゃった……」
「謝る必要は無い。俺が勝手にやった事だ。むしろ、俺にはこれくらいしかできない」
彩姉は競技の面で秋山を助けられる。
でも、何も無い俺には、できる事は何も無い。
本当に、これくらいしかしてやれる事がなかった。
だったら、朝五時に起きる事くらい造作もない。
「でも悪いよ。すごく凝ってるし、うん、ホントに美味しそう」
「美味しそうじゃないわ。美味しいのよ。今日のは特にね♪ もぐもぐ~♪」
彩姉がサバの水煮の炊き込みおにぎりを頬張る。その表情はとても幸せそうで、胸の奥がくすぐったかった。
そんな彩姉を見つめていた秋山が、いただきます、と手を合わせて、梅干のおにぎりにかじりつく。ゆっくりと咀嚼し、主菜達に箸を入れて口へ運び、味噌汁を啜る。
食べている間、秋山はずっと無言だった。不思議と妙な緊張を覚えてしまう。彼女には毎日弁当を食べてもらっていたのに。彩姉にはじめて肉じゃがを食べてもらった時の、あの感覚に近い。
秋山の箸の動きが早くなる。最初は遠慮がちだったのに、気付けばファミレスでハンバーグを口に放り込む子供みたいに夢中になって弁当箱の中身を口に詰め込んでゆく。それはもう見事な食べっぷりだった。
「気に入ってもらえて良かったわね、律」
「……ああ。正直、ちょっと怖かったよ」
「あんたの料理をまずいって言う奴がいたら、そいつの舌がおかしいだけよ」
ドヤ顔で毒を吐く彩姉。それは言いすぎな気はする。味覚は千差万別なのだから。
すると、口の中を味噌汁で流し込んで一息をついた秋山が口火を切った。
「高浪、今日のお弁当ホントに美味しい。ううん、いつも美味しいけど、今日のは特に……美味しいよ」
「それは良かった。早起きした甲斐があった」
「高浪って、もうこんなにお料理できるようになっちゃったんだね。自炊はじめて三カ月も経ってないでしょ?」
「毎日作っていれば誰だってこれくらいできるようになるさ。必要なら、毎日の弁当ももう少し豪勢にするぞ?」
冗談半分で提案すると、秋山は慌てて首を横に振る。
「そんな、悪いよ。これ以上迷惑なんてかけられない」
「別に迷惑なんて思っちゃいない。俺が秋山にしてやれるのはこれくらいだ。彩姉のように直接助けられない。昼の弁当の質と量を増やすくらい造作も無い」
「で、でも。ほら、秋山は彩音さんのゴハン作らないといけないでしょ。なのに」
「安心しなさい、楓ちゃん。私もちょっとずつだけど料理ができるようになってきたから。晩ゴハンは私が律の分も作れば律の負担は減らせる。ね?」
「そうだな。彩姉さえ良ければ、それもいいと思う」
彩姉の包丁さばきはまだ怖いところもあるが、自分の指を切り落としてしまうようなレベルではない。冷蔵庫には日頃の作り置きもあるし、凝った献立を作ろうとしなければ大丈夫なはずだ。
「どうだ、秋山。俺にももう少し君を助けさせてくれないか?」
「……いいの、かな?」
「ああ、もちろん」
「じゃあ……お願い、します」
秋山が照れ笑いを浮かべる。
これはもう少し料理の勉強を重ねなければならないな。
お読みいただきありがとうございます。フィットネスクラブ編は次で終わりです。
ご声援、いつもありがとうございます。何とか終盤の辺りを書き始められました。ちょっとびちゃびちゃしています。ブクマ入り、ポイント評価していただけますと、さらにトウフがびちゃびちゃします。よろしければポチっとよろしくお願い申し上げます。




