56話:フィットネスクラブへ行こう
そして週末。俺と彩姉は、電車で二十分ほどの距離にある繁華街へ向かった。
「ここか……」
改札を出た先は駅の南口である。市営バスのバス停がひしめく楕円形のロータリーがあって、それを取り囲むように飲食店やテナントビルが立ち並んでいる。週末という事もあって、人の往来は激しい。
「本当にこんな所にフィットネスクラブがあるのか? それらしい建物はまったく見えないが」
「駅ビルに入ってたりするもんよ。スポーツジムとかだと大抵は駅から徒歩五分圏内にあるわね」
「……フィットネスクラブとスポーツジムは違うのか?」
「スポーツジムはトレーニングマシンで身体を鍛える施設で、フィットネスクラブはスポーツジムと同じ設備を備えつつ、ヨガ教室やプールやスパが併設されてる施設ってとこかな」
他にもスポーツクラブとかフィットネスジムとか呼び名は色々あったらしい。クラブとジムでおおまかに変わると見ていいだろう。
「フィットネスクラブの方は健康維持や運動不足解消の為に利用してる人も多いから、子供から大人まで客層も幅が広いわね。ちょっと高いけど女性専用のクラブもあって結構人気よ」
「詳しいな」
「就職した後に運動不足が気になっちゃってさ。大学時代の失敗を踏まえて女性専用のクラブ行こうかなぁって思って色々調べたの。結局、週休一日あればいい方だったから行く気力も体力も無かったけどね」
肩を竦めて彩姉が自嘲する。やはりブラック企業は悪しき文化だ。俺が就活する時には駆逐されている事を祈るばかりである。
今日はこの繁華街にある件のフィットネスクラブで、秋山の泳ぎを見る事になっていた。
無論、指導をするのは彩姉である。俺はそのおまけだ。彩姉が、提案者も来るべきだと言い出した結果である。確かに言いっぱなしで後は他人任せというのは些か無責任だ。だが、水泳なんて素人の俺がいたところで何かの役に立つとは到底思えない。正直、朝から気が重かった。
「酷いうんざり顔。楓ちゃんが来る前にいつもの真顔に戻しなさい」
彩姉が苦笑しながら俺の頬をつねってくる。
「あんたも楓ちゃんの力になりたいでしょ?」
「もちろんだ。だから気合を入れて弁当を作ってきた」
「なら胸張ってなさい。今のあんたの顔、割と不満そうよ?」
「……本当か?」
「まーあんたと付き合いが長くないと分からないでしょうけどね」
彩姉に自慢げに鼻を鳴らされて、俺は自分の頬に触れる。もちろんそんな事をしても自分の表情なんて分からない。鏡が欲しい。仏頂面でいたら秋山に不愉快な思いをさせてしまう。
ぐにぐにと口と頬と額を動かして、セルフ顔面マッサージを行った。
「……こんなところか?」
「ん、いいんじゃない? それと、変にキョロキョロしないように。悪目立ちして恥ずかしいわ」
今日は何かと注文が多い彩姉である。
「すまない、こういう所に来た経験がほとんど無くて」
「……あんたのご両親の家、地方じゃないでしょ? これくらいのトコなんて珍しくないと思うんだけど」
「ここまで賑やかな街じゃなかった。それに学校が無い時は基本家にいた。出歩く理由が無かったから」
「……買い物は?」
「ネット通販」
「……楓ちゃんや他の友達と遊びには?」
「秋山とはたまに。他の友達はいない」
すると、彩姉は深い溜息をついた。
「律。あんた今からでもいいからちゃんと友達作りなさい。高校生なんて人生で一番気楽な時期なんだから」
「駄目だ。彩姉の夕食が作れなくなる」
「か、簡単な料理くらいなら作れるようになったし、最悪ファミレスで済ませるわよ」
「……それは嫌だ」
そう、駄目ではなく嫌だった。
その言葉の違いに気付いたのか。彩姉は眼を瞬かせる。
「俺は彩姉の世話をしたい」
「そ、そういうの、無理しなくていいってば。わ……私があんたを縛ってる、みたいじゃない」
「無理はしていないし縛られてもいない。俺は友達を作るより彩姉と一緒にいたい」
それは偽りのない本音である。
友達が不要という訳ではない。これでも人並みに気の合う同性の友達と遊びたい衝動はある。
