60話:フィットネスクラブへ行こう5
結局俺は彩姉と肩を並べて、プールを泳ぐ秋山を見守る事になった。
「……秋山、少し早くなったか?」
「お。分かる?」
腕を組んで秋山を見守っていた彩姉が不敵に微笑む。秋山の指導が始まってから三時間ほど経ったが、その間になんだか部活モノのマンガに出てくる熱血女教師みたいな雰囲気になっていた。
「秋山の泳ぎはずっと見てきた。それくらい分かるつもりだ」
「楓ちゃんのファン一号だもんねー」
「……何故それを?」
「この前一緒に買い物行った時に、楓ちゃんから直接。あんたとあの子の馴れ初め話を色々聞かせてもらったわ」
口辺を意地悪に歪めつつ、俺の脇腹をグリグリと肘で突いてくる彩姉。
「律、今度同じような機会があったらマジで言葉には注意しなさい。楓ちゃんはホントに良い子だったからよかったけれど、普通の子ならストーカー疑惑かけられて先生に言われてたわよ?」
「……それは猛省しているが……」
通っていた中学校の学校規模での部活動の強制応援。賛成意見よりも不平不満の方が遥かに多く上がる悪辣な行事だが、あれが無ければ、俺は秋山の泳ぎに眼を奪われる事は無かっただろう。
中学に進学して半年経つかどうかという頃だ。強制応援で見に行った女子競泳大会で、秋山は準優勝を果たした。全国大会に出場する事は叶わなかったが、それでも大金星と讃えられる成果に違いない。
顔と名前が一致する程度だったが、それでも同じクラスメイトとして嬉しかった。
そのまま順調に成績を伸ばすものだと思っていた。
毎日授業の後に部活に精を出していたのも、時々横目で見ていた。
けれどある日、放課後になってもポツンと居残っている秋山を見かけた。
傾きかけたオレンジ色の西日が差し込む寂寥とした教室で、何をする訳でもなく、ただぼーっと中空を眺める秋山楓の横顔には、何も浮かんでいなかった。
大会で飛び込み台に立った時、自信と緊張を漲らせた獰猛な横顔なんて無かった。
気が抜けている、という次元ではない。
何も無かった。
その『何も無い』のはとても覚えがあるから、何とはなしに察する事ができた。
秋山楓は、このままでは腐るかもしれない、と。
「あの時は、そうするべきだって思ったんだ」
「……律ってさ。なんだかんだお節介よね?」
「誰でも彼でもじゃない。彩姉や秋山のような大切で尊敬できる人だけだよ」
小学や中学の頃にはそれぞれ親しい人間達はいたけれど、進学すれば切れてしまうくらいの付き合いしかなかった。今友達と呼べる存在は秋山くらいしかないが、それに対して寂しいだとか、そういう感情を抱いた事も無い。
別に排他的に生きている訳じゃない。
一人が好きという訳でもない。
スマホの電話帳に登録されている人間が家族の他にほとんどいない事にも何も感じない。
ラインの登録者も同じだ。家族と秋山以外には彩姉しかない。
俺はそれくらいの人間なのだから。
「りつー」
不意に頬に鈍い痛みが走る。彩姉が俺の頬を軽くつねっていた。
「痛い」
「あんた、今つまんない事考えなかった?」
「そんな事は無いぞ」
「嘘。顔が心底つまらなさそうだった。律ってあれよね、考えてる事が顔や雰囲気に出やすいわ」
「そんな事は無い。中学の担任の先生からは、俺は最後まで何を考えているのか分からないと言われた」
「よく観察してるとそうでもない」
頬をつねっていた彩姉の手が、俺の頭に移動する。
そうして、俺の髪に指を通して、ゆっくりと撫でる。
「律はつまらない人間じゃない。私をこうやって、また笑わせてくれたんだから」
そう言って見せた彩姉の笑顔は、やはり以前と同じように、どこか寂しげだった。
胸が痛む。いや、軋む。何故そうやって優しく撫でてくれているのに、そんな顔をするのか。
「でも、あんたの事だから、私がこんな事言っても自分への認識は変えないでしょ?」
「……まぁ、実感は無い……からな」
「なら、少しずつでいい。違う事をはじめよ?」
「違う事?」
「そう。今日とは少しだけ違う明日。私は、あんたにそういうのを感じて欲しい」
「……だから、今日俺を連れてきたのか?」
秋山の競泳のスランプ脱出の為の指導に俺が同席する意味は、そういう事なのか?
今日は、その『今日とは少しだけ違う明日』なるモノを俺に実感させる為に、わざわざ?
「まさか。律が一緒に来てくれた方が、私の気が軽くなるの」
彩姉が軽く俺の額を指先で弾く。
「まぁ、あんたの性格上、自分からはまず行かないような場所に連れていくと何か起こるかな~って思ったのはあったけどね。っと!」
何かに気付いた様子で、彩姉が首から提げていたストップウォッチを押す。
視線を巡らせると、二十五メートルのプールを往復していた秋山がヘトヘトになって這い出てきたのが見えた。そんな彼女に彩姉が駆け寄る。
「楓ちゃん、見て見て! タイムタイム!」
「はぁはぁはぁ……う、うえぇっ!? こ、これホントですか!? 中学のベストタイムを……!」
「そー更新してる! キック以外にもフォームを今の体格に合わせて修正したのが効いたかな?」
「も、もう一回! 次、五十メートルの自由形で測らせて下さい!」
「はいはい、焦らないの。気持ちは分かるけど、一回休憩入れよ? もう三時間ぶっ続けで泳いでるわよ? お昼も過ぎちゃってるし、お腹も減ってるんじゃない?」
「う~……わ、割と……」
「じゃあ休憩。せっかく律がお弁当作ってきてくれたんだから。一度着替えて、休憩所に行きましょ。律ー!」
彩姉がおーいと手を振っている。
俺はざわつく心中に一旦蓋をして、彼女達の下へ急いだ。
お読みいただきありがとうございます。話数数えていたら、当初終わる予定の70話を超える物量になってまりました。プロットの時点ではそんな長い話ではなかったはずなのに…。
いつもご声援、ありがとうございます。応援いただいているお陰で話数が膨らんでまいりました。面白かったよーと感じられた方、是非ブクマ、ポイント評価をいただけますととても嬉しく存じます。




