53話:秋山楓は寛容である
その翌日。彩姉の様子に変わったところは無かった。
いつもより三十分ほど早く来て、朝食作りに挑戦した。変化があったとすればそれくらいだろう。
昨日のあの微笑は、一体なんだったのか。俺はキツネに摘まれたような心境でマンションを出た。
「一人で登校するのも味気ないものだな」
そんな事をぼやきつつ、商店街を通って学校へ向かう。
校舎が近付いてくると、運動場を走る運動部の掛け声が聞こえてきた。季節柄か、どの部活も大会に挑むべく朝早くから厳しい練習に望んでいるようだ。
彼ら彼女らが汗を流す光景を横目に入れながら校門に辿り着くと。
「……垂れ幕か」
校舎の屋上から、いくつかの運動部の健闘を讃える長い垂れ幕が下がっていた。
その中に水泳部のものを見つける。個人と団体の二種目共に好調な滑り出しのようだ。
ウチの高校の水泳部は弱小でもなければ強豪でもなく、これまでの成績は実に平均的だったはずだ。そこそこに頑張って、そこそこの実績を残す。部員達も顧問もそういう空気だったそうだ。
しかし、秋山が入部して刺激を受けたらしい。朝練と放課後の練習も含めると一日五時間は水に潜っている。
水泳部の練習強度がどれくらいなのか、素人の俺には分からないが……。
「秋山、大丈夫だろうか」
オーバーワークな気がしてならない。
そんな懸念は見事に的中していた。
「むにゃむにゃ」
授業中、秋山は机に突っ伏して爆睡していたのだ。
この時期の一部の運動部員がこうなる事は珍しくないようで、教師達も特に注意はしなかった。級友達も熟睡している彼女を起こすのは忍びないらしく、身体が冷えないようブランケットをかけてやっている。
だが、昼休みになっても起きないのはまずい。
「おい、秋山」
弁当箱を入れた包みで頭を優しく小突く。
「ふにゃ……ほへ、たかなみぃ……?」
冬眠から覚めたクマみたいにムクリと身を起こす。頬には枕にしていた肘の跡がくっきりと残っていて、メガネは今にも鼻から落下してしまいそうだった。顎から垂れそうになっている涎も含めて酷く情けない様相である。
というか、十六歳の女子が学校で見せていい顔ではない。無防備過ぎる。
「秋山、動かないでくれ」
ポケットから取り出したハンカチで顎や口周りを綺麗に拭ってやる。
その途端、クラスメイト達が一斉にざめいた。
「よく眠れたか?」
「ん~~~~……」
「次から寝る時は口元にハンカチを敷いておいた方がいい。机を涎まみれにするのはよくない」
「…………」
「秋山?」
どこを見ているのか分からない眼が、俺をじっくりと見つめて。
次の瞬間、がばっ、と見開かれた。
「ふああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
そのまま座っていた椅子ごと派手にすっ転んだ。
「うわあぁぁあぁぁぁ!? ええぇぇぇああああ!? な、ななな、なにしてるの高浪ぃっ!?」
「昼休みになっても起きない君を起こしていた」
「そ、そこじゃないぃ! い、今あたしに何したぁっ!?」
秋山のガチガチと震える指が、俺と俺が持つハンカチの間を彷徨う。
「涎を拭いた」
「ふぁああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
「待て、秋山暴れるな。痛い、痛いぞ。手や机を汚してしまうよりもいいだろう?」
「今ぁ! 彩音さんの気持ちがぁ! 痛いほど分かるぅううううううう!!!」
「なにぃ!? 本当か!? どういう感じだ!? 実は今彩姉の事で悩みがあるんだ!」
大暴れする秋山の両肩を掴み、こちらに引き寄せる。息遣いが肌で分かるほどの距離に、見慣れた友人の顔が迫った。
「教えてくれ、秋山! 彩姉の心境を、気持ちを!!!」
「あばぁ!? あばばばばばばばばばばばばばばっ!!!」
しかし、秋山は何も答えてくれなかった。その瞳は深い渦を巻いているだけで感情が読み取れない。
「くっ……場所を変えよう! 一緒に来てくれ! 弁当と飲み物は準備してある!」
こうして俺は秋山を連れて、校舎の中庭に向かった。
◇ ◇ ◇
