54話:秋山楓は寛容である2
「授業中に熟睡しているのを見ると、オーバーワークな気がしてならない」
「ん、ごめんね。でもさ、先輩や顧問の先生から期待もされちゃってて。それが嬉しくて……」
「中学ではエースとして有名だったからな。無理も無い。
「えへへ。まぁ、そういう訳だから頑張らないとって」
そう語る秋山の横顔には、強い疲労の色が滲み出ていた。
彩姉という前例があるから分かる。これは肉体面以上に精神的に相当な無理をしているはずだ。
「でも、タイムが縮まなくなっちゃって……それでちょっとイライラしちゃってた。ごめんね、さっきはあんなに騒いじゃって」
「俺にデリカシーが無かっただけの話だ、君が謝る必要は無い。しかし、どこかで休めないのか?」
「部員のみんなの疲れもピークっぽいから、今週の土日は休もうって話は出てる」
「いい判断だと思うぞ。身体を休める日はちゃんと作ってくれ。見ているこちらも辛い」
「ごめん。でも今は体力的な限界って感じじゃなくて、こう、精神的にしんどいかなぁ……」
空を見上げて、秋山が溜息をつく。確かに相当な精神的プレッシャーに晒されているようだ。先輩方や顧問から頼られているのに、記録が伸びないとなれば辛くないはずがない。
「もうしばらくは高浪の家にお掃除に行くの難しい」
「俺の家の掃除なんてどうでもいい。今は身も心も休める方が先決だ」
「それなら余計にあんたの家に行きた~い。彩音さんと遊びた~い。絶対そっちの方が元気出る~」
気分転換に行くというのは悪い考えではないだろう。特に精神的に参っている時は無理矢理にでも環境を変えた方が落ち着くはずだ──というのは、彩姉との諸々で確信できる。
けれど、今の秋山は授業中に爆睡してそのまま昼休みを迎えるほどに疲弊している。週末が休みになるのなら、二連休はじっくりと身体を休めた方が賢明だ。
「競泳のアドバイスも欲しいさぁ~……」
「……そういえば、君に水泳を教えたのは彩姉だったか」
引越しの手伝いに来てもらった時、そんな話をしていたのを思い出す。世間とは本当に狭いものだ。
「そー。悩みとか愚痴とか、聞いてもらいたい事とか、色々あったりするの」
「電話やラインが……いや、君が忙しいか」
「家に帰ったらぶっ倒れてまーす。それに、彩音さんの夜は邪魔したくないし?」
「俺と夕食を食べて海外ドラマを見ているだけだぞ? 電話やラインくらい問題無いだろう」
すると、秋山はうわっ、という顔になった。明らかに俺を批難する眼になる。
「なんだ?」
「そりゃ一回や二回はいいだろうけどさ……あたしが彩音さんの立場だったらやだなー」
「ドラマは動画配信サイトで見ているから一時停止すればいいだけだ」
「そーじゃなーい。あんただって彩音さんとゆったり過ごしてる時にさ、彩音さんが電話に出てどっか行っちゃうとイヤでしょ?」
その光景を思い浮かべる。夕食を食べた後、今日やるべき事はシャワーを浴びるくらいで、後は何も無く怠惰に過ごしても何も問題は無い時間帯。彩姉と肩を並べて──最初は握り拳一つ分の隙間があったはずなのに、最近では肩口が触れ合うかどうかという距離まで俺達の距離は無くなっている──ソファに座って、ノートPCで海外ドラマを眺める。ジャンルはサスペンスアクション。国家安全保障局的な組織に属する主人公が、国を揺るがす陰謀に巻き込まれる、まぁよくあるヤツだ。
固唾を呑んで見守っているところで彩姉のスマホが鳴る。彼女は眼を眇めてスマホを手に取って、いそいそとソファを離れて廊下に出てゆく。俺は一人部屋に残されて、主人公の「本当にすまないと思っている」という定番の台詞を聞くのだ。
「……確かに。何かこう、邪魔された感が凄いな」
「でしょ? だからしたくないの。せっかく彩音さんも良くなってきたんだから、それを壊すような真似もしたくない。もしかしたら、また『年下スウェット』の更新が止まっちゃうかもしれないし」
「それはない。彩姉も君の事をとても好いている。電話の一つや二つで調子を崩すなんて有り得ない」
「……ん~……あたし、もしかして心配し過ぎ?」
「だと思うぞ。もう随分昔のあの人に戻ってきた。そう遠くない内に共同生活の必要も無くなるさ。競泳選手特有の悩みくらい言っても大丈夫だろうし、聞いてもくれる」
「ん~~~……」
唸る秋山。どうやらもうひと押し必要なようだ。
ここは少し話題を変えてみよう。
「そういえば、秋山は昔、彩姉からどういう事を教わったんだ?」
俺の恩人である森村彩音が、俺が尊敬するスイマーの秋山楓にどんな影響を与えたのか──実は密かに気になっていた事だった。
「クロールの基礎とか、そういうの。他にはね、戦うべき相手を間違えちゃいけないって事かな?」
「? どういう事だ?」
「スポーツの敵とは競争相手でもなければ記録でもない。自分自身だって」
秋山は、昔を懐かしむように眼を細めて続ける。
「自分自身を乗り越えなければ、競争相手に勝つ事も、記録を作る事も、夢のまた夢……そんな風にも言ってた。彩音さんのこの言葉があったから、あたしは今も水に潜っていられる」
「……教わったのは技術ではなかったのか」
「その頃あたしは小学生で、彩音さんは高校生くらいだよ? しかも一日だけ。なら」
「ああ、考え方を教わった方がいいだろう。なにより彩姉らしい」
あの人は良い意味で理論的ではない。いや、理論的に考えようとするが、最後には直感で動くタイプの人だ。
秋山はぷらぷらと足を動かしながら空を見上げる。春から夏に移ろう青空がどこまでも広がっていた。実に気持ちのいい昼下がりだ。
「……中学の時、彩音さんのこの言葉を忘れかけてスランプになっちゃってたんだよね~……」
「成長すれば見えるモノも変わる、仕方がない事だ。それに無事に脱出できて、今こうしている。その事を彩姉に伝えてやってくれ。きっとまた一つ自信を取り戻す」
「照れ隠しされそうな気がする。彩音さん、照れ屋な上に素直じゃないし」
「だな」
秋山もかなり彩姉の事を理解してきたらしい。
そうだ。あの人は照れ屋で素直じゃなくて天邪鬼で。
そして努力家で勤勉で負けず嫌いで面倒見が良くて──。
「……秋山。拡大解釈が入るが、君は彩姉の教え子という事になるな?」
「えぇ? う、うーん……彩音さんは先生じゃないけど、まぁ……そう解釈もできなくはない、と思う」
「今週の土日は休めるんだったな?」
「多分。なに、どうしたの?」
戸惑う秋山に、俺は告げた。
「努力家で勤勉で負けず嫌いで面倒見がいい彩姉に、競泳のコーチを頼むんだ」
お読みいただきありがとうございます。はじめて見た海外ドラマはXファイルでした(ゴールデンタイムに地上波キー局でそういうのが放送されていた世代の人間です)。24、面白かったです。
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