けれど、今は何よりも彩姉の方が大切だ。
最近は『年下スウェット』の連載も好調で、感情の浮き沈みも見受けられなくなった。一度は叩き折られてしまった心も癒されつつあるのだろうと思う。今の彩姉に対して大きな不安は無い。
それでも、俺は彩姉と同じ時間を過ごしたかった。
それこそ、子供の時のように。
「だが、彩姉が束縛されているようで気持ちが悪いというのであれば距離を取ろう」
「…………」
「プライベートの時間が必要という理屈は痛いほど分かる。俺も一人になりたい時は無くはない」
「…………」
「……彩姉?」
彼女は肩を小さくしながら、両手で顔を隠して佇んでいた。完全な棒立ちだ。
その挙動不審ぶりと異質な雰囲気──身長百七十ほどで贔屓目無しに素晴らしいスタイルを誇っているのもあるだろうが──に、行き交う人々が何事かと不躾な視線をぶつけてくる。
「どうした? 腹痛か? 薬は持ってきたか? 水が必要ならすぐに買って──」
「たかなみ~!」
後ろからの声に振り返ると、肩からスポーツバックを提げた秋山が駆け寄ってくるのが見えた。
「ごめん、待った!?」
「いや、それほどは」
俺の眼前で止まって肩で息をつく秋山。頬は薄く紅潮している。どうやら電車を降りてここまで走ってきたらしい。
「せっかくの休みにごめんね。今日は……ホント、ありがと」
「気にする必要は無い。俺は彩姉の付き人のようなものだ。礼なら彩姉に言ってくれ」
「で、でも……あたしは、高浪が来てくれて嬉しい、よ? ……あれ、そういえば彩音さんは?」
首を傾げる秋山に、俺は身体をずらして、彼女の前に彩姉を出した。
彩姉は今も両手で顔を覆ったまま微動だにしない。
「え。ど、どうしたんですか彩音さん!?」
「律がぁ~……律がぁ~……」
まるで墓の下から聞こえてきそうな声音だった。
途端に秋山の表情が険しくなる。
「高浪。こんな所にまで来て彩音さんを困らせちゃダメでしょ?」
「いや、待て。俺は別に」
「いつもの無自覚口撃が炸裂したんでしょー。あー彩音さんかわいそー」
「濡れ衣だ。攻撃なんてする訳がない」
「……こうげきの字が違う。高浪が想像してるのって、攻めるに一撃の撃と書いて攻撃になるヤツよね?」
「それ以外に攻撃なんて漢字は無い」
「当て字よ、当て字。口に撃で口撃」
「だったらなおさら勘違いだ。俺が彩姉に危害を加えるはずがないだろう?」
「彩音さーん。っていう事らしいですよー」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~ん楓ちゃぁぁぁぁぁ~~~~ん!!!」
がばっと秋山に抱きつく彩姉。体格的に妹に泣きつく姉のような感じで、ちょっとシュールだった。
というか彩姉、何故ガチ泣きしている。秋山もそれ見た事かなんて顔で彩姉の頭を撫で撫でしている──!?
「あ~よしよしー。困っちゃいますよねー分かります分かりますよー」
「そ、そうだ……! 秋山、何故君は彩姉の気持ちが分かるんだ!? 前に教室で君の涎を拭いた時にもそう言っていたな!?」
「楓ちゃん。ちょっとその話詳しく聞かせてくれる?」
「いやいやいやいやいやガチ泣きから真顔に切り替わるの速過ぎですよ1フレーム無かった!」
「律に涎拭いてもらったってホント?」
「あ、彩音さんがいつもやられてる事ですよあたしなんて教室で友達が見てる中で突然やられてマジでその日夜眠れなくてあばぁ! あばばばばばばばばば!!!」
そうして俺達は、巡回の警察官に心配そうに声をかけられるまで駅の正面で騒ぎ続けたのだった。
お読みいただきありがとうございます。今年に入ってジムに行こうと思っていましたが、体験が終わったところで昨今の騒動が発生したので結局家でエアロバイク&自重トレになってしまいました。
しばらくフィットネスクラブ編です水着編です。
面白かったよーという方、ブクマ&ポイント評価いただけますと大変嬉しく存じます。トウフが麻婆豆腐になるくらい喜びます。