「…………」
「……先ほどは大変失礼しました……」
ベンチに座る秋山を見上げる。地べたに正座をしているので、そうしないと彼女の顔が見えないのだ。
俺が秋山を連れてきたのは、コの字型の校舎の中庭だ。季節にもよるが、昼を跨ぐと日差しがいい具合になって大変に気持ちがいい。ベンチも沢山設置されていて、昼休みになると学食で惣菜パンを買った生徒達で賑わう場所である。
だが、俺達の周辺には誰もいなかった。遠巻きに様子を窺う生徒達はチラホラといるが、決して近寄ろうとしない。
秋山とここに来てベンチを押さえた俺は、昨晩の彩姉の変化について、秋山に意見を聞こうとした。
けれど、彼女は顔をクシャクシャにしてしまって。
「クラスのみんなの前で涎を拭くとか」
冷たい視線が冷たい言葉と共に飛んでくる。
もはや弁明のしようがない……馬鹿みたいに無遠慮な行動だった。
「猛省しています。重ねてお詫び申し上げます」
もはや土下座をする以外に詫びる手段が無かった。
秋山はそんな俺を蔑むように見下ろして。黙々と俺の弁当箱の中身を消化してゆく。
破滅的に怒らせてしまったが、弁当を食べてもらえて良かった。今日の弁当はそぼろ丼で、彩姉も手伝ってくれた傑作なのだ。食べてもらえずに終わってしまうのは何としても避けたかった……。
「……いくらあんたが天然でもさ。ああいうの、今までやらなかったでしょ。どうしたのよ、突然」
「本当にすいません」
「……言い訳くらいしなさい。じゃないと……」
秋山のそぼろ丼を口に運ぶ手が止まる。けれど、弁当箱を顔に近づけて、俺の位置からでは表情が見えない。
「あたし、都合よく勘違いしちゃうぞ?」
「勘違い?」
「な、なんでもない……! ど、どうせあんたの事だから、日頃彩音さんにやってるような事をついそのままやっちゃった口でしょ?」
「…………」
「……や、やっぱりしてるんだ。どこまで『年下スウェット』再現してんのよ、も~~~!」
「……俺が帰ると、たまに俺のベッドで爆睡しているんだ。それで」
「そこまで『年下スウェット』!? 彩音さん、あんたのベッドで昼寝してるの!?」
「……ああ。それで涎を拭くのが、こう、自然な動作になってしまったというか、なんというか」
「……あんた、それ彩音さんになんて言ってるの?」
「……なんて、とは?」
「だ、だから……あんたの、ベッドで寝ちゃってる事」
「困るからせめてソファで寝てくれとは言っている」
「……どうして困るのよ」
「……その質問に答える事と、今回の弁明の件に何の関係が?」
「答えたら許してあげる」
なんと狡猾な交換条件だ。
「……俺だって十六歳の男子高校生だ。彩姉の匂いが残るベッドで眠るなんて拷問だ」
「その割には同い年の女子の涎はフッツーに拭くんだー」
「本当にすいませんでした」
頭を深々と下げる。
しばらく秋山がスプーンで弁当箱を引っ掻く音だけがして。
やがて、小さな溜息が聞こえた。
「いいよ、許してあげる」
秋山が弁当箱を膝上に下ろす。中は綺麗にカラになっていた。
その表情には、もう怒りは無い。不思議と満足した笑みが浮かんでいた。
「……本当か?」
「うん。こうして毎日美味しくて体力がつくお弁当作ってもらってるし。それに」
「それに?」
「彩音さんと同じ事してもらったから。それは、うん。悪い気はしないかな?」
照れ臭そうに鼻先を掻く秋山。
「……だが、時と場所を意識していなかった。恥をかかせてしまってすまない。部活の練習で疲れているのに」
「ホントホント。こっちはクタクタなんだから。変な事して体力削るのやめてー」
「……やはり部活は大変か?」
「まぁね。ほら、あんたいつまで土下座してるの。あたしの隣空いてるから。こっち来る」
秋山がポンポンと自分の横のベンチを叩く。良かった、どうやら機嫌を戻してくれたようだ。
俺は安堵しながら、秋山の横に腰掛けた。
お読みいただきありがとうございます。しばらく秋山が攻勢に出ます…いや割と秋山が攻勢な気がしてきました。
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