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55話:一緒にやってみよう


「無理。ぜぇぇぇぇぇぇ~~~~~~ったいに無理!」


 帰宅して事情を説明し終えた瞬間、彩姉に泣きそうな顔で絶叫された。


「あんた、私の歳忘れてない!?」

「二十五歳だ」

「なら私が最後にいつ泳いだか分かるでしょ!?」

「大学ではやっていなかったのか?」

「やりたかったけど、水泳サークルが典型的なウェーイ系の巣窟だったの! 時間ドブに捨てそうな雰囲気だったから即回れ右したわ!」

「なるほど。それで競泳とは疎遠になってしまったと?」

「そ、そうよ……悪い?」


 何故か拗ねたように唇を尖らせてしまう。


「いや、英断だと思う。その手のサークルは良い噂を聞かないからな」

「そ、そういう事よ。スポーツクラブのプールには何度か行ったけど、長続きしなくて……」

「ん? 何故だ?」


 スポーツクラブやジムと言えば、運動不足の解消やボディメイクの為に通う人間が多いはずだ。目的意識が明確な分、おかしな利用客は少ない印象だった。

 俺の質問に、しかし、彩姉はなかなか答えない。頬を薄く桜色に染めて、胸を隠すように腕を組み、居心地を悪そうに身じろぎをするだけだ。


「……分かんない?」


 批難をするような声と咎めるような視線が飛んでくる。

 俺は昼の秋山の時のように、無意識に無遠慮な事をしてしまったのだろうか……?

 少し思案して。でも結局思い当たる節は何も無くて。俺は素直に頭を下げた。


「すまない。分からない」


 すると、彩姉の桜色だった頬が朱色に変わった。

 いかん、怒らせた──!


「……む、胸」

「は?」

「そ、その時はお金無かったから安いクラブにして、な、なるべく地味な水着持っていったんだけど……メ、メチャクチャジロジロ見られたのよ、む、胸を……!」


 彩姉がぷるぷると震え始める。瞳の端には涙が浮かんでいた。

 あー……これは察しなければならないところだった……。


「……それなら辞めて当然だ。無理をして行く事じゃない」

「う、うん……そ、そういう訳だから、私がまともに泳いだのはもう七年くらい前になるの。それからはまともな運動もしてない」

「エアロバイクや軽い筋トレははじめただろう?」

「つ、つい最近よ。私だって楓ちゃんの為なら何でもしてあげたいけど……現役バリバリのあの子に伝えられる事なんて、ある訳ないじゃない」


 そう吐き捨てた彩姉の声は、少し震えていた。

 これは──悔しがってくれているのか。その言葉の通り、悩める秋山に何もできない自分に悔しさを感じてくれている? であるならば。


「俺はそうは思わない」


 説得のしようはある。


「彩姉には、彩姉にしかできない事がある。相手が秋山ならなおさらだ」

「ど、どういう事……?」

「小学生の頃、秋山に泳ぎを教えたのは彩姉なんだろう?」

「だ……だから、あれは大した事じゃないんだってば。一日だけ、ううん、半日くらい一緒にプールで泳いだだけ。クロールのコツくらいは教えてあげられたけど、それだって基礎も基礎。そんなの──」

「今日秋山に彩姉に指導を仰ごうと提案した時、彼女は言っていた」


 彩姉の言葉を遮るように声を張り上げる。


「自分が教えてもらったのはただの泳ぎ方じゃない。自分との向き合い方だと」


 開きかけていた彩姉の口が急停止する。


「スポーツの敵とは競争相手でもなければ記録でもない。そう──」

「──自分、自身」


 呟くようにして、彩姉が俺の言葉を引き継ぐ。

 覚えていてくれた。その事に安堵を覚えると共に、俺は胸の奥に暖かさを感じずにはいられない。

 水泳を辞めてしまっても、彩姉は自分自身のスポーツとの向き合い方を忘れていなかったのだ。


「自分自身を乗り越えなければ、競争相手に勝つ事も、記録を作る事も、夢のまた夢……だろ?」

「……楓ちゃん、そんな事まで覚えていてくれたんだ……」


 彩姉が笑う。過去を懐かしむような、そんな優しい微笑みだった。


「中学の時には、この教えを忘れかけて壮絶なスランプに陥ったと言っていた」

「……それ、脱出できたのは私のその言葉だけじゃないわよ?」

「? いや、秋山は彩姉の教えがあったからこそ何とかなったと」

「……その話をしてた時、楓ちゃんどんな様子だった? あんたの眼、ちゃんと見てた?」


 言われて、今日の昼休みの事を思い返す。

 彩姉に指導を仰ごうと提案した時。

 秋山と彩姉の水泳の馴れ初めを教えてもらった時。

 技術以上に自分との向かい方が大切だと教えてもらったと聞かされた時──。


「……俺の顔は見ていなかった気がする……」

「私が伝えた言葉もあったと思う。でも、あんたの存在がヤケになってたあの子を救ったのよ」


 とは言われても、まったく実感が無い。

 俺のような何も無い人間が、秋山のように何か一つの事に夢中になって打ち込んで結果を出している尊い人間に対して何かできるとはとても思えない。

 けれど、彩姉が、俺を見て穏やかに微笑む彼女が嘘を言っているようには見えなかった。


「予想外過ぎて混乱中?」

「……そう、だな。秋山も、言っていなかったし」

「照れ臭いのよ。あんた、それくらいの機微は読めるようになりなさい」

「努力は、する。それで彩姉」

「いいわ、やってあげる。技術的なところで伝えられる事なんて無いでしょうけれど……それでいいのならね。ただし条件がある」


 なんとなく予想はできた。

 だから無駄だ、と訴えようとしたが、不敵に笑った彩姉が咲きに口火を切られてしまった。


「あんたも一緒に来るのよ、律。あんたが言い出した事なんだから、当然でしょ?」


お読みいただきありがとうございます。ジムは割と手頃な価格で利用できるんですけど、フィットネスクラブになると結構跳ねるんですよね。

ブクマ、ポイント評価、ありがとうございます。励みになっております。面白かったよーと感じられたら入れていただけると大変嬉しく存じます。

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― 新着の感想 ―
[一言] >スポーツの敵とは競争相手でもなければ記録でもない すけべおじさんは敵だと思いますよ(胸を凝視しつつ)
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