47話:ご褒美タイム3
「──ねえ。彩姉」
「ん……あぁ~……」
眼を開けると、世界はボンヤリとしていた。
どうやら自分は眠ってしまっていたようだ、と彩音が気付くまで時間が必要だった。
首を巡らせると、テーブルの上に置かれた湿ったタオルが見えた。その横にはドライヤー、ヘアブラシの他、彩音が持ち込んだヘアケアグッズが転がっている。
そしてキッチンの方を向くと、エプロンを引っ掛けた律が苦笑をして立っていた。
「そろそろ部屋に戻った方がいい。もう二十三時だ」
「え……そ、そんなに寝てたの私!?」
律に髪の手入れをお願いしたのは二十一時前だったはずだ。うたた寝なんてレベルではない、熟睡である。
「ごめん! その、気持ち良くて……!」
「光栄だ。ただ、ドライヤーで乾かしている最中に眠ってしまったから、そこから先はできなかった。もしかしたら髪を傷つけてしまっただけかもしれない。すまない」
「ぜ、全然そんな事無い! す、凄く丁寧にやってもらったと、お、思う……」
鏡が無いので分からないが、髪に触れる限りは問題無さそうだ。はじめてでこれは上出来だろう。
「律、ホントありがと」
「こちらこそ。彩姉の髪に触れられて光栄だった」
「そ、そんな上等なものじゃない、から……! それに、あ、あんたが触りたいって言うなら、い、いつでも、好きにしても、いい、し……」
「…………」
「黙ったって事は触りたいのね!? そ、そうなのよね!?」
「……黙っていれば大丈夫だと思ったのに……!」
引越した当日、律の部屋の鍵を巡る仮定のやりとりをした時、彩音の誘導尋問的な問いに律は反論をして見事に墓穴を掘ってしまった事があった。彩音の勘が律に対してだけ妙に鋭く働いてしまうせいもあるのだが。
先ほどまでの余裕はどこへやら。律は仏頂面で歯噛みする。
あれ、と彩音は疑問を覚える。何故そんな険しい顔をするのだろうか。もしかしていじり過ぎた? いけない、彼を怒らせてしまった──!?
「き」
謝ろうとした矢先に、律が口火を切った。毒を吐くような渋面で。
「き?」
「気持ち悪く……ないか?」
「は? え、なんで?」
「……女性は男に髪に触られるのが嫌なんだろう?」
「まぁ、人にもよるけど。大体の子はイヤだと思う」
「ならどうして」
そう言った律は心底分からない、という顔だった。
本当にこの子は、と彩音は頭を抱えそうになる。鈍感にもほどがある──と思ったが……。
(この子、ホントに額面通り受け取っちゃうのね……)
だから、逆に言葉にしないと伝わらない。察する事自体はできるし、人の気持ちに配慮する事だってできる。
けれど、時々致命的かつ壊滅的に人の感情を理解できない時がある。
それは──。
(私の、時……なのかな?)
もしかすれば秋山楓にもあるかもしれない。
では何故そうなるのか?
(大切に……思ってくれてるから?)
だから嫌われたくない。
秋山楓の人生に大きな影響を与えられるほど立派な人間に成長してくれた高浪律は、けれど、やはり自分に自信が持てない子供の頃の影響を残しているのかもしれない。
自分は他人からどう思われているのか。それを察する事はできても、その予想に自信が持てない。
特に何とも思っていない人に対しては、それでも構わないのかもしれない。
興味の無い人にはどのように思われていても一顧だにしない人間は一定数存在する。
律はそういう感性を備えているのかもしれない。
でも、興味のある人に対しては?
自分がその人からどう思われているか分からない事を、怖いと思っている可能性がある。
嫌われたくない。希望的観測で得られた都合の良い解釈に動いたら、その人に嫌われてしまうかもしれない。
だから彼は、その人達の言葉を文字通りに受け止めてしまうのだ。
「根っこのところは臆病なのね、あんたは」
ポツリと呟く。
すると、彼は不思議そうに眼を瞬かせた。
「臆病?」
「ううん、なんでもない。あんたの可愛いとこを一つ見つけただけ」
よし、決めた。
「ねーりつー」
「なんだ?」
ちょっと恥ずかしいけれど。
「私ね。あんたに髪に触られても全然嫌じゃない」
律には、思っている事を頑張ってちゃんとしっかり伝えよう。
「むしろ嬉しい」
「……本当に?」
「さっき私が寝ちゃったのが証拠。普通、こんなにならない。き……気持ち、良かった」
そうする事で彼が──。
「あんたが、気が向いた時……また髪の手入れ、やってもいい、わよ?」
──気兼ねなく自分と接してくれるのなら、安いものだ。
「…………」
「り、律? あの……何とか言いなさい、よ……」
「……あぁ、その。なんというか」」
律が口元を覆って視線を下げる。
その様子は、何かを隠しているようだった。
これは……もしかして?
「あんた──照れてる?」
「そんな事は無い」
「ならこっちを向いて。口元も見せなさい」
「実はさっきいつもの動画サイトで感動秘話を集めたまとめ動画を見てしまったんだ。今思い出して感動している」
「それが顔に出てるって訳ね。でも、私に隠す必要無くない?」
「…………」
本当に人を誤魔化すのがヘタな子だ。
それがまた──本当に可愛い。
「今日は見逃してあげる。じゃ、私は部屋に戻るわ。もう遅いし」
「道具は」
口元を覆って下を向いたまま、律が言った。
「髪を整える道具は……置いていっても、構わない」
「…………」
「……もちろん、男の部屋に置いておくのが気持ち悪いのなら──」
「どこに置いておけばいい?」
律の言葉に重ねるように、彩音が問う。
「ヘアケアの道具。結構多いから。邪魔でしょ?」
「……テレビの横の戸棚が空いているから、その辺りにでも」
「は~い」
今日持ち込んだ物は、彩音が日頃使っている道具の予備達だ。
心のどこかで律の部屋に常備させてもらえないかなぁと思っていたのだが、まさかこんな棚ボタ式で事が進むとは。
「素直になるって大切ね」
「何か言ったか?」
「別にー。じゃこれ片付けたら今度こそ帰るわ」
「ああ。その前に彩姉」
「なに?」
キッチンの律に背を向けたまま、戸棚にヘアケア用アイテムを押し込みつつ答える。
「今日、秋山との買い物はどうだった? 気分転換になったか?」
「ええ、もちろん」
気分転換どころの話ではない。
身体は軽くなって、心は楽になった。
形容しがたい感覚で、ちょっと気味が悪いくらいの開放感を得られた。
そして今、他人を甘やかすのが得意で、でも臆病故の不器用さを持つ少年への接し方を知った。
「帰ってきてからも……今日はこれまでの私の人生で、一番幸せだった日よ」
肩越しに振り返って、彩音はそう告げて笑った。
お読みいただきありがとうございます。
ここでまた一区切りついたので、次回からまた別のお話になってきます。
引き続きよろしくお願いいたします。




